レリッシュと風止まぬ書庫

 北からの暴風に逆らいながら訪れた小さな迷宮では、藤の花がさながら吹雪のように舞い散っていた。東から明るい光が斜めに差し込み、白と紫の花吹雪をさらに鮮やかに彩って、古の書と炎を隠し持つ迷宮がこんなに美しい場所だなんて思いもよらず、レリッシュは足を止めてしまった。
「うそみたい」
 入り口から一歩も動けなくなり、感動の溜め息とともに、我知らず声が漏れた。びょうびょうと吹きすさぶ風が黒髪を煽って口に入りそうになるので、レリッシュはそれを押さえた。
 迷宮は藤の香りが満ちていた。風に襲われてもなお香る蜜が、レリッシュの頭をくらりとさせた。いざなわれてその甘やかな空気を胸いっぱいに吸い込むと、視界に映るすべてが滲んでいく。
「レリッシュ?」
 隊列に加わらないのに気がついたモモとワイヨールが振り向き、声がかかるが、レリッシュは喉が詰まって返事さえできない。
 片隅に溜まる花がらまでも、つむじ風に巻き上げられて壁から天井に吸い込まれていくのだ。なんて不思議な光景なんだろう。どんな話を見聞きしても、こんなに美しいところへは連れてきてもらえなかった! レリッシュの狭い胸は感動をぎゅうぎゅうに詰め込まれて、何もかもが涙になる。
 前に進みかけていたブレロも気がつき、ギノロットも止まった。ブレロが喉の奥で笑う。
「ごめんなさい……あんまりきれいで……」
「小休憩だな。しばしの花見といこう」
 ブレロが戻ってきて、盾とともに壁に寄りかかる。小さなモモは彼の腕にしがみつき、ワイヨールが彼女の絡まりかかった髪の毛を掻き分けてやった。
 少し向こう、光の中で、ギノロットが一人きょろきょろしながら立ち止まっていて、それからやっと周りに誰もいないことを悟った。小走りで戻ってきて、滂沱のレリッシュにぎょっとなる。
「泣くほどかよ」
「すみません……」
「ほんっとよく泣くな、お前」
 言って彼は苦笑し、レリッシュの頭をぺしぺし叩いた。そして、盾をかざして彼女の左手に背を向けると、ギノロットの体にさえぎられ、レリッシュにぶつかる風は少しだけ和らいだ。
「でもここ、綺麗なとこだな。俺も思うわ」
 背中越しの微笑みにレリッシュは胸が苦しいほど嬉しくなって、もう涙がいつごろ止まるのか、わからなくなってしまった――ぶっきらぼうでも、なぜだか時おり優しい人に、レリッシュは淡い恋をしていた。ともに旅をする中で、ギノロットという人は、レリッシュに少しだけ微笑んでくれるようになった。レリッシュの不器用を少し笑って、仕方なさそうに請け負ってくれる。
 彼の少し固い微笑が好きだった。よく話すわけでも、特別に気が合うわけでもないが、ギノロットという人の涼しげな目元に、ついつい心惹かれてしまう。
 そして今、恋の相手がレリッシュを風からかばって、舞い踊る甘い香りの花に見惚れている。美しいところに好きな人と同じ気持ちでいられる、温かい幸せを噛みしめた。

 ――ところで、この風で矢はまっすぐ飛ぶのだろうか?
 ギノロットのそういう具合のぼやきが耳に入り、レリッシュは我に返った。パチパチまたたいた目蓋から涙が二つ三つ零れるのを、首を覆うストールでぐいとこすった。
 言われてみれば本当にそうだ。この風では、とても普通には射られない! レリッシュは背筋に冷たいものを覚えながら、弓に矢をつがえず押してみた。もちろんできた。でも弓そのものが風を食って、ぐらぐらぶれる。どんなに腕で押さえつけても、まるで駄目だ。ハーフパンツの両足に下げたバランサーもきりきり舞いして膝の表裏にポコポコ当たる。とても自分の姿勢を確かめるためになんか使えない。
 逆らって歩けない風となると、風速は十七メートル毎秒くらい、だろうか――レリッシュはおののいた。そんな非常識な! 泣いている場合ではない! 涙なんてすぐに引っ込んで、慌ててブレロに助けを求めようとしたら、こちらの慌て顔ですべてを察した彼は、戦鎚を持った拳を強く握ってにっこり笑った。
「ガンバ、プロハンター!」
「そんなあ!」
「レッツ・エンジョイ・シューティン!」
 そんなひどい、エンジョイどころの騒ぎではないのに……レリッシュは目の前が真っ暗になった。
 仕方がないからレリッシュは、やけくそ気味にガンバった。いつもより一歩前に出て、力の限りに弓を押して矢を射った。別に力押ししたところで弓の重さは同じだし、矢の初速だって変わらない。しかしこもる気合いがきっと違った。いつものように際どい射線は取れなくても、仲間に誤射せず敵を射った。モモイロカラスの巨躯が現れたときは、神さまにありがとうと心で叫んでバンバン当てた。ギノロットに、
「なんか恨みこもってんな」
 などと言われても、体の大きな死骸を見つめて、大いに鼻を高くする気持ちを忘れてはいけないのだ。風に乗って刀を振り抜いて遊んだり、ジャンプ斬りの滞空時間を楽しんでいるような人に、なんにも言われたくない。考えを変えないと、わたしはこの迷宮でおまけになってしまう!
 わたしの辛さをわかってくれるのは、きっとワイヨールだけだ……そう思ってチラリと後列仲間を見ると、彼は風なんてものともせずに、いつも通りの調子で後ろから火球を投げ、氷槍を撃ち、ときに前に出ては雷撃を放っていたのである。その相変わらずさに信じられなくなって、思わず弓を押す手が止まった。唯一違ったのは、立ち位置から最初の一撃にやや時間がかかるのと、焦げ茶のローブが風に煽られて、時々本人が腕を持っていかれそうになるくらいだ。それでも彼の手元に一切の狂いはない。順風だろうが逆風だろうが、どんな印術も吸い込まれるみたいに魔物に当たる。
 少し見ていたら、彼が何をしているのかわかった。自分が風を受ける角度によって術の飛ぶ速度を変えて、正しく当たるようにコントロールしているのだ。彼の術を『指し示す左手』のロッドがまったくよそを向いていても、術は彼の獲物にしたたかに命中した。やがて慣れてきたのか、敵の背中に術を当てようと工夫を始める始末。
 見てはいけない。あの人はきっと、何かが変。
 ……どうしてスナイパーじゃなくてルーンマスターの彼がよほどに正確なのだろう? もういっそワイヨールが弓を持てばいいのに。あの人がいたら、わたしなんていようといまいと、どちらだって同じではないか。つくづく人を馬鹿にしてる!
 完全に頭に来てしまって、レリッシュはもっとガンバった。相手が硬いメタルニードルだろうが、チョロチョロ動きの火炎ネズミだろうが、構わず弓矢の的にした。もう男の人たちの誰かに当たろうが知るものか。もし仕損じてしまったら、……それは考えないでおく! あえて! わたしは全然痛くないから構わず右手の矢を放てーッ!
 レリッシュは暴風の中、一人黙々と精密射撃の訓練を積んだ。今ならブレロの正中線に全射的中させられそうでも、その誘惑には乗らなかった。
 それで、たぶんよっぽど鬼気迫る顔をしていたのだろう、恐るべき射線を選ぶレリッシュを、男性たちはチラリと見て、それきり何を言うでもなかった。優しいモモが魔物の足を封じようとしてくれるのだけが、たった一つの慰めになった。
 スナイパーはいつでも孤独だ。

 ……そうやって頑張ってしまうから俺が無茶な要求をしてくるのだ、と本当はブレロは言いたかったのであるが、本人が一生懸命やり抜こうとしているので、強いて何も言わないでおいたら、努力の甲斐あって『黒き者の炎』は無事に手に入れることができたし、『天の垂水』号はさらなる高空を飛ぶ力を手に入れ、余計な横槍のなかったレリッシュは以降、どんな嵐だろうが鳥を捕まえてくる名猟師として、一部界隈では少し名を博したらしい。元々小柄ながらもよいハンターとして知れた少女だが、今度は凛々しいリボンの技巧派猟師として、またひとつ評判が上がったそうだ。やったぜレリッシュ、さすがは君だ。
 そんなレリッシュを擁していた銀の稲穂団はまたちょっぴり有名になり、ほくほく顔のリーダーは、そぞろ歩きするタルシスの街で軽く楽しく口笛を吹いた。労せず一番得をしたのはもちろん、銀の稲穂団のリーダー・ブレロなのである。