ギノロットの最後の咆哮 5

 ワイヨールが虚しく転がる病室に人が訪ねてきたのは、ギノロットがいなくなって少ししてからだった。明るく笑う客人がやってきたので、ワイヨールの重たい気分は吹っ飛ばされた。
「よう、はらぺこルンマス。差し入れだぞ」
「たべものだよー!」
 小脇にちょっとした大きさの木箱や袋を抱えた小洒落た格好のブレロと、人間の少女のお洒落着をまとった八歳児、モモである。モモは水色のフリルとレースがたっぷり使われた、シフォン状のスカート姿だ。ワイヨールは目を丸くした。
「どうしたの、似合ってるじゃない。ブレロに買ってもらったの?」
「マドカがえらんで、おじーちゃんがかってくれた! ちょおおおーかわいいいい!」
「おじいちゃん……マドカ?」
「あのねーチェス、おそわったの! たのしかった!」
 ピカピカの笑顔で一回転してみせると、胸と腰に引かれた細身のリボンがひらりと舞った。隣では素直に喜べないといった顔のブレロが襟元を緩め、非常に複雑そうに息をついている。
「ウチのジイさん、チェス友できてハイテンションよ。それでマドカも混じってショッピング。俺荷物持ち」
「……何がどうしたらそうなるの」
 あの夕方、タルシスに戻ってから、ブレロはモモをウロビトたちの屯所に帰せなかった。モモのショックが大きすぎて、ブレロから離れられなくなってしまったのだ。
 公私混同を是とせぬブレロも、さすがにモモに向かってまではそれを貫けなかった。ブレロはモモを広く明るい屋敷に連れ帰って、暖かく優しいベッドに寝かせてやることにした――というところまでは、ワイヨールも知っている。だがその後どうやら、意外な人物を釣り上げてしまったらしい。
「マドカは午後から学校って聞いてたんだけど?」
「昼前にうちへ来たよ、確かに。モモがジイさんと遊んでる真っ最中にな! それで何か流れが……俺にはコントロールできなくなり……」
「みんなでおにわをみたの! おはないっぱい! いけもみたの!」
「そう、そんなにいいところだったの?」
 マドカは教師に叱られたろうが、モモは今にも舞い上がりそうにニコニコしている。大人三人の中では『子供最優先』のスクラムが組まれたようだ。ブレロは内心相当な不満を抱えているだろうが、モモの機嫌と引き換えとしては文句のつけようがなかった。
 かくなる上はそのスクラムに加わるしかない、私は四人目の大人になろう。ブレロ、グッジョブ。ワイヨールがそっと親指を立ててやると、ブレロは不満げに頷いた。世の中は思うとおりには回らない。
「ねーギノちんは? ワイヨルのとなりじゃないの?」
 もしかして地面から浮いているかもしれないほど機嫌のいいモモが、空っぽのベッドを指さす。
「結構前にお風呂に出てったよ。いつごろ帰ってくるんだろう? それなりに経っているんだけどなぁ」
「まあ、噂してたらそのうち戻るだろ。待ってるか」
 木箱と袋を脇卓の前に置いて、ブレロは誰もいないベッドに腰かける。モモもぴょこんと飛び乗った。
「ギノちん、げんきになった?」
「どうかな。お風呂の前までずっと寝ててね。まだちっとも話していないんだ。ぱっと見たら、元気そうにはしてたよ」
 だが今ごろは大嵐の中にいるだろう……気取られないよう、ワイヨールは自分を胸の中に押し込んだ。
「モモ、ちゃんと治療できなかったから。しんぱい」
 悲しげに耳まで垂らすモモである。持参した薬が尽きた上、羅刹の裂傷と熱傷を負ったギノロットと、脱臼したワイヨールでモモは混乱状態に陥った。方陣を張ろうとしては何度も失敗を繰り返したのだった。
「ワイヨルは? まだいたい?」
「まあね。でもお医者さんは軽症って言ってたよ。ちゃんとしてたら治るってさ」
 しっかり固定された左肩は、胴体にぴったりくっつけられて動かそうにも動かせない。正直、身じろぎするのも大義だ。と、そこでブレロが思い出して苦笑いを浮かべた。
「ローゲルの整復が壮絶だったな」
「まったくだよ。痛いってわかってるところ触らせるって、覚悟いるよぉ? もう二度とごめんだね」
「でもおじさん、やさしかった」
「そうだな、結局手は貸してくれたからな。何しろあいつも冒険者だから。……仲直り、できそうか?」
「……もちょっと、おはなししたい」
「次はそうしよう。ローゲルもきっと喜ぶぞ。モモはいい子だからな」
 モモが寂しそうにするので、ブレロはその頭を撫でて、肩を寄せた。
 ローゲルはあの後すぐに帝国へと戻っていった。枯れ落ちた世界樹の根の下に、遺跡が隠れているのを発見したからだ。皇子と巫女はきっとその最奥にいる。
 軍人のローゲルは、感傷に浸る暇もなく動き回らなければいけない。多少の怪我は押してでも進まなくてはならない。今ごろは遺跡を調査しているはずだ。しかし、ただ職分であるからという理由では赴かないだろう。彼が抱いているのは単純な忠義ではない。
 戸口でぺちんと靴音が鳴って、モモの特徴的な耳がピンと跳ね上がる。見るとそこには目をぱちくりさせた病衣のギノロットが立っていた。
「モモ。どーしたその服」
「ギノちん! ねえこれ、にあう!? モモかわい!?」
「似合う! めちゃかわいー! 天使みたいだ!」
 風のように飛んでいったモモが迷わずギノロットの首っ玉にかじりついたので、ギノロットはモモを抱き留めてぐるりと宙に舞い踊らせた。モモのふわふわのスカートが殺風景な病室で翻り、明るい笑い声でいっぱいに満ちる。青年と少女はきゃあきゃあ言いながらはしゃぎあった。
「おい、天使って言ったぞあいつ」
 ブレロがワイヨールの隣に座り直しながら、何か恨めしそうな顔をしている。
「ギノもあんな顔して喜ぶんだね。川遊び以来だな、ああいう顔見るの」
「俺でさえまだ高い高いしてないのに」
「早い者勝ちでしょ、それは」
「抱きつかれてエヘラエヘラ喜びやがって」
「どうして子供をめぐって一人で対抗してるのさ」
「俺の保護欲が奴にモモを渡すなと警告するんだ」
「独占欲って言うんだよそれ。よその子だよ」
「くそ、せっかくオレンジ持ってきてやったのに。恩知らず」
「うわっ、私それ食べるの大変じゃないか! 当てつけかよ、悪気があって肩抜けたわけじゃないぞ!」
「あ……本当だ、すまん。頑張れ」
 プレロが木箱を開け放ち、丸く艶やかなオレンジを二つ取って、一つをワイヨールに渡す。ブレロが不機嫌そうに乱暴に皮を剥くので、オレンジは強く芳香した。
「ねーギノちんもオレンジたべる?」
「じゃーもらう」
 ギノロットがモモを降ろしながら答える。地に足の着いたモモは彼にひとつオレンジを渡し、自らには小さめのものを一つ探して、ベッドに腰かけたギノロットの隣に座った。
「そう言えばな。ウチのジイさんが、お前によろしくってさ」
 オレンジの房を口の中に放り込みつつブレロが言うと、目を上げたギノロットは首を傾げ、皮を剥く作業に戻る。
「昔々まだ子供のころに、剣士に憧れてたんだとさ。今日言ってた」
「へえ。それって結局、おじいさんも冒険者になりたかったって意味?」
「さあな。まあともかく、お前のファンだそうだぞ。剣は男のロマンだって」
「ファン! すごいな、ギノにファンがいるんだ」
「身内じゃねーか、大げさだな」
 ワイヨールは素直に感心の声を上げるが、当の本人はすぐにオレンジに視線を戻して皮を剥ぐ。相変わらずの素っ気なさである。
「でも私たち、ミッション何度も終えてそこそこ有名だし、きっといなくはないよね」
「そーゆーの、面倒くさい」
「お前は本当に名声に興味ないな」
「そりゃ……俺が興味あんのは世界樹のほーだったし……」
 と言った声が、ワイヨールの耳にも明らかに弱々しく聞こえた。すでに世界樹は折れている、何の夢も託すことはできない。『だった』の過去形に、彼の真意が表れている。
「ギノちん。モモ、たすけにいきたい」
 悲しい顔したモモがギノロットを見上げる。察した彼はうん、と優しく頷いた。
「一緒に行こーな。頑張るから」
「モモもがんばる」
 モモの返事を確認すると、ギノロットはオレンジを一房口に放り込んだ。
 やがて全部のオレンジを食べきったギノロットは、眠たいとぼやいて売店に去ってしまった。歯ブラシが欲しいと、モモと仲良く、手を繋いで。
「――なあお前、何かあるんだろ。ギノのことで」
 二人の姿を見送って、足組みしたブレロはワイヨールに尋ねた。
「詳しくは知らんがマドカに若干聞いたぞ。あいつ何があった? 言われてみれば何やら妙というか――頭でも打ったか?」
「こう言っちゃアレだけど、彼は天使なんて言う柄じゃないよねえ。そんな語彙があるとも思わなかった」
「抱っこしてグルグルもしたぞ? 人が違うというか、俺のお株を奪うなよ」
「だからそれは先にやったほう勝ちだって」
 ワイヨールはかいつまんで聞かせた。血で直したというところだけはごまかしながら、彼の大切な首飾りが一切の別物になってしまったということ。ギノロットには、たぶんモノノフの力は性に合わないだろうということ。行き詰まりとともに喪失に襲われているであろう彼のことを……一通り聞いた後、ブレロは顎に手をやった。
「レリも気がかりだとは言ってた。ギノの『羅刹』が計算外だったのは間違いない……話を聞くとな、本当はレリが頭をスナイプして、その隙を取る算段だったらしい」
 ところがそこでギノロットが守護者の足元を斬りつけて、レリッシュのスナイプはなかったのだ。
「俺もあそこでギノがいきなり沈んだから、転倒かと思って――そうしたらとんでもない、水際から聖印食った『氷刹』をかましたんだよ」
 ブレロは戦況をかなり冷静に見つめ、まだ分析しようとしていた。彼もまた炎に巻かれ、そしてギノロットの内実を知りながら、まだ心が折れていない。ワイヨールは目を見張って続きを聞いた。
「臨機応変だから不発は構わん。たまたまそのときイケると思ったんだろ。結局ローゲルの二発目のドライブは頭に入ったし、『咆哮』も即応で見事だった。だがコントロールできない羅刹なんか、無意味だ」
 整えてあった前髪をくしゃくしゃにして、ブレロは溜め息をつく。その顔はひどく渋かったが、続く言葉は銀の稲穂団の主の顔を捨てていなかった。
「いちいち死にかけになられたらたまらん。あいつにはモノノフを辞めさせる。許しておけない。銀の稲穂団に羅刹は必要ない」
 ブレロは譲らぬ口調ではっきりと宣言した。ワイヨールはただ、頷くしかなかった。ブレロはそういう言葉を覆すたちの人間ではない。
 やがて廊下からペチペチという軽いサンダルの音が響かせて、モモが姿を表しこう言った。
「ブレロー。モモきょうおとまりするー」
「ん? お泊り? 病院にか?」
「だめ?」
 手に歯ブラシとタオルを持って、準備万端とでも言いたげである。
「いや……いいのか? 病院って泊まれるのか?」
「おねがいします。いいこにします」
 ブレロが戸惑っていると、モモが丁寧に頭を下げる。遅れて現れたギノロットも困り顔だった。
「こいつ、言って聞かねーんだけど」
「ばいてんのおばさんが、おりこうさんならおとまりしていきなさいって。モモおりこうだよね?」
「子供泊まんのよくあるって言われて……」
 しっかり言質まで得ている。そういう意味なら、確かにモモは利口だった。
「けど、ブレロのじーさん待ってんだろ。悲しがるぞ」
「きょうはギノがいい」
 泣き落としも通用せず、ギノロットの病衣をむんずと掴んだ。ダメと言ったら手を焼きそうな気配を、ワイヨールは感じた。
「我が侭言うとマドカ怒んぞ」
「やだっ。とまる。ギノがいい」
「……って調子なんだけど、ずーっと。どーすりゃいーんだ。なー、つーか元気なやつがいる場所じゃねーし」
「ちょっとちょっと、わかったから。それ以上はやめなさい。騒がしくしたらつまみ出されるよ」
 慌てたワイヨールが言い止める。同じやりとりを何度もやったのは理解できたが、あまり反対すると本当にモモが怒り出しそうだ。
「お前、そんなこと言う子じゃなかったろ。ウロビトの仲間も心配すんだろ。早いとこ帰ってやれよ」
「モモはギノがしんぱい」
「俺は病院にいるから心配いらねー。お前がチョロチョロしてるほーが心配だ」
「やーだ! やだったらやだ! なんでダメなの!」
 だがギノロットはしゃがみこんでモモの頭に手を置いた。物わかりのよさそうな大人の顔をしていたが続いた台詞はワイヨールが思うよりも辛口だった。
「あんなー……ここ病院なの。病気と怪我を治すとこなの。お前いたら休めねーじゃねーか。俺眠ィんだから、あんま言うとホント怒んぞ」
 正論すぎて子供にはあんまりで、ほとんど存在を否定されたモモは拳を固く握りしめ、顔もスカートもくしゃくしゃにしていく。とうとうワイヨールは止めに入った。
「だからそれ以上やめなさいって。だんだんギノが悪い気にもなってきた。心配かけてるお詫びくらいに思っときなさい! モモだって頑張ったんだから」
 するとギノロットは釈然としない顔で、歯ブラシを口に突っ込んで何も言わず部屋を出ていった。遠ざかる足音にははっきりと険が含まれていた。
 今にも泣き出しそうなモモをブレロが抱き寄せて撫でると、鼻をすすりながら彼女は言った。
「ごめんなさい。ぜんぜんいいこじゃない。モモやなやつ」
「今夜だけだぞ。明日の朝迎えに来るから、街のウロビトたちのところに戻ろう」
 ブレロの肩口にしがみついたモモの、白い頭がしっかり頷く。
「……ギノがかなしそうにみえるの。いっしょにいてあげなくちゃやだ」
 その言葉に、ブレロもワイヨールも一瞬、何かにはっとなって顔を見合わせる。かなしそう、という言葉の中に、ウロビトとしてのモモの天禀が関わっていると感づいたのだ。
 しかし気づいた途端に、ワイヨールの胸は冷たく重くなっていく。自分が愚かだというギノロットの怨嗟が、ふいにありありと蘇る。
「モモに、何がしてやれるの」
 黒い瞳のワイヨールの冷酷な尋ねに、ブレロの肩からモモがにょきりと出てきて返事した。目を真っ赤にしていたが、泣いていなかった。
「わかんない。でもいっしょにいる。一人ぼっちにしたくない。ギノがいなくなっちゃいそう。そんなのやだ」
「――なら、追っかけてこい。今すぐ」
 ブレロが手を離すとモモは素早く身を翻し、ギノロットを求めて駆け出した。足音は慌ただしく遠ざかり、すぐにどこかへ行ってしまった。大人二人は狐につままれたような気さえしながら、再び顔を見合わせる。
「何か、独特の感性があるな」
「そのようだね」
「俺はギノの添い寝なんかしたくないし、ここはモモに任すか……ジイさんの機嫌取らなくちゃならん」
「はは。苦労するね」
「モモが着替え持ってくって言ったの、最初からそのつもりだったのかもな……」
 オレンジの木箱の脇に置いた紙袋を見やる。どこかよい衣料店なのだろう、質の高い蝋引き紙の袋には、わざわざ店名が印字してある。優雅なデザインの書体だった。着替えというと大げさで、そこに入っているのはあのシフォンスカートの前に着ていた、ただの普段着だという。ブレロは祖父をどうやってなだめるか思案しながら屋敷へ帰路へ着くことにし、ワイヨールは胸のつかえを思い出しながら、見送ろうとして立った。ひょっとするといないほうがモモには都合がいいかもしれない、とも思った。
「なあワイヨール、一ついいか」
 玄関まで来たとき、ブレロはやっととでも言いたそうな顔で、口を開いた。ブレロの顔は固く、両手をポケットに差し込んで、どうにも言いにくそうにしながらも、
「……ギノロット、あいつ、『生きていたくて生きてはいない』らしい」
 ワイヨールは胸がひやりとして、言葉もなく立ち尽くしていたら、ブレロが続けた。
「レリが聞いてた、焼かれたあいつのセリフだよ。『生きていたから死んでいない』と。半死人のうわ言だから気にするな、とは言っておいたが……だが妙に、嫌な感じがしないか。俺はぞっとした」
 ワイヨールは言葉の昏さに、すぐにはその意味を計りかねた――が、おそるおそる自分の考えと繋げ合わせる。繋げなくてはならなかった。そうしなければ確実に失われるものがある。だからワイヨールは、ためらいながらも声に出した。
「――死に場所探し」
「何だと?」
「過去から前に向けない、誰も頼れない、戦いでしか苦しみを消せない――そんなの……まるで緩慢な自殺だ」
 聞き捨てならないとでも言いたげなブレロが詰め寄るが、ワイヨールは首を振った。侮辱とは違った。ワイヨールは重い息を吐き出して、少しの覚悟を決める。これまで目をつぶってきたけれど、こうなったらそうもいかない。ギノロット、きみがそういうつもりなら、おれは一歩踏み込むぜ。
「私は銀の稲穂団で今後も旨い酒と食事を囲みたい。だからブレロ、少し教えてくれ。ギノのあの寝言、いつもああなのか?」
 ブレロは何が何だかよくわからないという顔をしたが、ワイヨールは至って真剣である。