びねつ

「若、みっけ」
 出し抜けに鈴の音のような声が飛んできて、バルトは大きく身じろぎした。完全にひとりのつもりだったのに。お陰で心臓がバクバク言う。マルー。わずかに開いたハッチの隙間から、顔だけを覗かせている。
「バカ、ビビらせるなよ。……どうかしたか?」
「ううん、何もない。顔見たかっただけ」
 そっちに行ってもいい? 真ん丸の青い瞳を輝かせてマルーが言うので、コンソールを叩いてハッチを開けてやる。エル・アンドヴァリは紛う事なきギア・バーラーだったが、その操作のいくつかは精神制御できるものではなかった。重たい音を立ててハッチは完全に開く。ギアハンガーのメタルハライド灯やナトリウム灯のまぶしい光が、バルトの一つきりの目を眩ませる。逆光を受けて黒い影の形をしたマルーが、全身を現わした。
「ありがと。……時々いなくなると思ったら、ここにいたんだ?」
「ひとりで落ち着ける場所、他にないからな」
 ギアのコックピットはバルトが一人きりになれる数少ない空間のひとつだった。ライトを切って何をするでもなく、倒したシートに横たわってぼんやりとギアハンガーの作業音を聞いている、それが妙に落ち着くのだ。──特に、メルカバーの主砲に戦艦ごと突っ込もうなどという無茶な作戦の前には。
 むろんユグドラシルの手狭な住空間のうち、バルトをはじめとした首脳らには個室が用意されている。だが無機質で四角い代わり映えのしないそこは気が滅入るだけで、バルトはあまり好きではなかった。あの部屋は寝に戻るだけの部屋だ。
 自分で提案しておきながら、いまいち踏み切れない作戦だった。一瞬一瞬がコンマ数秒の余裕しか許されていないのだ。もしメルカバーの障壁展開に、エクスカリバーの突入が間に合わなかったとしたら。……考えたくもなかった。
 マルーはこれといって何を喋るわけでもなく、ただ小股でやってきて、バルトの傍らにしゃがみ込むだけだった。唯一腰掛けるときに、よいしょっと、などと呟いたきりである。バルトは肘枕して、左手に腰掛けたマルーの頭に声をかけた。
「なあ、」
「ん? どうしたの?」
「いや、そう聞きたいのは俺の方だろ……」
「ん……」
 普段はよく話すマルーが、珍しく無口だった。本当に何の用もないのだろうか。だとしたら別に構わないが、よほど話しにくいことがあって来たのなら別だ。顔が見えれば様子も分かろうが、バルトが分かるのはすぐ目の前に若草色のリボンが揺れているのと、リボンでまとめられた髪から香るシャンプーが変わったらしいことくらいだった。……そういえば前にタムズヘ補給に寄ったら、見たことのないシャンプーを買ったとか何とか、言っていた気がする。何の興味もなかったから忘れていたけど。
「居心地悪いなら、出てく」
「別にそんなことねーよ。いたけりゃいりゃぁいい」
「じゃ、そうする」
 訥々と応じられたバルトは、『そんなことない』と言いながら妙にすっきりしない心持ちでいた。座っていたいなら構わないが、そのまま黙りこくられているのも、少し困る。──どうにも心のやり場がなくて、バルトは手を伸ばした。帽子を被っていないマルーの栗色の髪を、犬でも撫でるかのようにぐしぐし撫で繰り回してみる。
「ちょっ、若やめてよ! 何するのさ!」
「暇つぶし」
 という答えが本当は正しくないのは百も承知である。互いの間にある空隙を埋めたい。無音の時間に一瞬も耐えられそうにない。静寂が刺さる。わけもなく怒鳴りたくなる。
 払いのけようともがくマルーの両手をかわしつつじゃれついていたら、ついにマルーが振り返った。
「んもう、やめてよう!」
「だから、どうしたんだって聞いてるんだろ?」
 その途端、マルーの頬にさっと朱が差した……ように見えた。
「若と一緒にいたかったの! 悪い!?」
 バルトは耳を疑った。今、何か、およそまったく想像していなかった言葉を、マルーの声で聞いたように思えたのだが。突然の声にままならぬ感情が何とか解決を図ろうとして、口を突いて出る。
「……あ? 何だって?」
 するとマルーは、もう我慢ならないといった風にバルトの横たわるシートを拳で撲ち、物凄い剣幕で食ってかかった。
「だからあ、若のこと好きだから、一緒にいたい、それじゃダメ!?」
「ばっ……! お前、そんな恥ずかしいことを、なんつーデカい声で……!」
「っ!」
 マルーが慌てて口を押さえるも、時すでに遅し。近くにいたエンジニア連中にはしっかり聞こえていたに違いない。──二人の間に沈黙が流れる。今や身じろぎ一つはばかられる空気だ。外から聞こえるドリルの回転や何か金属が床に打ち付けられる、ありふれた作業音が耳に痛い。
 ややあって、マルーのか細い声が弁明する。
「ごめん……なんかカッとなった……」
「どうカッとなったんだよお前は……」
「ビックリ、してるよね?」
「しねー方がどうかしてるだろうよ」
 何とか応じるバルトの声は、突然叩きつけられた激情にうろたえて震えている。必死で平静を装うが、まるで追いついてこない。
 好きとか嫌いとか、考えてみないわけではなかった。シスター・アグネスが折に触れて二人をからかうのが、単なる冗談だとは思っていない。『古来よりアヴェの王とニサンの大教母は、血によって縁を結び民を導く』──かといって、そこに義務感を感じているのではなかった。そこまで身分に忠実な生き方はとてもできない。
 好きなのか。嫌いなのか。嫌いなわけがない。では好きか? ──それは答えたら……何か壊れてしまいそうな気がした。何が? 多分、居心地のいい居場所が。でも、現実を省みれば、これは今、まさに、その居場所が失われかけているのではないのか?
 マルーは何も言わない。恥ずかしそうにうつむいて、頭を抱えている。
「あのさあ、何も言わないのもどうかと思うから、言うけど、えー……俺も……そう思って、る」
「へ?」
「い、いや。だから……」
「──もう一回言って」
 もう一回、だと? まるで腹の底に砲丸でもぶち込まれた気分だ。バルトの頭はかつてないほどに凄まじい高速回転をして、回転しすぎた結果、何の言葉も弾き出さず、我慢できなくなったマルーが口を開く。
「ねえ、聞こえなかったっ」
「嘘つけっ、こんな目と鼻の先で聞こえないわけあるかっつうの!」
「ボソボソ喋らないではっきり言ってよ! その……まずはガッと、抱き締めるんじゃなかったの!?」
「だからデカい声出すなあっ! そしてそりゃ仮定の話だ! か・て・いッ!!」
 次は彼が頭を抱える番だった。もはやとんでもない恥辱のオンパレードだ。恥ずかしすぎる。耳まで熱くなっているのがよく分かる。勘弁してくれ!
 どうしてこんな展開になっているのか、さっぱり分からない。フェイとエリィがやっと結ばれたのが、そんなに衝撃的だったのか。衝撃でもいいから、影響は受けないでくれ。頼む。──心の中で懇願しても、肝心のマルーには届くわけなかった。また叫び出す前に、何とか口を封じなければ……。
「えと、だから、」
「うん」
「……」
 いざ言おうとして、何も言葉が出ない。自分でも飽きれるくらいの屁っぴり腰だ。自分がこんなにバカだとは思っていなかった。ひょっとして俺は酒の勢いでもないと告白一つできないダメ男なのか。いや、そんなはずがあるものか、このバルト様が! さあ言え!
「す……」
 ……。
「──もう!」
 マルーがまたもやシートを殴る。情けなくもその憤りはよくよく理解できた。握り締めた拳が虚しい。おもむろにマルーが立ち上がる。
「もう行く。やっぱり、邪魔だから」
「おい、待てって!」
 とっさに起き上がってマルーを捕まえる。掴んだ右腕は振り解かれるかと思ったが、そんなことはなかった。代わりにきっと鋭い視線が注がれる。
「邪魔なんて言ってないだろ」
「言ってないけど、邪魔してる」
「してねぇよ」
「だけど……!」
「あーもう、いいからちょっと黙ってろよ!」
 叫んだ勢いで転ばせそうなほど抱き寄せて、思いっきり抱き締める。柔らかい体と熱い血潮の感覚がどっとぶつかってきて、そして腕の中でもがいた。だがバルトは離さなかった。
「離して」
「本当に離していいのかよ」
 即座に言い返せるほどに、彼女の言葉は熱く艶っぽく、胸が切なく締め付けられる溜め息に満ちていた。気が済むまで閉じ込めておきたいほどに、彼女は小さくて華奢にできていた。そして彼の望みのとおりに、マルーの体はすっぽりとバルトの両腕に収まっている。上体を引いてバルトの胸に懸命に爪を立てているが、そんなものちっとも痛くなかった。歴然とした力の差が露になるだけだ。
「ねえ、お願いだから離してよ、若」
 懇願に、思わず我に返りそうになる。だがもう、そんなつもりはなかった。ああまで言われてただで帰せるわけがない。バルトにもそれなりの矜持というものがある。せっかく捕まえたものを逃したりなんてできっこない……マルーが窒息するかもしれないほど強く体を引き寄せ、そのうなじに鼻先を埋める。あのシャンプーの匂い。何かの花のような、雨上がりの草原のような──。
「甘い匂いがする」
 触ってみたくなるような繊細な首筋だった。細くて白くてなめらかで、静脈が透けて見える。バルトの中でイメージできる首とはずっとかけ離れた壊れやすそうな作りは、いっそ、口付けてしまいたくなる。
「ちょ、ちょっと待って、ホントに、お願い! たんま!」
「嫌だ」
「本当に! だって、なんか、貞操の危機を感じるってばっ」
「……そこまで信用ねーか俺?」
 マルーが必死にバルトを押し返すので、彼は諦めて少女を抱き締めるのを、渋い顔をしながらやめた。彼女はようやく息が楽になって、何度か深呼吸を繰り返してから、話した。
「だから、あのね、話していい?」
「おう」
 分かった、さっさと言ってくれ。そんな捨て鉢な気分のバルトである。多分、かなり仏頂面している。……せっかく、頑張ったのに。なんかいい気分だったのに。
「その、明後日の朝から作戦でしょう? だから若、緊張してないかなって、様子を見に来たんだけど……なんか、すっごく予想外の展開っていうか。別にそういうつもりじゃなかったっていうか……」
「オイコラ、何だそりゃ」
「だってすごく危険なんでしょ? 失敗したら帰ってこれないから、それで、若の顔見たら、あんまり喋らない方がいいかなって……でも、ああっ若怒らないで!」
 表情を曇らせたバルトに待ったをかける彼女は、どうにかして怒りを静めようと必死になっていた。弁明するマルーは半分涙目である。いつも通りの親切心が、まさかこんなことになるとは思いもしなかったのだろう。額に汗を浮かべて慌てふためいている。
 だがバルトの引っかかったのはそこではなかった。
「俺、そんな神妙な顔してたか?」
「──ひょっとして、死ぬ覚悟してるのかなって、思った」
 そんなつもりはなかった。絶対に生きて帰ってやると思っていた。いや、それは表層的なだけで、もっと奥深くでは覚悟を決めようとしていたのだろうか。一番身近なマルーをそんなに心配させてしまうほど、張り詰めた顔をしていたのかもしれない。そう、何とも思っていないのなら、いつものようにフェイやビリーたちと駄弁っていればいいのだ。それがギアの中でひとり篭もってなどいるから。
 バルトは首を振る。自分のためではなく、どちらかといえば、目の前の少女のために。
「バカ、死んじまったら全部終わりだろうが!」
「だよね。ごめん若、変に勘繰ったりして……本当に、ごめんなさい」
「……もっかい」
「え?」
 黙って腕を広げて、両手の指先をくいくい動かす。
「チョイと詫びの気持ちを見せてもらおうか?」
「だから今謝っ……」
「俺はてっきりお前が告白しにきたんだと思ってすっげー慌てたんだぞ。そしたら何だ、励ましに来ただけだあ?」
「いやっ、だからそれは」
「俺は傷ついたぞマルー、純情な気持ちを弄ばれたよーな非常に惨めな気分がするぞ、マルー?」
「それは若が勝手に勘違いしただけで、」
「てめえから好きと言っといて勘違いされたって、そりゃ何だ、どういう了見だ?」
「……あーもー!」
 広げた胸にためらいがちに飛び込んで強くしがみついてきた彼女の耳は、それはもう真っ赤になっている。拳でバルトの胸を打ちながら、彼女は早口で捲し立てた。
「ボクが好きって言ったのは、若が大事な従兄で家族だから、親愛のつもりで言ったんであって、」
「ガッと抱き締めてまだ不満なら、他にどうすりゃあいい?」
 握り締められた拳は振り上げられたまま動きを止め、マルーはバルトを見上げた。潤んだ瞳から今にも大粒の涙がこぼれ落ちそうで、バルトはその目元を拭う。濡れ濡れとつやめく薔薇色の唇が、おののきながら言の葉を綴った。
「……ホントに言っていいの?」
「俺が調子づいてるうちに何でも言っとけ」
「でも」
「何にもないならもう、離すぞ」
 バルトが柔らかい体を押しのけようとした瞬間、今にも壊れそうな甘い囁きは、バルトの耳だけにしか、入らなかった。