ギノロットの最後の咆哮 4

 ワイヨールは左肩に氷嚢を当てながら、黙ってマドカのお説教を聞いている。マドカはカンカンだ。予想以上に叱られている。おそらく怒鳴られないだろうから、ここが病院でよかったと思っていたら、甘かった。怒鳴らないだけ長くなった。
 隣のベッドではギノロットが静かに寝ている。大量の増血剤と栄養剤と鎮痛剤を投与されて、何よりもきっと一番に疲労で、街に戻ってすぐに病院に連れ込まれ、一夜開けてもまだ目を覚まさない。
 火傷と無数の裂傷でかさついた彼の首には見慣れたサメの歯の首飾りが光っている。レリッシュが弓の弦紐を通して掛けてやったのだった。
 どれだけ元通りに見えても、直っているわけではない。ガラス、珊瑚、真珠、いずれも運悪く熱に弱かった。だからといって水に強いというほどでもない。どういう由来か定かでないが、寄る辺にするには頼りない首飾りだった。
 たったひとつ無事だったものがサメの歯だとは、持ち主がソードマンであることを思えばなおさら象徴的でさえあるが、それと、彼が立ち直れるかどうかはすでに別問題だ。彼は明らかに首飾りの記憶に執着している。気休めも、後づけも、完全に通り越している。
 空の首飾りを手にした彼の、衝撃を受けた顔は見たくもないものだった。もし心臓に亀裂が入ったならば、あのときの彼の顔になるだろう。
 きっと本当は探さずにおくことが正解だった。彼ごと焼き尽くされ、彼の手を離れたこと、それ自体が運命だったのかもしれない。ギノロットが『形見』と口にしたときは、まさか形見の品を、あんな無造作に身につけていただなんて思いもしなかった。
 非常に恣意的に言えば、自分が手助けしたことは、運命を難しくしてしまっただけだった。いくら警告したとはいえ、完全なる余計なお世話、ということになる。――まったくもって、お笑いだ。そういう自分に嫌気が差した。
「何をお悩みなの」
「おぅわッ」
 気を抜いた一瞬を突かれ、マドカの顔が思い切り接近してきた。思わず氷嚢を取り落とすワイヨールである。
「違うこと考えてたわね」
「やっぱりばれますよね……」
「だって、何かがあった顔しているわ」
 マドカの顔が気遣わしげになる。彼女はみなのことをいつも見守ってくれる、心根の優しい女性だ。やたらに怪我を叱るのも、優しさの裏返しだとわかっている。それができる人間というのは、多いようで少ない。実態はできるかどうかより前に、相手に許されているかどうかだからだ。ワイヨールは当然、彼女を許している。
「談話室行かない? 少しは気分を変えたいよ」
 静かなギノロットの寝息が、ワイヨールには辛かった。左肩を固く固定されたまま、病衣のワイヨールは率先して立って歩き出す。マドカはただついてきてくれた。
 二人分の足音が、パタパタと廊下に響く。病室から充分離れたころ、
「……もしかしなくても、ギノちゃん?」
 マドカのそういう鋭さは、本当にありがたい。話が早い。
「私はあいつのガラスのハートにガソリンをぶっかけたんだよ。しかもよかれと思ってね。目が覚めたらあいつ、自分に火を放つかもしれないな」
「いやだ! 何それ」
 口を押さえてマドカは悲鳴を上げた。
「あなたにしては、ずいぶんなことをしたのね」
「……この際正直、ほんのちょっぴりはきみの小言のせいだからな。叱られると思うと余計なお世話でもして、気を紛らわせたかったんだ」
「う――よくわからないけどわかったわ、自重するわ」
「よろしい、よろしい」
 馬鹿なやつだ。八つ当たり自体、何がよろしいわけがない。どんなに言い訳したところで、あのとき探せるなどと安請け合いした、したり顔の自分が悪い。つまらない見栄と自尊心を満たそうとした自体が卑しいのだ――ワイヨールは深い後悔の溜め息をつく。
 病院施設の片隅にある談話室は、窓が大きく日当たりもよかった。二人は柔らかなソファにゆったりと腰かけた。
「ワールウィンドはあなたのこと褒めてたわよ。勇敢って」
「そりゃあ、出会い頭に士気をくじいたのは私だもの。はやってギノを犠牲にするし、多少は勇敢なふりもするよ」
 ギノロットの全身の熱傷は重く、皮膚の腫れや灼熱感は薬で抑えられたが完全ではなく、赤みや疼痛となって残り、喉や肺も焼けて、声はやや雑音混じりだった。
 あのとき選んだ聖印が氷ではなく火だったなら、まだしもただの火傷で済んだ可能性はあった。浮かぬ顔で天を仰ぐと、マドカの声もしおしおとなる。
「珍しく弱気ねえ」
「結局よい成果を持って帰れなかったもの……シウアンを、助けてやれなかったんだよ」
 気を失った巫女シウアンへの最後の調整が済んだと、ローゲルは言っていた。モモは青褪め、まともに口を利くことができず、全員が大怪我を負ったまま何とか木偶ノ文庫を脱出すると、目の前で世界樹が崩れ落ちた。
 短くはない月日を世界樹のために費やしておきながら、できなかったことがあまりに多すぎた。後悔させられることと反省させられることが大量にあった。何から手をつけていいのかわからず、ワイヨールは肩を落とした。
 すると、固定されている左腕に、マドカはごく優しく触れた。
「……ねえ。銀の稲穂団、しばらくお休みにしましょう?」
「休み? ――なぜ?」
 ワイヨールはぎくりとした。まったく前向きな言葉に聞こえなかったからだ。
「だってね。ギノちゃんの様子は最悪だし、モモの動揺も抑えてあげなきゃ。レリちゃんも憂鬱そう。何とか無事なのはブレロだけよ。そうでなくてもあなたの脱臼は三週間の安静。でしょ?」
 午後から学校のあるマドカは、ギノロットの目覚めを待っていることはできなかった。彼女はかさついたギノロットの額をそっと撫で、ごめんね、とささやいて病院を後にした。

 客が去り、病院が退屈でも、呆気なく眠りに落ちるワイヨールではなかった。何しろ隣のベッドにギノロットがいるのだから、その存在を忘れでもしない限り逃げることは敵わなかった。
 どうにもできずにただベッドから白い天井を眺めていると、やがてギノロットの、炎でかすれた寝起きの声がしたので、ワイヨールは反射的に体を起こした。ギノロットは眠たそうな目をごしごしこすりながら、上半身を起こして背中を丸める。首飾りが宙で光り、ワイヨールはひやりとした。
「俺、超腹減ってる。今いつ?」
「あれから次の夕方になるよ、おはよう」
 答えるが、まだ眠たいのか、目蓋が開いていない。今の時点ではギノロットに大きな変化はなさそうに見える――ワイヨールはほっと胸を撫で下ろした。だが、散々眠って気が済んだ、という都合のいいことが起きてでもいない限り、彼は空になった場所を何とかしようともがくだろう。時間の問題だ。
「あ、そういえば目が覚めたら薬湯に入れってお医者さんが話してたの覚えてる? 知らせてくるよ」
「ええっイヤだ」
 ギノロットは顔をしかめた。目を大きく見開いて、今度は目が覚めたようである。
「絶対しみるに決まってる。痛いのやだ!」
 言うと思った。ワイヨールはつい噴き出した。
「でも駄々こねてるとご飯が食べられないし、看護師さんたち見回りしてて絶対バレるよ。それとも叱られながら食べるの?」
「そんなん全部イヤだ。ずるい。イヤだ」
 嫌だとずるいをとにかく繰り返すギノロットを尻目に、ワイヨールがそのへんを歩いていた看護夫に声をかけると、たちまちやってきた看護夫はギノロットを無慈悲に浴場へと引っ張っていった。なかなかいい体格の看護夫だったので、染みるも痛いも問答無用であろう。
 せめてまともに目が覚めるまで待っていてやればよかったか、と浅はかなことをしたと思うワイヨールであるが、一方で、何かに引っかかりを感じていた。やっぱりどうにも座りが悪い。ワイヨールの中の何かが警鐘を鳴らす。
 ギノロットの去る足音を、ワイヨールはじっと聞いていた。
 形見の首飾りを別物にした人物が目の前にいて、そんなにすぐに感情を引っ込められるものだろうか。ショックで立っていられないほどの思い入れがあった品だ。もしあれが自分なら、きっと嫌な顔の一つくらいするに決まっている。罵詈雑言さえ吐き散らすかもしれない。ギノロットに比べればほとんど何も失っていないワイヨールさえ、マドカに当たったというのに。
 宙で揺れた首飾りの光を思い出す。いくら自身の直感が思い過ごしと取り越し苦労でできていると戯れても、気づいたことを棚上げにはできない。銀の稲穂団には彼が必要なのだ。困難に遭おうとも剣を振りかざす雄々しさに、ワイヨールもまた鼓舞されてきたのだ。
 だが、『自分で自分が愚かだ』――それはギノロットの血から流れ込んできた、底冷えするような自嘲の言葉だった。あの術の何がワイヨールにその言葉を聞かせたのかわからない。しかしそれは確かにギノロットの真意のひとかけらだった。あの時垣間見た暗い心は、まだワイヨールにこびりついている。一体あの現象が何だったのか、なぜそれを見せられたのか……その他の多くの出来事や言葉とともに、知りたいことは山ほどあるが、ともかくも、ギノロットの中に自らを徹底して嘲る何かがあり、それは首飾りと繋がっているとしか思えなかった。でなければなぜ声を聞いたのか、説明できない。
 南洋から来たというソードマンのギノロットは姓を持たず、字を知らない。冒険者ギルドの書類にはただ『ギノロット』という名前を記した。みなでその音を確認して綴りを決めて、ブレロが代筆した。ワイヨールは覚えている。そのころから首飾りはそこにあった。ただの装飾品なのかと思っていたが、肌身離さず身につけ、夜毎に手入れをしている。並ならぬ思い入れのある品だ。
 迷宮で神経質そうに苛立ち、木偶ノ文庫での彼はとうとう、太刀捌きに鬼気迫るものを宿らせた。死地で生き抜くために吐き出される、迷宮にあっては誰しもが抱く狂気の一片だった。まして常に死と隣り合わせにあるソードマンは、どれほど自分を丁寧に扱っても吐き出しきれないものだろう。そして揺籃の守護者に向かって振るわれた一刀は、狂気の極限だった。恐らくはあれこそがモノノフの秘技、『羅刹』だ。だがギノロットは明らかに、その制御に失敗したのだ。
 モノノフは自らの肉を切らせることにためらいがない。一度そうなったならば、敵と見做したものたちの骨を断つために何でもするだろう。だから彼らはその極めて独特の、血臭まとうけだものの力に『羅刹』という名をつけたのだ。破滅を司る地獄卒の名を。
 だがギノロットは迷った。そしてローゲルを殺せなかった。殺そうとはしていたのかもしれない。だが現実にはギノロットの狂気は、ローゲル相手に振るわれなかったのだった。
 ワイヨールの目の前には、空になったベッドがあった。
 人は多かれ少なかれ、多少は何かに自分を失う。だから世界樹の迷宮なんて荒唐無稽なものの存在を許し、求め、追いかけるのだ。けれど自ら守りを捨てなければ、人間を殺す狂気も持たない、理性的なソードマンがギノロットだった。剣と刀に迷い、どちらも選びきれなかったギノロットが、その理性で果たして、本当に世界樹の楽園などというものを追い切れるのだろうか。この先には必ず皇子バルドゥールが待ち構えている。その命を狙わなくてはならないだろう――。
 自身を嘲笑ったギノロットの言葉が、ワイヨールの胸にはまだ深く突き刺さったままでいた。おそらくギノロットはわかっている。自らの理性と、モノノフの狂気とで破綻した自分を。そして何より、世界樹の楽園を追いかける自身の愚かさを。
 直感したワイヨールはたまらず、病衣の胸を引っ掻いた。

 ギノロットはぬるい蒸し風呂に座らされて呆然としていた。冷たい補水液を嫌というほど飲まされ、焼けた小石が蒸気を発するのと、砂時計が落ちきるまでの十五分間を見つめていた。蒸気は薬臭く、小石はルーン文字か何かが刻み込まれていて、暗い独房めいた部屋だったが、かさつく皮膚が潤いを帯び始めている。
 この狭い部屋では病衣を脱いで首飾りを取れと言われて、ギノロットは仕方なく十五分間、何もすることがなく不安なまま座っていなくてはならない。首元が落ち着かず、何度も足を組み替え、姿勢を動かした。
 ――首飾りのないまま一人になるのは、恐らく五年ぶりだった。長い間ほとんど外したことのないものを外すと、不安で胸がざわついた。正直、奪われたという気さえしている……十五分経てば戻ってくるのだと自分に言い聞かせ、彼は深く呼吸を繰り返した。息苦しさと疼痛は和らいでいた。
 目を閉じて静かにしていると、様々なことを思い出せた。首飾りを受け取った日から、二度と新たな姿にならなくなった日まで。優しい言葉の数々、たくさんの夢の話、遠い昔語り、幸せに満ちていた日常のこと。全部が悪魔のような波の中に消えて、ギノロットは抱えていた幸福を全部なくし、それからずっと、首飾りは古いままになった。
 もちろん、自分で新しくすることはできた。でもそれをすれば、彼女がくれたものではなくなってしまう。だからあえて何もせずに、自身にできることをして保ち続けてきた。それで彼女の魂はずっとそこにあるのだと思い込むことができた。
 だが彼女は死んだ。もうどこにもいない。ギノロットの中で薄れかかった笑顔の、擦り切れた声の彼女しかない。遠く過ぎ去った冷めた感覚しか返ってこない。
 これからは毎朝鏡を見るたびに、過去の出来事なのだと気づかされるのだろう。焼かれていないサメの歯以外、置き換えてしまった。そこにあるのはただ惰性で生きている自分だけだ。いつか鏡を見て、自分の顔がどこか違うと気づいたときのように。
 ギノロットはまだ彼女と一緒にいたかった。まだ生きた形があると信じていたかった。そうでなければ一緒に連れて行ってほしかった。海がだめだったのなら、あのときの炎に。狂乱の羅刹の血海の中に。折れた世界樹が消えていく空の中まで。
 ――やっぱり俺は死に損ないだ。他人の命を言い訳にして、みっともなく自分にしがみついた。あのとき死んでいられたなら、どれだけ幸せになれただろう。
 お願いだから、もう一度俺に手を差し伸べてくれ。