老いたる渡鴉とあ氷龕ひがん

 時としてむほどの晴天に、タルシスは恵まれる。空は抜けるように青く、この地方特有の強風に雲が流されていく。数日前まで嵐だったとは思えないような朝、フォルセティはベルンド工房にいた。表では旅支度する冒険者たちと工房の看板娘とがやりとりし、それがこの工作室まで遠く響いて聞こえている。
 案内された作業台の上には修復を依頼されたかルーンマスターのローブとロッドが一揃い置かれていた――いや、名札がない点を見ると不要になったらしい。魔物にやられたローブのかぎ裂きに印術の術式ルーン・ガルドゥルを刺繍して繕い、大切に着用していたようだが、袖と裾は襤褸ぼろのように擦り切れて放置してある。何とも奇妙だ。
「お待たせ、フォルセティ。これが言われた試作品よ。違うものをいくつか作ったの」
 風変わりに関心していると、待ち人は階段を降りて現れた。工房の専属術師だ。両腕にいくつかの光る筒を抱えて、目の前に一本ずつ立てていく。フォルセティが依頼した呪具の試作品は、いずれも注文通り印術の呪詛をびっしりと刻みつけてある。だが並べられた品々は一見してどれも同じに見える。飾り気のない花瓶のような、無粋な金属の筒が三つだ。
「真ん中の赤い札が言われた通りのものなんだけど。ただやっぱり加工が手間で値が張るから、薦めたいのは青の、」
「いや。この赤でいい。これをもう二つ頼む。今さら金に糸目はつけん」
「急ぎ過ぎじゃない? 小型実験が一回きりなんでしょ。確かにお金を積まれれば作るけれど」
「前にも言ったが、時間がないのだ。望んだとはいえ若い連中が育ちすぎた。これ以上は私の出る幕がなくなる」
 フォルセティは左手を閉じては開く。まだ若かったころに誓い記した一筋の入れ墨、氷を意味するイサ一文字いちもんじが、くっきりと黒くそこにあった。
「私でなくては駄目なのだ——は他の誰にも譲れん」
 かの偉大なる赤竜への復讐。
 それを二十年も前に決意しておきながら、未だに果たせていなかった。
 変わるまいと思っていた手のひらは皺深く血色が失せ、指は枯れ枝のようになった。坂ばかりのタルシスの街に溜め息が出るほどに体が衰え、一方で新たなる大地の迷宮が若き冒険者らを劇的に鍛え上げた。伝承の巨神まで下された今、老骨には幾許いくばく猶予ゆうよもない——自らを駆り立てる復讐の誓いをきつく握りしめたとき、ふと表がざわめくのが聞こえた。誰かのこわばる声がすると看板娘がどたばたと駆け込んできて、薬瓶を何本も取って引き返していく。
「あらら、あんなに慌てて。転ぶわよぉ!」
 フォルセティは看板娘の姿が消えるまでを凝視してしまった。常ならぬ様子に悪い予感を覚え、椅子を蹴立てて工作室を出ると、そこには緊迫の面持ちの冒険者が一人、薬品を受け取っているところだった。身をよろっていないどころか、鎧下さえ身に着けていない。たった今急に定宿からまろび出たような姿だが、誰もが見上げる上背には見覚えがある。
「どうしたね、銀の稲穂団。辺境伯に無茶でも言われたか?」
 男はすぐにこちらを見た。銀の稲穂団のフォートレス、ブレロ——彼はどこか芝居がかった風ににやりと笑う。
「そうなんだよ、あのオッサンときたら恐ろしいことばっかり言いやがる。あの偉大なる赤竜を討伐せよ、と」
「何?」
「三日前に帝国の移民船団を赤竜が襲ったろ? それで暴れ疲れて、身を休めている今が好機だ! とさ。その上行方知れずの要人捜索もせい、だ。救難活動で死にそうになりながら働いたのに、もっと死にそうな仕事を出しやがって」
 ブレロは肩をすくめ、フォルセティは息を呑んだ——伝承の巨神を下した冒険者、それが彼ら銀の稲穂団だ。彼らならばあるいは赤竜をも下すだろう。だがそれは私でなくてはならぬ、何としてもこの私が鉄槌を下し、かの赤竜を殺すのだ! なのに——ふっと足元が奈落になりかかった瞬間、
「あなたがた、ルーンマスターなしに竜を討伐するの? 本当にその依頼、受けても平気かしら」
 我に返って振り向くと、そこには女術師が立っている。ルーンマスターがいない? いいや、彼らはルーンマスターを二人持っている。ワイヨールという黒い目の痩せぎすと、ニョッタという銀髪の娘が……何を、と言いかけるフォルセティは女術師の手にさえぎられてしまい、ブレロは挑戦的な眼差しで術師を睨みつけていた。
「いないだなんてとんだ侮辱だな。ならあんたはどうしてくれるんだ。工房秘伝の竜殺しでも譲ってくれるか?」
「秘伝の竜殺しはないけど、竜殺しになりたい玄人なら知ってるわ。このフォルセティに任せなさい。お爺ちゃん、殺る気充分よ」
 言ってフォルセティの背中をぐいと押すではないか。フォルセティは耳を疑い、ブレロもまた戸惑ってこちらを見ている。
「何か話が飛んだようだが。察しの悪い年寄りに説明してくれ」
「あなたが見ていたローブ、銀の稲穂団の痩せた彼のよ。冒険者を辞めた彼のね——聞いてない? けれど残った彼女は彼ほどの使い手じゃないわね。あの子もうちのお客だし知ってるけれど、タルシスで長いこと術師を見ていたらわかる。あの子は彼にもあなたにも及ばない。そんな子が言われたからといって、突然竜に立ち向かえる?」
 女術師とブレロはしばらく睨み合っていたが、やがてブレロが諦めたように溜め息をつき、いかにも弱った顔になった。
「……白状すると、まったくおっしゃる通りだよ。ニョッタは無論探索には申し分ないが、あの赤竜相手となると……正直に言えば、俺は怖じけてる。……なあフォルセティ。俺と会うのは『王の認証』以来だよな。俺たちが頼んでいいのか?」
 自信なさげなブレロに対し、フォルセティが答えに迷う理由はなかった。
「私は二十年前からあの赤竜の殺戮を望んでやまなかった。願ってもない話だ。任せておきたまえ」
 老いた左手を差し出すと、銀の稲穂団のフォートレスはほっとなりながら、大きな分厚い手で握り返した。

 赤竜の巣付近は荒々しい風が吹いていた。うずくまって眠る赤竜の姿を遠目に眺めるだけのこの場所でも、何か剣呑な雰囲気がする。巣を取り巻く山の鬱蒼と茂る木々、その葉が擦れるざわめきが、より不安を掻き立てるようだ。
 帝国製の気球艇とともに発見された帝国の皇子バルドゥール、すなわち行方不明の要人その人はいかめしい鎧姿で、銀の稲穂団の求めに応じて地上に降りると、
「貴公らの狙いもかの赤竜か?」
 と訊いた。が、対する銀の稲穂団の面々はいずれも居心地悪そうにしている。ソードマン・ギノロット、スナイパー・レリッシュ、ミスティック・モモ——そしてブレロはかつて瀕死の憂き目に遭わされたことを思い出すようで、特に苦い顔だ。
「辺境伯がお前を探せって泡食ってるから来たんだよ。案の定ここにいやがった。病み上がりが一人で何するつもりだ」
「ふむ、辺境伯が……しかし我が臣民に仇なす赤竜を断じて放置してはおけぬ。たとえ貴公らが止めてもだ」
 バルドゥールが下げた真新しい砲剣の橙の塗装は目にまぶしく、持ち主の意志さえ感じさせるが、ブレロはうんざりとかぶりを振る。
「あのなあ。その臣民があんたを心配してると、どうして毎度わかってやらん? 敵だった連中に主を頼まにゃならん無念に気づいてやれよ。それとな、俺たちは止めに来たんじゃない。どうせあんたと揃って赤竜に挑めってのが、辺境伯の魂胆だろうからな」
 それに止められたって聞きやしないんだろ——バルドゥールは面食らって目を見開き、瞳をまたたかせていたが、やがてにっと口角を持ち上げた。
「承知した。愛する臣民が認め、辺境伯が遣わした貴公らと手を組もう。我が砲剣を、帝国の栄光と我らの勝利のために!」
 竜を屠らんとする者たちが互いに頷き、逆巻く風を肩で切って赤竜に迫る。盾持つブレロがブーツにくくった踊り子の鈴を鳴らし、バルドゥールが素早く砲剣を駆動させると、眠りから覚めた偉大なる赤竜は体をのっそり起き上がらせ、耳をつんざく雄叫びで人間たちを威圧した。
 燃え上がる山のような巨体から生える頭も四肢も尾も、何もかもが大きく力強く、広げた翼の地に落とす陰は人間を覆う。爪と牙は破城槌のように太い。未だ噴かれぬ炎の吐息ブレスは、すでに口角から見え隠れする。フォルセティがフォートレス・ブレロの様子をちらりとうかがうと、まるで芳しくない顔色をしている。無理もない——フォルセティは胸の限りに息を吸い、宙に印を記して叫んだ。
『これなるは炎の聖印、知恵持てる我らの大いなることわりなり!』
 赤竜に煽られそぞろに駆けずっていた元素は不意に整然と集合し、人間に与し、赤竜に背を向ける——! 守りを得て奮い立ったレリッシュが地に立てた矢の束から一筋を引き抜き、
「ギノさん、お願いします!」
「分かってる」
 ソードマンながらもルーンの導きを得るギノロットの突剣が、元素の旋風をまとっていた。女が細く泣くような凍てつく音——バルドゥールが問うようにブレロを見、ブレロは手で制した。
「必ずあの後に続け。見ていろ、見ればわかる」
 バルドゥールが息を呑むと同時にギノロットが疾駆した。走る人間を叩き潰そうと赤竜が前足を振り下ろし、しかしギノロットは目前に留まるや黒爪の根本へ得物を叩きつけた。突剣からとは考えられない、ぎゃあん! と醜い鳥の悲鳴めいた音が響くと、人の腕ほどもある氷が前足に突き刺さった。痛めつけられた前足を赤竜が反射的に引いたとき、何本もの矢が雨のように打ちかかった。スナイパーの乱射が前足に命中するたび氷柱が鱗を切り裂き、赤竜は苦悶の声を上げ——砲剣を握りしめたバルドゥールは悟り、駆け出す。
 初の協力とは思えぬ見事な連携を、フォルセティは見ていた。若くして熟練の戦士らが小さな一撃を繰り返し積み上げるさまを。赤竜が丸太のような尾で薙ぎ払ってもブレロの盾は致命傷にさせず、モモが方陣と医療術を駆使して絶え間なく傷を癒やす。隙を見計らったフォルセティの凍牙の印術も竜を悶えさせ、リンクの力を繋がせる——だが。
「おいギノ、もう少し威力出るようにならんのか!? なんかその……なんかあるだろ!?」
 重撃に耐え続けねばならないブレロが焦れた。モモの術が間に合わないほど手傷を負って、肩で息をしている。ギノロットは赤竜に相対したまま、
「ハァ? あるかよバカタレ、いーから死ぬ気で踊れっ」
「だから踊りきれねえっつってんだよ! 俺の盾も限度あるんだぞ!」
 言い合いの隙に赤竜の巨大な爪が動きの鈍いバルドゥールを狙うも、警戒していたブレロの盾がすかさず受け止め激しく火花が散った。鈴の音を乱してのけぞりかかったブレロの体をバルドゥールが支え、二人はどうにか転倒を免れる。
「無事か?」
「あんたに頭カチ割られたときより百倍無事だよ!」
「ならばよい。見苦しいから弱音を吐くでない」
「いや危機感持て!? 俺がお前らを死なせねえけどな、でも俺がバテる前に何とかしろ!」
「そんなことは分かっている。しかし余の砲剣は時間がいるのだ、しばしこらえよ! ギノとやら、その技はあと何度使える?」
 元素の震えが止まった突剣を手にするギノロットは、妙に落ち着き払った態度で、
「何度でもやる」
 とだけ口を利いた。灰色の目は静かに赤竜の動きを観察し続けている。幾度も死線を越えた剣士の顔にバルドゥールが頷き、赤竜の追撃を逃れて彼らは散った。
 赤竜が地を踏み鳴らして平衡を奪おうと、火の聖印が打ち消されようと、陣を整えブレスから身を守り、人間たちの抵抗は続いた。リンクを繋ぎ氷刃で攻め立て、竜の体躯へ侵略を続けた。ついにバルドゥールが叩き込んだ必殺の一撃で赤竜が身をよろめかせたとき、人間たちは勝利を見つけて喝采を上げた。
 これが伝承の巨神を喚んだ者と退けた者たちの実力かと、フォルセティはほくそ笑んだ。これならばこの邪悪な赤竜もあるいはと、胸の片隅に期待が浮かんだ。しかしそれは自らのおごりだと、すぐに思い知らされるときがやってきた。
 いかに全身氷柱に打たれようとも、赤竜はなお偉大なる覇王、漆黒の双角を戴く脅威そのもの——峻厳しゅんげんなる峰のごとき牙の並ぶ顎門あぎとをかっと開くや、周囲が熾烈な獄炎に包まれたのは一瞬だった。咄嗟に飛び出たブレロが盾を掲げても、六人はたちまち間に炎に飲まれた。フォルセティができたのはロッドを持ったまま顔をそむけるだけで、その最中さなかに誰かの絶叫を聞いた。だが灼熱感で正常な皮膚感覚を失い気が遠くなったフォルセティには絶叫が現実なのかどうか、自分が存在しているかどうかさえ危うかった。ほんのわずか熱が引き、よろめきながらふと手の中を見ると金属のロッドが恐ろしいほど赤熱し、何かの焦げる異臭に気がつき、思わずロッドを振り捨てると痛みとともに血が振り払われ、そしてその向こうに熱の沸く地面と、伏して動かぬブレロの姿があった。
 途端、ばちん! 何かが弾ける音がして、白い光が足元から駆け上がってくる。痛みという痛みが急に和らぎ、何が起きたかわかったのは、ブレロへ子供が駆け寄ってきてからだった。モモが方陣を破壊して地脈を生命力に変えさせたのだ。顔をすすで汚し、長かった白い髪は焦がされ少年のようになりながら、目から光を失わない。
「まけないもん……!」
 だがフォルセティは絶望的な事態を再確認していた。ギノロットは膝にすがり、バルドゥールは砲剣を杖にしていた。髪をざんばらにしたレリッシュは焼き尽くされた弓弦ゆづるを新たに掛けようとしているが、その手はおぼつかない。
 次で、とフォルセティは判断せざるを得なかった。パーティは半壊している。この次で最後だ。あと一度ひとたび攻撃を食らえば、人間の力はもう、続かない。
 しかし。
「……殺してやる」
 周囲には人間の戦いによって巻き起こった元素が充分に満ちている。フォルセティが待ち望んでいた、そして最後の好機だった。懐に手を入れると炭化した布鎧がばらばら落ちかかったが、引き出したものはまったくの無傷だった。炎に焼かれるまいと上等なホムラヤマネコの革で包んだ、一巻きの古文書——術式書・魔狼氷葬が、そっくりそのままの姿を保っていた。力なく震える指で紐解くと、書はフォルセティの血で汚れた。
「殺してやる——お前が殺した人間たちが味わった苦しみを、私が刻みつけてくれる!」
 左手に印した真一文字の入れ墨、長年見つめ続けたイサの刻印は今、赤竜によって赤く燃えていた。血の記憶するイサのルーンが輝き真紅に沸騰し、フォルセティはかつてないほどの大声で術式を吠えた。
『我が底方そこいなき憤激ふんげきって、氷鎖ひつがり成して凍てるひつぎへとしずめ眠らせよ。いざ葬送に立ち加われ……!』
 術成す意志が元素を糧に戦場へ膨れ上がり、呪詛が風に乗って赤竜を飲み込んだ。焼かれた皮膚にもはっきりとわかる冷気が突如満ち、赤竜をも凌駕する魔狼の顎門が開く……生木を割くような重たい音とともに、氷濤ひょうとうが並び立つ。
 葬礼は、整った。
 葬列に囲まれた赤竜は大地を蹴って慌てて翼を羽ばたかせたが、魔狼の牙は忽然こつぜんと閉じられた。翼が冷酷に打ち抜かれて巨体が無様に地へ叩きつけられると、すさまじい振動と土煙が沸き起こる。フォルセティは崩折くずおれた。
 赤竜が身悶えてあがく中ギノロットが再び突剣を振るい、レリッシュの弓を引きしぼる音が鳴った。バルドゥールは砲剣を赤熱から解き放ち、新たな薬莢を装填する。
「やれ、奴の悲鳴をもっと聞かせてくれ……!」
 フォルセティはわらいながらささやいた。お前たちの力で、私の仇敵を殺せ! ——硬い氷の破砕音が幾度も響き、赤竜はそのたびに叫びと地響きを弱らせ、残虐な喜びでフォルセティの胸は震えたが、しかし戦いの結末までを見届けることができなかった。全身が熱く、冷たく、顔を上げてさえいられなかったのだ。
 ……私は死ぬのか?
 なあムニン、君も死ぬときはこうだったのか?
 もはや雑音ばかりが届く耳に、長い断末魔を聞いた気がした。

 痛みで目を覚ますと、そこはどこかの診療所らしかった。半身を少し起こして様子をうかがうと、ベッド一台分をカーテンで仕切る、よくある病室にいた。だがカーテンは一枚も引かれず、病人もなく、妙に静かだった。窓の外では陽がとうに中天を越している。
 隣では腰掛けたギノロットが窓を背にして本を読んでおり、目が合うと彼はわずかに首を傾げた。その頬や腕には湿布が貼りつけられているが、平静な顔をしている。
「赤竜は……」
「死んだよ。だいじょぶ? 水いる?」
 いかにも外国人らしい片言の後、彼はサイドテーブルから一杯の水を差し出した。ギノロットに助け起こされて、右手でコップを取って少しずつ飲むと、ずいぶん消耗が激しいようで、たかが一杯の水が腕に重たく、喉に硬い。改めて見ると、手足のそこかしこを冷やされ、包帯を巻かれ、疼痛が止まない。
「君は無事か」
「うん、モモが治してくれた。フォルセティとブレロは難しかったから、ここ連れてきた。しばらく入院って。デニス来て、すげー怒ってた、『クソジジイ、棺桶いくつめだ』って」
 フォルセティは苦笑した。デニスはフォルセティが所属するギルド・レイヴンのメディックだった。誰かから惨状を聞きつけて飛んできたのだろう。旅を共にして長いせいで、デニスは言うことに遠慮がない。
「それと……誰か知らないおばさん来た。『まだ起きない?』って言って、うんって言ったら行っちゃった。また来るって」
 こんくらいの髪の、と顎あたりを指したので、フォルセティは水を置いて枕に沈んだ。
「それは私の細君だな。ありがとう、忙しい女性なのだ」
「さいくん。えと、聞いたことある。なんて意味?」
「妻だよ。知り合ってもう、どれくらいになるか……」
 フォルセティはそれしか言わなかったが、ギノロットは沈黙の先に置かれた数々について察したか、首筋に下げた鮫の歯の首飾りを握りしめた。
「……これでよかったのか? さいくん、すげー心配そーだった」
「私の相棒を殺したのは天地でなく竜だ。命持つものからは奪える。私は手段を探した。彼女はすべて知っている……だから、そういうことだ」
 これが下手な相手ならおためごかしは聞き飽きたと突き放すところだった。が、大切な者たちを奪われた痛みも、復讐の後に残された魂の無惨も、すでにギノロットは知っている。下らぬ反論はせず、さりとて言葉に迷って目を逸らすでもない。ギノロットは、静かだった。
「フォルセティの相棒、どんなやつだったの」
「誰もが呆れる本の虫だよ。博覧強記はくらんきょうきで神話から名を受けムニンと呼ばれてね。あのころ、フォルセティとは私の通り名でなく我々二人のギルドの名で……将来を期待された善良な人間だったよ。決してむごたらしく殺されてよい人間でなかった」
「うん……なのに、みんな死んでく」
「だがもう人間ではない、今や記憶のくびきだ。ゆえにただでは耐えきれなかった……だからここに、小さい夢を持っていたのだ。ほとんど誰にも言わなかったが、もうすぐ叶う」
 持ち上げてみせた左手は包帯で覆われていたが、それはただのこごえた復讐の誓いではなかった。
をな、書き換える夢だよ。凍てついた停滞のイサを、ついに結実したフェオの文字に」
 サブ・ルーンマスターでもあるギノロットは握っていた手を緩め、切れ長の目を見開くと、ゆっくり息を吐き出した。
フェオに……そっか、それはずっと、希望の芽だったんだ……ならさ、フォルセティ」
「うん?」
「俺はフォルセティに幸せになってほしい。暗闇でちっちゃい希望をずっと信じるのは、みんなにできることじゃない。でもフォルセティはできた。だから冷たい記憶を、遠い思い出に変えてほしい」
「……ありがとう、心に染みるよ。老いると幸福を祈りこそすれ、祈られることはなくなってね。何しろこうも頑固だとな」
 フォルセティが半ば自嘲で微笑むと、ギノロットもまたかすかに笑った。暗闇から希望に辿り着いた者の、不器用な笑顔だった。