ギノロットの最後の咆哮 3

 次に目覚めたときは、死にたいほどの思いはしなかった。むしろ穏やかな目覚めだったが、ただ体が冷たくて、くらくらした。
 ギノロットは思うさま息を吸って吐いた。炎と雷で空気の焦がされた臭いがした――こうして生きているということは、守護者の自爆を免れたに違いないと、ひとまず安心する。と、生きている証に、全身がひどく痛かった。
 恐る恐る目蓋を開けてみると、レリッシュが心配そうに見つめていた。奇跡的に傷一つ負っていないレリッシュは、だがどうしてか痛そうな顔をしている。
「苦しいところはないですか。たくさん薬を使いましたよ」
 痛みで億劫で、ギノロットは何も言わずに首を振る。周囲を確かめようとして、もう今日で何度目になるのか上半身を起こそうとすると、これは三度目だと分かる優しいレリッシュの腕がギノロットを手伝ってくれた。
「あの。ギノさんの首飾りが見当たらないんです」
「え?」
 言われて首元に触れると、そこにあると思っていたものがない。ただ自分の首元だけである。
「……どこだ」
 ギノロットはのそりと立ち上がった。急に動いたらまた目眩に襲われそうだ――あたりをそろそろと見てみるが、それらしきものは見当たらない。物陰に隠れているのだろうか。そう思って歩きだそうとすると、おい、と声がかけられる。
「どうした、怪我人。何かあったのかい」
 とぼけたふうの声色は、見慣れた胡乱なローゲルだった。籠手を外していくらか身軽な彼は、ギノロットに近づいてくる。
「……なくした。サメの歯の首飾りを」
「そんなものつけてたのか? ちょっと意外だな」
「――人にもらった」
「へえ? それは誰に」
 興味あるなあ、とにやにやしてみせる。詮索されたくないギノロットが仕方なげに肩をすくめた。
「あんたのモンと、たぶん似てる」
 ローゲルの目がふと揺れ、すぐに真顔になった。話の分かるやつだとギノロットはほっとした。
 ギノロットが守護者の体のほうへ回り込もうと進み出すと、レリッシュの軽い足音も同時についてくる。来て当然といった顔をしていた。それはそうかもしれない、捜し物があると聞けば彼女は手伝ってくれる性格だ。
 だが、彼はあの首飾りを人に触れられたくなかった。わざわざ首を突っ込まないでほしかった。
「お前はいーよ。休んでな」
「でも……」
「いーんだよ」
 お前の出る幕じゃない、と本当は言いたかったが、寸でのところで止まり、ひやりとなる。
 レリッシュはもの言いたげにじっと探るような目をしていたが、やがて諦めた。あちらで平身低頭するワイヨールと、疲れきったモモを抱いてむっつりしているブレロの元へと向かう――ギノロットはこっそりと溜め息をつき、きびすを返した。
 ギノロットは守護者の足元を覗いた。白い床と白い装甲に紛れて見つからないかもしれない。まるで金の砂粒でも探すような気持ちがした。もし潰されていたらという嫌な予感も走った。
 焦燥に煽られながら右腕のほうに行ってみると、先んじたローゲルがぎゃっと声を上げた。断ち切られた腕と拳の中に刀が落ちていて、ギノロットの血が大量に流れていた。あまりに凄惨な光景に無理もなかった。怪我が嫌で防御を捨てないギノロットには、何度見ても肝が冷える。
「ここにあったら悲惨だなあ……ちょっと見つけたくなくなっちゃうよ」
 ぶつくさ言いながらも探すローゲルとともに、あちこちを覗き込んでみるが、首飾りはやはり見つからない。
 ギノロットが諦めかけたとき「やっほー」とどこか憔悴した声が、空っぽになった守護者の首のほうから飛んできた。
「物探しの印術はいかがっすかぁ。お安くしときますよ」
 守護者の体に顎を載せ、疲労の色濃いワイヨールである。ひらひらと右手を振ってみせ、ちょっとの笑いを浮かべた。ローゲルはおいおい、と呆れ顔になった。
「君、動いて平気なのか?」
「肩以外は怪我もないしね。物探しくらいお茶の子さいさいよ」
「痩せ我慢してんじゃねーだろーな」
「まさか。すぐだから、まあ遠慮しなさんな」
 ワイヨールは踵を返して右腕のほうに寄ってくる。怪我をかばっているためにその歩みは決して早くはないが、かと言って大義そうでもなかった。
 やがて来たワイヨールは、ローゲルと同じように露骨に顔をしかめてみせる。
「きみときたら、よく生きてたなあ」
「俺もそー思うわ……」
 ギノロットが答えると、ワイヨールは何か思わしげに少しの間沈黙し、そして口を開いた。
「本当なら、ちょっとよくない方法を取るよ――あるのはあるんだし、引っ込むわけでなし、インクと思ってちょっぴり拝借させてくれ。内緒だよ」
 ワイヨールは血を指に取った。慣れた手つきで何かの模様と、いくつかのルーンを石畳の上に書いていく。ギノロットに意味は分からなかったが、一方でローゲルは興味深そうに文字列を見ている。
「本職はやっぱり手早いもんだな」
「私のは結構独自解釈だから、きっと参考にはならないよ。……ところであなたがたの砲剣も何かの術なんでしょ。そっちのほうが面白そうだね」
 ワイヨールは喋りながら器用に呪文の円を描いた。
「だろっ? でも十年使わないでいたら仕組み忘れちゃっててさ……体が覚えてる通りにしか使えないんだ、コレが」
「面倒そうな見た目してるものなあ、その武器」
「けれど君の役に立つ技術がいくつかあるぜ。何なら教えてやろうか?」
「おや、それは気になるからぜひ後ほど。……さてギノ、探してるそれ、端的に言うと何?」
「……形見」
「ふむ――ありがとう、書きやすいよ。覿面に効く言葉だ」
 ワイヨールは最後の言葉をルーンで刻み、記した場所を軽く叩いて何かをささやいた。刻まれたルーンと文様が時計回りにぽっと光って、溶けるように消えた。すると、ギノロットは背後に気配を感じた。頭の後ろがざわつく。
 気配というのもおかしいだろうか。どちらかと言えば確信に近い。きっと壁際のほうだ。この場から気配を目で探れる。それくらい強く感じられる――そこにお前がいる・・・・・。白い石畳の中で赤と青の色彩が輝いて見えた気がして、ギノロットはそちらを目指して走り出し、目指したところにそれはあった。
 だが、ギノロットの見知った姿とは一切違っていた。少し覚悟はしていたが、出来合いの覚悟など知れていた。大の男が気を失うほどの炎に焼かれて、たかが首飾りが無事なわけがなかった。手に取ってみて、言葉が見つからなかった。大切にしていた三つの飾り石が、見る影もなくなっていた。
 ガラスも珊瑚も真珠も、融けるほど燃やされて、一塊となるまでに焼き尽くされていた。無事と言えたのは唯一、煤にまみれたサメの歯だけだ。わずかに残されたガラスビーズのかけらも、泡立ち沸騰して、黒く変色していた。触れてみた指先は煤けて真っ黒になった。
 故郷で作られた青いガラスと、海で眠っていた赤い珊瑚と、真っ白い真珠。まめに手入れをしていなければ、長い放浪の中で汚れきってとっくに捨てていたような代物だ。懐かしい故郷の匂いのする、美しかった姿が死んでいた。
 かたわらから覗き込むローゲルは、顔を歪めて何も言わない。遅れて来たワイヨールも無残な首飾りに気がついて、悲しそうな声をした。
「……見つけないほうがよかったかな」
 ギノロットは返事に詰まった。いずれ捨てて当たり前のものを、まるで縋るように延命して繋いできたものだ。だって他には何も代わりがなかったから。何もこの手に残らなかったから。すべては海にさらわれていった、夢や希望や未来や、愛や優しさや温もりとかいう、人間らしいものをすべて。
 それでまた、奪われたというのか――世界樹の楽園なんて結局は幻想だったのに!
 一日のうちにたくさんのことが起きすぎた。何度も命の危機に見舞われ、一日の間にいろんなことが嵐のように、怒涛のように、どうしていつもこんなに何もかもいっぺんに押しつけてくるのだろう。あまりにも大量に詰め込まれすぎて、泣きたくても涙さえ出てこない。かすれた喉がただ震えた。
 体がどんどん固くなり四肢の感覚が奪われそうで、サメの歯を握り締めると手の中で溶け残った塊が硬い音を立て、割れていく。ただ焦げた臭いが鼻を突くだけだった。固く閉ざされた指が胸に冷たいだけだった。
 また、奪われた。何かが限界に達して神経が擦り切れていく。喉に鉛が詰め込まれていき、頭が早鐘のごとく痛みだす――また、奪われた!
 いつか感じたものが一息に去来して、胸が締めつけられて目眩がし、ギノロットは耐え切れず膝をついた。固く打つ冷たい大粒の雨、夕闇の中で叩き下ろされた揺らぎと轟音の一撃、背中に突如浴びせられた巨岩のようなその一波、意識が大波にさらわれながらも耳に届いた助けを求めるあの悲鳴が、彼女の最期の言葉だ。それからは一瞬だった。砂と石と流木と人の生活だったあらゆる芥が彼の全身を激しく叩き、すぐに息ができなくなって水を飲み、水面に上がろうと手を伸ばそうとしても、痛みで指さえ動かない。俺はどこへ行くんだろう。俺は何をしたんだろう。お前は今どこにいる?
「おいギノ? 本当に大丈夫か? 真っ青だぞ」
 言われてそれで我に返った。ここは木偶ノ文庫だ、あの日の海でも何でもない――だが無駄だった。白い石畳は恐るべき記憶によってすぐに白い砂浜に置換された。必死に何か言おうとしても、心が麻痺して舌に乗らず、あとはすべて胸と喉に引っかかって胃に突き刺さり、心臓から血へ流れ込んで全身を引き裂いた。耳の奥で何かがわんわんと鳴り、まるで死体にたかる蝿の飛ぶ音のように鬱陶しかった。異臭は鼻を突いた。放っておいてほしい、ただひたすらに何もないところへ逃げ出して、放っておいてほしい。俺に何も感じさせないでくれ、お願いだ、もう一度。でも今度はそんな気力さえ、あの炎が奪い取った。
 この体には、もう何にも残されていない。なんにも。あんなに必死になって戦って、守って、死にかけても生き抜いて、それなのに何も残らなかった、こんな茶番が俺に与えられた最後のものなのか。俺が手にできる唯一のものなのか。
「俺は、何のために……」
 ただ荒い呼吸だけを繰り返した。寄せて返す波のように無意識に繰り返される呼吸だった。右手がそろそろと首に伸びた。確かめると、確かにそこにはあった。首飾りだけが手に当たり、目の前には何もなく、なぜ俺はここにいるんだろう。なぜあのとき死んでいなかったんだろう。
 記憶と後悔がもう一度絵のような鮮やかさで黄泉から舞い戻る。どこにしまってあったか分からない音と臭いと痛みとが沸き起こり、舌に久しい潮の味がした。海は彼以外のすべてを一夜の熱狂の土産に持ち去った。振り向いても興奮の残滓が、跡形もなく殴られた岸壁を洗うだけ。
 いいや、たった一つだけ残っていた。近くの岩礁に引っかかって五体満足な自分自身が。全身の傷を潮風と灼熱の太陽に炙られて目覚めたのだ。一度上がってみたいと話しながらも、あまりにも切り立って手足を掛けるところがなく、村の誰もが諦めていた岩の上に、ただ一人ギノロットが転がっていたから。

 そうして気がついたら鏡の中に少し違う容貌の自分がいた。いつの間に自分が海を離れて異国語を覚え、旅の中にいたのかはよく知らない。記憶が定かでない。

 やがてワイヨールが膝をついて、「貸してみて」と言った。それを聞いたギノロットの体は大きく身震いした。突然視界が切り替わって、精神が体の中に押し込められた。
「どうしてもというのなら――得意ではないけど、上っ面だけなら」
「本当か!?」
「静かに。あっちに聞かれたくない」
 声を上げたのはローゲルで、今やギノロットの喉は、固く閉じられてただ肺としか繋がっていなかった。何を語るすべも持たない。
 ワイヨールは一瞬ブレロたちに目線を飛ばし、彼らの注意がこちらにないことを確認した。その表情を見れば彼がどんな種類の印術を用いようというのか、何となく察せられる。
「あれだけのきみの血があれば、表面上は同じになる。でも保証はできないし、あるいはこのままのほうがいい。一度なくしたものは、何であろうと戻らない」
 だがギノロットは迷わなかった。いやそうではなく、迷いたくなかった。ただ黙って消し炭になったものをワイヨールに託した。そうする他ない自分がここにいた。これ以上どこへもさまよえない魂が縋るものを求めた。迷える自分を知りたくなかった。そういう自分がどんな姿をしているのかも知りたくない。
「ギノロット。できるものは贋作、偽物だからね。私にできるのは上辺だけだ。蘇るものは何もない。たぶんきみは苦しむと思う……それは覚悟して」
 ワイヨールは痛むはずの左手で、焼き焦がされたそれを取り上げ、血溜まりの中に置いた。
 ワイヨールは作業を左手で終始行った。円と楕円と弧と直線で見たこともないほど複雑な陣を引き、ルーンが次々と描かれ、それとともに彼の指は血で汚れていく。だが、彼はそれを厭う様子はなかった。完成するころには、ワイヨールの額にはうっすらと脂汗が浮いていた。痛みを堪えているのは明らかだった。
 そして刻まれたものは、一種の呪いに限りなく近いものだとすぐに分かった。首飾りを見つけたときとは比較にならない、身の毛のよだつ言葉が自らの血で刻まれているとひと目で理解し、ギノロットは咄嗟にそれを踏み消したい衝動に駆られた。あまりにも禍々しい陣が描かれている。ワイヨールがそれを蓄えていたという事実にさえ不快を感じた。
「――いいかい、ギノ。最後の警告だ。私は紛いものを作り上げる。中は空、失われたままだ。きみはやめていい」
「……頼む」
 今のギノロットは他に言える言葉がない。たとえ偽物であっても、失われるよりは――俺にはまだ、それが必要なんだ。その形が。永遠を誓ったものが。失われた魂の半分が。あいつを返してくれ、俺のところに!
「ならば全力を尽くすよ」
 ワイヨールは読み取りがたい表情を見せ、射干玉色の瞳を閉じた。左指を血溜まりに漬け、右指は唇に、そして首に、胸に、何らかのルーンを素早く刻みつけ唱える。すると、血で描かれたすべてが突然沸騰した。

 ギノロットの背後で凄まじい濁流の音がする。濃い霧が立ち込め、立ち尽くしている足元が角のついたいくつもの石に変わっていて、遠くでかすかに見えるのは何が棲んでいるのか分からない昏いところだった。ローゲルとワイヨールの気配はどこにもなく、ただ張り詰めた空気に満ちている。凄まじい風がぶつかってきてまともに息もできない。ギノロットはただ顔を背けた。
 そして全身に鳥肌が立った。背中合わせに誰かが立っていたからだ。いつの間に立たれたのか何も分からない。すべてが理解の範疇を超えている。
 背中越しに黒い衣服が暴風に煽られてはためいているのを知った。突然現れた者の正体を確かめようにも、金縛りに遭ったように指一本動かすことができない。まばたきさえもはばかられる。動くことを許されていないと気がついた。
「まったく――自分で自分が愚かだよなあ、ギノロット?」
 それは自分の声だった。どこか深くから響くその声はまるで地鳴りめいて聞こえ、明らかな怒りと失望と嘲笑で彩られていた。ぞっとした。
 背後でゆっくり振り返る衣擦れの気配の後、ギノロットの背中は強く突き飛ばされて、よろけた拍子に空間が風船のように弾け喉が引き攣れる音を出した。

 止まっていた彼の呼吸は再開した。
「……ギノ?」
 声をかけられて、跪いたギノロットははっとなる。目を凝らすとそこには戸惑う表情のワイヨールがたたずみ、ギノロットは自分の体を取り戻していた。きちんと動く自分の体があった。
 ギノロットの手の中にはあのサメの歯の首飾りが、静かに光っていた。青いガラスビーズ、赤い珊瑚石、白い真珠、そして再生のサメの歯――焼けてしまったことなど嘘のように。
 いつの間に戻ったのだろう? あの呪詛陣さえどこかに消え、ギノロットは何か起きたのか分かっていなかった。ただ止まっていた呼吸を取り戻したことだけが、ギノロットの中の確かな現実だった。先ほどのあの場所、そして目の前の傷一つない首飾り――確実に何か繋がりがあるはずなのに、探ろうとしても何かが出てくることはない。そして何より思い出そうとすると恐ろしい不快感で怖気が走る。
「……私は大切な人を亡くしたことはないから、安易なことは言わないよ」
 ワイヨールは珍しく言葉を選ぶようにそう言って、首飾りに目を落とした。
「でもね。こんな姿でも、いずれきみが道を見つければいいと、私はそう願っているから」
 いささか混乱しながら、ギノロットはとりあえず頷いた。何も分かってなどいない。
 手の中にはただ首飾りが、見慣れた姿のまま静かにあった。ギノロットは安堵の吐息を漏らす。よかった――そう思って握りしめようとしたとき、異変は起きた。
 ふと違和感に気がついたのだった。
 何がどう違うのか、的確な表現はどこにもなかった。でもひとつ確実に言えるなら、そこには空虚があった。
 味気なかった。ないものを捕まえようとして必死に暗闇を覗き込む自分がいた。砂のような何かが目一杯詰め込まれている自分だ。愚鈍な顔の我が目と目が合い、彼は思わず冷たい笑いを零した。
 色も形もそっくりでも、中に見えるものが全然違った。そこには昨日までにあったぬくもりを見い出すことが一切できない。すっぽりと抜け落ちたように、どこにも見つからない。
 これはかつて受け取った首飾りではない。瓜二つなだけの赤の他人。ほとんど何の関係もない、ただの何かだ。
 ギノロットはゆっくりと立った。
 なら、あいつがくれたものは、一体どこに行ったんだろう。こんなに同じ形をしているのに、ここに確かにあったものは、一体どこへ。
 必死に探ってみれば見つかるかもしれない。だが見つけるまでにとてつもない労力を裂くことは想像に難くなかった。何度も何度も自分を引き裂き、薄れかけて変形しきったほんのひとかけをやっと見つける代わりに、自分の形をなくすのだ。
 やめてくれという反駁が、すぐに自分の中から返ってきた。なぜなら彼はまだ死にたくなかった。殺さないでくれという悲鳴が起こった。俺はまだ生きている!
 だってギノロット、今朝目を覚ましたとき、本当にここにあったと言えるのか? 今あるものは自分の体と、心と、旅の仲間。生死をかけた戦いと、他に何がある? 俺はまだここで生きている。でも、なあギノロット、分かっているだろ。だってあいつは死んだんだよ。そして今度こそ死んだんだ・・・・・・・・・
 今まで見えていたはずのもの、縋っていたはずのものが、本当にこの中にあったのか疑わしくなる空虚だった。
 思い出は確かに手の中で首飾りの形をしていた。それでも、どうしようもなく失われている。もしもそれが熱だと思っていたのなら、あやまちだ。それはただの影、あやふやにした自分の形、自力で作ったよく似た何か。記憶を閉じて曖昧にして、最後にその死を信じようとしていなかっただけだ。過ぎ去って失われたものを剥がしては貼りつけてを繰り返し、ねじって書き換え、しかし本当はすでに奪われているではないか。
 すべてが虚像だ。
 ワイヨールにかけられた言葉の意味が、ギノロットの中でやっと組み合わさる。己の血で作られた首飾り、その中に、たった一人のひとがいない。この世でもっとも愛しい人の姿が。
 ギノロットは真実を知り、そして今さら愕然となった。
 彼女は死んだ。海に飲まれて。炎に巻かれて。もう二度と、会うことはできない。