ギノロットの最後の咆哮 6

 ギノロットが洗面所から戻ってくると、病室はもぬけの殻で、独特の鼻を突く消毒臭さと、さんざん剥かれたオレンジの匂いが残っているだけだった。あんなに言われて二人とも残っていないのは、何だか拍子抜けした。
「帰ったのかな」
 ギノロットが言うと、しおれた顔のモモと目が合った。
「……もう怒ってねーから、元気出せ。気分よく寝られねーだろ?」
 頭をポンポンしてやると、それでようやくモモは少し笑う。どうやらモモは人に触れられることが好きだった。
 ギノロットは何か抵抗があったが、返ってくるその温かさに、悪い気分にはならなかった。今も白い豊かな髪の毛越しに、モモの温もりが伝わってくる。髪から飛び出る白黒の毛に覆われた長い耳以外、まるで人間の子供と同じだった。
「でもお前が寝るには早すぎんじゃねーの。俺はもー、いつでも寝られ……っふあ……」
 言いながら欠伸まで出てきた。体さえ重たくなってきたようで、ギノロットはそそくさとベッドに潜り込む。
 モモは、オレンジの木箱の隣に置かれた紙袋を手に取った。着替えが入っているという。
「こころがつかれててねむいんだよ」
 彼女は言った。子供らしい丸い声で、どうしてモモがそんなことを言うのか、睡魔に囚われた今のギノロットにはもう判断が難しくなってきていた。
「おやすみギノちん。またあとでね」
 モモの声を聞きながら、ギノロットはすでにとろとろと眠り始めていた。やがて暖かいモモの体がもぞもぞしながら毛布に潜り込んできたのを、夢うつつに感じていた。

 待ち望んだ青い世界を見てギノロットは歓声を上げた。なんて理想的な、澄み渡った空だ! こんなに美しいコバルトブルーは久しぶりだ。
 真夏の日差しが中天から照りつけ、ギノロットの肌をじりじりと焼く。裸足の足をさざなみが洗って、波にさらわれる白い砂が足の裏をくすぐった。磯に上がって岩場を調べれば小さな生き物が見つかるだろう。暖かな風が湿り気を帯びて吹いている――あまりにも懐かしい場所に、彼は思わず目をこする。夢ではないかと疑ったのだ。
 だが見ると、五色の緑と青に美しく変化する沖は、確かに、いくつもの墓標が無造作に建てられていた。ギノロットはぎくりと息を飲む。ただ海に突き立っただけの枯木に見えるそれらは、しかしはっきりと墓標だった。骸なきままそこに眠るその一人ひとりを、彼は思い出せる。中でも目立つふたつの墓標のうち、ひとつは――、
 そこまで思い出して吐き気に襲われ、ギノロットは目を背けた。これ以上を思い出したくない。
 桟橋から、誰かが足音を立ててこちらにやって来ている。こんなところに人が来るなんて思いもよらず、ギノロットは注目した。
 細身の女の人影だった。穏やかな南風が白く豊かな髪にはらんで、撫子色した花びらのような衣裳も、軽やかに潮風に踊っている。やがて視線に気がついて、親しげにこちらへ手を振った。
「ギノロット! ここ、とっても綺麗だね! 素敵な場所!」
 名前を呼ばれても、彼女が咄嗟に誰だが分からなかった。だがその丸い声には覚えがあって、ギノロットはほっとした。ずいぶん大きくなっているから分からなかった。
「なあんだ、お前か。どうしたんだ? びっくりさせるなよな」
 彼女は一歩ずつ踏みしめるように桟橋を軋ませ言わせて歩いてくる。そんなに怖がることはないのに、とギノロットは笑う。
「あたし、海見るの初めて。こんなに綺麗なところなの? ギノロットはここで育ったんだあ……すごいなあ。羨ましいなあ」
 やたらと感動した顔をするので、ギノロットはすっかり機嫌がよくなった。そうだろ、と鼻が高くなる。だって海とは楽園なのだから。
 水に触れてもいいか、と聞くので彼はもちろんと頷いた。海の水に悪いも何もない。彼女は桟橋に膝をついて身を乗り出し、人差し指で水面をちょんとつっついた。特徴的なヤギのようなロバのような耳がピョンと飛び上がった。
「――ひゃっこい! すっごくひゃっこい」
 指を振って雫を飛ばす。ギノロットは噴き出した。
「そりゃあそうだ、冷たいに決まってるよ。真冬の海だぞ? 飛び込むには向いてないし、残念だったな。時期が悪かったよ」
「真冬なんだ……」
 彼女は顔を曇らせて空を仰いで、そして気遣わしげにギノロットを見た。
「風もとっても冷たいね。寒くないの?」
「うん? ――ああ、ずいぶんだな。これじゃあ風邪引くかもしれないや。ここにはいないほうがいい」
 冬の冷たい北風が吹いていた。ギノロットは裸の腕を抱えてぶるっと震えた。空もくすんで、太陽も低くて鈍い。海も何やら波が高くなって、時化の予感がする。足が浸かる波は骨に染みた。彼女も途方に暮れる。
「どうしよう。あたし、こんなだなんて思わなかったの」
「そうだな――あっちならここよりマシなところがあるな。『汽水域』だ。そっちに行くと、変わった林があるんだよ」
 ギノロットがそこを指さすと、彼女は「きすいいき?」と耳慣れぬ言葉を区切るように口に出してみた。
「海と川の水の交じるところさ。そこならこんな吹きっ晒しじゃなくなるから。大丈夫、手を貸してやる。こっちにおいで。だから来た・・・・・んだろ? もう分かってる・・・・・から……ほら」
 ギノロットが手を差し出して彼女を招くと、細い木肌色の指は滑るようにギノロットの手にやって来て、桟橋から砂浜へ飛び移る。
 と、彼女は裂けるような悲鳴を上げた。ギノロットも驚いて身じろぎしてしまった。
「どーかしたか? なんか刺さった?」
 ギノロットが見てみるが、そこには幾ばくかの瓦礫が埋もれているだけで、彼女を傷つけるほどのものではなさそうに見えた。だが今にも泣き出しそうな顔をした彼女がじっとギノロットを見つめ、指先に力が入る。
「ギノロットは何ともないの? 痛くないの?」
「あー、俺がか? や、俺は……まー、そーだな、そりゃな。でも少しならいーよ」
 こんなのはよくある痛みだ。そこらへんにどこにでもいくらでも転がっている。他人に踏みつけにされれば確かに痛かったけれど、汽水域へ向かうまでなら我慢できる。
「ありがとう。やっぱり思った通り。あなたは優しい人」
 おっかなびっくりしている彼女の手をぎゅっと握って、ギノロットは歩き出した。
 汽水域に向かって二人はさくさくと音を立てて浜を上がった。砂には少しずつ石が混じり、岩が現れ、やがて赤い土になる。ヒルガオ、マメ、イネ、ススキ、スゲ、アオイ――次第に植物も多く濃く、背も高くなり、あたりは完全に陸地となった。
 見下ろす海の波は相変わらず荒んでおり、丘に風が吹きつけている。長い髪を煽られる彼女は、頭を何とか抑えつけようとしていた。雲行きも悪く、今にも雨が振り出しそうだ――そう思った瞬間、ぽつ、と穿たれる音がした。ぽつ、ぽつ、ぽつぽつぽつ……音はあちこちでみるみるうちに増えていき、やがて大粒の雨がまともに体を打ちつけるほどになる。稲光が走って雷鳴が轟き、急な雨に二人は駆け出した。ギノロットは泣きたくなりながら叫んだ。
「――悪ィ! ぜんっぜんダメっぽい! ごめん!」
「き……きすいいき、遠い!?」
「待って――あっち!」
 こんな荒れ果てた場所に来てくれた、彼女の優しさに報いたかった。だから遠目に林を見出した。
 ギノロットは彼女の手を引いたまま、シマシラキの林に逃げ込む。雨風は多少ましになったが、二人とも衣服はすっかりびしょ濡れになって、体が冷え切ってしまった。自分を抱きしめ鳥肌を立てて、がたがた震える彼女を見て、心底悲しくなった。
「そんな寒いなら、もーやめてもいーんだぞ……」
 ギノロットは言ってみるが、彼女は努めて微笑み、それを断る。
「ううん、頑張る。何度も来られたら嫌でしょう? きっと二度と来られなくなるから」
 遠くでまだ雷鳴が聞こえた。不穏な音だ。ここは本来他人を受け入れるところではない。ギノロットは精一杯呼吸を整える。自分の中に静けさを取り戻そうとした。そうでなければまたあの雨に打たれるだろう――。
「……あんま、無理すんなよ」
 人のために言っているつもりで、まるきり自分のための言葉だった。ギノロットは口を引き結ぶ。
 再び二人は歩き出す。繋いだ手を振りながら、彼女は詩のない歌を歌い、ギノロットの気を紛らわしてくれた。昔聞いたことのあるとても懐かしい歌に、痛みが少し和らいだ気がした。
 道なき道を進むうち、次第次第に雨風は弱まり、やがて地面は急に下って、泥土の林にたどり着いた。水に浸かりながら生える木々はまだ若かったが、その代わり柔らかい空気が満ちている。
「……ここがきすいいき?」
 彼女はあたりを見回し、足元の泥を踏みしめて、不思議そうな顔をした。初めて見るのだから無理もない。
「どんな場所なの? あの、変わった木は何?」
 ギノロットは手を引いて、水の中に足を踏み入れた。水はどんどん深くなり、あっという間に膝まで浸かってゆく。彼女は泥に足を取られそうになり、きゃっと悲鳴を上げてギノロットの腕に掴まった。ギノロットは笑った。
 川から流れてくる淡水と、潮が満ちて陸地へ上がる海水とが混じり合っているところ。それが汽水域だった。海でもなければ川でもないが、塩辛い水に浸かりながら独特の植物が生え、このあたりにしか棲まない生き物までいる。ギノロットは目の前に生えた、まだ背の低い、彼の胸くらいまでしかないヒルギを指さした。まだまだ芽吹いて数年といったところだろうか――説明すると、彼女は真剣な顔をして一つひとつ頷いた。
「強い木なんだね。苦しくってもめげない、頑張るんだ……すごいなあ、素敵だなあ。大きくなったらどんなだろうね?」
「さーなー。俺はここの大木は見たことねーから。この木、そんな経ってねーんだ。何年かしたら、もっとマシな木になってると思う……たぶん」
「三年で、こんなに大きくなるんだねえ。でも、言われてみたら、まだちょっぴりかわいい木」
「上流に行くと違うものもあるよ。例えば――」
 と言いかけてふと気がつくと、水位がすでに太腿に達しており、彼女の体もまた水に浸かって足がすっかり見えない。知った途端に息苦しい不安がギノロットの頭の中を支配して、そしてまた稲光があった。悲しいような当然の限界が来た。
 ざぶ、という音を立てながら、濃厚な潮の臭いをまとった誰かが海のほうから現れた。首に美しく光るサメの首飾りを下げた、四肢の筋肉も未発達な、切れ長の目をした少年――ギノロットとそっくり同じ顔をしていた。まだ丸みを残した幼さは、よく知っている自分自身の顔をしている。なのにその目は幼さとは不釣り合いなほど恐ろしく昏く、ついに少年と目が合ったとき、ギノロットはぞっと鳥肌が立ち、彼女を背後に押しやった。
「やめろ。相手が誰だか分かってんのかよ」
 ギノロットが身構えると、美しい首飾りの少年は歯を剥き出しにして怒りの声を上げ、それは若い林にこだました。
「ふざけやがって。お前こそそいつが誰だか分かってるのか? 俺はもう我慢できない。今すぐここから立ち去れ! 人の心に土足で上がり込んで、偉そうな面してるんじゃねえよ。物見遊山はお断りだ。遠足なら他所をあたりな」
「ごめんなさいギノロット、あたし帰るから。もう充分だから怒らないで」
 着実に少年が近づいてくる中、悲鳴のような彼女の声をギノロットはあえて無視した。
「うるせーよ。足で踏まれりゃ痛ェに決まってんだよ。だからってどーすんだ。どこ行ったって生きてりゃそんななんだよ!」
「救いようのない間抜けだな。どんな威勢のいいことを言おうが、お前の『それ』じゃあ何だって死ぬほど痛いだろうさ。はは、分かる分かる――本当になんで俺って死なないと思う? なんでわざわざ生きていたいんだ? ま、もう少し冒険者ごっこしてりゃあ、そのうちまた運が巡ってくるさ。それまで精々時間を潰してりゃいいよ。『次はもう少し楽に死ねればいい』な」
 いけしゃあしゃあと並べ立てながら、昏い瞳のギノロットは安楽の世界を夢見て微笑んだ。
「モモの前でそれ以上やめろ」
 ギノロットは『それ』を――空虚な首飾りを握り締める。今の彼にはそれしか縋るものがなかった。どんなに満たされていなかろうが、別物になろうが、一度は自分で直すと決めた……生きるよすがの形のものは、この首飾り以外に知らない。
 だがギノロットはついに彼の目前に立ち、喉で笑った。今度は嘲笑だった。
「じゃあ、怒ってみせたら? 俺にも分かる言葉で丁寧に話して教えてくれよ。なんで怒るの? ブレロがキレたから? ワイヨールが肩抜いたから? ちっちゃいモモがこんな掃き溜めまで来てくれたから? 妖精ちゃんが泣いて命乞いしたからか? ――はん、すっからかんのお前が何を並べ立てようが、響くものなんざこれっぽっちもありゃしねぇ。軽すぎなんだよ、バーカ」
 ギノロットがギノロットの胸を思うさま突き飛ばし、彼は深い汽水の中に背中から倒れていった。モモの悲鳴が耳に聞こえ、喉に塩辛い水が侵入する。立て直そうとついた腕が泥にさらわれそうになる。反射的にもがき、爪を立て、膝が足元を捉え、背中が浮かび上がる。頭を振って飛沫を上げ、薄い潮水を吐き捨てて息を吸うと、モモはまだそこで無事でいた。胸まで水に浸かっていたが、何とかギノロットへ手を差し伸べようとする。
 すると、美しい首飾りのギノロットが冷たく嘲笑った。まるでモモなんかどうでもいいみたいに――それを見て、ギノロットは我慢できなくなった。この健気な子が、救いようもない俺を助けようとしている子供が、そんなに軽いわけがあるものか!
「このっ……!」
 憤怒のギノロットがギノロットの向こう脛を思い切り蹴り飛ばす。彼は驚愕の表情で空中を掻きながらつんのめり、大きな水柱の中に沈んだ。汽水の中でもがいている隙を掻い潜り、幼いモモがギノロットの胸に飛びつく。空の首飾りに触れる。
「ごめんねギノ、もういいの。でもおぼえてて」
 涙声でモモが言い、ギノロットの首飾りをぎゅっと握りしめた。その価値を知っているかのように仕草に、空っぽのギノロットは引き攣れた声を出した。
「俺に触らないでくれ」
「モモたちはギノのなかまだよ。ギノのことがだいすき。ギノがいてうれしい」
「いいから行ってくれ、もう放っておいてくれ! やめろよ!」
「いきてるあいだは、モモたちをギノロットのなかまにいれて」
「違う! 俺はそんなこと言われたいんじゃない! 同情なんかいらない!」
 嘘みたいに暖かくて重たいそれに戦慄したギノロットは突き飛ばそうとして、なのに彼女は水に沈まなかった。もう一人のギノロットが、仰向けに沈みかけたモモを間一髪に助け出したからだ。
 ギノロットは、怯えて涙をこぼしているモモを確かに抱きしめ、自身も苦しそうに肩で呼吸しながら、しとどに汽水を垂らしていた。彼はモモを愛おしそうに抱き起こした。
「言っちゃなんねーことを言ったな。こんな子供に、当然みてーに、そんなことをよくも!」
 乱れたモモの髪に優しく触れ、明らかな怒気とともにギノロットの首飾りに掴みかかる。引き裂かれそうな喉から絶叫が怨嗟となり汽水をびりびり震わせた。視界が乱れて光が散って、鞭打つ音と同時に全身が灼熱に煽られ彼の中のあらゆるすべてが燃え上がる。
「お前、生きてたいんだろ!? ひとに縋ってでも生きていたい卑怯者――死に損ないのくせに!」
 どちらの自分が言ったのかは分からない。どちらが言っても同じことだから、ギノロットはいっそ、気にしないことに決めた。どうせ目の前にぶら下げられれば、いつだってどちらでも同じことを並べ立てるのだ。どちらにだって転べる。どんな顔だってする。空っぽでないならどちらだっていい。だって自分が空っぽなのは、いくら何でも辛すぎるだけだから。ただ生きるだけの理由が欲しい。なのに絶えず耳に聞こえる、この茫漠とした死の声に、俺は一体いつまで耐え続けたらいい?

 左の向こう脛にとんでもなく強烈な痛みを抱えて目が覚めたとき、ギノロットは仕方のないことだと思ってすぐに諦めがついた。まるで思い切り蹴り飛ばされたみたいに痛いが、どうしてだか自業自得だと納得できた。右のかかとにはっきりと残る感覚は、何かを蹴った感覚そっくりだ。
 ずいぶんひどい夢を見ていた。何でもないような光景をたくさん見た。もう揮発しかかっていた夢、それでも体に残る強い疲労感は確実に悪夢の残りかすだった。
 全身は汗でぐっしょりと濡れて、やけに寒い。たまらず毛布にくるまろうとして、そこで体を自由に動かせない自分に気がついた。
 左腕にモモが白い頭を乗せて、すかすかいいながら眠っているのだった。肘から先は動かせない。モモを起こしてしまう――彼女はギノロットの病衣を握りしめ、太平楽な寝息を立てている。
 人のいる寝床なんて何年振りだろうかと、ギノロットは気がついた。まさか病院で子供の枕にされているだなんて、遠い昔では想像もつかなかった。しかも人間ではない、異種族の子供だ。人間の子供がここに来るのを願ったことはあっても、それにモモが先んじるとは考えたこともなかった。
 静かな寝顔は人間の子と何ら変わりがなく、まったくどうしていとけない。自分の子供でも何でもないのに、ずいぶん愛おしい思いにかられる。
 ギノロットは目を閉じた。遠く潮騒を聞きながらの寝床ではなく、妻とともの毛布でもなかった。ここはタルシスの街中で、そこにいるのは旅の仲間だった。
 不思議な感じがした。かつて望んだのは、こんな未来ではなかった。海は遥かに遠いはずなのに、腕にある重たさは変わらない尊さをして、規則的な寝息をしている。
 ギノロットは安らいで、また緩やかな浅い眠りの世界に沈んでいった。ときに再び意識が繋がると、白い小さな頭がそこにあり、その度に満足して、目を閉じる。
 外の世界のざわめきに揺られて、そうやっていつものように浮き沈みして漂っていると、ふと、ギノロットの胸から重みを取り去る気配がした。何だろうかと思った彼は、ゆっくりと目蓋を開く。ぼやけた視界に最初にあったのは、ぽっかりと口を開けたまま目を閉じるモモの、宙に浮かぶ姿だった。
「――モモっ!?」
 びっくりして飛び起きたら、彼女は脇に手を差し込まれ、ぷらんとブレロにぶら下げられているのだった。
「天使はお目覚めの時間なんだ。モモ、朝だぞ」
 ベッドの端に座らされ、頬をペチペチ叩かれたモモは「ぬやー」とそういう鳴き声の動物みたいな声を出した。まだ目が開いていないが、口はかろうじて動くようで、
「ギノちん、どこー?」
 と聞く。
「ここだよ。いるよ」
 寝ぼけ顔に言ってやると、白い髪の動物はベッドの隅からカエルみたいに飛びかかってきてギノロットの首に抱きついた。カエルの予想外の素早さに、ギノロットは再び枕に沈む。
「おはようギノちん、おはよう。ねむれた?」
 顎にぎゅうぎゅうほっぺたをこすりつけられて、まだ完全でない引き攣れた皮膚が少し痛んだ。薄い背中を叩いてやりながら、ギノロットは答える。
「モモおはよ。ちょと苦しい」
「おひげがいたい!」
「そりゃそーだろ」
 モモはもう一度ブレロにひっぺがされ、ギノロットの息はやっと軽くなり、モモは捕まえられてじたじたした。
「やめなさい、はしたない」
「はしたあるー。おはようするー」
「こら、よしなさい! 顔を洗ってくるんだ。よだれの跡つけて、みっともない! ギノも早くむさ苦しい格好を改めろ」
 ブレロがモモを抱っこしたのを見届けて、ギノロットは落ち着いて毛布を引っ張った。
「俺は入院中はダラダラするって決めたからヤダ」
 起きるのなんか、お断りだ。眠くて、だるくて、体中の皮膚もまだ突っ張るのに、昨日のワイヨールみたいに延々と説教されたりなんかしたら、たまったものではない。せっかく静かに眠れていたと思ったのに。誰が見ても明らかに病人の見た目をしていたい。
「ギノちん、おやすみ。またねー」
「おやすみ。またな」
「はいはい後でいいから、タオルと歯ブラシは? ああもう、俺はお父さんかよ」
 ……とても羨ましい夢だ。モモの重たい温もりを思い出して、ギノロットは少し笑った。それは俺の欲しい、悲しくなるほど待ち望んでいた優しい暖かい未来だった。
「いーじゃん。なりゃいーのに」
「やめてくれ、俺はまだ遊べる! さ、行くぞモモ。ぐうたらは精神の敵だ」
 ばたばたと慌ただしく出ていった二人を寝返りで見送ると、背後のベッドから忍び笑いが聞こえた。おやと思って振り向くと、それはオレンジを剥こうと頑張っているワイヨールだった。
「お父さんは大変だ――ねえギノ、昨日も一昨日もうなされてたけど、平気かい?」
 例の寝言か、とギノロットは嘆息した。セフリムの宿に泊まるようになってから、ブレロに言われたことがあったし、川に行ったときも何かを喋っていたらしい。タルシスに来るまでも、時おり誰かに文句を言われていた。かつてはそんなことなかったのに、三年前からいつの間にか。
「俺、なんか言ってた?」
「ボソボソであんまりわからなかったけどね」
「うるさくしてごめん」
「……辛かったら言えよな。今に私が南の言葉を覚えてしまうぞ」
「それは覚えなくていー」
「自分の空疎を責めてたよ。それでも、モモを守ったんだろ」
 ギノロットはぎくりとして跳ね起きた。それは深夜に見た、もはや切れ切れの夢だ。ワイヨールが悲しげな表情をして、ギノロットの首飾りを見つめている。
「こちらとあちらの言葉が入り混じってたんだもの、わかっちゃうよ。でもそれしかわからなかったって誓う」
「誓われたって困る」
 凄まじい不快感で全身が総毛立った。恐怖と怒りの入り交じる感覚で首筋が焼けてゆく。自分の傷に触れようとするワイヨールを振り払いたくなった。もう二度と自分を誰かに任せたくなんかない。そんなものはもういらない。
「きみがどう感じても、私はそれを受け入れるよ。しょせん他人だもの。けど、放っておけるほど薄情にもなれないんだ。そこは知っておいてほしい。……わかるだろ、どうして私がそれを直したのか」
 そこまで言いきったワイヨールが手の中のオレンジを放り投げ、ギノロットは思わず受け止める。
 オレンジの皮に立てられた爪痕がその望みを語っていたが、ギノロットは黙りこくった。何も知られたくなかった。俺は同情なんかされたくない、お前に俺の何が分かる! ――そう絞り出そうとして、しかし、どんなに努力しても、形にはならなかった。喉につかえ、舌で滞り、口が開いて、閉じた。
 傷ついた自分を知られたくない。なのに仲間を傷つけたくもない。これ以上何か失ってしまいたくない。言葉にしてもどうせ壊れてしまう。声に出せばまた崩れ去る。そんなのは嫌なんだ。俺はまだここにいたい。俺はとどめておきたいだけなんだ!
 とどめておきたい……そう、俺はとどめておきたい――ギノロットは目を閉じた。首飾りに触れ、握り締める。首飾りの三つの石は手の中になめらかで、サメの歯だけが食い込んだ。
 目を開けば、もう片方の手の中で、オレンジがつやつやと輝いている。ワイヨールの右指が何とか皮を剥こうとして、果たせていない跡が残っている。傷跡からは、抜けるような香りがした。
「さしあたり五個くらい食べたいな。いい匂いだけして、ずーっとおあずけ食らってたんだもの」
「……分かった」
 形ばかりの笑いが口角を歪ませ、ギノロットはオレンジに爪を突き立てた。爽やかな香りは鼻孔をくすぐり、荒れた皮膚に沁み込んだ。
「あ、でもそういえば眠いんだっけ?」
「いーよ……そんなに深くは、眠れないから。もー前からだし、構わない」
 それは訥々と言葉になった。かろうじて声にしていた。残酷な告白をしている気がしているのに、ワイヨールの声はいつもと変わらず落ち着いていた。
「それは、『形見になったとき』からずっと?」
「やな夢で、ひどい気分で、やっと目が覚める。前より減ったと思ったけど……このひと月くらい、またなってる」
「……ごめん、嫌なこと聞きたがって」
「別にワイヨールは悪くない。俺のせーだから」
 ギノロットはそこで一旦言葉を切った。オレンジの皮をどうしても綺麗に剥がすことができない。かさぶたみたいにぼろぼろ切れて、ギノロットは指の大きさに切れるオレンジの皮を、切れるたびに膝へ積み上げた。
「……俺。三年くらい前、家族もみんな、全員死んだんだ。いっぺんになくして。何にも分かんなくなって、全部投げ出してとにかく逃げた――『その時』って、そーゆー時」
 一度にぱっと剥いてしまったら、気分よくさっさと食えるのに……ギノロットはもどかしかった。けれど、こんな手慰みをくれたワイヨールのために、残る一片に爪をかけた。精一杯に差し出せるギノロットの答えだった。
「なのになんで俺一人、まだ生きてんだろ」
「……ギノ、」
 何かを言いかけたワイヨールの言葉に首を振り、ギノロットはさえぎった。続きに答えるほどの用意はついていない。それ以上は、叫び出しそうだ。
 千切れすぎたオレンジの皮を屑入れにばらばらと投げ入れると、またあの独特な芳香があった。
「今の俺がお前に喋れるのは、まだそんくらい。……はい、まず半分」
「いただきます」
 体を伸ばして手渡してやると、それを手に取ったワイヨールは一房にかじりつく。ギノロットは箱の中のオレンジを四つ確保した。積まれた残りのオレンジはごろごろ転がり、木箱の底が少し見えかかった。ギノロットは悲しげなワイヨールの隣に座り、四つのオレンジを転がして残りに取りかかる。
「軽いことは言わないって、ありがと……ほんとは嬉しかった」
 感情の奔流に紛れて投げかけられた言葉はすぐには届かなかったけれど、今ならその意味が分かる。言いにくそうにしていた彼の心中が――様子をうかがうと、ワイヨールは少し考え込むように目線をさまよわせた。
「なら、よかった。おれには他に言葉が見つからなかったんだ。どんな気休めもきみのためにはならないってのが、わかったから」
 ギノロットは目を見開いた。ワイヨールは薄い唇を微笑ませ、もう一房オレンジを齧り取った。
 ワイヨールは時折言葉が揺れる。彼の心に合わせて水のように言葉を揺らした。私というのは、誰かと接するときのいつものワイヨール。ほんのりよそ行きのようでもある。見知らぬ人間に声を整えてしまうのと同じような、とはいえ他人行儀というわけでもない。きっと『自分以外の誰か』のためのワイヨールだ。
 だけれど、おれというのは、一体どんな姿なのか、ギノロットにはよく分からない。戦う最中はよく聞いた。だからそれを、拒絶するワイヨールなのだと思っていた。なのに目の前の彼は何者を責めるわけもない、光る射干玉色の目をしていた。
 ワイヨールはオレンジを飲み込んでは、一房、また一房と口に入れるが、最後の一房になったとき、長いまつ毛をしばたたき、そして、宙に向かってぽつりとつぶやいた。
「人間はいつも、何かが新しくならないと、死んでしまうよな。新しいって、どうしてそんなに綺麗にできてるんだろう?」
「え?」
「おれは昔っから、新しいものを飲み込んでいないと、たまらなく飢えて死んでしまいそうだ。自分の中に深い暗い谷があって、そこに次々綺麗なものを放り込んでおくと、とてつもなく満足するんだよ。この深い谷はまだまだ埋まらない、おれはもっと新しいものを飲み込むことができる……けど、もし浅くなる日が来たら、おれはどうなってしまうんだろう? その中に自分を放り込んでしまうんじゃないだろうか。ときどき恐ろしくなるんだよ。だからまた、新しいものを探すんだ」
 ギノロットに関係あるような、ないような、もう一つ染み込んでこない独りごちに、ギノロットはただ首を傾けた。ワイヨールらしくない薄ぼんやりした台詞だった。谷とは一体何のことだろう。ギノロットは一生懸命考えるが、ワイヨールは知っていたかのように笑った。
「おしゃべりが普段喋らないこと話しただけだよ、おれの話したいようにね。――こうやってさ、みんな深刻に思ってくれてさ、心配な顔されるとさ。嬉しい自分と浅ましく思う自分とが出てきて、ちょっと自分が嫌いになるよな」
「分かるけどそれって……結構、真面目だな」
「あは。真面目とは違うよ、これがそんな人物に見える? どうせひっくり返せばただのおしゃべりに戻るんだから。今もオレンジ超うまいって思う自分がいるよ?」
「……うん。このオレンジはうまい」
「炙った豚肉にオレンジソースをかけたのが恋しくならない? 脱臼治ったら山ほど食べよっと。必ず作るから、きみもおいで」
 いつもの口振りにギノロットは笑った。満を持して作ったワイヨールの炙り肉はきっと旨いに違いない。
 新しいものはいつも美しく、それだけが心を潤してくれる――ギノロットはよく知っていた。
 首飾りは二度と美しくはならない。だから美しい幻想が永遠に見えても再び手に入ることはない。
 一年に一度、あの手で新しくされるはずの約束は、もう果たされない。望んでいたのは新しい約束だった。絶対に会えなくなった彼女の約束を、三年経ってもまだ欲している。そして永遠にずっとだ。
 望みをかける世界樹はなく、縋るための約束は尽きた。
 ギノロットは再びサメの歯を握り締め、目を閉じる。
 誰にも理解されたくなければ、自分で理解もしたくなかった。だが受け入れない限り、この空白を満たすことはできない。生きている限り、いつまでも留まり続けることは、できない――。
 すでに霞になった夢の中で、優しい誰かが丸い声で、仲間に入れて、と言っていたことを、ふと思い出した。その痛いほどの温かさは、木霊のように耳に蘇る。ギノロットは目を開けた。朝日のまぶしい白い病室で、目の前のベッドは誰かの抜け殻のような形をしている。
「確かに、豚肉食いたい……」
 タルシスは肉料理に果物を合わせた。食い道楽のタルシス人にかかれば、どんなに脂っぽい豚肉だろうと、オレンジをわざわざソースに仕立て、さっぱりと食べようとする。
 言われてみれば、なぜだか妙に肉が食べたくなった。血を流しすぎたせいだろうか。あるいは作ると言われたから。もしくは、自分の声が耳に聞こえたからなのか。
 瞬間、ふっと背筋が緩んだ。呼気が深く抜けていく。胸の中の滞りが吐き出され、古いものを捨てた。新しいものを取り込んだ。そしてワイヨールが口を開いた。
「――なあ、急に思うかも知れないけどさ。きみ、ちょっと印術習ってみないか。何となくだけど、今のきみには向いてる気がする」
「印術? 俺がなんで……」
 実際、ギノロットはルーンとはほとんど無縁だった。何かしら生活の役に立っているのは知っているし、自らの武器に刻まれているのも知っている。だが、それは単なる実用の補助だ。叩けば鳴る程度でしかない。
「ただの昔話だけどね。ルーンは死ぬほどの苦痛に耐えた、その引き換えに得られたものなんだよ。いろんな代償を払ったきみには、きっとちょうどいい」
 死の苦痛と引き換え――ギノロットの耳に、それは殊更くっきりと響いた。
「俺にできんの? こないだまで字も読めてなかった俺が?」
「いや、こうなったらやろう。私も暇を持て余してるし、やるなら今……って、ああもう、その疑いの顔は何だよ? 兵は拙速を尊ぶというんだよ。きみというソードマンから速さを捨てたら根暗しか残らないじゃないか」
 かぶりを振るワイヨールに、ギノロットは言葉をなくした。根暗しか残らないのは嫌だ。速いが根暗なソードマンと思われていたのも何だかショックだった。だがこの数日の自身を振り返っても、陽気とは言えない。それは本当のことだ。
「二度とない機会だ。こうなったら徹底的に、見えないけど絶対そこにあるとしか思えないってものを教えてやる。そのすっからかんの中にな! 寝言がことごとくルーン・ガルドゥルになるまで叩き込むから覚悟しろ」
 ルーンで寝言をぶつぶつ言っている自分を想像して、ギノロットはくっと笑った。とてもそうなるとは思えないけれど。
「なら、速くて根暗なサブルンソードマンに、なってみる」
「ははあ、なかなか陰湿そうだなあ。きみなら絶対いけるぞ」
 二人は立ち上がり、洗面所を目指して歩き出した。一歩ずつには皮膚が引き攣れ、かすかな痛みさえ走っていたが、とにもかくにも顔くらいは洗わないとならなかった。何しろ、銀の稲穂団のリーダー曰く、ぐうたらは精神の敵だそうだから。