ブレロ・アクロバティク 1

 ブレロに残されたのは、金の子豚のへこみ傷であった。黒く煤けたのは磨けばよかったが、メッキが剥がれて子豚の体がえぐれているのは、さすがに手に負えない。仕方なしに子豚をベルンド工房に見せに行った。細工物の一種だ、冒険者相手の工房で修復できるとは思っていない。伝手があれば教えてほしいつもりで話すと、工房の看板娘は子豚の顔を見て、そして大いなるへこみ傷を見て、
「調べてみるね!」
 と奥へ引っ込んだ。書類棚から何かの一冊を取り出してめくっては止まり、止まってはめくり、そして親方のところへ走っていき、やがて戻ってきたが、顔色は冴えなかった。
「ウチの術師さんが教えてくれたんだけど……」
 ためらいがちに差し出してきた紙切れには、細工店の地図と店主の名前が記されていた。タルシスの街の中でもひと気の少ない、外れのほうだ。
「……なんかね。あんまりオススメしないって言ってたよ。いっそ作り直したほうがいいって」
「それって、どういう意味だい」
 紙切れを手に取りながら、ブレロは首を傾げた。教えるのに勧めないとはおかしな話である。
「んー、正しくは『無理強いしない』って。私も聞いたんだけど、詳しくは……」
 詳しく教えてくれよ、それが仕事だろ、などと思ったが、術師とやらが言いたがらないのだろう。悪く言うつもりはないが、彼らは何かとそんなふうに振る舞うのが仕事だ。

 それなら、うちのおしゃべり印術師に尋ねてみようではないか。ちょっといいイチジクのジャムを土産に買い求めて、やってきたのは印術師が多く住んでいるアパート街だった。彼らは勉強好きだから、多少街外れで不便でも、仲間同士で寄り集まって住んでいることが多い。銀の稲穂団のルーンマスターも、ご他聞に漏れなかった。
 印術師といってもバリエーションに富んでいる。石に印を刻む、あるいは金属に印を、布に、紙に、空気にさえ。インクにもこだわりがあるそうで、鉱物だの植物だの、水がどうとか油がどうとか、中には血で刻むことを好む者さえいるという。そういえば冒険者が集まる酒場で、ブレロがたまに空気に刻む派に出くわすと、いい声をしていると褒められることがあった。印術に興味はなかったが、どうせ褒めるならもっと褒め称えてほしいものだ。何しろ俺は声がいいことには定評があるんだ!
「ちなみにワイヨールは何派?」
 食堂兼居間の、ブレロの体にはどうにも小さい固いアパートのソファで、何とか心地よい座り方を探しながら尋ねる。ワイヨールは背中を向けたまま答えた。
「私はもう、半分くらいどうでもいいなー」
 迷宮にいると何でもよくなったと、台所でポットに紅茶の葉を入れながらワイヨールは冗談っぽく笑った。左肩を動かせないなりにも慣れたふうに支度を進めていく。
 曰く迷宮とは、地面か空間にしか書くところがない。道具を用意する隙もあるわけがない。意識を集中するためにロッド一本を持ち込むのが精一杯だし、せいぜい喉の調子を整えておくくらいしかない。
 インクになりそうな出血があってラッキーと思うことはあるらしい。血の力は絶大だから、使えれば使う。だが、そういう怪我をしている時点でラッキーと言ってはいられない――なるほど、血で印術を使っているところは見たことがなかった。できれば出くわしたくない、壮絶な絵面になっていることは確かだろう。
「元はね、布系刺繍派なんだよ。母親が針仕事好きで、その影響。冒険の瞬発力と完全に無縁だったのさ。何の繊維の、どんな織り方の布を、大きさとか向きとか、何色の何素材の何番の糸目でどんなふうに縫いつけたら面白いかなーって具合で……けどそれって実は、ニョッタのが遥かに上手いんだよねぇ」
 下手なほうの印術師だよ、と振り向き、三角帯で動かせぬ左腕が光に浮かびあがる。ブレロにとっては彼が下手などという印象がないので、眉尻の下がったワイヨールの表情を見て不思議な気になった。
「俺たちはお前を頼りにしてるがなあ」
 気休めかもしれないが言ってみると、
「もちろん。私はもはや迷宮では優れたルーンマスターだよ? ニョッタなんてまだ全然、そんじょそこらのピヨピヨのひよっこ。私の足元にも及ばないともさ」
 ワイヨールはいかにも自信ありげに胸を張った。が、彼はすぐに態度を翻す。
「ただね、これはよくいう話だけどさ。ルーンって直感とか霊感とか必要だけど、私はそういうのは、子供のころからからっきしでさ。私の下手さってそんなところなんだよね。目の前でガオガオ言ってるやつらをどうかするのは得意なんだけど。そういう意味では現状、現場系武闘派かもねえ」
「……なあ、苦手なのに霊感使う仕事してるのか?」
「ああ、それは大丈夫。理屈派なんてざらにいるからね」
「いや、お前の弱音は初めて聞いたぞ。すまん、気がつかなくて」
 ちょっと打たれたような感覚に陥り、ブレロは慌てて謝った。ワイヨールの安定感に甘えていたと言ってもいいのかもしれない。しかし彼は実に軽そうに手を振ってみせた。
「いいのいいの。人生設計の話みたいなところあるから、こういうのはさ。銀の稲穂団とは切り離してるから、だから相談する相手はちゃんと持ってるさ。誰かみたいに勝手に行き詰まって自爆なんかしないよ。ご心配には及びません」
 余裕を感じさせる表情でワイヨールはそう言い、ポットにたっぷりお湯を注ぎ、ハードビスケットの大量に詰め込まれた瓶の場所を明らかにして、ブレロに託した。ブレロは「うるせーな」という幻聴を聞きながら、それらを男二人には狭いテーブルに置いた。
 ワイヨールはブレロの向かいの丸椅子に腰かける。まだ脱臼の完治していない彼は左腕を固定していたが、通りに面した台所の窓辺からは明るい日差しが差し込み、それを背後にした彼はごく平静な顔をしている。
 本人にその気はなくとも、知らされないとはこういうことかと、ブレロは受け止めざるを得なかった。頼りにされていない気がして、何とも面白くない。マドカがモモを連れてきたときと同じ気持ちがした。当のワイヨールがけろりとした顔をしているから、よしとするけれど――脛に傷持つブレロには、やや痛く刺さった。祖父の気持ちが少しは理解できた。
 ポットの口からほかほかと湯気が立っている。ワイヨールはその湯気を指ですくい取り、ポットと蓋とカップに向けて何かの湿ったルーンを綴った。ひとつ叩くと印が白く輝いた。ワイヨールがポットを使うとき、彼はいつもその印を刻む。『冷めにくくなるおまじない』なのだそうだ。
「戦う印術も最初はドヘタだったから、続けていればそのうちもっとうまくなるさ。だって続けているからね。きみだって始めからマスターフォートレスだったわけじゃないでしょ」
 言って、ブレロにカップを差し出す。何の変哲もない陶器のカップである。
「そのオマジナイ、俺が書いてもさっぱりだもんな」
 見よう見まねで『おまじない』をしても、五分後に比べてみると明らかにぬくもりが違うのだった。ワイヨール以外の誰がやっても、ぬるい。ニョッタにやらせても何が違うのか、何となしにぬるい。ワイヨールのルーンだけ温かいのであった。
 二人は同じルーンマスターなのに、何が違うのかと問うと、
「えっ? 慣れとか……心の表し方?」
 ブレロは噴いた。聞かないほうがマシだった。微妙で理解の助けにならない。翌朝見ても解読できない、寝入りばなのメモみたいだ。
「お願いを考えて綴って、それで毎度さまーって感じを、基本は化学的に行う」
「うん……説明未満だな、それ」
「言うと思いました。いやね、難しいんだよ説明は。うーん……そうねえ、『綴り方がニョッタ向けじゃない』んだよね。私が書いてるのは私のだから」
「お前のだと何がダメなんだ」
「んー。私の服をニョッタに着せてもブカブカなだけじゃない? だよね?」
「……おお、それはわかる」
 ブカブカの服のニョッタは絶対にかわいいけどな、とブレロは顎に手を当てて考えた。
「うん、服を着るのが化学で、基礎知識だとしたら、着こなしとか丈を詰めたりデザインするのが印術。これは応用だよ。ニョッタにはニョッタのためにあつらえた服が必要なの」
「理解できた……ニョッタに服はいらない!」
「言うと思いましたよ、馬鹿じゃないの?」
 お茶淹れて、と言い捨てて、呆れ顔のワイヨールはビスケットの大瓶を横倒しにした。取り皿はないのか。どれだけ食うのだ。ともあれブレロは客の身分。言われれば大人しく紅茶を注ぐ。
「ニョッタは冷めてもいい子なんだよ。頼む気がそんなにないだけさ。そういう頼みに興味がないんだ」
「ふうん、なるほどな。……遠回りな説明だったな」
「私だって話しながら考えてるからね。説明って大変なんだぞ? ギノでもわかるように噛み砕くのに、どれだけ苦労してることか」
「好きで教えてるくせにい。そうだな――対象xに対するルーンでの操作を印術と定義する」
「あは、それっぽい。でもそうだね、彼はなかなか飲み込みがいいんだよ」
「ルーンの記述による化学的変化は印術である。あれでもあいつバイリンガルだもんなあ」
「あくまでそれっぽい風だねえ。化学じゃないし、印術でもないな。まあ実際、北と南でさっぱり違ったからね、言葉が。よくこっちに来る気になったよ」
「ううん……印術の起動には一定の前提が必要である」
「それは何でもそうじゃないの?」
「印術は衒学的である」
「それは本当に。きみ実は、証明って嫌いだな?」
 ちっ。バレた。早い。
「俺に印術の才能はなさそうだな」
「オチもついたしジャム食べましょう。いただきます」
「うむ、遠慮せずにたーんと。まあたーんと食え」
「今晩の夜食でなくなるよ」
「……まあ少しは大切に食ってくれ」
 調理器具や香草が壁にぶら下がる雑然とした食堂兼居間で、男二人が黙々とハードビスケットを噛み砕く音が、しばらく響いた。イチジクのジャムは優しい品のいいさっぱりとした甘みで、ワイヨールにはもったいない味であった。これはうちの母親向けだ――ブレロはそんなことをぼんやりと考えた。
「でさあ。それね?」
 紅茶で口を湿したワイヨールは、ブレロの紙切れと、無残にへこみながらもよい子で待っている金色の子豚を見た。
「金の合成法ってないって知ってる?」
「あったら大変なことになってるじゃないか」
 そんなことになったら金の価値は暴落していることだろう。世間は上を下への大騒ぎだ。
「世界中で血眼になって探してると思うんだけど、ダメなんだよねえ。だから掘ったほうが早いって話」
「でもこの店はできるんだろ? 新技術の持ち主――なわけないか。どちらにせよとんでもない話だ」
「これは結構マジへっこみしてるしさ。直すにしても直す分だけの金がいるのは確かだよ」
「豚の中身は金じゃないけど、ダメか?」
「そりゃあこれだけ背中をベッコリ見せられたら、中身は真鍮か何かだってわかるけどさあ……真鍮って銅と亜鉛だっけ」
「ええ? 専門外だから知らねえよ」
「私もだよっ。……ちなみにこれ、大事なもの?」
「成人のときに親父が作ってくれたのが、このかわいい子豚ちゃんなんだ。実に注文通りにできてる」
 買ってもらったものとはいえ、この子豚を憎む気にはなれないのは、これは紛れもなく親たちの愛だからだ。それに、道化顔がいい。早く俺もこの顔になりたい。
 ワイヨールは深くを尋ねようとはしなかったが、やや思案顔になった。
「何にしたって、高くつくよ。知らないけどさ」
「フフン? カネならあるぜ。いくら欲しい?」
「……言ってみたいようで言いたくないわー」
 紅茶を飲み終えたら、ワイヨールが付き合ってくれるという。少し興味があるらしい。

 しかし、細工店を探し出すのは骨が折れた。メモに描かれた地図だから詳細でない、というのもあるが、付近で尋ねてみてもこれといった店が見当たらない。おそらく近いであろうに、聞いたがことない、見たこともない、知らない、間違いではないかと返ってくるだけだった。店主の名前を出してみても、いずれも首を傾げるばかり。同じところを何度かさまよってもいる。
 ブレロにはベルンド工房が間違えるとは思えなかった。人命優先安全第一、点呼点検指差確認のベルンド工房である。初歩的なミスをするとは考えにくい。
「子ギツネちゃんでダメなら……子豚ちゃんが教えてくれたりなんてしないかな」
「何言ってるんだ。どうやって聞き出す?」
「まずは空に向かって投げるだろ?」
「クッソ却下」
 ともあれ、昼飯時までには見つけたいという意見は一致している。工房の雰囲気の店がないか様子をうかがうしかなかった。
「看板くらい出てそうなものだけどな」
「出してないんだよ、たぶん」
「儲かる気がないのか」
「そうではないのかもね。……新しく作ったほうが早いんじゃない?」
「適当に言ってるんじゃないだろうな」
「ならコインを投げて決めよう」
 ワイヨールが右と左を指さした。道が二手に分かれている。右手は石畳の隙間に桃色の小さな花が今を盛りと咲き誇っている道。左手はゆるい登りの道で、建物の壁に沿って派手なオレンジ色の花が景色を彩っていた。丘陵にあるタルシスらしい風景が続いている。
 どちらも細工屋の気配はしなかった道だ――ブレロは渋い顔をしたが、ポケットから一枚の金貨を取り出した。
「よく出すね、こんなところで」
「子豚の代理人だ」
 ブレロはコインを弾き飛ばして、手の甲に受け止める。
「裏なら左」
 果たしてブレロが手を開くと、そこには右側の宣託が降りていた。金貨の表がきらりと輝く。
「うーん、ないよきっと」
「いいから子豚のお告げを信じろ!」
「あんなバカみたいな顔のブタちゃんにお告げされてもなぁ」
「好きでついてきておいて、勝手なことばっかり言うんじゃない」
「……それは一理ある」
 ブレロとワイヨールはあちこちを見渡しながら小さい花の咲く石畳を注意深く進む。北よりの風が吹いてきて、どこからだろうか、マツリカの花の香りがあたりを漂った。
「優雅な香りがするな」
「おや、これはかぐわしい――っくしょい! ホコリ入った。痛い、肩に響いた」
 ブレロは踵を返して鼻を利かせた。近くからのような気もするし、違うのかもしれない。豚ではないから鼻に自信があるわけもない。ワイヨールも段々迷子みたいな顔になっている。
「お腹空いてきちゃった」
「早すぎだろ」
 二十枚以上は食べていたハードビスケットは、すでに消化し尽くしたらしい。燃費の悪さが彼の数少ない欠点である。
「仕方ない。これをやるから元気出せ」
「ん、さっきの金貨じゃん」
「黄金色の菓子だぜ? 家にあったのをかっぱらってきた」
「包みが金貨のやつか。やった」
 いただきまーす、と包み紙を引っ掻こうとしたが、これがなかなか開かない。
「ちょっと、きみんとこの金貨頑固なんだけど……わっ!」
 落っことした。不器用かよ。転がっていくチョコを追いかけるワイヨールである。ま、右手だけならやむなしか――ブレロはちょっとうんざりして、もう帰ろうかな、と思いかけた。ベルンド工房にも見つからなかったと話したほうがよさそうだし、隻腕のワイヨールはだんだんポンコツになってきているし。迷宮で間違った道を教えられるのはこんな気分なのだろうか?
 そのときである。
 向こうで膝を抱えてしゃがみこんだワイヨールが、チョコを拾いかけたまま何かをじっと見上げているのに気がついた。
「どうした?」
 食べる前に汚したか何かしたのだろうか? おや可哀想に。ワイヨールは大きく目を見開いて微動だにしない。
「……見つけた。これは見つからないわけだ……」
 虚空に向かって話しかけている。迷宮の中ならまだしも、タルシスの閑静な住宅街ではやめてほしいものだ。そうでなくとも勘違いされそうなほどの痩せぎすが。
「おい、幻覚とおしゃべりするのはやめろ」
 ブレロは声をかけたが、ワイヨールは一顧だにせず何かをひったくるような動作をした。宙へ向かってすっ飛んでいったのはまさかの左腕だ。固定はどうした、痛くないのか、ていうか何をしてるのそこで。そういった言葉が脳裏に閃いた途端にがたごと、と何かが慌てるような大きい音がして、
「やめろ……離せ!」
 誰かの声が響いた。とっさに誰のものだがわからず、ブレロは振り返った。誰もいない。
「捕まえとかなきゃまた見失うもので。すいませんねえ」
 慇懃に笑うワイヨールは、そのままブレロを振り向いてちょいちょいと手招きした。『捕まえた』左手が何かに振りほどかれようとして、しかしワイヨールは固く『それ』を握りしめている。痛みなど感じないかのような振る舞いである。
「早く来ないと逃げちゃうよ」
 森の中でウサギの子でも見つけたみたいに言うので、小走りに駆け寄る。そのままワイヨールが『捕まえていない』右手を差し伸べてくるので、意味もわからぬままにその手を取った。
 すると、何かがプチンと弾けたような音がして、ブレロの前に根暗そうな目つきをした、ワイヨールよりももっとひどく痩せた、骸骨みたいな男が姿を現したではないか!
 まるで昔話に出てくる悪い術師だ。年寄りのように見えるが、目を凝らすとブレロと大差なさそうにも感じられる。ワイヨールが肩に手を乗せろと言うので、ブレロは言うとおりにした。手を離した一瞬に男の姿は霞んだが、ワイヨールに触れると像は再び男の姿を結んだ。
 ワイヨールは空いた手で丁寧にチョコレートを拾って、咥えて、両手で男を捕まえながら立ち上がる。男は何とかワイヨールから逃れようとしていたが、ブレロとついに目が合った。見つめる瞳は明らかな拒絶の色をしている。思わずたじろいだ。
「……何の用だか知らないが、俺を見つけるのに苦労するような客はいらない」
 根暗そうな男は低い声でつぶやいた。声さえ陰険な雰囲気である。
 ふと、得体の知れない男にブレロは奇妙な感覚を抱いた。同じ術師とはいえワイヨールの陽気が、いかに彼自身を人間らしく見せているかを思い知ったのだった。男の落ち窪んだ眼窩は、粘つく泥のような鬱屈とした色である。
 ブレロは負けじと食い下がった。
「だが、あんたは出てきたじゃないか。それじゃ不足なのか? 俺はあんたをずいぶん探した。話くらいは聞いても罰は当たらんだろう?」
「こいつが落とした金貨が俺に当たっていなければ、お前たちは一生ここでさまよっていただろう。偶然で話を聞くほど俺は安売りしてない」
「偶然も結果のうちだ。金は払う」
「二度とないものは所詮偶然だ。金にも困ってない。俺は正しくやってきた客しか相手にせん。引き取ってもらおうか、時間が惜しい」
 にべもない。迷宮の魔物のほうが遥かにいい相談相手ではないか。あいつらは殴ればいつかわかってくれるが、根暗そうな術師は断固として話を聞く気がなさそうだ。
 が、ワイヨールはもっと話を聞く気がなかったらしい。彼は斜にくわえたチョコレートを割り、
「まあまあ、そんなつれないことを言わずに」
 いつもの調子でにこりと笑い、チョコレートのひとかけをブレロによこし、ひとかけを自分の口に含み、もうひとかけは、凄まじい勢いで男の喉奥にまで突っ込んだ! 反射的に飲み込んでしまったそれを男は何とか吐き出そうとしたが、もうすでに遅い。
「ごめんなさいねえ。でもそう邪険にされちゃあ、どうしてもねぇ」
 ワイヨールは涼しい顔をして唾液にまみれた手をハンカチで拭いはじめる。彼はすでに男に触れていなかった。そこでようやくブレロは気がついて、渡されたチョコレートを口に放り込む。ワイヨールに触れなくても、男の姿は当然そこにあった。
 勝負は一瞬にして決着したのだった。あんな一欠のチョコレートで。
「偶然が二度となくても結構。でも私の術を食べたなら、話を聞いてほしいね?」
 まさに迷宮の魔物相手みたいな顔をして、ワイヨールは脅迫した。この武闘派印術師はまったく容赦がない。

 男は二人を店の中に招かざるを得なかった。チョコレートに刻まれた印のために、嫌だとはどうしても言えなかったのである。拒否させぬとはまた空恐ろしい術が存在しているものだ。ブレロは密かに息を呑んだ。
 店はほとんど工房のようで、作業台には作りかけの何かが雑然と置いてある。壁面一杯を占める百味箪笥やぎっしり本の詰められた本棚、天秤や顕微鏡やら、なにやら薬局のようにも見え、細工屋といった雰囲気は見当たらない――しかし、狭い店の中は、濃密な金属の臭いがした。そして入れかけたであろうマツリカの茶が、奥で湯気を立てている。ブレロの嗅いだ香りはこれだったらしい。
「さっさと要件を言え。できんものはお断りだがな」
 二人は席につき、術師がテーブルの上のごちゃごちゃとしたがらくたを腕で押しのけた。ブレロが金の子豚を差し出すと、術師は何も問わぬまま、子豚とブレロの間に粘つく視線を往復させた。
「金貨十枚と血を一皿よこせ」
「……血?」
 ブレロの首筋に嫌な感覚が走った。隣のワイヨールは忌々しげに溜め息をし、足を組んだ。
「金と真鍮を使う。足りないものは自分で賄え」
 言うだけ言って術師は席を立ち、百味箪笥の引き出しを選んでは取り出しにかかる。どうやら事は始まりかけているらしい。
「断るならすぐだよ」
 ワイヨールはブレロの耳元で警告した。珍しく険しい顔をしている。
「……よくない部類のだ」
「俺を何と言ってもかまわんが、」
 しかし術師は聞き逃さなかった。早々に何かを集め終えてこちらを振り返る。
「この店は繁盛している。そこのちんけな印術師よりかは遥かに才能があるんでな」
「そいつはいいな。街中で大きな店を構えるといい、もっと儲かるぞ」
 ブレロは言い返してやった。だが、
「そのときにはタルシス中が血と怨嗟にまみれるだろうよ」
 術師は小皿と剃刀の刃をブレロの前に突き出し、乱杭歯の邪悪な微笑みを浮かべた――ブレロはようやく男の正体を知り、隣ではワイヨールが口を尖らせる。
「ちんけなルーンを食べさせてすいませんねえ」
 程度が低い分だけ、ワイヨールの文句のほうがよっぽどましだった。術師は知らぬ顔をして正方形の紙にコンパスとインクで円をいくつか作り、定規で線を引き図形を作り、さらに何か得体の知れない呪言を書き始めた。
「きみの親友として忠告するよ。断るならここで最後だ」
 ワイヨールは今度ははっきりと口にしたが、ブレロは痩せ我慢の引きつり笑顔で答えた。
「これが苦しみの最後になるなら万歳ものだぜ」
「真実きみの選択ならば尊重する」
 ワイヨールの溜め息と同時に、目の前の新品の剃刀の刃をつまみ取ったが、ふと、
「……どこを切ったらいいんだろう……」
「カッコ悪ッ」
 つい妙なことをつぶやいてしまい、尻込みしているのがバレた。ワイヨールに呆れられた。
 かたわらで、金の子豚が背中をへこませながらも笑っている。道化の顔みたいにと頼んだ金の子豚である。ステッキと連結して握りこむためのパーツだ。
 ブレロは右手の柔らかい部分を判別して一息に刃で切り裂きめりこませた。小指から連なる脂肪と筋肉に覆われた部分、大した神経も太い血管もないように見える箇所へ――鋭い痛みが一瞬遅れて現れ、剃刀と皮膚の間から血が玉のように膨れて溢れていく。ブレロはそこまでで耐えかね目を背けた。
「……小皿一杯ってどれくらい……!?」
 傷口は拍動に合わせて熱くなり、さらにはボタボタと血の落ちる感覚があるが、もはや自ら確認する勇気も出ない。傷つけられた痛みとは別種の痛みだ。見るのが恐ろしく、全身が硬直して息が荒くなっていく。
「……全ッ然まだ頑張れってレベル……!」
 隣のワイヨールさえも縮んだ声になっている。見ているほうも痛いだろう。まして自ら傷つけたとなると――嫌な頼みをした。
 ブレロは、術師がペンを走らせている音に必死で耳を傾けていた。刃を押しつけている間、他にできることが何もなかったからだ。
 たぶん、思ったほどの時間はかからなかっただろう。待っていたほどには経っていないはずだ。だが、術師の一言はブレロにもワイヨールにも待ち遠しいものだった。
「もういらん」
 反射的に剃刀を引き抜いて小皿の中に投げ落とす。はっと息が溢れて、ついでに傷口からも血が溢れ出した。傷を塞ぐものが抜かれたからだ――当たり前のことに、ブレロは呻いた。とんでもない徒労を働いたような気にさせられた。
 術師は小皿と引き換えにガーゼと包帯をよこした。ブレロは直ちに止血にかかり、術師はピンセットで剃刀をつまみ出してゴミ箱に捨てた。ワイヨールが目を覆って大きな息を吐き出す。
「金貨十枚で済むなら安いものだ」
 小皿を揺らす術師があまりにも意地の悪い声でささやくので、ブレロはとうとう頭にきた。その口振りは、痛みも相まってブレロのスイッチを入れるのにはたくさんだった。ちょっとひっぱたいてやらないと気が済まない。
「おい、十枚出すとは言ってねえなあ」
「何?」
「金には困ってないんだったよな? いっそ五枚にしたらいい、素晴らしい」
「バカな話だ」
「おっと、それで困るなら六枚でいいぜ」
「……九枚」
 ムッとした声で術師が口に出す。はん、かかったなドさんぴん。バカはお前だ。
「いや、七だね」
「九だ。これ以上は負からん」
 術師は苛立っている。ああどうしよう、心の高笑いが止まらない!
「じゃあ間を取って八にしようか。これ以上は持ってないんでな」
 言うが早いがさっさとポケットの金貨を取り出して広げてみせる。真新しく輝く金貨がぴったり八枚、揃っていた。
 術師は舌打ちして子豚を引っ掴み、奇怪な文字のうねくる円陣の中央に置いた。続いて何かの金属塊を二つと金貨を三枚、しかじかの場所に置き、それらを一縷の血で結び、残った血を金属と同じように、円陣の内側に置いた。
 術師のぶつぶつと聞き取れない呪文と必要らしい操作があり、いくつもの指輪をはめた枯れ枝のような指が、円陣の隅にひたりと触れた。
 すると強烈な目眩のような感覚に襲われて、上体の力がたちまち奪われて視界が怪しくなり、頭の中に手を突っ込まれ、掻き混ぜられて乱暴に引き抜かれた。ブレロの頭が勢い机に叩きつけられ――そうになったところで彼は我に返った。右手の傷を圧迫したまま、ぼんやりと椅子に腰かけたままである。隣のワイヨールが気遣わし気な顔でブレロを覗き込み、術師は変わらず陰鬱そうな表情のままこちらを見ている。
 すっかり空になった円陣の上で、傷一つない子豚が往時の姿を完璧に取り戻して、にこにこと笑っていた――すべては終わったらしかった。