深霧ノ幽谷と言葉なき歌

 霞の魔物ホロウにさらわれた巫女の姿を探して数日が過ぎても、未だ核心には至らなかった。巫女の姿は深霧ノ幽谷のどこにも見えず、銀の稲穂団はひたすらに谷を下っていくより他にない。最奥に建てられた祭壇を管理するウーファンが、そのウロビト独特の研ぎ澄まされた感性で銀の稲穂団を案内し、彼らはやっと深霧ノ幽谷を下りてゆけた。
 谷は昼日中であっても森と霧のために、その深奥が山上からは視認できず、先行きの予想がつかない難所だった。絶えず発生する深い霧が陽光を遮り、樹木を徒長させて重層的な森林を作り、地上の見通しを悪化させる。落ちた枯れ葉も湿気を含んで滑りやすい。
 そんな状況でもウーファンの方術は、銀の稲穂団を大いに鼓舞した。彼女の方陣が疾駆すると地脈が蔦に息吹を吹き込み、魔物ともどもホロウの足を絡め取る。姿の揺らいで消えかかる、難儀なホロウに確実に一撃浴びせられるとあらば、ギノロットの剣は勢いをいや増し、ブレロの戦鎚は唸りを上げた。彼ら二人の猛進にレリッシュの矢が、ワイヨールの印術が追随する。薄闇と霧で乱れかかる隊列は、マドカが警戒の声を上げて食い止めた。
 ウーファンの知恵と力を借りた銀の稲穂団は、着実に谷の最奥へ迫った。迫るごとに、視程は少しずつ悪化していく。日の出とともに動かなければとても最奥など目指せなかっただろう。ホロウに襲われたウロビトを救おうと手傷を負った、ワールウィンドが途中で切り上げたのは正解だった。
 と、変化にいち早く気がついたのは耳目の鋭い狙撃手レリッシュだった。草を踏みしだく足を止め、みなを引き留める。
「何か聞こえませんか。声……歌のようなものが」
「歌?」
「またあ。聞き間違いじゃないか? ここ、『迷宮』だぞ?」
 ブレロが疑いの笑みを浮かべたが、レリッシュはしいっと唇に指を当てて彼をさえぎる。
「谷のもっと深いところから。風に乗って……」
 譲らぬレリッシュに全員立ち止まって、レリッシュが見つめるほうへじっと耳を澄ました。半信半疑のマドカも医療鞄から手を離して耳元に回すと、
 ――お……お……おお、う、おぉ、あ……
 冷たい巒気の隙間から、這うように低い歌声が聞こえて、マドカは引き攣った悲鳴を上げた。
「本当! いやだわ……気味の悪い。悪い魔女の歌みたい」
「女だな……巫女の歌に似てる気はするがいかんせん――趣味の悪い声だ」
 ブレロが方角を探すと、レリッシュが迷いなく谷の下を指差した。ワイヨールがローブを衣擦れさせていぶかしく腕を組む。考えるように石飾りをもてあそぶものの、答えは出ない。
「ウーファン、心当たりはあるかい」
 しかしウーファンも判じかねて首を振るばかり。
「このような場所で歌など……我らウロビトも、用なくばできぬ」
「用があれば歌うってこと?」
「……知ったことかよ。結局どっちでも変わんねーんだろ」
 と、焦れたギノロットが剣を鞘鳴らし、硬い音が谷の霧をかすかに震わせた。言葉の端に姿が見えぬ苛立ちを隠しきれないでいる。
「巫女はホロウにさらわれたんだ。気味悪かろーがどーだろーが、探さなきゃなんねーだろ」
 言って乱暴に歩き出してしまうので、残りの者たちも遅れるまいと再び歩みを進めた。
 これといった確信は何も得られぬまま、薄暗く視界の悪い谷を進むほどに、魔女の歌はますます近く、低く、深り、皮膚にべったりと絡みつく湿っぽさを持ち始めた。
 おあぁ、うう――あああ……るうう。お……ぁう、ううぉ、ああ――
 何かのメロディを追ってはいても、掴みどころのない曖昧な声に、誰もが底知れぬ気味の悪さを感じていた。歌声はさながら霧のようにふいと途切れて、ほっと胸を撫で下ろすと思い出したかのように始まるを繰り返した。迷宮にいながら延々と歌い続けるその様は、いたずらに神経を尖らせる呪いのようでもあり、また声の主が魔物を寄せつけぬ強敵であるのを物語っている。
 しつこい追跡走鳥類、青い羽毛のビッグモアを霧と木立に巻いてのけ、何とか最奥の祭壇近くまで辿り着いたとき、ついに魔物以外のものに遭遇した。小さな光が漂うと、霧の迷路を案内するように揺れ動いた。追えば蛍が飛ぶように進み、止まればその場に居留まる――一同は光の操り主を一人しか知らない。巫女シウアン、彼女だけである。
 歌声の漏れ聞こえるその門の前で、蛍火はウーファンを取り巻いて消えた――巫女の蛍火は、確かにウーファンを待ち望んでいる。儚く消える蛍火を手に取ろうとして、ウーファンの顔は痛々しく歪んだ。
 歌声はなおも続いている。地に絡むほど低めた声は、もはや明らかに大人の女のものだと聞き取れた。門の奥から確かに聞こえてくるのに、同時に何か言葉にしがたい、異様な雰囲気が漏れ出してきている。
 銀の稲穂団が身構え、ウーファンが祭壇への門を思い切って押すと、門扉の軋みとともに溢れ出てきたのは粘着質に湿った空気と、おどろな雰囲気だった。獣めいた生臭いぬるい風の中に、ちりちりと皮膚に刺激の走る不快な感覚が混じり、そして歌声がはっきりと止んだ。
 歌声の女は闇の色を身に纏い、常人の姿をしていなかった。
「『ホロウの親玉』――!」
 探索を中途で切り上げたワールウィンドの、銀の稲穂団に言い残した言葉がようやく浮かび上がる。人間同様の形ながら明らかに人間と異なる姿に、一同は身の毛がよだった。どう見ても生物なのに、その造形はあまりにも作り物めいていた。
 のっぺりとした顔は黒を塗り込めた仮面のように鼻も口もなく、それながら爛々と光る一対が穿たれて、こちらをじっと覗き込んでいた。しかしこの両目は硝子玉を嵌め込んだように何の表情もなく、両の頬に血涙のような化粧が、点々と印されている。そしておとがいから額を鋭く縁取る純白は、貴婦人の帽子に似ていながら、闇から浮かび上がる亡霊の輪郭だった。
 だが何よりも異様だったのは、ホロウにあるまじきその巨体だった。長身のブレロさえ見上げる頭上に破れた翼のような頭飾りを戴き、黒く長い袖もまた翼に似て、痺れる生臭い風にゆらめいている。さながらホロウの女王とも呼ぶべき威厳に、誰かが息を呑んだ。
 その女王が大事そうに、丸く抱きかかえて隠そうとするものがあった――女王の腕の端から、見覚えある橙に染めた装束がちらと覗いたその拍子に、野花をかたどる髪飾りがはたりと落ちた。
「――シウアン!」
 たまらず叫んだウーファンに、女王の仮面の下半分が内から裂けては紅の真一文字が浮かび上がって、ぐにゃりとひしゃげる。背筋を凍らせる、憎しみの形の唇に!
 たちどころに霞の中から何体ものホロウが現れ、滑るように巫女の体を預かると、女王は大きく両腕を振り、二対の闇色の翼がぬめるように羽ばたいて舞った。
 明確な殺意にギノロットが剣を抜こうとした途端、女王の腕が凄まじい速さで振り抜かれ、ギノロットは切りつけようとした剣の腹で一撃を受け止めた。激しい衝撃に体が押し返され、押し負けて仰向けに倒れ込む。瞬時の機転で放たれたレリッシュの矢が追撃からギノロットを守り抜くが、女王の巨体が伊達ではないことに、みなの背筋に冷たいものが走った。
 ホロウたちは方陣に捕らわれても、斬り捨て打ち据えられても、矢に射抜かれて火に氷に雷に散ぜられても、女王の声なき声に呼ばれては、次から次へと顕現し、薄暗い森の影から続々と侵入者たちを脅かす。一体いつまで続くのかと遠く思われた最中、ふと兵が途切れて警戒が緩んだ一瞬、女王が両腕を鎌のごとき凶刃と成して冒険者たちを薙ぎ払った。瞬く間に駆け抜けた衝撃はギノロットとブレロを容赦なく切り裂き、人間の鮮血が白霧に舞う。かろうじて大盾へ身を隠して踏みとどまったブレロは、隣で剣を握っていた相棒が視界から消えてぞっとなった。そこにいたはずの姿がない代わりに、血の筋が背後へ流れている。
「ギノロット、返事しろ!」
 すると、
「動かないで……塞ぐから、じっとなさい! さもないと口を縫いつけるわよ!」
 ギノロットの代わりにマドカの叱責が飛ぶ――マドカの無事に安堵し、ギノロットの負傷にほぞをかみ、ブレロは己が無力に舌打ちした。
 苦虫を噛み潰したブレロは一歩踏み出した。戦鎚を持つ腕に力をこめて聖なる光を呼び起こし、戦鎚に雷撃の弾ける音が響いた途端、ワイヨールが朗々と詠唱する。
『空を切り裂き矛と成せ! 空をさえぎり盾と成せ!』
 うたいあげた刹那にざわりと何かが伝い、ぱちんと小気味よい音が鳴る。印術が元素を操り、雷の聖印が刻まれる。そして立て続けにウーファンの錫杖が振り上げられると方陣が地を走った。導かれた地脈がさざめき緑の蔦を湧き立たせる。ウーファンの決然とした声があたりに凛と響き渡った。
「ホロウの女王! 貴様の足、今一度封縛してくれる!」
 続くブレロが戦鎚を振りかざして再び駆け出し、女王の胴に激しい雷撃を食らわせる。闇色の衣が肉体ごと焼き焦がされ悪臭が立ち上り女王の体がぐらりと傾いで、間髪入れず、素早い刃が女王の胸へ突き刺さった。血に汚れたその鎧姿は鈍く光って巨体に沈む――痛みをこらえて憎々しげに顔を歪めたギノロットが、肩で息して深々と剣を食い込ませるのだった。
「動かねーなら、的にしてやる――」
 右腕に固く巻かれた包帯は血が滲み、ギノロットの首元でサメの歯が鎧に当たり悔し気な音を立てる。遠く背後には、鳶色の瞳で女王をまっすぐ睨みつけるマドカの姿があった。ギノロットにしか作り出せぬほんの一瞬のために、満足な処置を後回しにしたのだ。
「斬ってりゃ絶対殺せんだからな!」
 怪我を負うても声を張る、ギノロットの雄叫びが戦場に木霊した。ぐいとばかりに剣を引き抜く切傷から暗い色の血が噴き上がった。ギノロットはさらに女王の腕を斬り抜いて、そして杖を構えたホロウ兵の首を薙ぎ、絶たれた首は転がる代わりに雲散霧消し草葉の影へ消える。
 女王が胸を押さえてうずくまるところへ罠矢が空を切り裂いて、女王の腕を縛りつけた。とうとう呪さえも結べなくなった女王は声にならない悲鳴を上げ、黒いおもてに赤々とした口腔が開かれた。好機とばかりに解き放たれたワイヨールの凍牙が黒いバッスルごと全身をずたずたに引き裂き、陣を破いたウーファンの一撃が襲いかかると、女王は、凄まじい絶叫を上げて霧散した。

 ホロウの女王を打ち倒したと同時に、地に横たえられていた巫女が瞳を開き、自らゆっくりと体を起こした。
「ウーファン」
 まだどこか幼く柔らかい呼び声は、ウーファンの痩せた胸を突き飛ばした。ひざまづいて巫女の小さな手を迷いなく取り、その薄い手のひらに巫女は、いやシウアンは安らいだ表情を見せ、それからはにかみ微笑んだ。
「まるで夢を見るみたいに……見てたの。ウーファンのこと。戦っているところも、傷ついているところも、みんな見てたよ」
 ウーファンははっと目を見開き、こめかみに挿した一輪のユリが揺れた。世界樹の巫女の稟性は、捕らわれてなおウロビトを見守っていたのか――ウーファンが言葉をなくしているとシウアンの瞳が涙で滲んで、最後まで言い終える前に、しゃくりあげながら、
「不安にさせてごめんね。何にも言わなくてごめんね。ウーファン――大好きだよ! 思ったこと、ちゃんと言うね、だから……だからお願い。これからも私と一緒にいて」
 たどたどしい少女の求めに、とうとうウーファンもこらえきれず涙を流した。シウアンにシウアンという名を捧げる前から、我が子のように愛した子供を、ウーファンはどうしようもなく抱きしめると、シウアンもまたすがるようにしがみついた。
 深霧ノ幽谷の冷たい霧の中で懸命に泣き声を上げていたことを、ウーファンは昨日のように思い出せる。祭壇の掃除道具を放り捨てて、裸のままで取り残された頼りない赤子を、自らの衣で宝物のようにくるんで、暖めながら必死に里に連れ帰ったこと。抱きながら、ウロビトの血で受け継いだものが、赤子がこの世に生を受けた『世界樹の心』そのものだと直感させて、ウーファンは二度とこの子を手放さないと決めたのだ。
 少しでも話をしたくて自らシウアンの方術の師となり、人間であるがために術がうまく行かずとも、根気よく一つずつ教えた。『世界樹の心』から生まれた巫女なればこそ、必ずや成功すると言い聞かせた。だからこそ初めて地脈を動かせた瞬間の驚きと、喜びを分かち合い――いいや、けれどきっと思い起こせば、あのころからなのだ。あのときからもうシウアンに『神樹の巫女』を求めてしまった。人間に方術を教えたことで、『世界樹の心』から生まれたと話すことで、ウロビトの里で仕方なく育てているのだと思わせてしまった――そんなはずがないことを、何とかして伝えなくてはならなかった。ウーファンだけではない、里中のウロビトは、みなたった一つのことを胸に抱いている。
「ああ、シウアン……、」
 何かを言葉にしようとしたが、自分にしがみつくシウアンの小さな丸い頬を見れば、何も言葉にならなかった。初めて彼女を抱き上げたときの喜びが、ウーファンの中で再びすべてになる。
 なんと大きく成長したのだろう。
 ただ抱きしめれば、伝わると信じられる。シウアン、私は、私たちは、一目見たときからあなたが何より愛しいのだ、と――。