銀のレイヴン 3

 他のギルドとの打ち合わせのために『大会議室』を訪れたのは初めてで、失敗した。椅子が多すぎてどこへ座ったらいいか分からない。しかもうっかり一番乗りになってしまって、ギノロットは少し緊張していた。
 車輪のついた黒板に向かって椅子がでこぼこ半円形に並んでいる。前に部屋を借りたギルドがそんなふうに使ったのだろう。冷たい風をしのぐ上着を一枚羽織った剣士の軽装で、ギノロットは腕組みした。
 午前の日射しがまぶしく、窓から差し込む光は部屋に漂う埃を浮き立たせていた。――ふと聖印を試してみたくなって、黒板消しめがけて空気に刻みつけてみることにした。もしまともに機能したら、この埃が反応を示すはずだ。一番か弱いガルドゥルを乗せた。
『疾く閃け!』
 ぱち、と手を打つような音がして周囲に『それ』が走った途端、ギノロットの皮膚に何かがざわりと触れ、黒板消しはチョークの粉と埃まみれになった。光の中に目を凝らすと、浮いていた埃が半分は失われている。埃に指を伸ばしてみても、自ずから避けていく。
 どんな聖印の形になるかは人それぞれだ、とルーンマスター・ワイヨールは言っていた。本人の心持ちや季節の移り変わり次第で形は変わる。効果が薄いのならもっと言葉を重ねて。充分と思うのならそこでやめていい。今回は……ちょっとやりすぎたようにも見えるが、これ以下を考えても使うあてがない。
 ギノロットは雷の聖印を組むのに、言葉以外の苦労はしなかった。印象と言葉の結びつきの違いだ、とワイヨールは説明する。幼いころから海上を走る稲妻をいくつも何度でも見たから、そういう雷の印象がたまたま形にしやすかったのだろう。
 だからか、氷の聖印はなかなかうまくいかない。氷に縁がなかったせいか掴めない。いつまでもつらつら長くなって、その割にうまく通らないし、そのうち無意味なつぶやきになる――いつだかにワイヨールが『言葉と心の世界』と表現していたのは本当だった。印術の元素は目に見えないが、確実にそこに存在する。ルーンを通じて意思を伝えられる元素があるのだ。
 と、背中に固い声が当たったのは、ギノロットが一人感心しているときだった。
「君かね、公共の場で無責任に聖印を書いたのは」
 振り向いたら、開け放ったままのドアに一人のルーンマスターが立って、ローブの裾を払いながら渋い顔をしていた。金髪をした中年の男性が、じっとギノロットを見ている。
「廊下で元素が動くから驚いたではないか。試すときは部屋を閉じよと習わなかったかね」
「ごめん。うっかりしてた……」
「見たところ本職ではないようだな。気をつけたまえ」
 聖印は空に刻んだものだから、さえぎるものがなければどこまででも突っ走ってしまう。知覚の外にいたそのルーンマスターは運悪く被弾したのだろう。素直に謝るギノロットの姿に頷くと、彼はドアをぴたりと閉め、埃まみれになった黒板消しを見つけてかすかに笑った。
「若い時分に私も試してみたものだ。これらはいつも印術の犠牲になる」
 と、彼はそちらに歩み寄るや黒板消しをつついて、静かな声でガルドゥルを唱えた。
『疾き閃きは果てよ、枯れよ、解けよ、成るがまま成れ』
 黒板消しはたちまち白い埃の衣を剥がされた。自分の聖印が無効化されて、おおっとギノロットが声を上げたので、ルーンマスターは皺深く口元をニヤリとさせた。渋い微笑だった。
「君の聖印を聞いていた。鋭い聖印はなかなか気分よいものだ。元素の方もさぞやりやすかろう。意思疎通が成功した証だ。君が『銀の稲穂団』のソードマンかね?」
「うん」
「ふむ、ソードマンらしい形だ。――私は『レイヴン』ではフォルセティと呼ばれる、君は?」
「ギノロット・ウィルド」
空白ウィルド。変わったファミリーネームだ」
 ギノロットと握手を交わしつつ、フォルセティは目を丸くした。
「俺には姓がなかったから。仲間がつけてくれた」
「なるほど。なかなか気の利く名づけだ」
「ありがと。俺も気に入ってる」
 自分から説明すると何やらくすぐったい気持ちになって、自然と笑いが漏れた。フォルセティも、緑の目を輝かせて笑った。
「得がたい仲間だ。大切にしたまえよ」
「……うん、そーする」
 話しているうちに一人また一人と冒険者が現れて、フォルセティを知る者が彼に挨拶した。人徳があるようで、皆々、彼の名を敬意を払って呼んだ。
 フォルセティとは、それは確か裁定をする古い神だった。流しながら読んだ古い神話にそんな名を見た。レイヴンのメンバーは大袈裟に思えるような通り名が多かった――きっと酒場の与太で皮肉交じりにつけられたのだろう。ギノロットには予想がついた――が、フォルセティは酒場ではそこまで目立つ存在ではなかった。騒ぐマルデルとは離れたところで、仲間と静かに飲んでいたからだ。
 目の前にしてみると、相談事を頼んでも当然に助言をくれそうな、動かしがたいような落ち着きを感じた。ルーンマスターの衣裳の裳裾からも頼りがいのある空気を放っている。オイルで整えた濃い短い金の髪も、やはり渋みみたいな感じがした。まるで冒険者ではないような風格だ。
 黒板消しの周りで一山の小麦粉みたいになった埃を屑入れに片づけながら、ギノロットは、不思議な冒険者もいるものだと思った。年配の冒険者はそう多くない。どんな目的で冒険者をしているのか聞いてみたくなった。
 屑入れを元の片隅に置くともうフォルセティは誰かと話し込んでおり、一方で、半円状に三列も並んでいる椅子の、最も中心に近いところにブレロが座っていた。長い足を組みながらノートや資料をパサパサやって、明らかに所在なさげにしている。
「よー、どーだ」
「――緊張してきた」
 声をかけてやると、お調子リーダーは珍しく強張った顔である。少し相手をしたほうがよさそうだと思って、ギノロットは隣に座った。
「俺もよそと組むと思ってなかった」
「発展した証拠だよ、嬉しい限りだ。何よりお前のお陰だ……けど。けど有名人だらけになりそうな部屋で、おちおちのんびりもできん」
 と重たい溜め息をついた。それでこんな最前列に陣取っているのか。なるほど、ここにいたら誰の顔も見ることはない。
「んなら後に来りゃよかったのに」
「俺の立場はそうもいかんだろ。はあ、モモに来てほしい、抱っこさせてほしい」
「モモはぬいぐるみじゃねー。……そーいや、さっきフォルセティって人と話したよ。褒められた」
「――ふおっ!?」
 ブレロが素っ頓狂な声を上げ、すぐに潜めた。
「それ、タルシスでルーンマスターのクラスの叩き台作った人だぞ! お前はなんで知らないうちに有名人とホイホイお友達になるんだよ!」
 ああ、とギノロットは納得の声を上げた。フォルセティは学者風の雰囲気を漂わせているのだった。
「でも叱られた。いないと思って聖印書いたら、巻き込んじった」
「巻き込んだ?」
「うん」
「馬鹿者。人をドジっ子扱いできんぞお前」
「……そういうのはいらない。言ったろ」
 緊張しつつも不満な顔のブレロは再び資料に目を落とし、つつかれたくないギノロットはまた手持ち無沙汰になった。
 ギノロットもとりあえず落ち着きたくて、持ってきた本のページに目を落としてみたのだが、隣のブレロの緊張に煽られるせいか、いまいち頭に入ってこない。しかも知らない単語が出てきた。『inspiration』? 何だこれ。
 読み方は何となく分かる。いんすぴらつぃぉん。よくある読み方に則ればそんな感じだ。こちらの言葉は何でもそうだが、モタモタする耳当たりで、少し苛々する。はっきりしてほしいものだとギノロットは眉根を寄せた。
 たぶん、聞いたことはある。だから記憶のどこかに引っかかりはするのに、うまく思い出せない。こんなところで未知の語彙が出ると気になって気になって仕方がない。やっぱり辞書を持ってきたらよかったと、ギノロットは頭を掻き毟る。
 右側にいるのは難しい顔をしたブレロで、鉛筆を回しながら自筆のメモ書きに目を走らせている。
 軽装のマルデルとオーズが現れて、みんなが彼らに挨拶した。気づいたギノロットも手を挙げた。マルデルもオーズも言葉の意味を聞くには向いていない。きっと話が明後日に飛んでいって取るに足らない話題に変わる。
 誰かいないかと思って見回したら、ふと振り向いたフォルセティと目が合って、彼は視線で『何か用かね?』と言った。ありがたい、うってつけの人物がいた! ギノロットは立ち上がって、いつの間にか反対側にいた彼の元に行った。
「言葉の意味が分かんなくて。辞書忘れた」
「どれ」
 緑の目のフォルセティは本を覗き込み、指差された言葉を見て、ふむ、とうなる。
「魔物を見つけたときにはっと気づくことはないかね。これは危険な生き物だと。うかうかしたらやられてしまう、すぐに仕留めなくてはいけない、と思わされる時は? ――そういう閃き、理屈を超えた直感だよ。ここで重要なのは、霊的な感覚だ。例えば、」
 彼は緑の目を閉じて、知識のページをめくった。
「雄大な景色に心を打たれる瞬間。何か大きなものの存在を感じたことはないかね? これは計り知れぬものの手によるものだ、そしてそれに平伏せずにおれなくなる」
「ああ――」
 ギノロットはすぐに故郷の海を想像した。白い砂浜に打ち寄せる五色の海の美しさは、何ものにも言い換えることができない。まるであつらえたように美しく、胸を焦がされた。毎日見るにも関わらず、どうしても立ち尽くすことさえあった。
「他にもある。あるいは君くらいの年齢なら、こちらは理解しやすいかもしれん――いわゆる『一目惚れ』というやつだ。覚えがあるかね?」
 彼は片目をつぶって首元を叩いたので、ギノロットはぎくりとした。あるいは印術師の inspiration をまざまざと見せつけられた瞬間だった。
 もちろんある、こんな短い人生なのに。あのとき妻はまだ妻ではなかった。だが、砂を踏む足音に妙に胸を打たれた。心臓が止まりかかった。目を上げたら、はにかみながら近寄る彼女の姿があった。
 それだけで紛れもなく『彼女が俺の妻なのだ』と一瞬で確信したのを覚えている。確かに一目で恋に落ちて、そして首飾りを迷うことなく受け取った。狭い村の中で会って話したことは何度もあった。顔を見ても話をしてもずっと何も思わなかったのに、あの砂音は、確かに『俺の妻の訪れる音』をしていたのだ。
 だがギノロットは頭を振った。ここで思い出すには不釣り合いで、似合わない。今は辺境のタルシスにいるのだ、一介の冒険者として――フォルセティは、からかうことはしないでいてくれた。ただこんなことを言って会話を閉じた。
「私が君を振り返ったのも小さな 『inspiration/霊感』、わかるだろう? 世界は心に感ずるものだ。――こんな回答で参考になったかね?」

 今日のレリッシュは隣に来なかった。隣にいるのはつぶらな青い瞳のモモで、レリッシュはニョッタと隅っこにいた。ギノロットはモモと二人で、オーズやブレロが前で話すのを聞いていた。
 マルデルたちに潰された翌日、二日酔いなりに冒険者ギルドで会って挨拶をしたら、レリッシュにいつもの爽やかさがなかった。以前見たようなどこか冷たい目をしていて、やっと嫌われたんだなと、ギノロットは安心した。
 それでよかった。変に好きになられても何もできない。何かしたいとは思えない。むしろかつての妻の愛しさをただ思い出させるだけだから、いっそ嫌われてしまったほうがずっと気が楽だった。今はただ自分の傷を乾かす時間だけが欲しくて、他には何もいらない。
 レリッシュの強い感情に立ち向かえるほど、ギノロットは強くなかった。かといって人を邪険にもできない自分がいて、生半可に優しくするから興味を持たれた。優しい関心を棚上げにして互いに傷つく。それで自分が嫌になって、また行く先が暗く見える。
 昔からそういう自分だったかどうかは分からない。ただもはや道筋はここにあって、違えようもなくレリッシュの道と近づいており、ギノロットは彼女を遠ざけたかった。
 だから、ついに最後の手札を切ってしまった。
 怖いよりも、むしろぽかんとしている。虚勢さえ失った自分が呆気なかった。ここから先はどうなろうが、もはや運任せだ。舵取りを風に任せるような無責任な感じさえした。この頼りない俺を、もう、どこへでも連れていってくれ。
 窓の向こうに見える、やや曇るタルシスの空を見た。
 胸元の軽い感触に気を向ければ、その中にあった意味が、自分を支えてくれていたことを何度でも教えてくれる。そして失ったものと引き換えの、何かの意味を持たせる希望を、ようやく探せるくらいにはなれた。
 銀の稲穂団のソードマンであること、モモとワイヨールが助けてくれた空虚な自分。タルシスを好きになれていること、本を読めるようになったこと――空の姓のウィルドに、これ以上にまだ、きっと必ず、他にも何かがある。苦しまずに生き抜くためにはまだ足りない。亡くしたものには到底及ばない。だがこの中に入れられるものは、きっとまだたくさんあるはずだ。もっとたくさんに詰め込まれればいい。やっと何とか、それを自分に望める。少なくともモモとワイヨールはそれを望んでいる。ブレロもマドカもきっと。
 打ち合わせは滞りなく進み、煌天破ノ都の攻略に関して様々な意見と情報が交換された。急造突貫迷宮攻略ギルドこと『銀のレイヴン』は、いくつかの班を結成して二日後に出発することに決まった。
 仲間内の確認も一通り済んで、後は二日後を待つだけだ。ギノロットはほっと胸を撫で下ろした。本隊ことニョッタ班は先遣隊の支援を受けて金剛獣ノ岩窟の未踏破領域を進む。敵の数も少なくなる上、鉄片の山を崩すのに手間をかけなくてもよくなるから、さほどの消耗はせずに認証を発見できると見通した。
 迷宮の下見を済ませたレイヴンには、ほとんど完成した地図まで見せてもらえた。金剛獣ノ岩窟は気温の変化さえ除けば、一度見た景色というだけで比較的楽観視できる。先遣隊が鉄片を砕くまでの辛抱だった。
 しかし、この場に一同の盾役、フォートレス・エリゼの姿が見えない。ギノロットが不思議がったら、ほいほい、とハンナが手を挙げる。
「エリゼは統治院にお使いだよん。リーダーの代わりに」
「なんだそれ?」
「ローゲルと話し合いだって。銀の稲穂団に興味ある帝国騎士がいんの。イケメンらしーけど、変な人だよね」
「そーいやこないだの飲みで聞いた気がする。エリゼが話してたかも」
 どこかのタイミングで聞いた覚えはあるのに、若干記憶が朧だった。一軒目と二軒目の狭間だろうか。
「っしょ? 来るとしたら数的に二班だし、そんで。エリゼ超プルプルしてた。ウケるから胸揉んどいた」
「バカオッパイでも緊張くらいすんだろーよ。あいつ一人だろ?」
「うにゃあ、ワイヨルも一緒。お昼には戻るって」
「へー。んなら大方、だいじょぶか。……じゃ、よろしく頼むわ」
「たのむわー。みんな、よろしくおねがいします」
「私も一緒に頑張るから。無理しないでね」
「ウチとギノさんがパーッと片づけるから。問題ないっしょ」
 銘々がいろんなことを言い、それで解散となった。仲間はこの後いつもの小さな会議室に戻って、エリゼとワイヨールの成果を待つらしい。
 ぼちぼち冒険者が退出する中、ブレロは黒板に書かれた文字や絵を消しながら、マルデル他『レイヴン』のメンバーと話をしている。そこにはオーズの姿も、そしてあのフォルセティもいた。
 もしかして緊張しながら話しているのかもしれない、と思って近寄ってみたら、彼は何かの雑談で破顔した。そちらからギノロットを手招きして呼び寄せる。
「ギノ、ちょっと来いお前。お前にファン二号がいるらしいぞ」
「またかよ。別にいいよ」
 と言いつつ寄っていってしまうギノロットである。冷たくなれないのはもはや性分だ。突き放せるのは上辺だけだともう充分思い知った。どんなに南の訛りで話してみても。
「すごいなお前。やっぱりソードマンは迷宮の華だな。しかも聞いて驚け、南洋仲間らしいぞ?」
「へー。いるんだな他にも」
 とはいえ、南洋と一口に言っても広い。もしかして山に生まれ育ったかもしれないし、共通点がないかも分からない。興味がないとは言わないが、会うとなれば何かと掘り返されるのが嫌だった。故郷の話に花を咲かせたがるだろうし、故郷の言葉で話したがるだろう。だから、
「……話も通じねーかもしんねーし。へーってだけにしとくわ」
 そんなふうに返した。こちらは話したくないから北まで来て異国語を使っているのに――またあの酒場に行けない理由ができた。
 マルデルがしきりに残念がって、何とか会わせようとするのをうるさがっていたら、何かを察したフォルセティがマルデルをじっと見咎めたので、マルデルの好奇はなりを潜めた。ギノロットは視線で礼を言い、フォルセティはまばたきだけで返事した。今日だけで二度も彼に助けられて、ありがたい限りだった。

 他の仲間はすでに大会議室からいなくなっていて、ブレロと二人でギルドから借りた会議室の場所を確認しにロビーへ向かった。軋む板張りの廊下を渡りながら、とうとうブレロが口火を切る。
「彼女には今まで通りにしてやってくれないか」
「……できる範囲でやってみる。でも正直、あんまり相手されたくない」
 ギノロットは直截に言った。きっと態度に出てしまうだろうから、彼はもう自分のことについていくつかを諦めていた。
「彼女がお前を好きだから?」
「なんもできねーし、期待持たれても困る」
「まあ、そんなことだろうとは思ってはいたが……」
「もっと言ったら、前のヤツはすぐ分かった。『運命の女だ』って。運命の音がした。だからよかった。でもあいつには何も感じない。本当に何も。あれ以上なんて見つけらんない。見つける気力もない」
「そんな――そこまで厳重に言われたら、何も言い返せないじゃないか」
 呆れたみたいな声を出されて、そのあまりの鈍さにギノロットこそ鼻白んだ。
「無駄だって分かってもらえて嬉しーよ。だって……」
 だって何かできると思われたなら、俺は銀の稲穂団にいられなくなる――その言葉をはっきりとは言えず、ギノロットは口篭もった。
 ブレロは仲間で相棒で、今や数少ない友人の一人だ。たくさんの苦難と喜びを乗り越えた友人に、あるいは親友と呼んでくれるだろうブレロに、そんなことを言えなかった。だが、ブレロが自ら明らかに、けして冷たくはない声で続けた。
「辞めるか?」
 それはブレロの思いやりだった。ギノロットは情けなくて泣きたくなって、強く拳を握り締める。そんなことはできない。まだ終わりたくない。まだ自分に居場所をくれる彼らと。
「……せめてシウアン助けるまではここにいたい。けど……それで、お前やあいつが嫌な思いするんなら」
 絞り出したら、息が止まるほど背中を強く張り飛ばされた。勢い数歩まろびでた。
「馬鹿なこと言うなよ! 少なくともこっちは、ギノとレリがいないともう不安なんだからな。おっかなくって迷宮なんか行けるか!」
 それで気が済んだような顔をしたブレロとロビーに行って、銀の稲穂団が借りた会議室を確認した。五階だった。遠い。
「……さっさと行けたらいいのにな」
「六階より近いだろ。足生えてるんだ、使え」
 一段飛ばしで一階の踊り場を抜けて二階へと差しかかる。ブレロの知人とすれ違って、彼らは挨拶した。メディックらしい知人の服装に、ふとギノロットは尋ねた。
「そういや最近、マドカ見なくねーか?」
「それは……僕がこの間お説教したからかなあ」
「説教!?」
 なんで。驚いたら、ブレロは口を尖らせた。
「そりゃそうだ、進級できるか怪しくなってきたんだから。お前が入院したばっかりのときな、ジイさんと二人で叱ってやったぜ! 叱る立場って気持ちいいな、ありゃ毎日でも叱れるな」
「マドカ、医者なれねーの?」
「まだ学生続けるだけさ。元々二年余計に猶予がもらえてるしな。好都合だとか言って開き直ってたが。思う存分冒険者やれるって」
「……そーゆーもんか?」
「じゃないだろ、と、だからな。お前の冒険はただの息抜きだって言ってやったのよ。そしたら姫君ブチギレよぉ」
 三階に到達し、四階へ向けてまた一段飛ばしする。ブレロは自嘲の笑いを浮かべて続けた。
「バカにしないでって泣かれちゃった。まあ俺、昔ジイさんに言われた同じことを言ってしまったなとすぐ気づいてさ。さすがにそれは取り消した」
「バカ、また立ち直れねーじゃん! どーすんだよ、ひでーことしやがって。お前が引き留めといてそーゆーこと言うのかよ」
「埋め合わせはするよ、でも反省はしないぞ。あいつは学生なんだから。悔しかったらさっさと卒業しろっての。というかお前こそ大概アレだな、アレなやつだな」
「アレって何だよ、そこまでマドカに言うかよ。言わねーよ俺は」
「いいや、そんなことない。俺のことはひどい呼ばわりで、自分のことは放っとけって、そりゃ何だ。つくづく自己都合クソ野郎だ」
「ならお前代わって。妖精の相手できて幸せだろ? そんで俺、そこから飛び降りるわ」
 冗談めかして五階の廊下の窓に手をかけたら、笑いながら止められた。曰く五階から飛び降りても死ねるかは怪しいらしい――ギノロットが見てもそんなふうに思えた。骨と筋肉が邪魔でまず無理だろう。飛び込むことは大好きだが、飛び降りるなんて恐ろしくてできなかった。
「そういえば――よくそうならなかったよな」
「そりゃ……そーだろ」
「……でもあれだろ、『生きていたくて生きてるんじゃない、生きていたから死んでないだけ』」
「何それ」
「レリッシュがお前から聞いたんだ。やっぱり、覚えてないか」
「――言ったことないぞ、何だそれ」
「半死人のうわ言だったからな」
 おぞましい台詞だった。理解できる、それは自分の本音だ。何度だってそう思った。そしてとても他人に聞かせていいとは思えない、一番閉じ込めたい本音だった。一度たりとて言ったことはない。誰がそんなことを聞きたいと思えるのか。
 ギノロットの足は止まった。
 銀の稲穂団の借りた会議室はすぐそこにあった。自分が馬鹿のように思えて、あまりの愚かさでブレロの目を見られない。
「……今日、もー無理。頑張れない。ふて寝しに帰る」
 全身から力が抜けてしまう前に宿で意識を失いたかった。ギノロットは踵を返すが、すぐにブレロに首根っこを引っ掴まれる。
「それこそマジで無理だバカ! これで不参加とか流れ悪すぎ! お前はこの後定位置で寝ろ!」
「いや、ホント無理」
 どの面下げて部屋に行けるというのだろう。抵抗する気力を何とか振り絞り、その右手を払おうとしたが、敵うわけもない。
「銀の稲穂団がブッ飛ぶっつーの! やめろ俺はまだ遊びたい! 俺と一緒に遊ぼう!?」
「また明日な」
「明日遊べるなら今日も遊ぼ!? 実際今日はもうちょっといて!? エリゼの話聞いたら帰っていい!」
「いつ来んだよあいつ。これ以上我慢させんのやめろ」
 一方的に騒ぐブレロを懸命に払いのけようとしていたら、会議室のドアが突然に開いた。怒り顔のモモが現れたと同時に方陣が展開されてブレロは蔦に猿ぐつわを噛まされた。次いで陣は破け、意味もなくギノロットたちの命脈が活性化し、階段を登った脚の疲労が抜けた。
「……モモ」
「ブレロ、うるさい」
「ごめん」
 ついブレロの代わりに謝るギノロットである。さすがに迷宮ではないので黒霧は出さないらしい。
「ちゃんときて」
 ミスティック・モモの鎮圧によってバカと無気力はほぼ問答無用で会議室に入れられた。無気力はバカを部屋に突っ込んだらとっとと引き返すつもりでいたが、そこにあった黒い人影に目を取られた。
 会ったことがある、一度見たら忘れられない黒い肌の男がいた。彼はかつてのように几帳面に、しかし幾分か親しげに微笑んで会釈する。
「やあ、ギノロット」
「銀の稲穂団に来たい帝国兵ってお前だったの?」
「そう、奇特な砲剣騎士のエドワルドだ。今日から皆の仲間に入れてもらうことになった。君の足を引っ張らぬように精進するよ。どうぞよろしく」
 いつかのように差し出された手を、ギノロットはようやく実感を持って握ることができた。固い分厚い大きな、訓練を重ねた確かな手だった。エドワルド。確かに覚えている。
「ギノちん、しってたの?」
 と同時に、すかさずモモが後ろ手にドアを閉めた。ギノロットはいよいよもって帰られなくなり、仕方なく頷いた。
「前に一回会ったことある。コーヒー買いに出かけたときに、ローゲルと一緒にいて困らされてた」
「それで卿が、君に、と」
 苦笑しながら懐から何かを取り出して、ギノロットに渡してくる。二つに折りたたまれたそれを手に取って広げてみると、見るも恐ろしいものが現れてギノロットは思わず大声を上げた。
「バッ……キャンセルしろよっ! いつまで掴んでんだ、こんな依頼をよ! ヤツに言っとけ!」
 話せぬなりに覗き込んだブレロもヒッと喉を引き攣らせた。思いがけぬ再会もさっぱりと白けるような、数ヶ月前の日付のクエスト依頼ではないか。なのにエドワルドはとんでもない追い打ちをかけてくる。
「卿はすでに帰られてしまったんだ。しかも成功させたらそれでようやく、俺は卿に認められるらしいし……」
「キャンセルしたら一人前の間違いだっ! 舐めやがってあのオッサン……街中にバラ撒いてやる、この話」
 剣幕に驚いた他のメンバーもわらわら近寄ってきて、紙を覗いては「うわぁ」「ひっど」「ろくでなし」などと口々に言い、誰もみな嫌そうにしている。当然だ。
「俺はやんねーぞ。二日後に発つんだ。冗談じゃねー」
「よっしゃニョッタ班免除出ましたあ!」
「ひどい。わたし、行きたくない!」
「何も今日明日すぐにやれってわけじゃないっしょ。ウチ面の皮厚いし、帰ってきたらやっちゃうよ?」
「今日明日すぐに手ェつけねーとどーすんだコレ」
「んでも散々放ったらかしといて今さらじゃん」
「……ねえねえ。私にも見せてよ、それ」
 片手をヒラヒラと挙げて、席についたままのワイヨールが言うので、ギノロットは目を丸くする。脱臼印術師め。
「アホかお前。出る幕じゃねーよ」
「違いまーす、一人だけ見てない子がいまーす。私、仲間はずれは嫌いなんだけどぉ」
「……たく、ホレ」
 痛む肩で人垣を乗り越えるのはなるほど避けたいのだろう。終いにいじけた口調になりだしたので、ギノロットはずいずい歩いて、机にベンと叩きつけた。
 ガタゴトと椅子を鳴らしてギノロットが座るので、他のメンバーも好きな位置に座る。――失敗した、レリッシュの真正面だった。だがそんなことは知らぬようにモモが膝に上がってきて、ワイヨールが口を開く。
「ひっどいね。三ヶ月も依頼引っ張れるとか。エドには悪いけど、だらしないなあ。あの人のだらしなは見た目だけじゃなかったのか」
「卿はこちらから戻ってきて、どうも変わられたようで……注意があってもすぐ知らぬ態度になってしまって。我々の中では特に変わった人物と思われているよ。無論、悪い人ではないのだが」
 言いながら、エドワルドは日ごろギノロットが着くならそこ、という場所に腰かけた。ギノロットがたまたまワイヨールの左に座って、空いていたからに他ならない。だがそこもまたレリッシュの隣で、どちらに座っていても同じだとようやく気がついた。
 気を紛らわそうとしてモモの不思議な耳をつまもうとしたら、すげなくペンと払われてしまう。ギノロットはこっそり溜め息をついて、白い髪を手櫛で梳きだした。意外と固くて腰のある毛質だった。
「根は真面目なんだろうけど、十年の中でバカらしくなったんだろうなあ。一応わかるよ、気持ちはね」
「というと?」
「私もタルシスの生まれじゃないしねえ。来てからしばらくはイライラしたもの。言葉も食べ物も水の味まで違うし」
「へえ、お前でもそう思うのか。すっかり染まってるように見えるのに」
 やっと蔦が解けたブレロが、大好きな『お誕生日席』からのびのびとご自慢の低音を響かせる。
「当ッたり前でしょ人の子だもの。ギノがキレないのが関心さ。ユルユルパラダイスじゃないの、タルシスなんて。今でもたまにどうかしてると思うよ」
「俺、三年かけてまだこっち慣れてねーけど」
「私もさ。んでさコレ、やらせてよ、もう少しで封印解けるから。それまで放置でもどうせ同じでしょ。それでハンナと二人」
「おおお勇者現わるー。面の皮同盟結成ぃ」
「うん。だからあと三人、同盟有志になって頂戴。それまでにコレ、つまみ食い程度は覚えるからさ」
 と言って、右手に積まれたノートや分厚い本の数冊をノックのように叩いてみせる。そういえば先ほどからそこにあったが、使い込まれた跡のある背表紙には見覚えのある刻印がされていた。長い尾羽の鳥の紋章である。
「ローゲルに貰ったんだよね、インペリアルの技術の教本! ようやくさ! でね、パラッと見たけど、いやもうアハハって感じで何言ってんのみたいな……そりゃ十年見なかったら本人もわかんないで使うよなみたいな……」
 躍り上がるかと思いきや遠い目になってワイヨールが溜め息をつき、恐らく一緒に見たのだろうニョッタも深く深く頷いた。ギノロットも読んでみようかと一瞬考えたが、どうせアッシュクしたジュツシキを云々とかいうのだ。やめた。興味がない。そんなことより、梳いたモモの髪を二房に分けた。
「いつ解けるんですか、封印」
「まあそれこそ、今日明日には。帰りに診てもらって、それからリハビリ生活だねえ。それは何ヶ月かいるけど、また別の話だし」
「で、いつまでに覚えるって?」
「そこで帝国騎士エドワルドの出番さあ。実物見るのが一番早いよ、こんな変なの。だからエド、どう?」
「もちろん。私に教えられる範囲なら喜んで」
「ほーらね、絶対言ってくれると思った! で――これを見て」
 言って一冊を取りページを繰ると、そこには本文の横にびっしりと埋め尽くすほどのメモが記されていた。どこをめくってもそんなページに行き当たる。心から楽しそうな顔をしてワイヨールが続けた。
「ローゲルが使ってたんだって。彼が騎士になろうと努力した跡さ! これ見たら、やらないわけにはいかないよね。きっとすぐわかると思う。私が用があるのは砲剣ではないしね」
「それなら私も同盟に参加だな。教える以上は確認しなくては」
「うん、これであと二人。心ある勇者はいませんかぁ」
「モモいく。モモメディックだもん」
 髪の一部が着々と編まれていくモモが手を挙げた。お前はホントにいい子だな、とつぶやいたら、モモの耳が満足そうに動いた。
「イェイ、あと一人! うーん、そうね。本当いつ行くかだけど……五日くらい頂戴。読んで試して確認してだと第一段階はそんくらいかなあ。知らないけど」
「じゃあ、私が行くよお。ディバイド担当必要でしょ? 先輩絶対行かないって顔してるし」
「やったねエリゼ! じゃあハンナ、私、エド、モモ、エリゼ、そういう班だね。オッケー。頑張っちゃうぞぉ」
 楽しそうに笑うワイヨールだが、レリッシュには何か不満があるらしく、渋い顔をしてあの、と声を上げる。最前からずっと手に握っていた、見覚えのある小瓶だった。
「わたしにくれたこの『メディカⅡ』は一体……?」
「お礼って言ってたよ? 木偶ノ文庫でメディカあげたんだって?」
 それをローゲルから受け取ったエリゼは当たり前みたいな顔して答えた。メディカの瓶には糊づけもしていないのに8の字にねじれた札がくくられており、

 『前略
   麗しきレリッシュ・マグメル嬢
   当方の肘は無事完治
   ゆめゆめ安心されたし
  草々』

 と本人の直筆であるという飾り文字で書かれている。なぜだか短信の雰囲気である。……と、エリゼがギノロットに教えてくれた。ギノロットも飾り字はさすがに読めないが、字の優雅さと器用な細工には、深い教養の匂いがした。が、レリッシュはまったく柳眉を寄せたままだ。
「嫌味か何かですか? ひねくれ者っていう意味?」
「もらって、あげて、またもらって、文通みたいだねえ」
 ワイヨールが呑気につぶやくと、レリッシュの隣でずっと考え込んでいたニョッタが叫んだ。
「わかった、ブンツウじゃなくってメディカツウ! 駄洒落! オヤジギャグだわ!」
「スゲェ、マジもんの帝国式ジョークじゃん!」
「なるほど上手いな。レリ、ダンナにコインを一枚くれてやれ」
「そんなに面白いですか?」
 本物の帝国式ジョークは意外にとんちが利いているという評価が与えられ、ワイヨールが見事インペリアルの技術を身につけたら、古銭とともにメディカⅡを贈ろうということになり、レリッシュのメディカⅡは閃きのニョッタのプレゼントになった。ギノロットは気に入ったが、レリッシュはちっとも面白くはなかったらしい。