身にまとう

 朝からどうしようもない脱力感に襲われて煙草が欲しくなるときがある。理由は分からない。ただあの苦い不味い煙の臭いを嗅ぎたくなって目を覚ます。今朝は隣の枕に恋人がいなくて、ふとそんな気にかられた。
 奇妙なことに街にいるときにだけそうなった。迷宮で人心地ついても何も思わないのに、どうしても街にいる間だけ。だから探索の装備になくても、散歩に出るときはポケットに一服入れておく習慣が、かつてはあった。
 このごろとんとない感覚だったので、ヨーカと暮らすようになって以来、煙草なんてどこにやったかすっかり忘れて、探し出すのに難儀した。家探しみたいに引っ掻き回して、引き出しのずっと奥深くで他の物に埋もれて出てきたとき、少し笑えてしまった。買ったまま封も切っていない箱があちこちへこんで、半端に口が開いている。とっくに香りが飛んでいそうだ。
 そして驚くことに火がない。そういえば宿から引っ越したとき、荷物にまとめた覚えがない。一本はすに咥えたままマッチを求めてこの場所あの場所と探し回っていたら、一階の洗面場から戻ってさっぱり生まれ変わったみたいな顔のヨーカに見つかった。別に悪いことをしているわけでもないのに後ろ暗い気持ちになるのが、自分でもよく分からない。ヨーカも何やらばつが悪そうにした。
「何もそんな顔をしなくても……。炊事場まで行かないと、うちに火はないですよ」
 各戸にまともな台所のない、ささやかな流し台があるだけの小さなアパートだ。その上ギノロットがなまじルーンに通じるせいで、夜の明かりは印に応じる石を使った。この五階から地上まで降りなくてはいけないのかと思うと、うんざりした。
「あと、灰皿もないです」
 言われて一番がっくり来た。致命的な問題だ。結局水のあるところまで行かなくてはいけない! 喫煙には一切向かない住環境だ。住んでいるくせに知らなかった。
「買ってきましょうか?」
 思ったことが顔に出たのか、ヨーカは首を傾げた。だがわざわざそんなお使いを頼むのも気が咎めるし、第一何かを決断するのがとても面倒くさい気持ちだ。
 目の前にはただヨーカが立って、面倒なギノロットの返事を待っている。
「……代わりにキスして」
 子供っぽく腕を広げてねだったら、くわえた煙草を引っこ抜かれて、恋人の優しい唇が触れた。すぐに離れそうになったので、ギノロットはヨーカを捕まえる。
「やだ、もーちょい」
「――甘えん坊ですね?」
「うん」
「口寂しい、っていうやつですか?」
「かも」
 憂鬱が気怠けだるいキスをさせて、ヨーカの手が寝癖だらけの頭を撫でてくれた。
 ヨーカの体は鍛えられているはずなのに抱きしめるとふわふわ柔らかくて、呼吸で胸が上下するのが分かる。顔を洗った石鹸の、清潔で落ち着く匂いもする。優しい温もりが染み込むように伝ってきて、つい吐息が漏れた。やっと地に足が着いたようなくつろげる感覚に、ギノロットは敵の正体を知る。
「違う……単にさみしー、俺……」
「まあ。だいじょぶですよ。ちゃんといますからね」
 二人だけのときにときどき挟む、不慣れな南の訛りがかわいらしい。そばにいると伝えようとしてくれる心が愛しかった。この恋人は鈍感なようで繊細で、そのちぐはぐにいらいらすることも、切なくさせられることもあるけれど、今は、とても切ない。
 ただヨーカに甘えて、ギュウギュウ抱きしめる。苦しがってくすくす笑う声は、まるで妖精だった。
「地面に降りたらとても気持ちいいお天気でしたよ。後で芝生のあるところへ、お昼寝しに行きましょう?」
「甘いもん食いたい」
「じゃあ、こーんな朝から、ケーキ食べに行っちゃいましょうね」
「うん」
「そしたら、着替えましょうか。わたしもお腹ペコペコ。ベーコンとはちみつのパンケーキが食べたいな」
「……俺、子供みたいだ」
「とっても愛しいです。甘えていいですよ」
「じゃ、着替え、選んで」
 ヨーカは甘やかしてくれる恋人だ。まるで母親みたいな話し方をされると、ねたいような気持ちになる。分かっていながらわざわざ拗ねると、寂しさが一瞬だけ満たされて、余計に際立ち、なお募った。それもまた子供みたいだと思った。
 箪笥たんすを開いて一着見繕ってくれるのを、ギノロットはわざわざ背中にひっつきながら待った。こんなにべたべたしていても、ヨーカは気にしたふうもない。その代わりにヨーカは言った。
「ときどき、とても辛そう。いっぱいお酒の並んだあのお店で、今みたいな顔していました」
 ああ、そうか。煙草をくわえていたいのは、こんな気分のときだ――ギノロットはようやく気がついた。
 まだレリッシュと名乗っていたころの彼女を、一度だけシガーバーへ連れていったことがある。『大人のお酒』を飲んだことがないと言うから、手前から奥まで酒と煙草がずらりと並んだ、臭い煙い薄暗い男の声しかしない、空気の淀んだあの不愉快な店へ案内したのだ。ギノロットが定位置にしていたカウンターの隅で、一緒にウィスキーをちびちび舐めたが、結局レリッシュは大人のお酒を気に入らなかった。面白くない記憶にギノロットは苦い顔をした。
「やなとこ連れてったな、俺」
「でも、大人の顔してた」
 苦笑混じりに返された。きっと言うほど大人でもない男の顔だったのだろう。少なくとも楽しい顔はできていない。自分の感情に煽られて吹き溜まったみたいにしていたに違いない。
 ひょっとして辛そうにしていたから、シガーバーに行く口実を作ってくれたのだろうか。ヨーカはいつも、俺を甘やかしてくれるから……自嘲の笑いが浮かんだ。
「さっさと洗面場行ってケーキ食い行く」
「うん。甘いもの食べてるギノさんのほうが、もっと幸せな顔しています。はい、今日はこれ」
 アイロンの当たってぴんと真っ白いシャツと青いジーンズが差し出されて、朝日にまぶしく輝いた。襟やボタンのついた服は、ヨーカと暮らすようになってから、彼女の好みに合わせてやっとまともに着るようになったものだ。窮屈さが嫌いで避けていたけれど、かえって今日みたいな日はいいのかもしれない。好きで着ているどんな服も、緩いばかりで引き締めてはくれない。
「お前は俺のこと、分かってんな……」
「そうですか?」
 ヨーカは不思議そうに口に手を当てたが、すぐにえへへとだらしなく頬を緩ませ、夢見心地につぶやいた。
「これを着てるギノロットはとってもセクシーなので……うふ」
「……せくしー」
 声のチューニングが間に合わず、発音の確認みたいなオウム返しになった。朝っぱらから何だ。そういう話か。『嫌だ、今日だるい』、危うくそんな本音が出かかった。よく我慢したと己の自制心を褒めた――そういうギノロットの苛立ちに気づかないまま、ヨーカは上下に弾みながらセクシーの続きを聞かせる。
「だって体の線が浮き上がって、ソードマンの格好の次にすき! 出してセクシーな人が、隠しててもセクシーなんですよ! はあ、信じられない。そんな人とお付き合いして、朝からお散歩してケーキ食べて、お天気の日に、お昼寝まで……考えただけで幸せ! わたし、どうにかなりそうです……」
 赤くなっていく頬を押さえながらふにゃふにゃの笑いを浮かべた。洗面場から戻ったばかりの清潔で、母親みたいに話の分かる恋人は一発でどこかに退場し、すでにどうにかなりかかっている残念な子が代わりに現れた。何となく間が抜けて、緊張なんてかけらもない、この後まだまだおかしなことを言ういつもの子……ギノロットは何だかどうでもよくなって、鼻から笑いが漏れた。今日もヨーカは締まりのない変な妖精だ。
 ……もういい、分かった。
 そこまで言うならセクシーな服を着ようじゃないか。ギノロットは皺になった寝間着を脱ぎ捨て、ごわごわ堅い感触のジーンズに脚をねじ込んだ。シャツはどうせ、首飾りが覗くくらい胸を開けたらいいんだろう? お前がこの胸元を大好きなのは知っているんだ。それでこの腕にしがみついて散歩して、胸を枕に昼寝するがいいさ。
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