ブレロと銀の稲穂団 1

 お客さまがいらしていますよ、と寮母に言われたマドカは、小首を傾げてしまった。免疫系の自習に没頭していたので、お客の予定なんかあったかしらと逡巡すると、寮母は「すらっとした銀髪の男性よ」と付け加えてくれた。銀髪の男性ならワイヨールくらいしか知らない。すらっとしている男性ならなおのことワイヨールしか知らない(スラッどころではないけれど)。マドカは鉛筆を置いて重たく立ち上がった……気の向かない話をしなくてはならない。
 銀の稲穂団には事件が起きていた。迷宮にまつわる事件ではない。よりにもよって、人間についての事件である。
 ブレロが銀の稲穂団を退くかもしれない、と聞いたのは昨日のことだった。理由は定かでない。ブレロとギノロットが定宿にしている『セフリムの宿』に、ブレロの兄を名乗る男が現れて、二人で何かを話している間にブレロはみるみる青くなって、実家へ戻ってしまったという。冒険者ギルドの貸し会議室で困惑顔のギノロットが教えてくれた。
「すっげー似てる兄貴だったけど、なんてゆーか、金持ってそーだった。んで、なんでそーなんのか知んねーけど、すぐ手紙出すって。お前ら二人に」
 二人、とはマドカとワイヨールである。彼ら二人は銀の稲穂団で二十を超えた歳なので、契約や責任を求められたときはブレロかマドカかワイヨールへ任される不文律があった。だが、契約も責任ももっぱらリーダー・ブレロの名においてであって、マドカもワイヨールも、責任なんてものを求められる機会はほとんどなかった。だから二人は、戸惑い顔を見合わせた。
「なあに、それ。どういうこと?」
「全然分かんねー。なんか、しつこいのに絡まれた、とか言ってた」
「……全然わからないわね」
「聞いてもうまく言えねーって。だから、ごめんってめちゃ謝ってた」
 そういう会話を昨晩に経て、明けた今日、手紙を携えたワイヨールがやって来たのである。
 すぐに、が本当にすぐとは思わなかったマドカは、昨晩の戸惑いを思い出していた。手紙なんてどんなにすぐに書いたところで、大概遅く来るものなのに、奇妙だった。
 寮母に応接室とお茶の支度をお願いして、マドカは部屋を出て、ワイヨールが待っているはずの玄関に向かった。
 女子寮にわざわざやってくるなんて、なかなかの勇気だとマドカは思った。マドカは男子寮になんて、ちょっと入りたくはなかった――だって汗臭そうだし、低い声で次々挨拶されたら、とてもごきげんようなんて言えない。変な目でにじり寄られたり、逆に腫れ物扱いされたりするに決まってる。そんなのまるで、珍獣じゃない!
 マドカにはとても耐えられそうにないが、ワイヨールは姉二人と妹一人にいいようにされながら育ってきたという。きっと彼は日常がすでに女子寮だったのだ! やっぱりワイヨールはすごいわね……勝手な妄想に基づいた変な感心を抱きながら玄関に辿り着くと、優しい橙色のローブでバスケットを抱えた男性が、壁の風景画を眺めて立っていた。尖った顎の横顔に見覚えがあって、ひと目でわかった。
「ごきげんよう、ワイヨール」
 声をかけると、彼はすぐこちらを振り向き、「やあ、ごきげんよう」と返してくれた。落ち着いた雰囲気の橙色は、彼の細身にぴったりと合って、色のおかげなのかずっと顔色がよさそうにマドカには映った――だが何よりも、
「ねえ、それは? そのバスケットは何?」
「フェンベリーを印術士仲間からずいぶんもらってね。クッキーにしたんだ。お友達とご賞味ください」
 うやうやしく差し出してくれたので、マドカも頭を下げてうやうやしく受け取る。
「ありがとうございますう〜。フェンベリーなんてお肌に嬉しいわあ、わかってらっしゃるわねえ」
 彼の作るおやつにハズレだったものはない! 大切に受け取ってバスケットに頬ずりするマドカだが、ワイヨールはすぐに「ところで」と話を切り替える。
「うしろにお嬢さんたちがすっごくたくさん揃ってるけど、お友達?」
 ワイヨールの目線を辿ると、廊下の角の左右から大勢の女子の顔が覗いていた。全員もれなくこちらを見つめて、恐ろしい光景にマドカの喉は引き攣った。
「さっきから数えてたけど、どんどん増えてるよ」
「いやっ。早く教えて。ちょっと、みんな戻ってよ! なんてはしたないの!」
「いっそどれくらいになるのか見届けたい気もするな」
「や、やめて! 案内するからついてきて!」
 ワイヨールのクスクス笑いを恥ずかしく思いながらマドカが先導すると、途端にわっと寮生の壁が割れる……騒ぎを聞きつける女の耳は早い。ましてや若い男性がやってくるとなれば伝わるのは一瞬。光の速さに匹敵するはずだ。寮母との些細なやり取りの間にどうして聞き及んだのやら。恥ずかしいったらない!
 マドカは応接室の扉を開けてワイヨールを招き、少しでも爽やかな気分になりたくて窓も開けた。本当は扉を少しだけ開けて部屋を使うように言われているのだが、この騒ぎだととてもそうしていられない。ワイヨールがソファに腰かけた瞬間、マドカはその分厚いドアを音高く閉めた。
「んもう! 寮のこういうところはうんざりするわ。ごめんなさいね」
 マドカは眉根を寄せるが、何でもない顔をしたワイヨールは手前のテーブルにバスケットの中身を取り出していた。蓋つきの木皿がホイホイと三つも出てくる。
「やあ、私もこうなるとは思わなかった! 面白いわぁ。きっとみんなドアに耳をくっつけてるし、窓の下にたくさん隠れてるね」
「別に隠す話でもないからいいけど」
「ねえ。悲鳴あげたら楽しくなる気がしてきた!」
「やめてッ洒落にならないわ。で……お便りはどんな?」
「まだ封を切ってない。一緒に読んで」
 マドカが隣に座ると、彼は懐からその一通を取り出した。〆の字で封緘してあるそれは、飾り気のない色をした、どこにでもありそうな普通の封筒だった。
「すごく早くて、驚いた。来たの午前中だよ? 悠長にクッキー焼いてる場合じゃなかった」
「街の郵便、使ってないのね」
「そう。私的な使いって人が私に直接くれた。さすがにどこの人かは教えてくれなかったけど」
「私的な使い、ねえ……」
「身なりがよくてさ。ギノロットの金持ちそうだって感想は間違ってないようだね」
 ワイヨールはバスケットの中から、ハサミを取り出した。用意がいい。ワイヨールの節くれ立った指が、じょきじょきと封を開いてゆく。
「緊張する手紙はいやだね」
 引き抜かれた二つ折りの便箋は、やはり街売りの平凡な用紙だ。開くとカードが一枚はらりとワイヨールの膝に落ちた。彼は、それを拾う。
『迷惑をかけてすまない
 これが使われないことを祈る』
 やや走った筆致で、ブレロの名とともにそれだけが添えられていた。便箋の方は事務的な委任状と、それが透けるのを防ぐ白紙で二葉。簡素だった。ワイヨールかマドカの署名が入れば、委任状はいつでも使えるように書かれている。
「ふむ、必要にして充分」
「事務って感じね」
「とはいえ察せられるものがあるな」
「崖っぷちって感じだわね……」
「さて、どうする?」
「あのね。思い出したわ」
「何を?」
「お茶がそろそろ来るはずよ。寮母さんにお願いしてたの」
「あ〜それは素晴らしい。こんなこととてもお茶なしに話したくない!」
 ワイヨールは手紙をテーブルの上にうっちゃって、皿の蓋を開けて一人でクッキーを口に入れてしまう。手の平サイズの大きなクッキーは一口で消えた。
「んむ、我が手作りながらおいひい。マロカもろーろ」
 むごむご言いながら二枚目に手を伸ばす。仕方がないので、マドカもクッキーを一枚取ってかじる。さすがに一口というわけにはいかないが。
「んん〜……これは〜、甘るっはいいぃ」
「バラーとハヒミフら、いいひごろひてまふらぁ」
「ひのうろうろうには、やっはり甘いもろらわぁ」
「まらなーんもひえないけろねー」
 怪しい言語を駆使しながら二人は実のない会話をし、やけくそ気味にクッキーに噛みつきながら、お茶が来るのを待っていた。ようやく扉をノックする者があったころ、皿の中はほとんど空っぽだった。
 マドカは扉を開けた。体格のいい寮母が、トレイの上にティーポットとカップを載せて立っていたが、何やら苦い顔をしている。
「この子たちは、追い払っておきますからね」
 部屋の外には未だたくさんの気配が感じられる。マドカがトレイを取って丁寧に礼を言うと、寮母はドアをわずかに開けたまま立ち去り、そして気配も薄くなっていった。
 カップにボットの液体が注がれると、あたりに紅茶の香りが優しく広がった。何の変哲もないありふれた味の紅茶だったが、身も心も多少潤った気がして、二人は気を取り直して現実と向き合う。
「君たちはこのままギルドを続けるのもいいし、解散するのも自由だ……っていうやつかあ」
 ワイヨールが弱りきった声で言った。
「……私は解散したほうがいいと思う。あの二人を諌めながらちびっこモモを守って、魔物とやり合うなんて、いくらなんでも無茶がすぎるよ」
 ギノロットとレリッシュの二人は率先して戦う職分だし、ブレロがいないとなると戦列をコントロールする役はワイヨールが請け負うしかない。マドカの入れ替わりでやって来たモモは、サブメディックとして着実に力をつけつつあったが、まだ精神的にマドカと、フォートレスのブレロの守護を必要としている。マドカは渋い顔になった。
「誰か経験のあるフォートレスに来てもらうのはどうかしら。ほら、交易場で会ったらギルドカードの交換なんて、するでしょう? あれを頼ったりできないかしら」
「ああ、その手もあるのか……」
 ワイヨールは意外そうに頭を掻いたが、彼が気がつかないほうがマドカには不思議だった。今や銀の稲穂団は三つの迷宮を踏破して、ミッションを解決に導いた有力ギルドだ。銀の稲穂団に来たがる熟練冒険者だって、探せばいないはずはない。二班の女の子たちを迎える話が知れると、嫉妬や羨望の声が聞こえたのも本当だ。それくらい銀の稲穂団は影響力を持っていた。一線から引きつつあるマドカさえ知っていたのだから、ワイヨールはもっとわかっていただろうに――だがそこまで考えてから、マドカは自ら首を横に振った。
「な〜んて……私、ブレロ以外の人がフォートレスです〜って顔してたら、嫌だと思うわ……」
 銀の稲穂団のフォートレスはブレロだ。エリゼには悪いと思いながら、フォートレスとして自慢できる者はまだブレロ以外にいないとマドカは感じた。短くはない旅の間に積み上げてきた信頼が、ブレロとの間にはあった。時に自らの犠牲もいとわない勇気を見てきた。彼の盾が敵の爪や刃を弾き返したことは数知れない。彼自身が怪我をしようと、迷宮のフォートレスとして仲間を助け、職分を果たそうとしてくれたのをマドカは知っている。
 そういうブレロだから、マドカは銀の稲穂団にまだ関わっている。彼の望みに応えたいから、せめてモモが一人前になるまで縁を切れずにいるのだ。
「もしブレロがいなくなったりしたら……」
 ワイヨールはそこまで言いかけて、先を言えずに首を振った。もしそうなったらマドカは、モモをウロビトの里へ帰し、ギノロットとレリッシュに他のギルドへの移籍を薦めるだろう――うんざりしたマドカはクッキーを掴んで、大きな口を開けて一息に押しこんだ。呑気に冒険なんてやれていたのも、モモを理由に冒険者ギルドに出入りできたのも、それで当然という顔をしているブレロがいたからなのだ。
 委任状は使わないことに決めた。その後の責任を負う勇気が、どうしてもなかったからだ。

 ブレロは衣裳を正してチェス盤を眺めている。身支度にうるさい祖父に合わせて、簡単でもそこそこまともな格好でなくてはいけなかったから、日ごろぱさつくままの髪の毛を、オイルで丁寧にまとめた。
 以前はタイを締めるのくらいなんてことなかったはずなのに、今日はいくら緩くても苦しい。ぶら下がっているだけのループタイがこんなに恨めしいのは初めてだ。ベストの実用性とは一体なんだろう、ポケットがもっと深いなら認めてやってもいい。スラックスは太腿が何となしにきつい。革靴も光輝くだけで歩きにくくて窮屈だ。型を取って作ったので、ぴったりちょうどいいはずなのに――俺、昔は結構おしゃれだったはずなんだけど、一体何だっけ? ギノの服装感覚が感染したのか?
 気まぐれで兄が貸してくれた変な色の伊達メガネだけが、唯一の気に入りである。身じろぎするとフレームがきらきら光を作り出し、万華鏡の中にいるようで面白かったのだが、レンズに写るあらゆるものが光っているのだから、実用性は皆無であった。何を思ってこれを求めたのかちっともわからない。兄も物好きである。
「何だ、今日はずいぶん冴えんなあ」
 玄関で足元を滑らせ後頭部を打ったという祖父だが、顔色はつやつやして髭も整っているし、白い髪もしっかり櫛を通して、病人のむさ苦しさは何もない。少し切ったという傷のために包帯を巻いているのと、膝裏の筋が痛むのとで、周りに安静にさせられているのだ。本来、元気一杯である。
 怪我などものともせずにチェスに取り組む祖父は、しかしブレロの本当の腕前を知っているので、面白くない。のらりくらりとした手が、始まってから五手も続いている。肝心の打ち手にやる気がないのだから、面白くないのは当たり前だった。
「学校を出てからの話もちっともせなんだし。結局仕事にはありついたのか」
「ええ、まあ。ぼちぼちですよ。人に恵まれましたから、結構うまくいっています」
「具体的には何をしとるんだ」
「製造業かな。モノが不足していると卸に泣きつかれるので儲かるときもありますし。名指しで仕事を頼まれることも少し増えました」
 どんな業界であれ仕事をしていれば当然ある話を、ブレロは面の皮厚く話した。銀の稲穂団は目下のところ、魔物の素材を売却した益が主な収入源だ。そして踊る孔雀亭の女主人に請われてクエストを受注した、なんてことが何度か出てきている。絶界雲上域の『南の聖堂』へ護衛を頼まれて、気球艇に辺境伯を乗せて連れたりもした。――何ひとつ嘘はない。具体性がないだけで。
 ちらりと祖父を見やると、案の定不満げであった。うっかり愉快になってしまい、ブレロは笑いを懸命に噛み殺した。冒険者になりましたなどと聞いたら祖父はたちまち怒り出すに決まっている。二番目の孫、つまるところ俺は、祖父の気に入りなのだから。
 騎士学校で城塞騎士の科に進んだときだって、散々に言われた。城塞騎士は民衆の警護もさることながら、戦場にゆかねばならぬことも、あるいは暴徒の鎮圧に駆り出されるときもある。暴徒鎮圧とは舐めた仕事ではなく、戦場に出るのと同等に危険だ。人の住むところには武器でなくとも、武器になるものがいくらでもある。包丁、鉢植え、一握の砂や石、煮えたぎった湯や油、害虫を詰め込んだ革袋……ああ、最後のは迷宮でも見た覚えがあるが、さておき、火炎瓶をまともに食らって焼け死んだ兵士の話さえある。平和で呑気とはいえ、タルシスは荒っぽい冒険者を抱えている街だ。
 ブレロとしては家業は商い好きの兄に任せて、必要なら協力するくらいのつもりであったし、兄も弟に事を強いたりしなかったし、何よりも父がブレロの奔放な気質を早々に見抜いていた。だから父はブレロを寄宿制の学校にやり、集団生活を学ばせ、せめて世間並みの常識を身に着けさせたのだ。そこに異論はない。その通りだ。むしろ感謝している。母には、命を誰にも譲らないのなら、悪さ以外は何をしてもよろしい、とだけ言われた。遠い母の笑顔がぼんやりと思い出され、しかしよくよく考えてみれば、短いわりに要求の多い言葉であった。……適当なところは母に似たかもしれない。
 それはよいとして。
 家を大きな商家に築き上げたのは曽祖父と祖父の努力の賜物で、尊敬はしている。そう簡単にできることではないし、辺境の街で艱難辛苦があったこともよく聞いた。そういった出来事に立ち向かった祖父たちと、同じことが自身にできるかわからない。尊敬せずにいられないのは本当だ。
 騎士学校に入れられた最初の年の夏休み、幼い彼は我が家に帰ってきて、その快適さに驚いた。やっぱり自分の家は居心地がいいなあと、満足して夏を過ごし、やがてむさ苦しい寄宿舎に渋々と戻っていった。
 しかしまた冬に戻ってきたとき、ふと、どうして何もしていない自分がこんないい思いをしているんだろうと考えてしまった。窓は大きく日が差し明るく、天井は高く空気がいつも澄んでいた。壁の漆喰は凹凸がなくなめらかに塗られて、床はいつも掃き清めてある。ほとんど使われていない彼の部屋さえ、塵一つなく清潔だ。
 寄宿舎では何でも自分でやっておかないと大変な目に遭う。掃除も洗濯も自分でする。整理整頓は徹底しろと教師たちには口酸っぱく言われる。食事だけは成長期だけに三食きちんと食べさせてくれるが、出されたものを無闇に残せば叱られる。
 そういった生活は、最初は覚束なくてもだんだんに身についてきて、やがて小さな彼は「自分でやったことが返ってくる」楽しみを知った。窓を拭けば曇りが取れて気持ちがよい、とかそういうことが好きになった。
 だから、滅多に使われない自分の部屋を眺めたとき、そこにあるものが他人の手によってもたらされたものばかりだと気がついた。それも学校や宿舎にあるより、ずっといいものばかり並んでいる。
 変なの、と幼心に思ってしまった。すべて親に買い揃えてもらったものばかりで、自分の力で手に入れたものは何にもない。学習机は祖父母が良い職人に頼んで作ったのを用意してくれた。一生使える、と言われて、そのときは飛び上がったものだ。つるつるの樹脂加工や真鍮飾りがたくさんある。使い勝手が悪いところなんて何もない。でも、自分はこの机で夏冬の宿題を片づけて、鉛筆を削り、ちょっとの工作をするくらいにしか使っていない。
 これらを受け取る正当性も合理性もないと思って気味悪くなった。この報酬に値することは何もしていない――子供だったので正当性などという言葉は知らなくても、要約すればそういう話になる。
 彼はだんだん不愉快になってきて、思春期を経て程なく距離感というものを学んだが、そうだとしても、もう嫌だな、と思った。多少不自由したり危険だったり不快な目に遭っても、自分で手に入れた生活のほうが楽しいと、はっきり感じたからだ。
 だったら、せっかくタルシスにいるのだし、フォートレスとして冒険者になったほうが気持ちいい。冒険者はタルシスの華ではないか。
 息子の苦悩を見聞きしていた父は、その我が侭を受け止めてくれた。父は鷹揚で優しい、タルシス人の見本のような人物だ。
「――おい、次の手はまだか?」
 わずかに険のある声に、ブレロははっとなった。現実逃避していたらしい。見れば盤の上は何とも華がない。ここにあっては、さすがに祖父の接待打ちくらいしておくべきだった。やる気がなさすぎて気づきもしなかった。適当に動ける大駒を、雑にボンと動かす。別にルールに反していない。ただの悪手なだけだ。
「何を考えとるんだ、お前は」
「いや、何も」
「そんなことは馬鹿でもわかるわ」
 祖父はさっそく大駒を取りにかかる。まるで子供と指している気分だろうな。ブレロは少しだけ祖父が可哀想になった。
「事業が忙しくなって人を多く雇ったとき、おじいさんなら何をしますか」
 ブレロはおもむろに尋ねた。そうとは言わないが銀の稲穂団のことである。黙っていたらきっとバレない。
「何をするも、教育だろう。イの一番にやらんか」
「どの程度教えるかが悩みの種だと思いませんか。早く一人前になってほしいけれど、教えるにも金や時間や人が必要でしょう」
「そういうことなら多少の経験のあるものを雇え、覚えが早い。あとは使うものの度量だ」
「度量、ですか」
「転ぶのを恐れていたら、いつまで経っても赤子は歩かん」
「なるほど。……本人たちも自由にやるほうが楽しいだろうしなあ。あの子たちのやる気をくじく真似はしたくない」
「……まったくお前もすっかり口が固くなりおって」
 祖父の恨めしい目を、ブレロは素知らぬ顔で受け流した。いちいち気にしていたら持たない。
「だが知っとるぞ、お前。隠そうとしても無駄だ。儂は転んでもただでは起きん男だ。サロモンが口を滑らしたのを知らんのか」
「……うん?」
 サロモンさん、なんですって。悪い予感にブレロは固まった。なぜ父の名が出る。
「一昨日儂が意識がはっきりせんで、死んだ婆さんが手を取ってくれた瞬間だ。サロモン、あやつめ『せっかくフェルナンが冒険者として名を上げてきたんですよ、まだ死ぬときじゃないでしょう!』などとぬかしおる。儂ゃ飛び起きたわ」
「……あはん?」
 間抜けな声が思わず出てきた。サロモン、何言ってくれたのサロモン!
 よほど気が動転していたのだろうが、それはどうあっても言わない約束のはずではないか。何があっても口を割らない代わりに、三十までにこの放蕩生活を終えよというのが取引だったのだ。ブレロにとってこの数年がどれだけ貴重なものか、おい親父、話違うだろ。信じてたのにひどい。サロモンのばか、うそつき、もうしらない! ――ブレロは少し壊れてきた。
「なぜ冒険者になったと素直に言わんのだ、儂はそれが気に食わん」
「気に食わんも何も! 城塞騎士の道を取ると言ったら一番大騒ぎしたのはお祖父さんでしょう。あれだけやかましくされたら、言う気になりますまいよ」
 いじけたように言い捨てた。あのときはのらりくらりしてから寮に逃げ帰って、父親が署名した書類を出して終いにしてやったのだ。どうか今回もそんな風に逃げたい。すると祖父はぷいとそっぽを向く。
「孫が冒険者なんて危険な真似をすると聞いたら、やめろと言うわ。親心ならぬ爺心じゃろ。ところがお前、フェルナン、そんなのはもう半年近くも前のことで、今は帝国の皇子や巫女の行方を追っているだと?」
 おや、とブレロは思った。風向きが変わった。
「よくご存知ですね」
 さすがの祖父もタルシス人、隠居したとはいえ冒険者の話題も耳に入れている。感心するとともに、困惑もした。これはどこまで突っ込もうか。
「たまたま会った辺境伯のやつから聞いたわ。主人が美人の『踊る孔雀亭』、知っとるだろう。あそこに連れて行ってやると、ツルツル口を滑らしおる」
 まったくしようのないやつだ。祖父は溜め息をつくが、それにはブレロも同意した。背筋に何度も冷たいものが走る。話すな辺境伯。ちゃっかり爺さんと知り合いになるな。頼む。何も話すな。
「それであの、ミッションとかいうのがまた出とるんだろう。儂らには手も出せん大きなヤマだな。お前も冒険者だというんなら、うまく立ち回ることだ」
 なまじ家に無関心だったことが災いした。辺境伯と祖父が繋がっているだなんて想像していなかった。祖父も古い商人だ、縁がないはずがない。おそらく祖父はもう、辺境伯からいろいろと話を聞いたのだろう。しかも聞き出したのではない。辺境伯が雑談をしただけなのだ。
「銀の何とかとかいう新人集団が綺羅星のごとく現れて、並みいる強敵も千切っては投げ千切っては投げ、次々見つかる新たな迷宮さえ平らげるが如く踏破しとる……とか言って。年甲斐なく目ェキラキラさして言うとったわ」
 ――危うく悲鳴が出てしまうところを、ブレロは何とか喉が鳴るだけに耐えしのいだ。くそ、辺境伯、あの髭面め、余計なことしか言いやがらない! ばか! ばかぁ!
「ともあれ、お前の名は聞かなんだ。人の口に登る程度の働きはせい。傍から見てて面白くも何ともない」
 はははとブレロの口から乾いた笑いが出た。喉が貼りつくようだ。指先もパサパサする。まだ首と胴体が繋がっているのを確認するように、かろうじて軽口を叩いた。
「冒険者なんて山ほどいるんですよ? 一人ひとりの名前なんて、とても覚えきれませんよ。その銀のナントカは噂になるだけ幸運でしょう」
 祖父は黙った。
 その間に、指揮官が無責任に動かしたポーンが、祖父に討ち取られる。ポーンは盤の外に転がった。今にキングも取られるだろう。
「で、お前のいるところは何というギルドなんだ」
「お答えしかねますね」
 ブレロは即答した。他に答えはない。当たり前じゃないか。
「誰であろうと親類縁者の介入は遠慮します。冒険者としての僕が、関わりをお断りしているのはもうお気づきでしょう」
 あれは俺の俺による俺のためのギルドだ。遊びみたいなクエストを経て、力を得ながら、絆を深めて、やっと人に自慢できるほど育ったギルドを、俺以外の誰が何をどうしたいっていうんだ――と言い募りそうになるのを、ブレロに詰め込まれた躾が押しとどめた。オーケー、俺はまだ紳士。
「ふむ」
「もしもお祖父さんがギルドに手出しなさるなら、僕は家から消え去りますから、そのおつもりで」
 書類みたいなことしか言えない自分に頭が来る。このタルシスでも名の知れた商家に生まれた俺は、人生のうち取るに足らない間だけ、生まれを気にせず生きたいと望んだ。望みの対価に残りの人生を捧げると誓って! ――これは自由の前借りだ。果たされないのなら、俺は莫大な金をかけて育ててくれた家を捨ててやる。
「なるほどなあ……」
 そう言ってから、祖父はかたわらにある水差しから、グラスに水を注いだ。グラスは飲まれずブレロのほうへと差し出される。
「いろいろと理解したぞ」
「それは結構です」
 ブレロはグラスを受け取る。
「フェルナン……お前、怒りに任せて語るに落ちる欠点、何とかせい。そんなことではこの先、銀の稲穂団も苦労しようぞ」
「――ふん? 銀の稲穂団が何?」
「うんじゃない、何が結構なものか。間抜けがベラベラ喋るから、銀の稲穂団の城塞騎士がお前だと確信を持ってしもうたわ。お前はネギ背負ったカモか。この先お前がこんなことなら、垂れた稲穂も刈り取られようぞ」
 ブレロのキングを蹴散らして、祖父は背中のクッションに勢いよく埋もれ、青二才めがと罵倒して、右手で孫を追い出そうとした。
「世間に揉まれた老兵に勝とうなんぞ百年早いわ。ふん、わざわざ秘密を暴くなんて趣味ではない。さっさと引っ込め」
 あ、そういうこと……。
 体中の血液が電気を帯びたみたいにふつふつとして痺れた。結局は祖父の推理に協力しただけだというのか。祖父はただ、俺が一介の冒険者だと父に聞き、辺境伯に銀の稲穂団の噂を聞き――俺にそういった事実を繋ぎ合わせたにすぎないということか。
「――若輩でした、」
 もういい。
 そこまでバレたのならば、いっそ祖父には最後の一つを吐いておかなくてはいけない。ブレロはふらふらしながら立ち上がった。一番大切なことを、まだ言えてさえいないのだ。それは俺の核なのだ。
「でも、カネは意思です。言葉にもなる。俺は子供のころから洪水みたいなカネに囲まれて生きてきて、だから俺は、自分で決める前から現れるから……」
 今まで言ってはいけないと引き止めてきた言葉を引きずり出そうとして、しかしそれは最後のあがきをし、口の中で膨れて留まった。絶対に冒涜的な考えだと思われるだろう。十年以上殺そうとしても、ついにそうしきれなかった言葉だ。でももし言わなければ、きっと俺は明日から立ち上がれない。
 動悸がして、息が荒くなった。だがブレロは『そいつ』の背中を押した。
「……それが、嫌いだったんです」
 もう二度とこの家の門をくぐれなくても、冷たい路地裏で死ねれば幸い。もしも俺を捕まえるのなら、後は知らない、好きにしてくれ。
 ブレロは幽鬼のようになりながら、祖父の部屋を出ていった。ひとの顔なんて見たくもない。とてつもなく腹が立つ。

 ゴツンゴツンという音がノックだということに、サロモンは気づくのが遅れた。ノックのわりには音が重すぎた。
 とてもゆっくりとドアが開き、影から茶色いオールバックがのそりと現れる。二番目の息子だった。やっと離れから戻ってきてくれた! しかし次男は上半身だけこちらに見せて、
「話、終わりましたので」
 どうにか絞り出したような低い声で、告げた。右手に子豚の握りのステッキをぶら下げて、表情は消え失せている。サロモンはゾッとなって心臓が止まった。向かいに座っていた長男もヒッと息を飲んだ。
「面倒かけました。少し寝ます」
「ちょ……ちょっと待ちなさい」
 サロモンは慌てて次男を引き止めた。明るい次男が異様なほど無口だ。かなりまずいという予感に襲われた。それが誰のせいなのかなど、わかっている。他ならぬこの父のせいで次男は谷底に突き落とされたに決まっている。ただそれを自分の口から言うには、あまりにも申し訳なくて、どうしても言えなかったのだ。お前の話を祖父にうっかり漏らしてしまったなどとは。ああ、この様子だと長男も言えなかったのだ。言えないだろう、次男は冒険者である自分が大好きだから。
「なにか……?」
 意気消沈した声に、ままままぁ、と取引先に出すみたいな声音になるサロモンである。立ち上がっては手招きして空いた椅子を勧めると、意外にも素直に寄ってくる。ステッキが無気力にぶらんぶらん揺れていた。次男の好きな、ひょうきん顔した金の子豚のステッキだ。
 成人の年にカタログの中から悩んで選んで、「道化みたいな顔の子豚にしてほしい」と言ったステッキが、それだった。ずいぶん気に入っているらしく、ごくたまに帰ってきては磨いていたので、サロモンは嬉しかった。家族の中で一番明るい次男だから、まさにぴったり似合っている。長男によると会話までしているらしい。
 だが、子豚のおどけた顔が現実を突きつける。昔の石像みたいな無表情の次男が怖い。
「あのな、いい酒が入ったから、ちょっと持って行きなさい。旨いから」
「ありがとう。後でいいです」
「そこの棚に入ってるやつな、チョコレートとよく合うんだ。後でと言わず持っ、」
「いや、落としそうだからいい」
 言いかけたところで、思わぬ早さで機先を制する次男である。事情を知っている長男の姿勢ががくりと崩れ、肘掛けにもたれかかった。小刻みに震えているところを見ると怯えている――のではなく、笑うまいと必死で耐えているのだった。
 笑いを喉の奥でこらえる兄を無視して、空いた椅子に掛けようかとしたとき、あともう少し、まもなくだというところで、次男はピタリと動きを止めた。何かを見つけたらしかった。サロモンの真正面、酒の並べた棚の上にかけられている、一枚の絵画だ。
「……オオヤマネコじゃーん」
 いつもは壁の絵など感知せぬ次男が珍しく目を留めたのは、異人種ウロビトたちが棲む霧の森の中の、オオヤマネコという生き物の絵だった。絵の中でつがいになった二匹のヤマネコは、こちらの世界を注意深く見つめている。
「いたなあ、こいつら……」
 どこか間延びした調子で言ってぼんやりと近寄っては眺め、ステッキをもてあそぶ。サロモンがこの絵を求めたのは次男のことを思い出したためであるが、当の次男は、タルシスの周辺に棲息しないヤマネコさえも、直に見たことがあるようだった。
 次男はしばらくその絵を眺めていた。冒険の話は一切しない息子だ。サロモンは息子の背中を、ただじっと見つめるしかできない。ステッキはくるくる振り回されている。アイボリーの背広をしっかり着こなした背中はフォートレスらしくたくましかったが、その心中やいかばかりか。謝ろうとしてもなかなかタイミングが掴めない。言葉に迷う。息子の人生を台無しにした現実に向き合うのは、かほどに勇気がいるものか。サロモンが次男の肩に触れるか触れまいか迷って、ようやく右手を持ち上げた。
 が。
 次男は突如何ごとかの呪文を素早く唱えると、その絵画をステッキでしたたか打ちつけた! 雷光がキャンバスを走り額縁をカッと白熱させ、あたりに小さな稲妻が散り爆ぜる。何かの技が炸裂したのだ!
 父はあまりの雷音に吃驚仰天して大声で叫び、長男は呆気に取られていた。
「――あ。ああっと……」
 次男は煤で真っ黒になった子豚を見つめ、絵を見つめ、呆然としてつぶやき、ゆるゆるとこちらを振り向いた。何か起きたのだか信じられないみたいな顔をしている。
「ごめん、なんか、つい……」
「……もういいから、いいから! そんな人生終わったみたいな顔をするな!」
 兄が大笑いしながら弟を引きずり出していき、その代わり使用人たちが何事であるかと主人のところまで駆けつけてきた。
 父は心で泣くしかなかった。本当は一緒に夕食をと思っていたが、すでに望むべくもないのはよくわかった。サロモンはついに懺悔の言葉を伝えられず、黒焦げになったオオヤマネコの前でうなだれた。