呪い

 タルシスはすっかり秋が深くなった。家路に就く時間になると人の影は伸びて、赤や黄色に染まった葉に長く掛かる。秋風が身に染みるので、誰も肩をすくめて歩く中、冒険者ギルドから離れて少ししたある角を曲がったとき、レリッシュはたまらないふうにニョッタに飛びついた。
「……ねえ聞いて! 覚えててくれた!」
「何を何を!?」
 待ちかねたとばかりに声を上げるので、ニョッタはレリッシュを抱きとめた。たとえ理由がよくわからなくても、友達が大喜びしているのは嬉しい。
「帝国式ジョークってわたしが言ったの、覚えててくれた!」
 ……ニョッタの頭の中は疑問符でいっぱいになるだけだった。それは何? 話の前後がちょっと見えない。どういうことかは知らないけれど、あなたがそうと言ったのね? 一人で舞い上がるレリッシュをなだめようかどうしようか考えて、けれどずっと浮かない顔をしていたレリッシュがやっと元気になってくれたのだから、それはやめておいた。ギノロットがメディカツウのことを一瞬そんなふうに言ったのを、ニョッタは覚えている。
「何だかとりあえず、よかったね?」
 話を合わせたニョッタの気も知らず、レリッシュはうんうんうなずき、ポニーテールがピョコピョコ踊る。
「今日、すごく緊張してたの。一緒にいてくれてよかった。ありがとう」
「うん、そう見えたわ。力になれてよかった」
「……今日はちゃんとギノさんの顔見られた……」
 ニョッタはすっかり得心した。レリッシュの世界はもうとっくに、ギノロットを中心に回っているのだ! なのでただ喜ぶするレリッシュとともに喜んだ。こういうときのレリッシュはとても無邪気で、水を差すような気にはなれない。不遇な家で育ったとはとても思えないほど純粋で、もしくは子供のころを取り戻そうとしているように見えなくもない。
 レリッシュの初恋はいかにも壊れ物めいていて、大切にしてあげたかった。それでなくても相手の人は、性格も過去も難しい人なのだし……等々、ニョッタが一人でいろいろに考えていたら、ついつい何かが隠しきれなかったようで、はっとレリッシュの顔が曇った。
「ねえ。ワイヨールのあの本のこと、気にしてない?」
 ――ああ! もう、やっと聞いてくれた! ニョッタは安心で脱力する。唇から大きな溜め息が溢れ出して、今度はニョッタのほうがレリッシュにしがみつく番だった。
「そうよ、何よあの人! 五日でできるって普通に言った! 傷ついたっ!」
 ニョッタも銀の稲穂団のルーンマスターだ。同じルーンマスター・ワイヨールの興味のあるものには、もちろん興味がある――ワイヨールという人は独特だ。何か非常に個性的な手段を用いて変幻自在の印術をみせる。ニョッタがやろうとすれば遥かに骨が折れることを、彼は平気でやってのけて、それが今日は『五日でできる砲剣騎士の技』になるのだ。あの分厚いみっちりと書いてある本を三冊も! しかも楽しそうに笑った! 悔しいったらない! ニョッタは思い切り地団駄を踏んだ。
「ワイヨールはああいうの好きな人だけど……暇なのかな」
「逆よ、暇を作るタイプなんだわ! 寝る暇あったら起きてるのよ! そういう勢いで何でもかんでもする人なんだわ! 嫌味でムカつくううう!」
「えっ、そうなの?」
「あの顔色悪さはそういう悪さじゃない! 普通そういうことしないじゃない! 卑怯で腹立つうぅう!」
 思い出すだに腹立たしくて、ニョッタはレリッシュの肩をボカボカ殴った。レリッシュが痛がってやめてと言うまでボカボカした。ちょっとすっきりして、泣きたい気持ちも収まった。
 一方でレリッシュは、ちょっと怖いな、と思ってしまっていた。ニョッタの大いなる憤懣に戸惑いがあってまごまごして、それでも孤独なのはとにかく辛いから彼女を抱きしめてあげて、レリッシュが言うには厳しい感想をあえて述べる。
「ニョッタはそんなに、ワイヨールがダメなんだね……」
「嫌い! 嫌い! 本当にいやだー!」
「……ニョッタ、」
 フワフワのルンマス衣裳で暴れるニョッタの怒りに、気圧されるレリッシュであった。ローブの石飾りも何だかいやにギラギラ光って、妖精と信じる女の子が本気の癇癪を起こすさまが、恐ろしかった。
 ふわふわしたニョッタにも憎しみが積もっていたなんて、レリッシュは想像してもいなかった。気づいてやれなかったこれまでの自分が申し訳なくなって、レリッシュの気持ちは小さくなる――わたし、もっとニョッタのことを知らなくちゃ。妖精みたいにかわいくても、心は普通の女の子で、嫉妬くらい、当たり前にするんだ……そんなふうに自分を戒めながら、ポンポンのついた帽子越しに、ニョッタの頭を撫で続けてあげたら、彼女はやがて落ち着いた。
「あのね、ニョッタ。わたしも外に出てから、足りないところがあるって知ったの。だからいろんな人の技をいっぱい見て真似したの。罠もたくさん習ってたくさん失敗したし、毒の勉強は全然だめで、ハンナのほうがずっと覚えるの早かったでしょ。練習場に行くとお父さんに叱られてる気になって、辛いけど、」
「……うん」
「それでも、みんなにありがとうって言ってもらえるから。頼りにしてるって。だから借り物でも、今は自分のものだと思えるの」
「私もそう思えるようにならなくちゃ……」
「わたしたち、練習しようね。一緒に頑張ろう?」
 二人の少女は優しく慰め励まし合いして、研鑽を誓い合った。一人ぼっちでないことに、二人して微笑んだ。

「……おい」
「うん?」
「引っ繰り返りそうなほど嫌われてるぞ、お前」
「うーん、まぁ実はそうじゃないかと思ってた」
 まさか一つ前の角にいました、などとは言えないブレロは、ちょっと焦ってワイヨールを見ていた。だってこっちがワイヨールの病院なんだもん! そこまっすぐ行ったところなんだもん! だが、二人の連れ合いはおたつくブレロの相手などしてくれないのだった。腕の中ではローゲルにもらった本が、滅多やたらと分厚く重たく、三冊もある。ちくしょう!
「何か問題あるんじゃないのか。その、お前の態度的なやつが」
「あったって知らないよ」
 ワイヨールはけろりとして、ブレロのことなど顧みない。というのも彼は自分のことより、ギノロットの耳を塞ぐ姿に呆れていたからだ。
「ねえギノ、きみ諦めたら?」
「俺は何も聞いてない……聞いてない、聞いてない」
「聞こえたやつしか言わない台詞だな」
 耳を塞いで首をぶんぶん振りまくるギノロットを、ワイヨールは哀れと嘲りの入り交じる、見下した顔で見つめていた。体格のいいソードマンが頭を抱えてオロオロするのは、ブレロから見ても滑稽ではあるが、何もそういう目で見なくても、とは、ちょっぴり思った。
 あのさぁ、とワイヨールは続ける。
「あの子、きみのどんなことにだって幸せを見つけるぜ。このままなら、今にどっか消えるしかなくなるよな。……あーあ、見捨てられて可哀想なシウアン。きみにとってシウアンは、ただの行きずりの女だもんなぁ、そうなるよなー、あーあー」
「いろいろ待ってほしい、ってゆーかわけ分かんねーこと言うなっ」
「嫌だよ、待たないよ。早くしないと病院閉まっちゃうもん。ほらぁ、リハビリで悲鳴上げて悶え苦しむ私を見たいだろぉ? 見て楽しんでけよぉ絶叫リハビリテーション」
「やめろよ、俺らが変態みたいじゃねえか」
 それだけは否定しておきたいので抗議するブレロと、渋々進む意志を見せたがたぴしするギノロットと、平然としたワイヨールは再び歩き始めた。
「レリの何が嫌なのさ」
「俺のどこがいーんだよ」
 ぽつりと、しかしすぐに答えるギノロットの声色に、ブレロはどこか胸を突かれる思いがした。過去から立ち直っていないのが如実だった。まだ顔を赤くしたまま、あらぬ方を向いて、「つーかそんなに言うんなら、お前が相手したらいーんじゃねーの」と言い返した。ふむ、それは若干ながら名案か。すると――ワイヨールは、いかにも面白そうな声で笑った。非常に悪者めいた感じの笑いであった。俺でもそんな顔はちょっとできないぞ、とブレロが思う程度の。
「あは、無責任だね。私のろくでなし伝説を知らないからそんなことが言えるんだな」
「ろくでなし伝説?」
「さあ、あの単純な子がどこまでどうなるかな?」
「んな……どーなるんだよ」
「ふふふ気になるかなぁ?」
「気になるだろ!」
 ここでようやく二人の目は合った。ギノロットは何とか何かの表情を作ろうとしていたが、ならなかった。ばかめ、表情筋の鍛え方が足りないんだな、とブレロはこっそり呆れ、それにしてもワイヨールのろくでなし伝説のほうこそ、知りたいようで知りたくない、確実に本当にろくでもない話が出てくるに違いない目をしている!
「あの子は単純だから、きみの良さを永遠に見つけ続けるぞ。さっきの聞いたらわかるだろ」
「聞こえてないから知らない」
「帝国式ジョークを忘れてから言えよ」
「それも知らない!」
「ああ……もう馬鹿じゃないの全力否定して意識しまくってんじゃないか! 私だって忘れてたよ! レリッシュのかわいいところ一挙一投耳目に漏らさず一切合切網羅してるじゃないか、どんだけレリがかわいいんだよ、かわいいとこ見てないと息苦しくなって死ぬ病気か!? 言っておくけどきみホントそれどうかしてるからな、無自覚も大概にしておけ!」
 全力の言葉の暴力を前に、ギノロットは詰まった。何か言い返そうとしてもできず、ただ拳を握るに留まった。ブレロには疑問符ばかりがぽんぽん浮かんだ。それって好きか? どうして好き前提で叱られているんだ? 単に物覚えがいいだけじゃないのか? 好き好き言われすぎてうっかり本気で好きと勘違いしてしまわないか? 帝国式ジョークという言葉はそんなにかわいいかったか? 一切合切網羅したとかいう他のかわいいポイントは何だっけ? 息苦しくなったら本当に病院に行けよ? 煙草の吸いすぎを教えた覚えはないからな? 俺が悪いみたいだからやめてくれ? 考えれば考えるほど空回りして検討不能で、脳みそがもつれていきそうになる。
 こうなったら語彙の少ないギノロットは圧倒的に不利だった。ひょっとしたらワイヨールに言われている内容を聞き取れたかも怪しい。にも関わらず、ルーンマスターは追撃の手を緩めない。
「いっそ私が呪いをくれてやる。いいか、きみは生きて、飢えてる。だから wird に気づいた。彼女がきみの wird を暴いたんだ。きみたちは nauthiz をみた。それは人間の wird だ。きみは gebo を知ってる、その輝きも。十一人目に求める日がきっと来る。予言してやるよ」
 ルーンと符丁の呪いの意味を、ブレロはほとんど理解できなかった。またギノロットは呪いに何も言い返せないまま、いやあるいは沈黙を守ることが、彼には正しかったのかもしれないが――もはや三人は無言のまま病院に辿り着き、ワイヨールがいつもの微笑みで受付に名乗り出た。

 さても吃驚仰天していたのは、角に隠れて話を聞いていたレリッシュとニョッタである。まさか一班の男性たちが背後にいるとは思っていなかった二人だが、レリッシュの繊細な耳が遠くから聞こえるギノロットの声を聞き分けてしまった。
 少女らが曲がり角をそのまま進むものと思った男たちは、レリッシュとニョッタの気配に気づくことなくまっすぐに道を進んだ。少女二人は青くなるやら赤くなるやら、とにもかくにもこっそり後をつけて様子をうかがうと、彼らはギノロットを槍玉に上げているではないか。それも『レリッシュを好きだとまったく認めない』という咎で! レリッシュはすっかり気が動転してしまった。
「どどどどういう……!」
「ちょちょちょっと落ち着いて、落ち着いてヨーカ。落ち着きましょう、ねっ?」
 往来でワイヨールへの恨みを大暴露していたニョッタは気が気ではない。落ち着いたほうがいいのはお互い様で、三人が病院に消えていくのをコソコソ見守った後、二人は一生懸命スーハー深呼吸を繰り返し、互いに頭をヨシヨシ撫でた。『どうも本当は撫でられるとドキドキはしないし、むしろ結構落ち着く』ということをお泊り会の夜から学んでいた二人は、このごろナデナデがお気に入りだった。
 踵を返して正しい帰路に着きながら、二人は事実を確認してみた。
 ひとつ、ワイヨールがニョッタの恨み言を聞いていたかは不明である。
 ひとつ、ギノロットがレリッシュを好きかどうかも不明である。
 ……かえってモヤモヤした。何にもいいことはなかった。確認するだけ虚しくなった。二人は落胆した。
 レリッシュが背後の三人、というか恋する人の存在に気がついたのは「俺のどこがいーんだよ」からである。語気が強まるとやや反り返る声の浅さに、レリッシュの耳はしっかり反応した。だってその声が好きなのだから!
 落ち着いて――もう少し、整理をしよう。考えるべき事実がある。
 道は角を曲がるまで一直線だった。角を曲がってすぐにレリッシュは声を上げたので、ひょっとすればそこから三人に話が筒抜けだった恐れがある。自分たちが大声でワーキャー言っていたのは、後ろで見ていたのだからバレていてもまた不思議ではない。
 再びニョッタは青くなり、レリッシュは赤くなった。二人はそれぞれ何か言いたかったが、迂闊に話すとただただ傷を広げそうだ。二人とも、これ以上の被害の拡大はごめんだった。ほとんど半泣きの気分で、天まで舞い上がりそうな少女と、地獄の底まで真っ逆さまの少女が、おろおろしながら顔を見合わせている。
 ……が、しかしそのうち、レリッシュの口からふと、疑問がこぼれた。
「どうして、後ろにいるよって、声かけてくれなかったのかな……」
 一番無難そうでいて最も根本的な部分に、二人は顔を見合わせた。そもそもここだ! 後ろにいるならいると一緒に歩いてくれたらよかったのに! そのほうが帰り道も、もっとずっと楽しかったはずなのに!
 ズルいとヒドいとあんまりだを呪文のように繰り返し、むしゃくしゃした二人はアパートメントを通り過ぎると、あの煮売り屋まで一直線に駆け込んだ。こうなったら今日はやけ食いだ! ばか、みんなのばか! あんな人たち、もう知らない!

 ワイヨールの絶叫リハビリテーションを、ブレロとギノロットが見守った。許しを請うワイヨールの悲鳴は、このごろ順風満帆の銀の稲穂団、迷宮でもそうは拝聴できない。それにワイヨールは迷宮では比較的冷静な冒険者であったので、叫ぶ、叫び続ける、苦痛に耐えかね懇願する、とかいう場面は、愉快ではないにしろ、珍しかった。いや、腹立ち紛れのギノロットには、ちょっぴり愉快かもしれない――ブレロは何となくそう思った。
「マドカにこの光景、見せたかったな」
 水を向けてもギノロットは、椅子に上げた片膝に顎を載せ、むっつりと何も話さない。とはいえ、その沈黙は雄弁でさえある。
「あんまり気にするなよ。ニョッタのこともあったし、うまく言えんがその……口が滑った、みたいなやつだろ、きっと……」
「……あいつは俺の空白に何か詰め込みてーだけだ。何にも面白くねー」
 ようやくギノロットがまともな口を利いた。だがブレロが意味を理解しかねて、瞬きを繰り返すしかないでいると、彼はサメの歯を指で弾いた。
「別の女でごまかすなんて最低なこと言ィやがって。あいつのろくでなし伝説に一ページ追加しろ。大声で喚きやがって、ざまーみろ」
「ごまかし?」
「ルーンと同じだ、俺に詰め込みさえできんなら……。あの野郎、レリをモノみたいに言いやがって――正直ちょっと、頭きた」
 怒りの沈黙。
 ブレロは内心で驚いた。この男は、レリッシュのために怒ることができたのかと――それでブレロは今さらようやく、納得した。ギノロットはもしかして、もう本気で彼女を『妖精』と思っているかもしれないのだ、と。
「なあ。あの呪いって、結局何だ?」
「……俺は空っぽなんだってことに気づいた。レリはそれを埋める気がある。だからワイヨールは埋めさせようとしてる……レリを前の代わりにしたいんだ。でも代わりなんかどこにもいない」
 不機嫌そうなギノロットの横顔を見つめ、ブレロは逡巡する。
 ギノロットの妻については何も知らない。聞き出せるとは、とても思えない。ただ、かつて十四の少年が、若く幼くとも運命とさえ呼んだその女性に、今、誰が匹敵するのだろう。レリッシュといういかにも未完成な少女が、ギノロットの運命に匹敵する女性足り得るのだろうか――ブレロの直感が否と答えた。運命の女性と呼べるほどの強さが、レリッシュにあるとも思えない。レリッシュはあまりに柔らかすぎる。
「……ひとつだけ聞いてもいいか。運命の音って、どんなだったんだ」
 ギノロットはしばらく黙りこくったあと、
「砂を踏む音」
 確かな口調でそう答えた。
「よく覚えてるな」
「きっと忘れない」
「最高の音なんだろうな」
「……もー先帰る。寝てる」
 彼はいかにも緩慢に立ち上がる。動作の中でサメの歯の首飾りが宙で揺らぎ、首元に再び落ちた。ギノロットのかつての契約はまだそこで息をしているのだと、ブレロは静かに了解した。
「おやすみ。ワイヨールは力一杯肩押しておいてやる」
「泣いて謝るまでやっといて」
 ギノロットは去った。いつものように懐手して歩く後ろ姿は、しかしどこか虚勢の気配がした。孤独を埋める不安と拒否は、妻への愛情と喪失ゆえなのだ。
 待合室に残ったブレロには、ギノロットの背負っていた哀惜だけが残される。

 やがてぐったりとなったワイヨールが、左肩をさすりながら療法士に解放されて戻ってきた。療法士の冷酷なリハビリで、壮絶な目に遭ってゼエゼエしていた。
「二度と脱臼したくない!」
「俺も骨折したときはああだったな。まあ頑張れ、負けるな、サボると元に戻れんぞ」
 ギノロットは先に帰ったと、ろくでなし伝説への非難とともに諸々の話を少し明らかにすると、「自己紹介かよ」とワイヨールは肩をすくめた(両肩を!)。ということは。やはり本人はわかっていないが、語るに落ちるとはまさにこのことか。
「……もっと素直な展開を期待してたのになぁ。淡〜い恋程度のもんだと想像してたのに、違うんだもの。きっと本気だよアレ」
 ギノロットに本気を言わせたワイヨールは、完全なる他人事である。ワイヨールはいつもの通りちっとも懲りてはいなかった。ギノロットがへそを曲げたのは誰のせいだとブレロは眉をそびやかす。
「気づいてないようだから言ってやるが。お前がそこらへんに手出しすると、必ず事態が変になるからやめろ」
「えー。だって面白いんだもん」
 ブレロは親友のバカタレっぷりに乾いた笑いが出た。ギノロットでなくともバカタレと罵って嘲笑しようというもの、人の恋路に血も涙もないやつだ。突っ込む代わりにちょいとわからせねばなるまいとしてワイヨールの左肩を引っつかむと、つかんだだけなのに彼は飛び上がって呆気なく謝った。物わかりがよいとしてすぐに離してやると、ワイヨールはその肩をさすりながら、つぶやいた。 
「……あえて話すとさ。ちょっと羨ましいのよ、私。そんなに我を忘れるほどの気にはなったことはないから。あの気取り屋のギノが往来で、見ただろあの失態」
 自分に言い聞かせるまでしないと恋慕を否定できないギノロットを、ブレロにすれば失態というより、微笑ましくあった。適切な飲料を処方してもむしろ開き直るような、元来反抗の化身みたいな男が、よほどに衝撃を受けたのだろう。
「ってなことをさ。時間が経つとわかってきたんだよ」
 とワイヨールは自分の手を開いたり閉じたりする――何か意味ありげな言い方に、ブレロは夕食をともにすることになった。

 というのもブレロは、ギノロットの言い分に何か同意できる点さえあるのだった。ふらりと立ち寄った酒場で、ワールウィンドに譲られた本をかたわらに、ワイヨールの正面へ、ブレロは腰掛ける。
 ギノロットの主張を聞くだけでは乏しい感覚だったが、後からワイヨールの口振りを知るとギノロットの弁にはどうにも頷けそうな気がしてくるのだ。他人事のように『面白い』で済ますあたりには、一抹の不安を覚えさえする。そこで出るのは『面白い』ではないはずだ。苦楽をともにした仲間への態度ではない。
 ワイヨールの本日は程々に抑えられた食欲をお披露目された後、ニョッタの件もあってブレロはやや責め気味に尋ねた。すると彼は強めのアルコールをちびちびやって、うんざり顔で両手を差し出してきたので、何の誘いかと目を見張ってしまった。
「きみならもしかして平気だろうから……ちょっと両手乗っけてごらんよ。面白いと思った理由、見せてあげるよ」
「何だ急に。バチンと来るんじゃないだろうな?」
「きみじゃあるまいし。ホラ気の変わらないうちにさっさとハイ」
 平素は男の手を握るなど願い下げであるが種明かしならば致し方ない。ブレロは仕方なく手を置いた。

 すると彼は異次元の感覚に襲われた。
 涸れ谷が如きがれ場、背後深くでは濁流、遠くを囲む木立の不安なるざわめき。息も止まるような暴風を見上げると朧なる月夜の中で、自分がじっとりとこちらの出方をうかがっている。
 そう、それは自分自身、物言いたげに茶の目を光らせるフェルナン・ブレロ・ドラード自身。葬送が如き黒衣も風に煽られるまま、彼が一歩進み何事かを口にしようとした瞬間、怖気を通り越して怒りが全身を駆け抜けた。直感した、何を話してもならぬ――!
 ブレロは己を封じる風を切り裂き右腕を掲げて聖句を叫び、すべての闇を振り払う。俺が魂を売る男ではないと、お前もわかっているはずだ!
 目の前の黒衣の自分は眉を寄せて笑い、光の中に掻き消える。木立は空に吸い取られ、岩石がぼろぼろと崩れていく――。

 ブレロがはっと目を開けると、同時に酒場の喧騒が耳に入ってきた。厄祓い代わりにワイヨールの本を叩くと、固い表紙の小気味よい音が響いた。もしも自分が城塞騎士でなければ、今ごろ何を吐かされたものか!
「バチンと来るよりよっぽどタチ悪いじゃねえか。何した謝れ今すぐ」
「まことに申し訳ありませんでしたッ……!」
 卓に突っ伏して呻くワイヨールを見て、しかし妙に大げさな様子に心配になってしまった。頭を押さえて悶え苦しんでいる。どうしたルンマス、傷は浅いぞ。
「何が浅いだ、エラいの来たよ! 私に一体何したのさ!」
「ふん。そんなのザマミロ、俺のボルトストライクをお見舞いだぜ。因果応報だ、本当に本ッ当にザマミロ」
 とは言え架空の自分に放った無戦鎚ボルトストライクが、現実のワイヨールを痛めつけるとは思わなかったので、そこは一応謝った。ワイヨールは息をつく。強めの酒がまた減った。
「……私だってさ、こんなことができるだなんて知らなかったんだよ。あんなの、人を招く場所に見えないじゃないか」
 ワイヨールはしばらくそうやって頭痛に苦しみ、こめかみをさすりながら自身の悪事について白状をし始める。
 曰くワイヨールが『瞑想』に利用するのが、幼きころよりの谷だか川だかの場所であるとかの由。なるほど、招待されて気分のよいものでは一切なかった。以って賓客をもてなす意識が皆無である。ブレロは拳を握ってみせた。
「で? あの術の正体を述べろ。事によっては制裁を科すからな」
「やめてくれよ! あのね、こっちとしちゃ人を呼ぶ場所じゃないんだよ。ところが木偶ノ文庫で『修復』したら、来てるじゃないか! ……いや、内容はいい、わざわざ思い出させないでくれ。夢みたいな感覚だけど、おれだって結構気分が悪いんだ。当たり前じゃないか、おれとしては急に来たと思ったら、暗〜い秘密を喋りたがる他人がいるんだぞ。頼んでもないのに! 言っちゃなんだけど、ギノの感覚は私には相当しんどかったんだよ」
 おっと! 混線気味のワイヨールにブレロは気つけの一杯を勧めた。おれと私が一緒くたになると何やら不安になってきて、ブレロにはいけない。が、彼は「そんなのどっちでも同じだよ」と一顧だにしないのであった。仕方なしにブレロはなるべく知らないふりをして、続きを促した。
「それでだよ……コレってウロビトに似ていない? 彼ら、どういう訳だがシウアンの気持ちを自分のものにしてしまうだろ?」
 ブレロは言われてようやく気がついた。
 ウロビトたちは感じ取った巫女の心を自分のことのように語って表現し、そして銀の稲穂団には巫女の意志を受けて現れたモモがいた。
 揺籃の守護者を退けた例の一件の後、モモが病院に一晩泊まった翌朝、ギノロットは拍子抜けするほど物わかりよく、何か毒気が抜けた顔をして、そしてワイヨールに一文字ずつルーンを叩き込まれていたのだった。
「あれって、本当にお前が説得したんじゃないのか?」
「いいか、ギノだぞ? あの頑固なギノが、素直に人の話を聞けるかよ。明らかに私一人が何とかしたとは思えないんだよ――あれはモモの業だ。私は確信を持ってる」
 ギノロットが乱調気味でも他者と関わりを持つ程度になったのは、モモのためだとワイヨールは言う……その想像はブレロにも首肯できた。理由はさておき、ギノロットはモモに心を開いている。
「もう私には理解不能の世界だよ。だって……私のアレはさ、かなり無理矢理じゃない」
「拷問で絞って吐かせる感じだよなあ」
「……そうだね」
「なるほど使い道はあるぞ。ローゲルにやれば膝を折ったな!」
「折ったかぁ? きみに通用しなかったんだぞ」
「一回ぐらいやってみたかったろ?」
「……まぁ博打だね。試さば試せな感じだよ」
 自分でも悲しそうな目をして、一応ワイヨールは同意する。
「だってさ。人の秘密を暴露したら、興味も沸くものだろ。理屈じゃわかるよ、そりゃあ趣味の悪いことだ。けれどここに特級の落とし穴がありますよと言われたらさ、どういう種類の落とし穴だと思う? モノによっては見事に落ちに行く自信あるぞ」
 ブレロは馬鹿者と一蹴しかかったが、
「……さては『今号の袋とじ』みたいなやつだな……」
 冒険者ギルドで開こうとしてギノロットに蹴られたほどには身に覚えがあったので、そっと口を慎んだ。かつて寄宿舎では歓迎された行いが不興を買うので、ブレロは悲しかった。ギノロットは口の悪い気取り屋でありつつ、女性と子供の味方だった。ギノロットの影でホッとするマドカたちの顔は何度か目撃している。だがこの程度の悪さは許してほしいものであるし、そんなところで評点を稼ぐから余計な災いが降りかかるのであるのだが、宿で開くと少しの興味を持って覗き込んでは二人で爆笑できるので、まあよしとしてやるのだ――ブレロのつまらない鬱憤晴らしに、ワイヨールはちょっと呆れ顔をした。
「別に袋とじでもロケットペンダントでもサメの歯でもいいけども。でもさ、それこそ悪趣味なろくでなし伝説の開幕じゃないか。……おれに馬鹿げた興味を抱かせないでほしいよ」
「ということは、だぞ。ギノとレリはお前にとっては、俺の今号の袋とじみたいなものだと」
「最低。袋とじのろくでなし伝説……」
 ワイヨールは引き攣り笑いを浮かべて遠くを見つめる。懸念はどうやら袋とじとして落ち着きそうであったが、ブレロは運悪しく気づけなかった。駄弁る裏側で物思いに沈んでいくワイヨールのことを。

 秋風の吹く帰り道を一人で歩きながら、ワイヨールは酔いの感じられない不気味な体を冷たく味わっていた。風の冷たさはワイヨールが必死で帯びた酒気など、児戯ともばかりに剥ぎ取ってゆく。
 自分にもまだ知らぬ何かがあることを、ついに認めてしまった気味の悪さだった。ウロビトに似ているなどと、とんでもない。彼らは人間を傷つける気などひとつもないのに、おれときたら、一体何をしたのだろう。
 ――これは何だ。
 問いかけると、心臓の内側がぞくりとした。返ってきた答えは推測にすぎない。だが、それは疑いようもなく暗く遠いところから聞こえた。まるで深く霧に覆われた、声ならぬ声によって。
 タルシスの道を頼りない街頭が申し訳程度に照らしている。固い靴音が四方に響いて暗がりに消えていく。指先と足首に残ったかすかなアルコールが、歩みをあわいに消してしまう。
 小脇に抱えたローゲルの本が、ただ、ワイヨールにとって確実な現実だった。滅ぼした魂の元素を自らに取り込んでしまう、悪魔のように合理を求めた重い教えが。