ギノロットの最後の咆哮 1

 ギノロットは苛立っていた。やっぱりここは大嫌いだ。藤の花なんて見たくもない。木偶ノ文庫なんて言葉も二度と聞きたくない。バルドゥールを一発ぶん殴って巫女を助け出したなら、こんなところは小便でも引っかけてさっさと出ていってやる――迷宮の一角で魔物に出くわして、ギノロットは不運な己を呪った。持ち上がりかけたプロトハンターの前足を思い切り蹴飛ばし、ワイヨールの雷撃を受けたその首を一刀のもとに斬って伏せ、「クソ食らえ」と吐き捨てる。プロトハンターの体は、呆気なく動かなくなった。
 斬り捨てても斬り捨てても、何体でも魔物が湧いて出てくる。そのくせ、どいつもこいつも硬すぎるし、重すぎる。だからこっちも金属鎧なんて心地悪いものをまとう羽目になる。軽い鎧に戻りたい。
 こめかみから幾つもの汗がこぼれ落ちては顎へと伝う。いくら拭っても噴き出してくる汗で、ギノロットは全身が湿っぽくて不快だった。鎧なんて脱いで捨てたい。そうしてすぐに水を浴びたい。泳ぎに出かけたい。
 ギノロットが刀を引いて次を探すと、あちらでパープルアノールが間抜け面を下げてちろちろ舌を出している。ギノロットの喉から怒りがほとばしり刃が光って翻った途端、パープルアノールは焼け焦げが広がるように体の色を変え始め、宙へ溶けてゆく。刀の切っ先はかすかな手応えのみ返してわずかな血が散り、遅れて飛んできたブレロの戦鎚は虚しく床を叩いた。ちくしょう、どこへ消えた――ギノロットが目を凝らそうとした刹那、レリッシュの矢が飛来した。重たく肉を貫く音とともに、目くらましの解けたパープルアノールはギノロットの背後でもんどり打って倒れ込んだ。ギノロットがとどめとばかりに刀を突き立てると、パープルアノールはもはや完全に擬態しきれなくなり、痙攣して絶命した。
 知らぬ間に背後に回られていたことにギノロットはゾッとなり、口惜しさに歯噛みする。どいつもこいつも小癪だ。こいつらときたら本当に、心底、腹が立つ――引き抜いた刀にまといつく血とも粘液とも分からぬものを振り払い、見回せど、魔物は皆殺しにしたらしい。五人以外に立って動くものはなかった。
 遠くに放棄した背嚢を拾って水を飲もうとしたら、渇きが癒える前に水筒は空っぽになった。ギノロットは水筒を手荒く投げ捨てた。息は荒く、肩が上下した。空気を求めて喉があえぐ。
 余力を残した顔のワイヨールが水筒を差し出し、水を分けてくれる。
「少し休憩するかい」
「いらない、集中切れる」
 ギノロットがごく短く答えると、ワイヨールは黙って引き下がった。
 確実に最奥へ迫っている感覚があった。今までの探索の中で一番早く木偶ノ文庫を突き進んでいる。前回嫌々ながら街へ引き返し、迷宮の最短経路を見直したのが役立っていた。もうこの感覚を失いたくない。きっと終わりが近くにある。
「ギノさん、剣をどうぞ」
 レリッシュが一振りの剣を差し出す。会敵のときにギノロットが荷物とともに放った剣だった。
 剣にすべきか刀にすべきか、ギノロットはずっと悩み続けている。冒険者ギルドの演習場で果てしない打ち合いに付き合ってくれたブレロが「それなら両方持っていけ」と軽く言うから、言うとおりに両方持ち出した。刀を鞘に納め、ベルトに挟み込むと、ギノロットの腰に重い感触が下がった。
 銀の稲穂団は再び歩き出したが、木偶ノ文庫の戦いは消耗が激しい。一同は魔物避けの鈴を鳴らしてゆくことにした。ブレロの軽い口笛と、鈴に合わせてお気楽そうに戦鎚の振り回される音を聞きながら歩いた。事前に街でそういう打ち合わせはしていたが、警戒せずに歩ける迷宮は、何やら変な感じがする――ギノロットは落ち着きなく、刀の柄を用もなく握った。
 素早く軽く斬り捨てられる刀の斬れ味は、すぐにギノロットの気に入りになり、イクサビトたちが愛用するのが当然に理解できた。肉でも骨でもあっさりと斬ってのけるのは快感だ。まるで永遠に斬りつけていられる感覚は、独特の陶酔をギノロットにもたらした。
 だがふとした瞬間、何だかその一撃がいやに薄い気がして仕方なくなる。斬り裂く感覚は剣とは比べ物にならないのに、その一発が不意にぐにゃりと頼りなく感じられて、安心して振るえなくなるのだ。
 もちろん、そんなはずはない。確実に当たる。手応えもある。
 なのにどうしてだか感覚が掴めない。凶暴な魔物の跋扈する迷宮のさなかで、木の枝でも振り回しているかのような不安感がつきまとった。すると途端に切れ味が鈍り、同じ刃であるとは思えないほどに精彩を欠く。戸惑いは混乱を呼び、ギノロットは戦いの速度に置いていかれる不安に駆られた。抵抗しようとしてもがくように敵を叩いては殴り、再び己の戸惑いに気づいては苛立つ。
 しかし焦りを嫌って剣を握ると、その頑なさに胸が騒がしくなる。刀を振るった後では重さと硬さにばかり気が行って、体に伝わる衝撃でギノロットの息さえ止まろうかというほどだ。時に振り回されて手足を持って行かれてはたたらを踏んだ。暴れる剣を何とか両腕で抑えつけたところで、刀のような斬れ味を持たないことに腹が立った。硬い装甲や獣毛に阻まれ、刃は敵を断ち斬らない。
 ――俺はこんなに剣を振るうのが下手だったのだろうか。
 これまで殴り抜けてきた様々の魔物と迷宮を振り返っても、自分に何が起こっているのか分からなかった。ただ一つあるとするなら、そこには双牙武典が存在した。魂に宿したモノノフの秘技が。
 ――もし俺が人間じゃなくイクサビトで、本物のモノノフだったなら、この刀は何をも断ち切る鋭さになるのだろうか。もし俺がまともなソードマンで、ギルドの座学や講習を受けていたなら、この剣は俺の牙になっていたんだろうか。
「まあ、俺はボチボチ答えが出るんじゃないかと思ってるんだがな」
 まるで心中を読んだかのようなブレロの台詞に、ギノロットはぎくりとした。
 涼しい顔でブレロが見つめる先には、一冊の本が投げ捨てられていた。この迷宮の中で何度か見かけた緑色の表紙に鳥の箔押しをした本だ。その刻印には見覚えがあった、帝国の覇を示す鷹の紋章である。覗き込んだワイヨールは、口元に手を当てながら懸念を示す。
「ずっと思ってたんだけど……正直なところ、これってあちらのお誘いだよねぇ?」
「まあ、どう見てもあからさますぎるな」
 ブレロもそれに首肯した。これまでの道のりを思い出すに、恐らくは例によって、ごく近くに先へ進む通路が隠されているだろう。
 あるいは書架を偽装した場所に、または引き戸のように動く書架に。さらには藤の枝で巧妙に隠された一角に通路は隠され、そういった場所に本はしまいこまれていた。まるで見つけてくれとでも言うかのように浅く書棚に差され、ときに逆しまになりながら。
 そしてついには、この本はただ部屋にぽつねんと落ちている。いかにも罠の臭いがしたが、とはいえ先に進まぬ訳にはいかない。銀の稲穂団は巫女シウアンを救出する一念の下ここにいる。
 あたり一面を探ってみると書架の裏側には空間がありそうだが、動くわけでもない。ブレロが問題の書架を軽く蹴り、具合を見ると、気のせいかもしれないぐらい少し、書架が揺らいだ。
「仕方ない、ちょっと小突くか。――ワールウィンドのダンナが出てきても無茶するなよ、ギノ?」
「しない」
 愚問だった。下手な手を打てば、全員躊躇なく殺される。あいつは絶対に殺しに来る。『南の聖堂』でまともに打ち合ったなら嫌でも分かる。自分とブレロが何度かしのいでも、残り三人は一刀の元に切り捨てられて死ぬ。あの砲撃で焼き焦がされたら、二目ふためと見られぬ悲惨な死体となるだろう。一人だって殺させるものか――。
「俺はあの砲剣に貼りついてる。後ろにこぼれたら、お前拾って」
「わたしは絡め取りに回ります。気をつけて」
「モモ、いつもの方陣するからね。ちゃんとなおすからね」
「ん」
「じゃあ、私もいつもの印術するから。ギノが焦げないように頑張ろっと」
「オーケー。くれぐれも全員、盾の届くところにいてくれよ」
 ブレロの大きな盾が聖なる光を含んで光る。五人は顔を見合わせ、頷いた。
 ブレロが戦鎚を大きく振りかぶって書架を打ち倒すと、塵と埃を巻き起こして本が向こうに吹っ飛んでいく……もうもうと舞い上がる粉塵が収まるのを見届けると、静謐な空間の広がる奥に、下りの階段がある。誰かの踊り出る気配はない。
「――大丈夫そう、ですね」
 レリッシュがつがえた矢を下ろし、
「ま、ワイヨールの予感は常に外れるものだからな」
 ブレロが戯言を言う。
「もし当たっても嫌だったよ」
「そんなこと言わずに自分のハズレ力に自信を持てよ?」
「ったって、私の勘の半分は思い過ごしでできてるからねえ」
「ちなみにもう半分は?」
「取り越し苦労でできてるよ」
 どこか飄々としたやり取りは、落ち着きを取り戻すための儀式めいていた。先を急いで階段を駆け下りると、意味ありげな扉に行き当たる。
「俺が開ける」
 ギノロットが進み出て剣を抜き放つ。
 と、その途端足元から首筋にかけて凄まじい悪寒が駆け上がり、ためらった。知っている、あの男の放つ殺気だ。鞘走りの音を聞きつけたのだ。
 ――ワールウィンド。本当に殺しに来るのかよ。
 ギノロットが力任せにドアを蹴破って、構えたブレロが先んじる。ギノロットたちが雪崩のようについていくと、砲剣の騎士が一人立ち、じっとこちらを見つめていた。見覚えのある銀髪と、赤茶の瞳と無精髭、立ち姿。ただその鋭い眼光と殺気だけが、ギノロットの知るものとは違っていて、何度見ても慣れることができない。
「よっ、ワールウィンドのダンナ」
 ブレロは旧知の友達に挨拶するように明るく声をかけるが、呼ばれたほうは黙して砲剣を駆動させた。挨拶代わりにさえ見えなかった。
 それからブレロと男は何かのやり取りを交わしていたようだったが、ギノロットには『関係のないこと』だった。そういうのは他人に任せておけばいい――俺はあれが人の言葉を使うということを知らないほうが気が楽だ。俺はこれからこいつを叩きのめさなきゃいけない。完膚なきまでに斬り刻み、二度と動けないように殴り倒して、そう、こいつを殺して・・・……殺して、先へ進み、シウアンを救い出すんだから……。
 やがてどこかから針が床に落ちたような音がして、男が猛烈な勢いでブレロに切りかかり、ブレロはその稲妻纏う斬撃を大盾で受け止めていた。聖なる色した魔力を光らせ全身をばねにして衝撃を受け流し、
「……壊れるっつうの」
 引き攣った笑いで軽口を叩くのがギノロットの耳に聞こえた。男の剣の刃がみるみるうちに赤熱し、砲身を冷却していく。
 そこへギノロットが斬りかかるのと男のバックステップが間合いを稼ぐのが同時だった。男が身を翻す間にも砲剣が部品を吐き出して、男の手で次が装填される――流れるような一連の動作は死の歯車が回る音とともにあり、死は銀髪の男の姿をしていた。薬莢のような形の部品は無機質に転がる。
 ギノロットの無心の時間が始まった。
 どこなら男を殺せそうか探した。頭と太腿。それに上腕。頭は上段の構えで全部受け流されてしまいそうだ。どんなに早く狙いにいっても、結局はこちらががらんどうになって、あの重たい剣で薙ぎ払われてしまうだろう。腿を狙うと滑るように構えを下げて剣を弾かれる。重装備の男は速くはないが、その剣捌きは明らかに訓練された動きだ――ブレロ相手に訓練するときとそっくりだ。結局は相手に競り負ける。小手先の技もことごとく無駄になる。上腕に至ってはほとんど論外で、男の砲剣の懐にある。剣が届く隙はないだろう。ギノロットは舌打ちした。これだから人間相手は腹が立つ!
 隙を見せては切り込ませ、鍔迫り合いを繰り返す。ギノロットの体に傷が一つまたひとつと増えていくが、それは男も同じだった。仲間の援護を借りながら、ギノロットの剣の幾筋かは男を斬り裂いた。だがその出血で勝負がつくようには、まだ思えない。ギノロットが窮地に陥るたびに大盾が割って入り、氷槍が掠め、矢が牽制に入る。方陣が傷を塞いだ。
 終わりはまだ見えない。
 どんどん世界が遠ざかっていく中で、かすかな音がギノロットの耳朶を打った。なけなしの感覚を目に分け与えてやると、視界の隅のワイヨールが光を撒き散らすロッドで床を打ち据え、火花を起こしていた。その冷酷な烏羽玉色の目が、物言いたげにつと動く。
 もう一度切り結んだ瞬間剣は振り払われ、ギノロットはたまらず押し返される。数歩後退させられてなお身構えるも、しかし男がそのまま体を背後にねじっていく咄嗟の動き、そして砲剣で男の後ろから飛来した戦鎚を的確に叩き落としていた。宙を飛んだのは紛れもなくブレロの戦鎚だった。重い戦鎚の床に落ちる衝撃がギノロットの足に届いて、ギノロットの世界はたちどころに正常な色と音が戻る。大きな方陣が男の足元に収束して弾け飛ぶと黒い光が立ち上り、男を襲った。男の怯んだ刹那にギノロットの耳元を何かが掠め飛んで男の左腕に炸裂し、仕掛け矢が発して腕を絡め取る。
 ワイヨールの白い雷が強かに落ちた。その瞬間は殷々とした爆音と光量で包まれて、ギノロットはとてもまともに剣を構えていられなかった。本能が盾をかざした。巻き起こった爆煙に息を呑む中、ワイヨールが声を張り上げる。
「次は当てる。剣を捨てて諦めろ!」
 呼びかけに反応はなく、代わりに赤茶の瞳がギノロットを射殺さんばかりにねめつけ光芒を引く。煙の中からギノロットに向かって白熱が閃いた――苛烈な斬撃を盾で防ぎ、ギノロットの首は守られた。だがギノロットの体は床に転がった。弾かれて転倒したのではなかった。盾がバターのように融かされて引っかけられていったのだ。受け身を取ったギノロットは用なさぬ盾を投げ捨てながら、ただならぬものを察した――金属盾が融けるって何だ?
 重たそうに砲剣を構え直そうとする男の姿に、嫌な予感がした。切れかけた煙の中、刀身が白く異様な熱を放っているのを見咎める。
「――ワールウィンド!」
 ギノロットは鋭く叫んだ。砲剣は明らかに乱暴な駆動音がし、ワールウィンドの膂力りょりょくで御しきれぬほどの衝撃を生み、ついに彼の膝は落ちた。立ち上がろうともがいたが、もはや絶え絶えの息ではままならない。
「俺は冒険者などではない」
 ワールウィンドの唸りを聞き逃さなかった。その銀髪は振り乱れ、血や煤で顔を汚し、赤茶の目だけが変わらず殺意を湛えている。
「――命に代えても、君たちを止める!」
 ギノロットは舌打ちして駆け出した。剣を投げ、刀を捨てる――動けぬ体と機械の剣で、命を使ってできることなんか一つしかない、もっと、軽く、走れ! ワールウィンドがこちらに気がつき剣の柄を握りしめて威嚇する。だが途端にブレロが彼の背中を狙い澄ました盾で殴り倒し、そのまま地べたに全体重で押し潰した。
「砲剣止めろっ!」
 ブレロの叱咤が飛びギノロットが力任せに砲剣を奪い上げ、意味も分からぬまま触れたスイッチを強く押し込むと歯車の動きが急速に鈍くなり、目についたレバーの一つを押して引くと機械部が一斉に蒸気を吐き出して白熱の刃は光を失い、冷たい金属質へ戻り始め、壊れた心臓のような振動は小さくなる……砲剣の暴走は食い止められたようだった。
 ギノロットの膝から突然に力が抜けた。止まっていた息が大きく吐き出された。首を伝って胸に汗が流れ込む。どっと疲労に襲われ全身が弛緩する。
 焼き尽くされた石畳と焦げかけた機械部品の臭いの中、あっけなく決着は訪れた。ブレロが黒い鎧の背中から退き、彼にゆっくりとその手を差し出す。
「迷宮で制圧術は初めてだ」
 未だ息の荒いブレロは不満を露わにした顔で言った。
「頭にくるほど面白くねえよ、ローゲル」
 ローゲルと呼ばれた彼は信じられないものを見る目つきでブレロの手を見、取って、戸惑いながら立ち上がり、しかし力なく膝をついた。

 モモの方陣と手技が、ローゲルを含めた全員の傷をじっくりと癒やしていく。ギノロットが受けたたくさんの傷も、それ以上に酷いローゲルの孤独な傷も、モモの力で着実に癒えていった。レリッシュの仕掛け罠も、レリッシュ自身がナイフで丁寧に切り外していく。
「肘は、痛みませんか」
「多少はね」
 レリッシュは罠に視線を落としたまま静かな声で尋ね、ローゲルもレリッシュに左腕を預けながら、それを見つめている。罠にかけたのみならず、ブレロの作った隙を見事に捉え、ローゲルの肘を正確に射っていた。
「ところで……雷、当たらなかったよね?」
 ワイヨールが走り寄る。
「ギリギリ目の前、若干焼けるかなーくらいで狙ったつもりなんだけど、どれどれ……はあ、ここに落ちたの、うわぁ黒焦げだね。私のハズレ力もなかなかのものだ、当たってたら死んでるよ?」
 いつもの調子に、ギノロットは思わず軽口を利いた。
「ハズレ力、使い道あんのかよ」
「本当に死ぬかと思ったよ。自爆しようと思ったのは君の術のせいだぜ」
「あは。追い詰めたのは私かあ。まぁ、そのつもりでやったけどね」
「笑いごとじゃねーよ、もー」
 ギノロットが体を放り出して仰向けになると、その先ではブレロが盾に腕と顎を乗せ、ギノロットを睨みつけていた。
「……まだぶんむくれてんのかよ。もーいーだろ」
「馬鹿かお前は。何にもよくない。忘れたかギノロット」
 ギノロットが訝しげな顔をすると、ブレロは冷たく目を逸らした。
「ローゲル。あんた、この先へ進むよなあ? ちょっと俺たちに手を貸せ」
 ローゲルは喉を引き攣らせ、ギノロットも跳ね起きた。ブレロは仏頂面である。
「多少は未練があるんなら、あんたは俺たちに手を貸せ」
「今更未練など――!」
 はん、とブレロは尊大に笑った。
「俺は冒険者だが、お人好しとは違う。だが皇子を助けたいんなら連れてってやっていい。嫌なら砲剣を鉄屑にして俺たちは行く。俺たちの旅は終わってない。急いでるんだ、すぐ決めろ」
 沈黙が落ちた。何かを言いたそうに喉が上下するが、ローゲルはそれを言葉にできないでいる。
 ギノロットが呆気に取られていると、ブレロは大盾を殴って叫ぶ。
「ソードマン、ボサッとするな、剣を拾え! 俺たちは巫女を助けたい。ウロビトもイクサビトも殺させない。あわよくば皇子も生かしておいてやる。立てよギノロット、俺たちは先へ進むぞ」
「ブレロ、でも俺の盾……」
「両手でぶった斬って戦えるぜ、都合いいじゃねえか。俺が訓練に付き合ってやったよなあ? サブモフっぽくブチかませ。さあ早くしろ」
「や、ちょっと待ってほしい。いきなり乱暴ばっか言うな」
「はあん? ならタルシスへ引き返してやってもいいが、代わりにここでダンナの頭をかち割らせろよ。こんなやつを放置するいわれはないからな。さあギノ、脳漿ぶちまけるローゲルを面白おかしく眺めるのと、二刀流で腹立つやつを叩っ斬るのと、どっちが好きか言ってみな?」
 ギノロットは腹が立ってきた。隣ではローゲルが己の手と、転がったままの砲剣を見比べている。こんな顔したやつを、戦いの場に連れ出そうっていうのか――ギノロットは頭を掻き毟る。こいつは自分がどれほど残酷なことを言っているのか分かっていない! するとローブの飾り石をもてあそぶワイヨールが口を開いた。
「ねえギノ。私はローゲルの脳漿は見たくないなぁ」
「俺もだよ! つまんねーこと抜かすな!」
「じゃあ行こう。どうせブレロは言い出したら聞かないんだし」
「だから、死んででも止めよーとしたやつに、来いって何だよ! 向こーに皇子いんだろ? それとやり合えってーのかよ! あんまりだろーが、どーゆーことか考えてもの言え!」
「ふん。先刻承知のつまらん理屈で俺を止めるな。さあ立て、それとも腰が抜けたか?」
「うるせーお前黙ってろ!」
 と、突然足元で方陣が展開してブレロの片脚に蔦が絡みつき、足を取られた彼は派手にすっ転んだ。そうかと思うとギノロットの足元に方陣が集束して体を絞め上げ炸裂する。塞ぎかかったギノロットの傷は全部開いた。
「ふたり、うるさい!」
 真っ赤なほっぺたをぷくぷくに膨らませているモモが叫んだ。ワイヨールのローブを掴みながら、肩を怒らせている。
「もうげんきなら、治療しません! おじさん、けがしてんの!」
「もっと言ってやんなさい、モモ」
「つぎは黒霧だすからね!」
 手にした杖で床を叩いて怒鳴るので、尻もちをついたブレロは跳ね上がる。モモがそんなふうに怒りを露わにしたことは初めてだった。モモはしばらくギノロットたちを睨みつけていたが、やがて決心したように治療鞄を探って薬液を二本取り出すと、ローゲルへと足早に歩み寄り、そのひとつを彼にぶちまけた。ローゲルはぶへっと変な声を上げた。
「ちょっと、モモ!?」
「モモはおじさんのこときらい! すごくきらい!」
 レリッシュの制止を振り切ってモモは言う。
「巫女、いやがってた、つらそうにしてた、だからおじさんのこときらい! でも、巫女もマドカもおじさんのことみたら、おなじことする。だから治療するからね!」
 モモが駄々っ子みたいにベチンと地面を叩くと、座り込んでいるローゲルの元に方陣が広がって薬液が傷に吸い込まれ、ローゲルに残っていた傷は、みるみる塞がっていった。
「……巫女、おーじのことかばってた。おーじってかわいそうなひと?」
 モモがまだ険のある声で尋ねた途端、ローゲルは打たれたような顔を見せた。
「――うん。とてもね」
「たすけてあげたい?」
「ああ……助けてあげなきゃダメだ」
「じゃあ、モモたちといこ」
「……今さらどんな顔をして行ったらいいかわからないよ」
「でもいこう。モモ、巫女たすけたいからいく。おじさんもおーじたすけたいから、いこう」
 ローゲルは痛いような微笑みを浮かべて、なだめるようにモモのふくれっ面に触れた。
「君もお人好しだな。すっかりタルシスの冒険者じゃないか」
「おじさんもウロビトたすけてくれたもん……」
 深霧ノ幽谷の奥深くで、まだワールウィンドだったローゲルが傷つきながらホロウの群れに奮闘していたことをギノロットは思い出した。彼は手酷い怪我を負いながら、ウロビトたちには一人の死者もなかった。それは紛れもなく真実だった。だがローゲルの笑いは、自虐に変わる。
「別に親切だからじゃない。そうしたほうが都合がよかったんだ」
「……じゃあモモは、おじさんがみかたになってくれたらいいから、しんせつじゃないからなおした!」
 ぷいとローゲルの手を離れて、残った薬液を手荒くギノロットの頭に浴びせかける。薬液は何だか目に染みて、ギノロットは目をこすった。
「ギノちん。モモたちをまもってくれて、ありがとう。もすこし、いっしょにがんばろう?」
「……わかった、頑張る」
 ギノロットは何とか笑おうとしたがすぐに感づかれ、悲しそうなモモが耳をしゅんと垂らす。
「ごめんなさい。いたくしてごめんなさい。ごめんね。モモ、ギノをまもるから。おじさんもモモがまもるから」
 モモの小さい両手が方陣を描くと、地脈がギノロットの命脈に乗り、傷は見る間に消えて、痛みもなかったものになる。健気な瞳に打たれて、ありがとう、ごめんな、座り込んでいたギノロットはつぶやいた。木肌色の細い体が折れそうで恐ろしくて、モモを抱きしめてやれなかった。
「なあ、モモ。俺にもガンバレしてほしい」
「ブレロは、さすってたらなおります! おじさんいじめたら、なかすからね!」
「そんな……」
 情けない声を出してブレロはしょんぼり肩を落とした。
 茶番は終わり、傷を癒やした一同は次の戦いの準備にかかる。ギノロットは刀を左の腰に差し、剣の鞘を右に下げ直した。盾を持たずにゆくのなら、剣を盾にして二刀で進むしかない。他に選択肢などなかった。
 ――俺はシウアンを助ける。そのためにここまで来たんだろう。進め、ギノロット。
 道を進むと巫女の意思とも感じ取れる蛍のような光が、扉の前で力なく消えた。この先に、必ず彼女はいる。ギノロットは覚悟を決めて最後の扉を蹴り飛ばした。戦いの幕が再び開けた。