銀の稲穂団と碧照ノ樹海

 レリッシュは間髪入れず矢をつがえた。前のめりに倒れる赤熊に向かって弓弦をぎりきり言わせ、今度は心臓に狙い定めて射ち放った。倒れようとも気を抜いてはならない。野生の獣は生き延びるためなら、最後の一瞬までもがき続ける――狩猟者としての経験が彼女を油断させなかった。矢は赤熊の背中に深々突き刺さり、ギノロットが駄目押しとばかりに頭蓋を叩き割る。赤熊の強張る体は、ついに痙攣さえ止んだ。
 ギノロットが剣を梃子にして引き抜いたとき、レリッシュはようやく弓矢を下ろした。重たい四肢を見れば事切れているのは明らかだったが、メディック・マドカは、ブレロの影から恐る恐る顔を覗かせる。
「もう……平気? 本当に?」
「頭カチ割ってもまだ死なねーってか?」
「んもう、そうじゃなくって。気持ちの問題よう。ああ……怖かった」
 固く握りしめていた医療鞄の肩かけをパッと手放して、マドカは大きく息を吐き、腰を抜かして座り込んでしまった。
「だめ。しっかりして、マドカ。次があるかもしれません」
 レリッシュが手を差し伸べるとマドカは慌てて鞄をかけ直し、力を借りて立ち上がろうとした――まさしくその時である。
 突如四方から沸き起こった獣の雄叫びを、彼らは迷宮そのものの咆哮かと勘違いした。マドカとレリッシュは手を取り合ったまま呼吸さえも止めていた。否、止まってしまった。碧照ノ樹海の至るところから轟く絶叫に人間たちは恐れおののき無意識に身を寄せ合い、自身の得物に力がこもる。
 やがて声が収まっても、ブレロは虚空から目を離せないままでいた。一言発するのがようやくだった。
「街に戻る。『糸』を使おう」
「あの……この熊、爪や毛皮は使えそうですが」
 それでもレリッシュが引き止める。ただの魔物の素材ではなかった。冒険者や兵士を惨殺し、混乱と恐怖を与えたあの赤熊だ。この場にさえも、志半ばで果てた者たちの死骸が転がっている。持ち帰れば懐が潤うだけでなく、当面英雄の顔をして過ごせるだろう――アリアドネの糸を出しかかっていたワイヨールも、逡巡で手を止めた。
「少なくとも……赤熊を倒した証拠が欲しいね。とてもミッション完了とは言えないけど、私たちが倒したって事実を知らしめなくちゃ」
「知らしめるって、誰に」
「誰でもさ。辺境伯でもギルド長でもよその冒険者でも、タルシス中に。言えば数年ぶりに時間が動き出すんだよ」
「……爪を取ろう。毛皮は無茶だ。そんな余裕はない」
 何が起きたかわからない迷宮で、長居していたくないのはみな同じだった。ぎこちない動きで彼らは、赤熊の爪を引き剥がそうと取りかかり、狩人レリッシュの指示でギノロットとブレロが熊の前脚の腱を断ち始める。ごわつく肉球にふんぷんたる被毛、触れただけでも皮膚が裂けそうな赤黒く禍々しき爪は、数多の人間を屠ったことが明らかだった。
 と、手伝いの片手間に何かを見咎めたワイヨールが、声を上げる。
「……マドカ。何をしてるの」
 生物を死体や肉や素材にするの慣れきっていたレリッシュさえも、その様子にぎくりとなった。
 非力がために手伝えることがなかったマドカが、人間の死体に手をかけている。全身に死体の血を浴びて、まるで死体漁りのように――。
 全員が言葉を失っているのにようやく気がついたマドカがはっと顔を上げ、大袈裟すぎるほどに首を振った。
「ち、違うわよ! 勘違いしないで。見習いだけど、私だってメディックなのよ? この人たちをこのまま放ってなんておけないわ」
 一対の真っ赤なリボンが柔らかい髪とともに揺れた。魔物に食い荒らされ、時間の経ちすぎた死体に向かって何が違うのかと痛いほど沈黙が落ちたあと、曲がりなりにも騎士だったブレロがやっと口を開く。
「もしかして……認識票か?」
「そうよ。この人は兵士でしょう? 首か腕に名札をつけてるはず……あんもう、暇なら手伝ってちょうだい、ワイヨール!」
 抗議を受けたワイヨールが慌ててマドカを手助けし、頭や腕のない何人かからも、認識票を回収できた。
 一方で、このままでは迷宮の土となる運命であるのにも関わらず、冒険者たちの身元を示すものは得られなかった。いや、あえて探さなかった――剣や鎚、盾がそれらにあたるのかもしれないが、重たい装備をこれ以上持って歩くことはできなかったのだ。差し出す先もない。ひととき預かるにせよ、冒険者の遺物はいつも多すぎて、また場所を取りすぎる。
 ともあれ彼らへのせめてもの手向けにと、マドカは血で汚れた樹脂の手袋を外し、死者へ捧げる聖句を呟き、そして穏やかに与えられるはずだった末期の水を振りまいた。ブレロがわずかに作業の手を止め、メディックの彼女を見守りながらぼつりとつぶやく。
「……こいつらは、運がいいよ」
 レリッシュがようやく赤熊の爪を引き抜くと、ワイヨールが待ちかねたようにアリアドネの糸を解いた。磁軸と同じ色したマゼンタの糸が生き物のように波を描いて五人を取り巻き、死に満ちた迷宮から、人間の街へと導き始める――この遁走に誰も何も言わなかった。みな、不吉と恐怖の現場から一刻も早く退いてしまいたかった。

 銀の稲穂団が偶然にも碧照ノ樹海の『地下三階』を発見して、十日は経っただろうか。日を経るごとに調査兵団が組織されたとか、とあるギルドが壊滅的被害に遭ったとかの噂は伝え聞いても、迷宮の全容はなおもはっきりしない。
 迷宮に挑む冒険者は数知れずいても、『踊る孔雀亭』や冒険者ギルドで情報収集を続けるに、人間はもっぱら熊に脅かされては探索が難攻している。未踏破領域を見つけた銀の稲穂団もまた、赤熊と例の咆哮の主を恐れて、躊躇していた。迷宮の熊どもは依然として恐るべき魔物だった。
 街中の冒険者がやきもきしながら互いの様子をうかがっていたとき、さる晩にどこかの有名なギルドが、メンバー一人の負傷と引き換えに重要な考察をもたらし、事態は一変した。『黒熊も赤熊も自分の縄張りにだけ執着する』『縄張りを出ると追撃が止む』――その情報が冒険者ギルドにもたらされた途端、瞬く間に冒険者中へと広まった。それも、タルシスでは希少な素材『藍結晶』の発見情報とともに!
 この藍結晶、高性能な鎧に欠かせぬ重要な素材の一となった。騎士であったブレロの語るに、街の兵士はともかくとして、一介の冒険者など滅多にお目にかかれる代物ではない。しかしベルンド工房の親方が、その鉱石で迷宮向けの一丁をあつらえると、これが冒険者垂涎の的になった。
 赤熊の爪もまた素材として有用だった。親方の鑑定眼によって、罠矢をかける弓に使えそうだとわかると、レリッシュは飛び上がって喜んだ。またしても彼女の懐は寂しくなったが、新たな相棒の完成を待つしばしの楽しみを得たのである。
 銀の稲穂団は十一日目の朝、冒険者ギルドの貸し会議室で地図を広げ、碧照ノ樹海を改めた。コインや消しゴムやポケットのがらくたを駒代わりにしながら、地図上のどこまでが熊の根城か、どこが藍結晶の採掘場所と目されるのか精査したのである。迷宮の攻略を脇に置いて、辺境伯も一流のお墨つきを出す先輩冒険者、ワールウィンドの言に図らずも従った。体を動かしてどうにかするよりも遥かに骨が折れる、うんざりするほど気の長い作業だった。どこそこで熊の足跡を見たとか、樹皮にこすりつけられた被毛の痕跡があったとかを、細かく掘り起こして地図に記してゆくと、やがて、どの熊の縄張りとも違う、境界線を縫うような一筋が浮かび上がるではないか――辿ればまさしくこれこそが『地下三階』の奥地、闇雲に熊を恐れては立ち入れない藍結晶の鉱脈であった。地道な検証の末、銀の稲穂団はとうとう藍結晶を入手せしめたのであった!
 装備さえも整えたのなら占めたもの。迷宮を散々にさまよい歩き、かつ赤熊討伐さえ成し遂げて、いくぶん迷宮の技量に自信を持ち始めた銀の稲穂団は、辺境伯のミッションを達成すべく、満を持して碧照ノ樹海の主、通称『獣王』のねぐらに飛び込んだ。いくつかの無謀なギルドが姿を見るなり逃げ帰り、無謀に挑んでは返り討ちに遭った獣王、ベルゼルケルと呼ばれる魔物の住み着く場所へ。
 しかし獣の臭いの充満するこのねぐらで、毛を逆立てて威嚇する獣王の巨体を目前にしては怖気づき、やはり引き返すか否か、半ば畏怖に、半ば混乱に、身じろぎもままならず思考だけが空転した。銀の稲穂団が自分たちもまた無謀なギルドだったのかと錯覚し始めたとき、
「あっ……わかった」
 と出し抜けに声を上げたのは、珍しく黙りこくっていたルーンマスター・ワイヨールである。明確な殺意が満ちる場所で彼の声は一際明るく響いたので、人間のみならず獣王ですら一歩たじろいだ。
「ちょっと、そこにいてくれ!」
 叫んだ彼が一人身を翻した先は、赤熊の姿が見え隠れする小藪ではないか。一同は目を疑うが、ワイヨールはあくまで確信的な足取りで藪を駆け抜ける。縄張りを侵されたのに気づいた赤熊が怒りの形相で突っ込んで来るのさえ、お見通しとばかりに、ワイヨールは一瞬で印を刻んだ。ルーン・ガルドゥルが光り輝く!
 本当に銀の稲穂団が驚いたのは、次の瞬間だった。完成した術は熊とは真逆のあらぬ方向へ閃いて、迷宮の『壁』を激しく焼き焦がしたのだ! ぶすぶすと焦げる生木と倒木と雑草からは白煙と黒煙が混じり合い立ち上り、そしてなんと樹液の得も言われぬ甘い香りがあたりに広がった――甘いものに目がない赤熊が焦げた壁へと近づき鼻を寄せ、樹液を掻き出そうとして爪を叩きつける。熊の強腕は半焼けの壁を容易に引き割いて丸太が転げ、甘い匂いは一層濃くなった。赤熊は丸太にむしゃぶりつき、ワイヨールは結びかけた術を解いて光が四方へ弾けた。
「来い、今のうちに早く!」
 言って裳裾を翻し、無理矢理に作られた抜け道の先へ消えていく。置き去りにされてはたまらない残りの四人も、木の残骸を蹴立てて走り抜けた。
 みな口から心臓が飛び出しそうになりながら、やっと理解が間に合ったのは、抜け道の下り坂を止まれぬワイヨールに追いついてからのことだった。彼のローブの端をギノロットが引ったくって止めたのである。ワイヨールはつんのめって転びかかるが、寸でのところで免れて、屈託のない笑顔を見せた。
「はは、こんな坂道とは思ってなかった! ありがとう、ギノ」
「あ、ありがとーじゃねーだろ! 急にお前!」
「ねえ……ねえ。私たち、本当に、壁を越えてきたの? あんな、熊の横を走ったの? 逃げてきたの?」
 マドカが呼吸を乱して坂を振り返ると、空に向かってまっすぐ伸びている木々に丈夫な蔦が絡みつき、垂れ下がり、深き隔たりを成していた。藪からはまだ白黒の煙が上がっている。
「何となくおかしいと思ってたんだよ! 前に木の隙間から獣道が見えた気がしててさ。獣に行けて、人間が行けないわけないじゃない? 地図で言うと……うん、貸してマドカ」
 ワイヨールは息も絶え絶え、受け取った地図を広げて見せた。彼の差した現在地――と思われる場所。必死になって走った道の正しい経路はもはやわかろうはずもない――はなんと地図の外の空白地帯。すなわち数日前に街で彼らが進入不可と判断した場所の向こう側である。つまりワイヨールは本来ならばとても道とは呼べない場所に、甘い樹液を含んだ木々の性質と、樹液を好む熊の嗜好を利用して、まんまと道を作らせたのだった。
「おまっ……まさか勘で突っ込んだのかよ! なんでそーゆーの、街で言わねーんだっバカタレ!」
 前衛のギノロットは派手に声を上げた。時間をかけて検討さえすれば、わざわざ危険な思いをして特攻せずに済んだのだ。だがワイヨールはもっともらしく頷きながらも、『地下三階』は前人未到の樹海であるとあくまでも主張するのだった。
「だって道なき道を進んでるんだよ、忘れてたって大目に見てよ。それに結果的には、なかなか確かな勘だったじゃないか。あのまま『獣王』と向き合っていたらどうなったと思う?」
 嘘か本気かわからない表情でぬけぬけと言うので、ギノロットは思わず舌打ちした。
「ここでケンカしてもしゃーねーから、しねーけどな。街帰ったら覚えとけよ!」
「あは。ただじゃやられないから、きみこそ覚えておきなよね。命拾いしたのは本当のことだもの」
 ワイヨールが慇懃に笑うので、ギノロットはとうとう大きく溜め息をつき、見兼ねたブレロも抗議の声を上げる。
「だからって……まあともかく助かったが、実際どうかしてるぞ。肝が冷えたじゃねえか」
「ごめんごめん。次から気をつけるよ」
「……よろしく頼むぜ」
 ワイヨールに反省の色はない。何を言ってもどうにもならないとブレロは理解し、せめて念だけを押した。
 みなで喉を鳴らして水を飲み終えて、銀の稲穂団は戦々恐々と出発した。逃げたはよいが、この道が脱出経路になるのか、どこへも通じていない行き止まりなのか、はたまた熊の巣に再び首を突っ込むことになるのか、誰にもわからない。迷宮最下層の道は何も語らず、ただひたすらに下っていく。獣しか踏み分けたことのない下り道が続いている。まるで煉獄の道だった。

 しかし一歩一歩を神経質なほど注意深く進んでいくと、偶然か必然か、銀の稲穂団は獣王の巣の真裏へ通じる道を得たのである。それもこの位置は折よく風下、獣王の嗅覚に感づかれぬまま、密かな接近に成功した。
 ギノロットが重たい背嚢をそっと置き、音もなく剣に手をかけ、ブレロと目交ぜする。後衛の三人も頷き返す――瞬間、ギノロットは飛び出し獣王の巨大な背に斬りかかり、背中を切りつけられた獣王の悲鳴と樹海に降る血雨の重い音で、戦いは幕を開けた。
 爪と牙と剣と鎚が何度も交錯し、矢が貫き術が閃いて、危うい一撃を何度も盾が受け止める。武具に身を固め、迷宮を拓く技を束と成して、樹海の王に立ち向かった。レリッシュが一瞬の隙を突いて罠矢で腕を絡め取る。
 再び背後を狙う好機を得てギノロットが回り込もうとしたそのとき、獣王は罠を振りほどこうと自らの腕に食い込んだ罠を爪で引っ掻いて、力任せに振り回しては噛み千切るとあっけなく罠が弾け飛んだ。並の魔物には充分な罠が獣王の剛毛と腕力に一歩及ばず、レリッシュは唇を噛み、力を取り戻した獣王の前足はたちまち激しく振り上げられる。間近になったブレロが反射的に身を翻すと、フォートレスの線上にいたマドカの細身が露わになった。驚くマドカが逃げるより早く獣王にしたたか叩きつけられ転がった。受けたことのない衝撃にマドカは悲鳴すら上げず、自分をかばった腕のえぐり傷から鮮血が散った。ギノロットがたたらを踏んで気炎を上げる。
「ちきしょう! 一番狙っちゃなんねーやつを!」
 ブレロの盾が割って入り、レリッシュがマドカを抱えて遠ざけると、狙い澄ましたワイヨールの火球が獣王の鼻面で炸裂する。堪えかねた獣王の二度目の絶叫、駆け出すギノロットが口腔へ向かって剣の切っ先を突き上げ、顎を引き裂く湿った音が人間の耳に響いた。足掻こうとする体から深くめり込んだ剣を抜こうと引くこと二度三度、
「どけ、ギノロット!」
 四度目にブレロの鎚の激しい殴打が剣をえぐらせ、顎を破壊し派手に血が噴き出した。身の毛もよだつ苦悶の形相で倒れ込み、這いずりながらもがき続けるのを、ブレロが脳天に再び痛打をくれる。血と骨が砕け散り脳漿が跳ね跳んで、とうとう獣王の命運は尽きる――。
「マドカ! 返事をしてください、お願い。しっかりして!」
 人間たちに時間が戻ったのは、レリッシュが叫んだからだった。レリッシュが抱き起こそうとしても、マドカはぐったりと力なく、青褪め干からびた唇がわずかに動くだけで、声にならない。左腕が深手を負って放り出され、額に脂汗が浮かび、亜麻色の美しい髪には血が絡まってべっとりと頬に張りついていた。
「頭やられてんだ、黙ってろ」
 剣を失ったままのギノロットがマドカの医療鞄を乱暴に開け、はたと止まってブレロに指図する。
「エタノール出して。どれがどれだか分かんねー」
「……ギノ、お前できるのか?」
「いーから早く! ワイヨール、こいつの腕縛って、血ィ拭いて」
 言われた戸惑い顔のワイヨールは、油紙に包まれたガーゼを押しつけられたので取り出して裂き、二の腕を固く縛りつけ、流れた血を拭き取り始める。一方ギノロットも清潔な布でマドカの額の血を拭った。
「ギノ、あったぞ。これだ」
 ラベルを読んだブレロが大瓶を差し出し、もどかしく引ったくったギノロットは瓶を開けてピンセットにかけ流しながら、
「あんがと――タルシス来る前、ちょっと覚えた。ワイヨール、これで腕洗って。……レリ、ンな顔すんな」
 我知らず不安な表情になっていたレリッシュは、言われて初めて自分のひどい顔に気がついたのだった。弓を下ろす彼女はまごついた。
「あ、すみ……すみません。ごめんなさい。ええと、あの、わたしにできることは、」
「そのまま支えてて。……あっ、なー待って、メディカある?」
 レリッシュは自分のポーチからメディカを素早く取り出して、手渡した。そのままじっとマドカの様子を見守る。求められてマドカの頭を傾け、治療を手伝う。
 額の血を拭い傷を洗い止血し、どうやら傷は重くはないことがわかり、ギノロットがマドカの左腕にようよう包帯を巻き始めたころ、メディカが気つけになったマドカの唇が再び動いた。
「……ギノちゃん、」
 うっすらと目を開き、絞り出すように呼んだ。ギノロットは「何」とつっけんどんに返事する。
「包帯、きつくて……血行悪いの」
 ソードマンの応急処置が本職に敵うわけはない。礼を予想していたギノロットは鼻白み、包帯を巻いた手で、自ら緩めにかかった。
 人間が戦いの緊張から未だ戻れぬ間にも、迷宮に満ちた異常な殺意が消えていく。獣王の最期を知った魔物たちの戦意が失われたのだった。
 碧照ノ樹海の変化は、居合わせた冒険者の間にもたちまちのうちに広まっていく。どうやら、かの獣王を討ち倒した冒険者がいる。どこのギルドだ? 俺は見た、銀の稲穂団とかいう若い連中だ。銀の稲穂団? 銀の稲穂団と言や、未踏破領域を見つけたあのギルドじゃないか!
 噂は風のように駆け抜けて、獣王の素材と負傷者マドカを抱えた銀の稲穂団が、ようようタルシスへ帰り着いたとき、街はすでに大騒ぎになっていた。ついこの間現れたはずの新米ギルドが、碧照ノ樹海を制してしまった、と。

 けれどもマドカが額と左腕に受けた痛々しい傷跡は消えそうにないと、診療所の医師は銀の稲穂団に告げた――いや診断するまでもなく明らかに、乙女の柔肌には無惨な爪痕が、くっきりと刻まれてしまっていた。幸運にして髪や衣服で隠せる位置であったので、工夫すれば白い目を向けられることはなさそうだった――そういったことを、すっかり体力が尽きて眠りに落ちていたマドカの代わりに、仲間たちが聞いていた。
 一夜開けるまで診療所の隣、セフリムの宿でやきもきしていたのは、仲間を背後に預かりながら翻身したフォートレス・ブレロである。
 診療所の面会は朝九時になるまで厳禁だ。六時に目を覚ましたブレロは洗面所へ行き、身じまいをし、ベッドを整え、朝食を摂りながら、どうかすると立っては座り、座っては立ち、ふと置いたものを無意味に取って回して置いて取り、放り出してはベッドに突っ伏してうめき声を上げ、刻限になった途端、ブレロはギノロットを急かして診療所へと向かった。がしかし、いざ二人がマドカの病室に駆け込んでみると、目が合った瞬間、
「私、ひとつ箔がついたわねえ!」
 包帯を朝日にまぶしく輝かせ、ベッドでにっこり微笑むマドカであったので、ブレロはくたくたと力が抜けてしゃがみ込んだ。
「よかった……!」
「何だよ、元気じゃん。心配して損した」
「まあ、ご挨拶ねえ。手当てしてくれてちょっと素敵って思ったのに……取り消すわね」
「う、うるせー。そんなんどーでもいーわ」
 マドカはちっとも調子を崩さず、鈴を鳴らすように笑って面白がった。ポケットに手を突っ込んで、ギノロットは口を尖らせる。
「ふふ、嘘よ。ありがと、ギノちゃん。――朦朧としててきちんと覚えてないけれど、手際がいいのね。驚いちゃった」
 ギノロットは頷いた。
「タルシス来る前、クエストみたいな仕事して、そんで覚えた。怪我多いから、覚えとけって。剣と一緒に……俺、間違ってなかった?」
 素人の応急手当であっても、ただちに処置が行われたのは無駄にならなかった。雑菌にまみれた傷でいなかったことと、血を必要以上に失わなかったのは救いだった。マドカは強く頷いた。
「もちろん! おかげで生きてるわ。本当に、ありがとう」
 ギノロットはどこかほっと胸を撫で下ろし、そして隣で言葉もなく顔を覆うブレロを、向こう脛でつっつく。
「おい、何か言えよお前」
「俺が至らぬフォートレスでごめんなさいっ!」
「そーゆーの、顔見て言えっ」
 ギノロットが容赦なくブレロを小突いたので、ブレロは無様に転げて床に頭をぶつけ、マドカがころころと笑った。
 益体もない雑談とご機嫌うかがいが終わると、彼ら二人は幾分軽く靴を鳴らして立ち去った。昼ごろにまた会って、昼食をともにする約束をした。
 彼らの背中を見送って、やっとマドカは、胸の中に溜まっていた重たい空気を吐き出した。なのに、せっかく吐いたものがまたもう一度押し寄せてくる。
 体調は決して万全ではなかった。
 熱があって、食欲が湧かない。朝食を半分食べるのが精一杯だった。額も腕も、ずきずき痛む。立ち上がったら目眩がするだろう。医師か看護師へすぐに相談しなくてはならなかった。ブレロとギノロットに再び会うまで、もしかしてワイヨールとレリッシュがやってくるまでに、もっと平静な顔でいなくてはいけない……。
 マドカはもう、彼らのメディックなのだった。気丈にしていなければ、彼らを不安にさせてしまう。ブレロの言うとおりクイーンのように振る舞っていなければ、誰も戦えなくなる。今回はたまたま運がよかっただけだ。私が怪我など負っている場合ではない。次からは精々慎重に振る舞わなくては、誰のことも助けられないまま、何もかも手遅れになって終わってしまう!
 マドカに芽生えた医術師のプライドは、彼女に意地を張らせた。何の心配もいらない、私はあなたたちのクイーンだ、ということを、マドカは何とかして伝えなくてはならなかった。

 獣王のねぐらの奥に人工物が見えたと主張するのは、世界樹に近づきたいルーンマスター・ワイヨールだった。何かと目敏いこの男、蔦と草木に絡みつかれた構造物を見た、と言うのである。しかし、冒険者ギルドの貸し会議室で卓を囲む銀の稲穂団は、はてと顔を見合わせるばかり。仲間の鈍さに、ワイヨールは憤慨した。
 そもそも碧照ノ樹海は、風馳ノ草原の雲深き荒れ谷、『北の障壁』との関わりを目されている場所である。獣王を仕留めて達成感にひたるのはよいが、肝心なのは魔物の討伐だけではない。今はタルシスから遥かに臨むきりの世界樹、それそのものに、冒険者の真の目的があるのだ!
 辺境伯のミッションを達成したと認められ、すでに一週間は経とうとしていた。マドカの具合も悪くなく、早々に学業へ復帰して、獣王を討伐した喜びも落ち着いたころである。ワイヨールの言に一理あり、銀の稲穂団は再び碧照ノ樹海へ繰り出した。
 碧照ノ樹海は魔物の殺気が薄れただけで、まだまだ確かなる迷宮の顔をしている。草丈は脛を隠すほど長く、風に揺れる草と梢が疑心暗鬼を生み出し、警戒を怠ってはならないと本能が告げていた。一同は慎重に進み、まだ万全でないマドカは、今度こそクイーンの位置に陣取っていたし、ブレロも時々マドカを振り向いた。
 熊どもの縄張りに踏み入らぬよう、刺激せぬよう慎重に歩みを進め、獣王のねぐらだった場所に辿り着くと、さすがは冒険者と言うべきか、ワイヨールが焼いた倒木跡は誰かによって踏み分けられ、すでに道がついていた。どれほどの冒険者がここを通ったのか、木が焼け焦げ破断された不自然な裏道に、皆々興味を示したのは確かである。
「冷静に考えてみるとさぁ、」
 ワイヨールが誰にともなくつぶやく。
「迷宮への破壊行為だよねぇ。統治院にバレたら叱られるな」
「気づくのが遅ェよ」
「でもさあ! 閃いた瞬間、絶対イケると思ったんだよ? ……思ったんだけど、傍から見ると危険そのものだよねぇ。燃え移ったらどうするんだよ」
 ギノロットは深入りせず口をつぐみ、他の三人もそれが正しい選択だと思った。
 さて、件の構造物である。それは樹海の壁に火球を叩きつける発想の持ち主以外には、ただ蔓草の侵食を受ける一枚岩でしかなかった。しかし言われてみると、角の位置と高さに何やら人工的な匂いもする。どうも線対称を描けるようにも見えるのだった。
「あの。柱のようなものが、四本二対ある気がしませんか」
 間遠にうろうろ視点を変えていたレリッシュが声を上げるので、目を凝らしてみると――なるほど確かに長い柱が奥に二本、手前には短い柱が二本あるような気もしてくる。太さも整っている。こうなると、さすがに調べぬわけにはいかない。
「どうする? またキャンプファイヤーするのか?」
「野蛮ね、およしなさいな。せめて葉っぱを毟るくらいにしてちょうだい」
「何日かかんだよ、それ」
「いやだ。あなたなら焼くの?」
「……切るとか」
「それだって何日かかるの?」
「んじゃどーすんだよ」
「まあまあ。調べるだけ調べてみたらいいじゃないか? 例えばこの、真ん中あたりをまずさぁ――」
 言いながら手近な蔓を手繰ったワイヨールが、そのよく回る口を閉じ、そっと元通りに戻してみせるので、四人は思わず不安になった。
「えっ、ワイヨール?」
「おい何か言え」
「……いいのかい、言っても?」
「言えと言ったら言ってくれ?」
 するとワイヨールは、我慢できなかったようににやりと笑った。
「当たりを引いたかもよ」
 銀の稲穂団は色めき立ち、我先にとワイヨールの周囲にかじりついた。一番いい場所を確保したのは、一番遠くにいながら装備の身軽なスナイパー・レリッシュで、『当たり』を一目見たレリッシュはひゃっと飛び上がり、大喜びで声を上げた。
 ワイヨールのつかんだ蔓の影から現れたのは、苔むした半球状の物体である。苔を剥いでみると人の頭ほどもある緑玉の表面に、掌をかたどったような紋章が姿を表す――どうみても自然の造形ではない。間違いなく、人間の力によるものだ!