銀の稲穂団と楽しい川遊び

 タルシスのこの地方らしい初夏の快晴を背に、ギノロットはもどかしく筋肉をほぐしている。この日の彼は冒険者ではない。単なる行楽者、しかもちょっとした滝の上から川の流れに飛び込もうという、鼻息荒い酔狂な顔をしていた。
 銀の稲穂団の残りの四人は、ギノロットの無謀な挑戦の始まりをただ待つ以外になかった。何しろ本日の川遊びは、日常をちょっと面倒くさそうに過ごすだけに思われていた彼の、たっての希望なのだ!
 それはさるクエストに出発した、よく晴れたある日のこと。まるで運命のような出来事は、ほんの一秒もかからずに起きる――空から見つけた大瀑布に、ギノロットはすぐ恋に落ちた。
 タルシスの西北に位置する二重の大瀑布は景勝地として知られ、辺境と呼ばれるこの地まで是非にとやってくる者は引きも切らない。かの堂々たる雄渾を前にすると、自然というものの力強さに圧倒されて心機一転、気を新たにすると評判も名高い――反面、悪さを働くタルシスの子供は「滝に置いてきてしまうよ!」と脅される、げに恐ろしき場所として――ブレロにとっては慣れた大滝なのであるが、
「……込み、」
 ギノロットが何か一言、ぼんやりとなりながらささやくではないか。
「うん? 何か言ったか?」
 聞き取れなかったブレロは尋ねてみたが、本人は気球艇の丸窓に額がくっつくほど貼りついて、ぽかんと口を開けたまま何も答えない。いよいよ迷宮に到着しても、魔物の相手もそこそこにして、心ここにあらず。紙一重、間一髪の場面を連続してはメディック・マドカに怒鳴られて、しかしそんなことなどどこ吹く風。用を済ませて宿に帰るも一向に言葉少なで心配になり、どうしたのかとついにブレロが尋ねたら、ギノロットは目も合わせずに、
「考えてる……」
 とそれだけ答えた。
 せっかく夕飯に出てきたニジマスのムニエルが、絶妙の香辛料の加減もあって非常に美味かったのに、魚料理に一家言あるはずのギノロットは黙々平らげるや、さっさと女将さんに食器を返してどこかへ消えた。いつもなら皿洗いを手伝う感心な――本当に感心だ、こいつはそれを毎晩の習慣にしている! ブレロには不思議でならない――男が、ふらふらといなくなったのだから、セフリムの女将さんはちょっと目をぱちくりさせた。
 しばらくするといつもの大部屋に戻ってきたが今度は寝床で悪夢を見ているかのように呻いてひっきりなしに寝返りを打ち、だが見えない知恵の輪と格闘しているような、怪しい魔術のように翻る両手は、どう見ても目が覚めている人間のそれである。何か空恐ろしいものの有り様を見た気がして、ブレロは滅多にやらない寝酒を飲んで、『俺はこの輩とは一切関係がありません』とベッドの隅でせいぜい体を小さく丸めた。若干いやな夢を見た。
 翌朝になると、いかにも眠れなかった顔のギノロットが、不満そうに口へ歯ブラシを突っ込んでいた。洗面所では髭を剃るのに失敗して、顎に変な傷をいくつか作る始末で、ブレロはもう尋常ではない様子にたじろいだ。ドン引きした。率直に言ってもう本当、こわい。
 怖いなりにも恐る恐る聞き出してみるに、どうやらギノロットは元々重度の『飛び込み依存症』であることを告白した――なんと故郷の浦里にあっては、ひところ取り憑かれたように崖から飛び込んで遊び、日夜熱心に研究を重ねていたと言うではないか。しかし郷里を離れてはや数年。海とも崖とも縁のない、真水に暮らす人生となり、身も心もすっかり陸棲の人間になり始めたころ、遥か北の樹海で探索に勤しむ今になって、忘れがたき自身の性を思い出したのだ。なんと陸には海がなくとも滝がある! 崖がある! 思いきり力いっぱい飛び込める! 何てことだ!!
 その情熱と思いの丈は、北の言葉に上手くない、おしゃべりとは呼びがたいギノロットが、身振り手振りを加えてウンウン唸りながら悶えながら何とかかんとかする努力で、聞いているこちらが胸焼けでも起こそうかとウンザリするほどであった。あまりにも前のめりで語りたがるから、『ともかく気持ち悪いくらい水に飛び込むのが好き』なのは充二分に察せられたが、しかしもうひとつ理解には至らない。どれだけ耳を傾けようと、ギノロットの愛は理屈を遠くへ置き去りにして宙を超え、爛々と目を輝かす異様な態度で力説するのに、ただただ肝が冷えるばかり。
 ブレロは愛想笑いを引き攣らせつつ、表向き理解を示すふりをした……嗚呼、俺は凡人だ。俺は飛び込みをそんなに愛したことがない。お前の飛び込みたさは、俺にはとてもわかってやれぬ! ブレロは自分を人の話が聞ける人間だと自負していたが、この日ばかりは完全に負けた。敗北した。完膚なきまで叩きのめされた。辛酸を嘗めた。この悔しさは腹を出して許しを乞う犬さながら、きっと人生この先ないほど痛恨の白旗大降伏を喫したのだった。
 それに気球艇は、彼の憧れである西の瀑布まで彼を連れて行ってやることはできないのだ。気球艇『天の垂水』号――例によって例のごとく聖典から運任せで決められた、そのわりに案外悪くない気球艇の名前。ブレロは気に入っている――は、ただ冒険者が冒険を果たすために辺境伯が貸与しているものであり、冒険と何の関係もない目的で使うことは厳に戒められ、もし見つかれば様々な大人の理由を述べられたうえ、没収されてしまうだろう。そうなってしまえばギルド銀の稲穂団、問答無用で解散である。
 ギノロットは寝床にひっくり返ってジタンバタン悔しがってわめいた。
「あんな面白そーなとこがあんのに、どーして遊べねーんだよ! 俺をあの滝に飛び込ませろよ!」
 しかしブレロにしてみれば、ばかな話である。
 そういうことなら普通に川へ遊びに行けばよいではないか。もちろん街から遊びに行ける距離だから、あの瀑布ほどでないにしろ、地元で有名な遊び場なんてたくさんあるのだからして。
 何しろこの地方は初夏を迎えて、街中へ行けばいろいろの水着をお好み次第でよりどりみどり、加えて水辺の相棒ゴムサンダル、軍手、炭だの焚きつけだのマッチだのの火の用意、水中眼鏡、浮き輪、水鉄砲、ボール、その他その他もう諸々、すぐには思いつかないものでも何でもかんでも、欲しければ資金の続く分だけ買い込める。買いたいだけ買うがいい、お前ときたらこれといった趣味があるわけでなし、どうせ冒険以外に使うあてがないじゃないか。
 ……と、ブレロが何の気なしに言ったら、たちまちギノロットは食いついてきて、すぐに川遊びの日程が決まった。
「明日! 明日だ! 明日絶対川に行く!」
 ギノロットは、言い張った。当然、翌日果たすつもりで引き受けていた酒場の依頼なんてキャンセルで、『踊る孔雀亭』の女主人はギノロットを睨みつけたが、うきうき気分の彼には笑顔にしか見えなかっただろう。

 そういうわけで日の改まった今、満を持して崖っぷちから背面宙返りで飛び立つ逆光のギノロットを、崖下の四人は固唾を呑んで見守った。信じられないほどたっぷりとした滞空時間を経て、落下する間も無芸にただ真っ逆さまというわけではない。ギノロットは四人には理解しがたい難解なひねりを駆使して、それから滝壺付近で忽然と消えた。
「ん?」
「消え……」
「消えたよね?」
 見守る四人は顔を見合わせ首を傾げた。ギノロットは消えた。どこにもいなくなった。どうどうと音を立てて落ちる滝と滝壺と川、雑木林から聞こえる小鳥の鳴き声――他には何もなかった。ごく平和な川辺と銀の稲穂団が、変わらずに残された。たまたま周囲で見物していた見知らぬ人々も、誰かが無謀をするとあらばそれは見物されるもの、しかも直前まで華麗な軽業を披露していたとなると、その行方に当然ざわつきはじめた。誰もがギノロットの水に落ちる『ドッパーン!』を期待していたのに、音がしなければ水柱も立てない。誰も化かされたみたいにキョロキョロしている。
「いえ、ちゃんと――あっちにいます」
 さすがと言うべきか耳目の鋭いレリッシュ(なあレリッシュ。その非常に防御性能の高い面白みに欠ける水着はどこへ行けば見つかるのか、お兄さんに教えてくれ? 俺はそこへ苦情を入れなくてはならん。絶対だ!)が示すのは、思っていたよりも川下だった。消えたと思ったギノロットはすでに水中で影となって下流にいて、勢いよく水面へ飛び出したかと思うと、大いなる歓声を上げた。
「海と違う! すげー超めっちゃ流れるー!」
 流されていくことを最大限に強調したギノロットは、再び息を吸い込むと、水を掻いて一直線に川岸に辿り着いた。水から上がると膝に手をついて息をしているので、一応ブレロは遠くの彼に向かって声を張り上げる。
「大丈夫かー?」
「むっちゃくちゃ、楽しいー!」
 水を撒きながらブンブン右腕を振り回して、水で光る彼は叫び返した。ケチのつけようもないほど無事である。
 日ごろ表情筋が固い銀の稲穂団のソードマン、この日ばかりは年齢なりの笑顔をして、岩間をピョンピョン飛びながら戻ってくる。大の男が大喜びしている絵面だが、当の本人、まるで気にもしていない。
「まるで別人ねえ!」
「あいつ、頭打ってないよね。海も流れると思うんだけど」
 マドカが微笑み、ワイヨールは余計な心配をしてソードマンの到着を待った。程なくして意気揚々と戻ってきたギノロットは、完全にただの楽しめる若者だ。
「超楽しー! もっかい行ってくる!」
 満面の笑みで言うが早いがすっ飛んで行ってしまい、四人は取り残されてしまった。
 仕方がなしに水棲男子ギノロットの素晴らしいセカンド・ダイブの様子を観察し、何がどうしてああなるのやら。揃って首をひねりひねりして、着水の瞬間、ブレロの隣でレリッシュがささやく。
「綺麗、カワウソみたい」
 水面にツルリと吸い込まれていく様は、なるほどまるでカワウソだった。楽しくてたまらない顔で浮上するのもどことなしかカワウソめいている気がした。海にカワウソはいるのか知らないが、見ていると何やら苛立つしたり顔は、かなり、相当、間違いなくカワウソ似だ――ブレロは口に出さぬまま、一方的に決めつけた。
「どうやったらああなるんだ」
 腹立ち紛れに言うと、レリッシュが付き合ってくれる。
「後ろに二回転したあと、左斜めにひねって、つま先に触ってから伸びて垂直に入ってます」
「……えっ? 何ですって?」
「見えるのか?」
「自信がありません! あんなに回る人、はじめて……」
 レリッシュは柳眉を歪めて困惑していた。彼女特有の動態視力でやっと解釈したらしく、答え合わせしようと首を傾げて両指をクルクルやりだした。……ブレロがセフリムの宿で見た、例の怪しい魔術師みたいな動作である。
「ななめに回ると複雑。たぶんそうだと思うんですが」
 レリッシュが困っている隙に、ギノロットはすでに川岸に到達していた。カワウソのくせに生意気な。ブレロは本当にイライラしてきた。
「後方二回転して、左斜め回転?」
「……かなあ」
「ええい、案ずるよりも何とやらだ。レッツチャレンジ!」
「待って。絶対危ないわよ!」
 慌てたマドカの静止も聞かず、サンダルを脱ぎ捨て崖上へ走ったかと思うと、そのままの勢いでブレロも飛んだ。飛んだが、後方にひと捻りしたその後は見るも無様、何コレとかムリとか情けない悲鳴を上げて背中から落っこちた。果たして衆目の期待する派手な音が上がり、誰しも納得の表情をする中で、ギノロットだけがヘタクソと言って一人大笑いする。
「ほら、もう。高さも体重も考えてないんだわ。おバカね」
 メディックの顔でマドカが呆れる中、やがてブレロは滝壺から浮上してきて、悔しげに叫ぶと、くすくす笑いを隠しもしないギノロットが川から上がってまた崖上に立ち、今度は非常に単純に飛んだ。誰もが想像するような、両腕をまっすぐ伸ばして着水するあの姿勢で、しかしやはりスルリと潜り、さほどの時間差なく浮上すると、スイスイ泳いですぐにブレロのそばに辿り着く。
 川の中のブレロは背中をさすって何やらギノロットのレクチャーを受け、難しい顔をし、川から上がったかと思うと再び崖上へと歩いていく。ギノロットは滝壺から離れてブレロの様子を見物し、彼の挑戦が多少は静かな成果を挙げて喜んだ。そして川岸までの距離は当然と言うべきか競争になり、これは呆気なくギノロットが負けて、楽しいブレロは勝ち誇った顔をして、高らかに笑う。
「タルシスの高等教育をなめるな!」
「何その泳ぎ方、めっちゃ速い! 俺もやりたい!」
 さて、泳がぬ三人は前衛たちの無邪気を、のほほんと観察していた。マドカもレリッシュもワイヨールも泳いだことがなければ、ましてや飛び込む気なんて毛頭ない。一応の水着はただの雰囲気であり、もしもふざけた誰かに押されて落っこちても、服の重さで溺れることだけはない、程度の意味しかなかった。ついでにレリッシュは出発早々、何もないところでつまづいたので、膝に子供のような大きい擦り剥き傷を作っては、マドカの手当を受けた次第。
 しかしいくら夏が来たとはいえ、まだ季節の初めである。川べりの冷気は陽気に勝り、黙ったままでは寒さを感じる。三人は焚き火の支度を始めた。
 今日は川遊びに来ただけとはいえ、彼らは冒険者、銀の稲穂団である。道々で焚き木拾いに精を出し、食料を調達し、川原の石で竈を組むのはいつものこと。仲間と過ごす普段通りの食事の支度で唯一違うのは、迷宮の装備の重さにわずらわされず、平和で開けた川原で真っ青な空の下、のびのびと食事をともにできることだった。
 ルーンマスター・ワイヨールは鞄から石筆を取り出し、竈に最後に組み上げた石を、わざわざ拾い上げる。迷宮では披露する機会のないルーンをすらすら記し、歪みのない綺麗な円を一筆で描いた。レリッシュが茶色い目をぱちくりさせる。
「そういえば、いつもの杖ではないんですね」
「うん、建前としては一般人だからね。使っちゃ危ないから」
 ルーン文字の幹と枝が、放射状に丸い陣を描いているのを、レリッシュもマドカも物珍しげに眺めた。銀の稲穂団はワイヨール以外誰も、ルーンの秘術に詳しくない。銀の稲穂団では彼しか書けない、『本式の火のルーン・ガルドゥル』だった。激しい戦いの起こる迷宮では、ルーンは宙に刻まれる。しかし迷宮への緊張がない今、ワイヨールはルーンについて披露してくれた。
「この刻印に特殊な力が眠っているって、ずっと遠い昔、誰かが気づいたんだ。こんなふうに触媒を書いて、ついでに詠唱もすると――ああ、ほら、そんなに覗きこんでたら火傷するよ」
 陣を書き終えたワイヨールは二人を下がらせて、一つ咳払いする。
『にわたづみ川面に遊びふきまさる風まいて火の穂いでする』
 左手をかざし右手が陣を打つと、陣は白く輝き、風が三人を襲ったかと思うと、焚きつけに二つ、三つと火花が飛んで、火口に火が燃え移った。レリッシュとマドカが盛んにぱちぱち手を叩いて喜び、ワイヨールは得意げに薄い胸を張って賛辞を浴びた。
「とはいえ、今日はいつもの石がないからね。今できるのはこのくらい。世間一般並みのご家庭印術程度だね」
「あの石って、何ですか?」
「あれはそのへんの元素をかき集める石。戦う印術は元素が大量に必要だから、迷宮では便利なんだけどね」
 彼が迷宮のローブに結んでいる緑の石は、迷宮の探索にのみ許されていた。ルーンマスターにとってかけがえのない呪具だったが、今日のワイヨールは冒険者の建前がない。今、印術師らしい品といえば、左の中指にある不透明な鈍く青い石の指輪だ。何かのルーンが刻まれている。
「便利はいいけど、結構危険な石なんだよ。刃物と同じでね」
「まあ。それじゃあ、それっぽ〜い雰囲気を出す飾りじゃあなかったのね」
「雰囲気でいくつもぶら下げるには重たいねぇ」
「ほんのり光って、暗いところで便利なものかと思ってました」
「あは、人によってはやたらに光るのもいるんだよ。私は光らないほうかな」
 ワイヨールが言いながら、火が消えぬように薪を組み替えてやる。少し話が途切れて、薪の爆ぜる音を三人は聞いて、火の粉が宙で燃え尽きるのを、三人で見た。
「川べりで印術使うと、子供のころを思い出すなあ。私の毎日の遊び場だったんだよ」
 川に来るとあたりは広いうえ、平たい石がいくらでも見つかるものだから、ルーンで子供がいたずらするには恰好の場だった。印を刻むのに本気の度合いが増すごとにちゃちな軽石から滑石になり、石筆を用いるころには火の気と風向きに注意しなくては、一大事にもなりかねなかった、とか。
「火遊びだなんて。あなた案外、悪い子だったのねえ」
「印術の半分は火でできてるんだよ? どうしても火は出るんだもの、仕方ないよ。川にいるだけ安全だったと思ってほしいなぁ」
「ねえ、もう半分は何ですか?」
「水だよ。冷たいものと熱いものでできてるのさ」
 言うと彼は再び石筆を取り出し、手近な石をひとつ拾い上げた。いくつかのルーンを記して二言三言の詠唱をすると、風が起こってじわりと水がにじみ、涙のように雫が流れ落ちる。
「本当はもっと複雑だけど、単純には熱と水の操作なんだよ。目に見えないのに不思議だろ?」
「あなた、その不思議に惹かれて、印術師になったのね」
「その通り、ご明察。――さあ、本物の悪ガキが戻ってきたぞ」
 火がちょうど安定してきた頃合いに、喜色満面のブレロとギノロットがやってくる。どうやらそれぞれ飛び込みと高等泳法を我が物にした顔をしていたが、そうと思うやいなや竈で火花が四方八方へ炸裂した。
「きゃっ!」
「ちょっとワイヨール、何したの!?」
「私は別に何も――」
 言い合う間にも炎は激しく燃え盛り、三人は思わず悲鳴を上げて後じさって、自分をかばい腕を上げる。すると不意に周囲へ巨大な影が落ち、はっとなってレリッシュが顔を上げた。人間の頭上にそれはいた。
「……赤竜!」
 発した警告は一斉に周囲へ伝わり、気がつけば遠くの二人も、その向こうにいる別の集団もこぞって空を見上げた。恐るべき空の支配者が、信じられないほどの巨体で滑空している。
 頭に生える一対の角が、戴く漆黒の王冠のごとく光る。背筋に沿って生える何本もの棘がまるで鋭い鋲のようで、何者をも恐怖で圧倒した。深紅の鱗に陽光が複雑に照り返す様は、まさに炎の化身だった。広げる翼が力強く羽ばたくごとに、激しい風切り音が耳朶を打つ。梢はざわめき鳥は歌をやめ、大気が震えた。誰もが沈黙し、その飛行を見つめるばかり……。
 やがて竜の姿が見えなくなってから、ようやくギノロットたちは合流したが、赤竜の尋常ならざる力によって火はほとんど燃え尽きてしまって、水に濡れた彼らが温まることはできなくなった。

 竜が現れると空は荒れ、自然の摂理は大いに傾く。風が逆巻き、地を荒らし、水は濁り、火が暴れた。一天にわかに掻き曇り、日が沈むと月も見えず、あたりは闇に包まれ、夜嵐となった。光がなければ、人間は無力になる。
 今の五人は武器も持たず防具もまとわなかったが、しかし心だけはなお冒険者だった。再び火を熾して簡単に夕食をすませた後、狭く小さなテントで明かりを一つ灯して、まことしやかな竜の伝説を語り合った。金銀財宝を好み、巨大なその巣に溜め込むというお伽話。四大元素を司る神にも等しい大いなる力。命と引き換えでなくば倒すことはできないと言われる巨躯。そして街の『踊る孔雀亭』で見かけた、竜を追ってはその恩恵にあずかる一族。あるいは北方、聖印騎士団を擁する双臂王の居城を襲撃し、幼き王子の命を断った氷竜の噂……。
 そこでふとギノロットが、自分の故郷の龍の話を思い出した。首飾りを丁寧に布で拭きながら語るのは、南洋に注ぐ大河の主の言い伝えだった。
「大嵐の日は、竜の暴れる日なんだって、南でも言ってた。すぐ溢れて、土地を荒らす川には、強い竜が住んでんだって。……そんであんまり川が荒れると、静かにしてもらうために、誰かがそこに飛び込んで、死ななきゃなんない」
「それって、生け贄ってこと?」
「いけにえ……? その言葉、俺知らないけど、んーとにかく、竜に命を渡さなきゃなんない。そんでしばらくおとなしくしてもらうとかゆー、暗い話」
 それが南洋の川のほとりの民に伝わる、古からの伝説である。また彼ら竜は赤竜のような有翼の蜥蜴ではなく、鬣と髭と生やし、空を泳ぐ蛇の姿に似る、水の司であった。感心しながらワイヨールが頷く。
「所変わると竜も変わるものだね」
「だから赤竜見て、びっくりした。ホントに生きてんのかってのもそーだし、知ってんのと全然違うから。……けど、人の居場所荒らすのは、どっちも変わんねーな」
 タルシスの赤竜は雨こそ呼ばぬが、ひどく強い風を呼び、無用に火を煽り立てる。テントの中まで吹きつける風で頼りなく揺らめく蝋燭を見、ギノロットは、大きくあくびした。滝で散々に遊んで疲れ切っていたのだった。首飾りを元の通り掛け直すと、磨き布を雑嚢の中に突っ込んで、
「もー眠い。寝る。おやすみ……」
 と、隅に転がって毛布にくるまり、やがて寝息を立て始めた。様子を見守っていたブレロが、珍しいこともあるものだと目を丸くする。
「俺より先に寝入るなんて。はしゃいでたもんな」
「ギノさんって夜更かしなんですか?」
「寝つきが悪いみたいだなあ。あとは朝方たまに寝言も言うぞ。南の言葉で内容はわからんが」
 明日はどんな寝言が聞けるかな――残った四人もめいめい毛布に潜り込むと、ブレロが蝋燭を取り、吹き消した。あっという間にテントは闇の中へ落ち、外から嵐がざわめかせる梢の音と、どうどうと流れる川の音が子守唄になった。