ギノロットの最後の咆哮 2

 竜の巣が作れそうなほどに巨大な大広間に、見上げるほどの一塊が落下してきたときから、決戦が熾烈を極めることは明白だった。それが四肢で這うような姿からゆっくりと二足で立ち上がると、ギノロットはかすかな絶望を感じた。盾なんてあろうとなかろうと同じだった。
 説得するローゲルに追い詰められて皇子バルドゥールが半狂乱で喚んだそれは、人間を遥かに上回っていた。小山のような胴体から生える両腕は、ねじくれた大木のように歪に太い。常軌を逸した機械であることはその異様な姿が物語っている。頭部と腰部と左手首を威嚇のようにひとつ素早く回転させると、凄まじい勢いにつむじ風さえ巻き起こる。
「何このデッカイお人形?」
 ワイヨールの左手のロッドに輝いたルーンが散り爆ぜ、纏うローブが舞い踊り始める。ローゲルは呻くような声で警告を発した。
「この迷宮の古代機械だ。俺たちは『揺籃の守護者』と呼んでる」
 彼は肩に担いだ砲剣を振り下ろし、駆動させた。
「三属性を自在に変えてくる! 手間取るぞ」
 絵本の化物のような冗談めいたその顔は、出来損ないのさいころみたいな四角い頭部に四つの顔を持っていた。黒い顔、赤い顔、青い顔、黄色い顔――それぞれが意味するものは明らかだ。
「呆れたなあ、自在にね? いいさ。こちとらだって三色随時即対応だ!」
 言いかけたところで小山はワイヨールめがけて大きく腕を振りかぶる。すぐさま反応したブレロがワイヨールを突き飛ばし、二人は大きく転倒した。ワイヨールの手からロッドがこぼれ落ち、ぱすんという音を立ててルーンの光は立ち消えた。ワイヨールの顔から好奇の色が消え失せる。
「言ってる場合じゃなさそうね」
 ワイヨールは転倒でぶつけた左肩を押さえながら、落ちたロッドを拾いに走り出す。立ち上がるブレロは揺籃の守護者を油断なく睨みつけ、盾を構えた。守護者は鈍重な動きで体勢を立て直している。
 動きの鈍さをいち早く理解したギノロットは足元に滑り込み剣を叩き込む。しかし刃は火花を散らして強く弾かれた。白い装甲にはかすかに黒い跡がついて凹んだだけだ。ギノロットは思わず驚愕の声を上げ、見逃さなかったブレロの指示が飛ぶ。
「――全員散開! モモ、俺と来い!」
 そのよく通る低音にレリッシュとワイヨールがさっと散り、剣士二人は駆け出した。ブレロが残ったモモの体を盾の後ろにしっかと隠す。
 剣士たちは守護者の前に躍り出て得物を構える。ローゲルが砲剣を、ギノロットが左手の剣をかざし、右手で刀を抜き放つ――凛とした刀身が滑り出す音は、ギノロットの精神を澄ませるようでもあった。だがこの巨躯の前に、柔らかい刀でどう立ち向かえばいいのだろう。
 二人は巨体を前に攻めあぐねた。唸りを上げる拳をかわしてその動きを観察していたが、やがて真剣な顔をしたローゲルが、溜め息混じりの声でぼやき出した。
「まったく、どうしたもんかね?」
「俺がそれを聞きてーよ」
 懐かしさにつられて、ギノロットの口からはついつい情けない声が出る。
「君、時間はどれくらい稼げそうだ?」
 その質問は一番答えたくない。ギノロットは自然と苦虫を噛み潰した顔になり、
「正直、全然無理」
「うわぁ。無理もないが、困ったな……」
「困ったなって。そんならアンタはどーすんだ」
「俺は隙を見て砲撃する。俺の剣は数を打っても無駄だ」
「いーな、奥の手……あるやつは!」
 振り下ろされる腕をかわし、ギノロットは叫ぶ。あの砲撃ならきっと守護者の装甲にも歯が立つに違いない。
「ソードマンなら別の手打てるだろ? リンク使えるじゃないか。三色どれでも、サクサク撃ち込め!」
「……リンク」
 ギノロットが言い淀むと、ローゲルはうん? と動きを止めた。
「……まさかとは思うけど……君、ソードマンだろ?」
 ローゲルに横目で睨まれて、ギノロットは居心地が悪くなった。そう、そのまさかだ……思わず目が逸れる。
「ごめん、苦手。ホント一番苦手、苦しー」
「え、この期に及んで!? はあ!? 今まで何やってたんだ!? ギルド長に叱られろ!」
「ホントごめんってば!」
「――こういう時はっ、」
 かわしきれないローゲルの砲剣が守護者の拳とまともにかち合い、
「『本当に申し訳ありません』って、言えぇー!」
 分厚い刃と硬質の拳は互いに弾き返されローゲルは数歩後退る。彼の渾身の力を以てしても、拳にはひび一つ入らない! 逆に砲剣が折れてしまいそうだ。ローゲルは痺れた手を振る再び剣を握り直す。たった一撃を加えただけで、ローゲルは肩で息をしていた。
「ちょっとやってみろよ。見せてみろ、様子を知りたい」
「今!?」
「今やらないでいつやるんだ! 使えるリンクを何でも当ててけ、ばかギノ!」
 ローゲルの怒声で言い訳を飲み込み、ギノロットはおとなしく従った。
 納刀し剣を左手から持ち替える。意識を集中すれば剣が何かの反応を示すのが分かった――ベルンド工房ならソードマンの剣に感応する印を記してもらえる――ワイヨールのロッドほど派手にはならないが、まるで水を吸い取っていくかのように、剣が手元から切っ先に向かってジワリと赤い光をまとい始める。
 ギノロットはその感触が嫌いだった。生気をもぎ取られるような思いがして、まったく好きにはなれなかった。冒険者を始めたばかりのころはもっとひどい疲労感があって、最近ようやく少しはやってもいい程度になったが、とてもまだ使える技とは思えない。本当にソードマンは全員これに耐えているのだろうか。
 手の中の剣が低く呻いて、ギノロットは疾駆する。鈍い動きの守護者の股下を素早く滑り抜け、振り向きざま左膝裏の関節に刃を強く振り払う。剣の光は薄衣がごとき炎となって守護者の全身を舐め上げ、拍子に守護者は大きく身じろぎした。
 ギノロットが慌てて横に逃れると、逃れたばかりの膝裏で、身を低くしたローゲルが砲剣を振り抜いた。ギノロットの残したリンクが発作的に反応し、炎の衣は燃え広がって守護者の装甲を焼き、守護者はよろめいて両手をつく。
 そして瞬く間に白く方陣が広がる。竜の大広間をいっぱいに覆い尽くすほどの、見たこともないほど巨大な方陣は、完全に揺籃の守護者を範囲内に捉えた。さらに地面から地脈が沸き起こり、ギノロット達の疲労を拭い去ろうと伝い上がり、ブレロを絡めたあの蔦が巨体を縛り上げる――という期待を抱いたギノロットだが、しかし方陣の術は発動しない。なぜ――ギノロットはモモを見た。だがモモは横に首を振った。何事か言おうとし、地面を指さす。見れば地脈の光がいつもよりもずっと薄い。
 思えば方陣の発動が遅すぎた。ブレロの影から現れ出るモモが、一層高く杖を振りかざす。地脈は呼応し、かすかに震えてわずかに湧いた。しかしまだ足りない……いつものモモの方陣ではない。
 守護者はすでに起き上がろうとして、チャンスはふいになる。
「大地が枯れているから……?」
 ローゲルが独り言のようにつぶやく。
「この地では地脈も枯れているというのか」
「――違う! つまんねーこと言うな!」
 諦念の色さえあるその声を、ギノロットは断固としてさえぎった。剣を持つ手に力が入り、再び剣が低く唸る。モモの努力を無駄にしてなるものかと、ギノロットはもう一度刃を赤く染める。
「あいつがデカすぎて、俺たちも広がりすぎてる。届かないだけだ! 俺は走る。もっかいリンク切ってくれ、頼む!」
 言い残してギノロットは反対側の腕へと走り出す。守護者を撹乱して、何とかこいつを倒さなくては!
 守護者はもはや完全に体を起こしていた。そしてその首が、歯車の噛み合う音とからくり時計のような動きでゆっくり回り、再びがちんと音を立てた――赤いおもてが正面を向き、白い装甲に赤い円紋が浮かび上がる。ギノロットは舌打ちした。剣に宿った呻きを振り払い、ギノロットはもう一度光を呼び起こす。剣は小さな嗚咽の音を立てて冷たく青ざめていく。
「聖印刻め!」
「ヘイ即対応、氷の聖印!」
 ブレロの号令でワイヨールの声が響き、空気の歪む感覚が背後から駆け抜け、ギノロットの呼吸が一瞬だけ白く染まった。守護者の装甲に霜が浮いていく。だが防御の『火』でなく攻撃の『氷』が放たれたのに、ギノロットは悟った。早く終われというワイヨールの焦りと無言の悲鳴を聞き、よくない兆候に奥歯を噛み締める。
 そのとき一条の矢が守護者の右肩に突き刺さり、途端に仕掛けが跳ね上がって、その関節を罠が襲って食い込み、右腕を封じ込めた。人形は罠の噛んだ腕を振るい直そうとして同じ動きを試み、罠の一片がたやすく外れた――いくらも保たない! 柄を握る手に力をこめて、ギノロットが封じられた右腕へ斬り下ろした一撃は、聖印の力を借りて手首の境目から半ばまで斬り裂き、めり込み、たちまち守護者は氷結に脅かされていく。だがそこで守護者はギノロットの想像していない動きを取った。無事な腰部を回転させ、ギノロットの剣を噛んだまま、彼を振り払ったのだ。腕に渦巻く炎を起こして!
 遠心力にさらわれる感覚と同時に視界が真紅に燃え上がり、全身を駆け巡る激痛にたまらずギノロットは叫ぼうとしたが、吸い込む空気はすべて灼熱となって喉を焦がして声にはならず、何が起きたか分からぬまま、仲間の悲鳴が遠くに聞こえた。

 次に彼が意識を取り戻したのは、誰かが彼の頬を叩いて泣き叫んでいたからだった。
 激しい苦痛と倦怠が、彼の意識をばらばらに引き裂き、もう一度どこかへさらおうとするので、彼は安んじてその誘いに乗ろうとした。何せ、いつだって勝手に朝が来て夜が来て、時と、空腹と暇を、自分の命を、孤独を、持て余しているだけなのだから。どんなに辛かろうが仕方なく足を引きずり、一歩踏み出し続けてきたのは、転べば痛い思いをするからだ。だから必死で立たなくてはいけなかった。ただそれだけの理由なのだ。そうだ、だから俺は、生きていたくて生きてるんじゃない。生きていたから、死んでいないにすぎないのだ――。
「やめて、お願い!」
 一際強く頬を叩かれ、死の渚から無理矢理引き戻されたギノロットは激しく咳き込んだ。喉から上がる空気が熱い。鼻が通らず息が苦しい。口の中はひどく血の味がする。声も出ない。皮膚はじりじりと熱を持って痛い。目が突かれたようにキリキリする。耳もうまく聞こえない。苦痛に背中が丸くなる。なのに何かを無理に口へ流し込まれ顎を閉ざされ、たまらず反射的に飲み込んだ。薬品臭が鼻を突き、飲まされたものがメディカの類であることがやっと分かった。不思議な力が全身に巡り、肺と粘膜の痛みが鎮まっていき、ついで体全体に染み通り、痛みを消し去ろうと渡ってゆく。
「しっかりしてください!」
 今にも泣きそうなその声はレリッシュだった。ギノロットの背中に手を回し、彼が起き上がろうとするのを手伝った。ギノロットの手袋は完全に焼け焦げていて、手指の皮膚は開こうとすると引き攣れた。装備のあちこちからも黒焦げの繊維が落ち、あたりには血と粘液の混じり合ったような何かが撒き散らされていた。生きているのが嘘のような光景にせせら笑いが漏れる。
「……死に損なった……」
「ひどいこと言わないで。まだ生きていて!」
 ギノロットは荒い息を繰り返し、自分の体が少しずつ取り戻されていくのをただ待った。長い時間のように思えた。どうせ大した間じゃないくせに。
 ようよう立ち上がると目眩に襲われ、レリッシュが肩を貸してくれた。ギノロットも刀を鞘ごと引き抜いて縋る。
 見回してみると、みなは何とか無事らしかった。モモをかばったブレロが肩で息をして、ワイヨールが膝に手をついて明らかに消耗している。ローゲルも砲剣を下ろしていたが何とか立っていた。方陣は失われ、モモが救命のために陣を破壊したらしかった。
「お前は、無事な?」
 問いかけると、レリッシュはまるで心細い迷子のように何度も頷く。
「ワイヨールが、わたしを」
 それを聞いて合点がいった。ワイヨールの散らしたルーンが盾になり、運良く守護者の炎を免れたのか。彼女はどこにも傷一つなかったのだ。
「……そーいや、さっきのスナイプ、あれよかった」
 痩せ我慢して笑ってやると、泣き虫のレリッシュは喉を詰まらせる。だがまだ、泣いてもらうわけにはいかない。戦いは終わっていない。
 遠くの守護者は再びからくり時計のように頭を動かし始め、赤い円紋は薄らいでいる。また属性が切り替わるのだろう。赤の面の隣が青い。右腕の戒めはとっくに解かれていたが、ギノロットの剣を手首に突き刺したままでいる。左足首は砲剣で損傷を受けて体重がうまく乗らないにも関わらず、二足の姿勢を保とうとして、元々鈍い動きがなおのこと鈍い――勝機はある。
「レリ、あの頭にもスナイプできるな?」
 目元をぬぐったレリッシュが頷くと、紅色のリボンが揺れた。
「できます」
「分かった、叩っ斬ってくる」
 レリッシュがポーチから何かの液ビンを取り出し、ギノロットに手渡してきた。メディカⅡのラベルが見える。
「お願い、ローゲルに。あの人、倒れてしまう」
「あいよ」
 言うが早いが彼は一直線に駆け出した、決意が揺らがぬうちに。体中に痛みが走って涙が出そうだ。本当、俺のほうが泣きたいよ! 足音を耳にしたワイヨールが振り向き、奇跡を見つけたみたいな顔をする。
「ギノロット! 無事なのか!?」
「お前のせーだぞ、もちっと我慢させろ!」
 喉をかすらせながら面罵して走り抜け、指笛を吹いてローゲルの注意を引く。憎々しげに守護者を睨めつけていたローゲルがはっと注目した。メディカを放り投げるとローゲルはうまく受け取った。
「ありがたい!」
「スナイパーの土産だよ」
 ローゲルはメディカの封を食い破って薬液を喉に流し込む。疲労の濃かった顔色に生気が取り戻されていく。息をつき、力のこもった目がこちらを向いた。
「彼女の名は?」
「レリッシュ。スナイパーのレリッシュ・マグメル」
「不思議で瑞々しい名前だ。覚えておかなきゃな」
 そのとき、がちんと頭上で硬いものがはまる音がした。守護者の面が青に切り替わり、石の装甲に青の円紋が浮き上がり始める。
 するとほとんど同時と言ってよいほどに、空間にさざなみが渡りギノロットの焼けた皮膚を逆撫でした。再び息が白くなり、次の一息はすぐに透明に戻る。守護者の装甲をまたも霜が覆い尽くしていく。ワイヨールが空に氷の聖印をもう一度刻んだのだ。
「俺にも好機が来たようだ」
 ローゲルは言う。
「砲撃を放つときだ。巻き込まれるなよ」
「そのうちレリッシュのスナイプが来る。使うなら使って」
「わかった。ギノ、君は?」
「俺はあの腹立つ右腕を叩っ斬る」
 刀を抜き放てば凛とした鋭い刃の音が、彼の胸を奮い立たせる。肺の空気を吐き出して強く吸い込むと、炎で空気が焼け焦げた臭いが鼻腔に蘇った。目の前がただ紅に染まっていった、あの光景が現れる。
 ――ああ、そうか、なるほど――。
 ようやく、すべてを理解できた。何をどうしたらいいのかやっと分かった。同じことをしてやったらいいんだ。俺がやられたことと、そっくり同じことを。
 あの円紋の浮く石の装甲を、今すぐずたずたにしてやらなければいけない。千切りかけの悪辣な手首ももぎ取ってやろう。その馬鹿げた首が永遠に回らないようにしてやらなくちゃだめだ。ふざけたことがもう二度とできないように、ちょっと教えをくれてやらなきゃいけない――なあ、そうだよな、ギノロット?
 彼は素早く裏側に回り込むとふらふらと体重のかからない人形の左足を狙い澄まして斬り抜いた。手のひらからあふれた憎悪が瞬く間に刃を走り、殺意が凍り凄まじい冷気となって鋼鉄の腱を打った。ペキペキという乾いた音が侵食していくのを手に感じて、笑いが浮いた。
 木偶人形は背中から派手にすっ転ぶ。抜き足のさなかに彼の手の中で、もはや何者でもない酷薄な刀が、いん、と小さく鳴った――ふうん、なら、こうしよう。すると彼の体は内部から強く衝き動かされた。心臓が高く跳ねて喉を押すのが気分よかった。背後で凄まじい炸裂音がしたが、彼はそれを意に介さなかった。ただ耳がそれを捉えて伝えてきただけで、どちらかといえば鬱陶しいな、と感じた。彼は人形の足を片腕で飛び越えた。
 右腕は仰向けの姿勢から立て直そうと地面を探ってもがいていた。ちょろちょろ動いて面倒くさい。俺が欲しいのは手首のほうだ、さっさと止まってしまえばいいのに。だから人形の拳めがけて再び刀を振り抜いた。刀の纏う冷気はその指を凍てつかせ、何のこともなく動かなくなった。思ったよりも呆気なくて、彼は少し興醒めした。もう少し長持ちするかと思っていたのに。
 でも、と彼は構えを取り直す。一番斬りたいものはもうすぐそこにある。それならいいことにしておこう。そう思って舌なめずりをした瞬間だった。凍りついた人形の指が痙攣するように動き出し、石造りの装甲が霜を溶かしていく。水滴がぽたぽた床に落ちるのを見て、何をしているんだろう、と彼は首を傾げた。すると、装甲には呼吸するように火と、氷と、雷の紋が浮いては消えた。何が起きたかよく分からないで、彼は目をしばたたき、そして試みに、無造作に一刀振るって叩きつけた。刃を走った殺意の冷気は確かに噛みついたのに、人形の何かに弾き返されて、氷は無残にも弾け散る――人形の小細工に感づいた途端、彼の血は沸騰した。お前は一体何をしたんだ? 体中を怒りが駆け巡り、わなないた。お前なんて、ただの石人形のくせに! 小癪な真似はしなくていいんだよ。余計なことは何ひとつするな、お前は俺が斬り刻むんだ、お前が俺を焼き尽くしたように! 腹から絞られた憤怒が喉を駆け上がり空を切り裂き、怒号がしたたかに人形を打ち据えた。人形は怯えたように震え、彼は少しく胸が空いた。ざまを見るがいい。
 誰かが彼の名を呼んだような気がしたが、構ってなどいられなかった。だって今が一番楽しいところだから。俺を止まらせないでくれ。
 さあ、そろそろ立場を分からせてやる。彼は刀をもてあそびながら、半ばまで剣を食い込ませたままの右腕に、ようやく到達する。
 俺を焼き殺そうとしたその腕に、いよいよ沙汰をくれてやる時が来た。心臓がばくばくと期待で高鳴り、背筋には心地よい緊張が走り抜けた。一瞬で終わるだなんて、勿体ないよ。全身の筋肉を弾ませて、絹を裂くような気合いとともに、彼はその手首を斬り落とした。手首の内側にある様々な何かを断ち切る感触が次々と彼の両腕に伝わってぞくぞくし、硬い骨に当たってさらに断ち貫いたとき、凄まじい熱狂で彼は哄笑した。
 巨大な右手がもんどり打って跳ね飛んで、大きな衝撃とともに地面に落ちた。引き裂かれた切断面には抵抗のごとく小さな稲妻が何度も走ったが、右手はついに動かなくなった。はは! 本当に一瞬だった!
 ようやく目的を果たした彼は満足感から愉悦の笑いを浮かべた――ような気がした。途端に指から力が抜けて、ギノロットの手から刀がつるりと滑り落ちる。
 あれ、どうして体が言うことを聞かないんだろう。刀は冷たい音を立てて石畳の上に落ちた。困惑のギノロットはそれを拾おうと手を動かして、ようやく自分の有り様に気づいた。
 腕からは真っ赤な液体が滴っていた。右からも、左からも。顎先に向かってひとしずくが伝っては離れる。ぬめるその感覚は汗とは明らかに別のものだ。重力に従ってはたりと音を立てて落ちたそれは、まごうことなき血の色をしていた。全身に裂傷があった。一撃も食らった覚えはないのに、どこも無残な傷を負っている。自分の血でしとどに濡れている。頭からつま先まですべてが血と汗にまみれている。恐怖に襲われてギノロットの喉は引き攣れ鋭く鳴った。絶叫した。だが、とっくのとうに潰れた喉では、叫びはどこにも届かなかった。
「馬鹿野郎! 何してるんだ!」
 誰かの怒声がギノロットの全身を打ち抜いて、ギノロットはついに膝が折れた。
 どうして叱られたのかは分からなかったけれど、馴染みのある声にギノロットは少し安心する。この声のことなら分かる。この声なら心配いらない。けど、助けてくれ。もう一歩も動けない。動かない。動かせない。もし動かしたら粉々になって砕けて死んでしまう。自分じゃどうにもできないんだ。何か起きたか分からないんだ。どうしてこんなずたずたになって、声も出せなくなっているんだろう。さっきモモが、レリッシュが、治してくれたばかりじゃないのか。こんな体じゃ、もう戦えやしないじゃないか――誰にも聞こえぬ男の悲鳴は、ついに途切れた。
 ギノロットの体を声が捕まえ、彼は縋りたい一心で声の鎧に爪をかけた。すると景色が目まぐるしく流れ、叱咤されながら萎えた両足を必死に動かして、ようやくどこかに辿り着いたときは呼吸するのさえやっとだった。痛みが血管に乗って全身で脈打つ。視界にたくさんの光が飛び交ってまともに見えない。指先は冷えたように痺れて、何に触れても分からない。
 誰かの腕がギノロットの体を降ろして、それから何かが打ちつけられる音が耳に聞こえた。あっという間に体の中を凄まじい熱量が押し寄せ、無量の水が轟きながら流れ込み、その暴力にギノロットは吐き出しそうになった。空気を求めて顎がのけぞり、指が空中を掻き毟った。もうやめてくれ、こんなことは苦しすぎる。いっそのこと俺を殺してくれ!
 だが、誰かがギノロットの胸を押さえつけた。まるで祈っているみたいな重みだった。色素のない真っ白い髪が一房、ギノロットの視界に入る。モモだ。モモの重さだ。
 ギノロットがモモの体に触れようとしたとき、空間を何かが強く引き裂いた。それはギノロットの、今や繊細すぎる目と鼓膜を打った。目を閉じてもなお白く、終わってもまだ聞こえる爆音に、彼は堪らえようとして頭を抑え、奥歯を噛みしめた。しかし目だけは意識が引っ張られていく。
 そこにいたのはワイヨールだった。見たことないほど憎悪の色を浮かべていた。いつも余裕を見せていた男が、そんなひどい顔をするのが信じられなかった。彼の口元が目に見えぬ何者かにささやきかける。
 果たしてまた彼はロッドで狙いを定め、あの激しく鞭打つ光と音が響き渡った。反動で吹っ飛びそうになった左腕を何とかいなそうとするワイヨールの姿を見て、ギノロットはようやく理解する。印術が、揺籃の守護者に放たれている。気づいてみれば当然のことなのに、ギノロットは驚く余裕さえなかった。ギノロットがただ見守っている間、ワイヨールはもう一度何者かに呼びかける。術が目にも止まらぬ速さで虚空を飛び越え、揺籃の守護者に激甚の一撃を浴びせる。守護者は大きくバランスを崩し、呆気なく仰向けに転倒した。
 ワイヨールの腕はそこで限界を超えてロッドを取り落とした。彼の体は術の反動をまともに食らって大きくよろけ、しかしかろうじて手をつく。血にまみれたブレロが走り出してワイヨールの体を支えた。
「どいつもこいつも死に急ぎやがって! ろくでなしどもめ!」
 ギノロットは血で汚れてしまったモモに抱かれて体を起こす。揺籃の守護者は右手を失い、左足を破壊され、頭は雷に叩き伏せられて、今や倒れたままぴくりとも動かない……。
 レリッシュとローゲルが様子を確認しようと、ともに守護者の頭を覗き込んだとき、
「――あっ」
 ローゲルが大切なことを思い出したように顔を上げた。レリッシュはきょとんとする。
「どうしましたか」
「こいつ、自爆するんだ」
「あなたと同じ。……帝国風ジョークですか」
「違う本気だ! 体が動作不能になるとスクランブルするんだ、頭だけっ……」
 ローゲルがそこまで言いかけると同時に、彼の足元で何かが、ごとん、と外れる音がした。揺籃の守護者の頭が胴体から転がり落ちて、逆さまにひっくり返ってから止まったのだった。
「頭だけが外れて自爆する、スリーカウント後に」
 時すでに遅し、玩具めいた顔した守護者の頭は、不思議な力でかたことと動き始める。次第に浮き上がろうとしている!
 ギノロットは地面を蹴った。誰かが彼を呼び止めようとしたが聞いてなどいられない。剣も刀も置いてきてしまった、斬りつけようにも武器がない、なんて無様なソードマンだ。悲鳴を上げる骨と筋肉を何とか励まし、目眩でふらつく頭を支え、横たわるままの守護者の左足を回り込む。どこかの閉じた傷が生々しく開く音が聞こえるが、スリーカウントなんてないにも等しい!
「ギノロット、雷の聖印切るぞ!」
 ブレロの声とともに空間に静電気よりも些細な不快感が渡り、周辺の元素が操作された。なぜ雷なのかは分からない。背中を向けているギノロットは、すべて向こうに委ねなくてはならない。
 武器をなくしたはずの右腕にようやく辿り着き、見回した。おびただしい量の血が周囲にはね散らされている光景に目がくらんだ。どれだけ向こう見ずな戦い方をしたのだろう。血池のそばに、剣は落ちていた。
 血と脂にまみれた柄を手で拭い取り、左右に振り払うと、固く空気を切り裂く音がする――それは尋ねれば是非を返してくれる感触だった。透明な刀とは違う、意思があるかのような感覚。よかった、俺の剣。これがなければ今はだめなんだ。
 ギノロットは迷わず守護者の体に飛び上がった。バランスの悪い仰向けの胴体の上を駆け抜ける。
 剣の柄を強く握り込むと、仕掛けられたルーンが反応してギノロットのあるかなしかの生気が吸い取られていき、剣の刃に光が灯る。途端に膝から力が抜けてまろびかけるも、何とか手をついて体を立て直す。今はとにかく、前に進む力が欲しい!
「ローゲル!」
 彼は声を張り上げる。何とかして己の魂を揺さ振りたかった。強い意志を持つ赤茶の瞳と確かに目が合った。
「リンク切ってくれ! 頼む!」
 さっきも同じことを頼んで失敗した。次は同じ轍を踏むものか――精神を通わせると、ぱしん! 鞭打つ音とともにギノロットの生命は一条の雷撃に変換され、その音にギノロットは奮い立った。
 ローゲルの砲剣の薬莢が蒸気をまといながら一つ飛び、赤熱していた砲剣はみるみる鋼の色を取り戻していく。そして彼は新たな薬莢を装填した。
 ギノロットは守護者の頭を見定め、思い切り跳躍する。全身全霊を込めて大上段に振りかざす。そして、浮き上がりかけたその頭に、リンクの力を叩きつけた。
 守護者にまといついた雷の聖印がリンクに爆発的に反応し、一発の小さな雷撃が落ちる。ギノロットの刃が頭に接触してもう一撃。硬い装甲に剣は弾かれ右に逸れたが、知ったことか。あとは後続に任せるしかない。
 彼は転がるように着地した。辛うじて取った受け身はどこかが不完全で、ギノロットは呻き声を上げた。あらゆる場所が激しく軋み、這いつくばって起き上がった。
 それでもギノロットの目は油断なく守護者を追っていた。雷撃を食った首は地面に一度叩きつけられ、のろのろと浮き上がろうとした。だがローゲルの重たい砲剣が唸りをあげてショックドライブを撃ち放つ。聖印とドライブとリンクは分かちがたく結びついて目もくらむ光を発し爆音を立てた。
 しばらくは残像でまぶしく、耳も殷々と音を残して、ギノロットはただ耐えるしかなかった。頼むからこれで終わってくれ! 次に打てる手なんかない……だが、果たして首は転々と跳ね上がり、再び揺れ出した。背筋にぞっと何かが滑り込む。
「嘘だろ」
 ギノロットの口から絶望が漏れ出すが、そこへ絶望に冒されていない声が静かに響く。
「おれがやる。下がってろ」
 冷酷な低い声にギノロットはぎくりとする。慌ただしいレリッシュがギノロットの体を起こそうとして、爪が立つほど腕を強く掴んだ。
 ギノロットは連れられるままにただ下がり、やがてワイヨールの背中が見えた。左手のロッドから恐ろしいほど大量の光が流れ落ち、纏うローブは今にも千切れて飛んでいきそうだった。白と黒のないまぜになった光が弾け飛び、ワイヨールのローブの裾をちりちりと焼き焦がし、聖印を孕む苛烈な稲光が落ちた。二度、三度、そして四度と。怯えたレリッシュの爪が今度こそ本当に食いこんで、ギノロットはレリッシュの手を握りしめる。できることは何もない、ただ見守るしかない。
 四回の光のどこかで、苦痛の声が聞こえた気がした。そして、何かのひしゃげる有機的な音がひとつ。
 閃光が止み、目をこすり様子をうかがってみると、モモがしゃくりあげながらワイヨールのそばに座り込んでいるのがまず最初だった。そしてワイヨールが自らの左肩を掴んで必死に痛みに耐えているのがその次。少し向こうで血相を変えたブレロがいて、ローゲルが砲剣を突き立てた先に、守護者の頭が貫かれていた。もう浮き上がろうとはしていない。
 ギノロットはそれを見た途端、意識を失った。ぷつりと切れたように崩れ落ちた。