ブレロ、女子寮に赴く

 結局マドカは留年してしまった。彼女の知性は申し分ないが、単位ばかりはごまかしが利かない。単位なき者に与えられる罰、それが留年だ。ギルドリーダーの責を負う手前、ものは試しと学校と交渉したが、ダメなものはダメだった。恥ずかしいほど明々白々である。
 タルシス大翼章を受けていようが、仮に暗国ノ殿を踏破していようが、絶対に動かせないものがある。知識不足とは努力の不足だ。医術師が人命救護の使命を負う以上、足りなければ足りぬとねられなくてはいけない。その資格は然るべき知恵と技術を持つ者にのみ与えられねばならないのだ。
 とはいえ振り返ってみれば、銀の稲穂団を始めたときに抜かりなく確認しなかったポンコツ無責任なリーダーが悪い――つまり、俺だ! ……ブレロは自らの不明を恥じた。あのころはこんなに人の人生を背負うつもりも覚悟もなかったから、まともに頭も使わず計画性もなく、マドカの貴重な時間をあだに空費したというわけだ。
 しかし何も手をこまねいていたわけでは断じてない。途中で発覚していた問題だ。いよいよ困るより前に銀の稲穂団を辞めろと言ったのに、マドカは譲らなかった。あまり強くやるとまたこじれそうだったので小言程度に留めていたが、ふとある時、もしかしてマドカは最初からこういうつもりだったのではないかと思い始めた。
 無尽蔵の体力があるはずもなし、毎日毎日迷宮にばかり出かけるわけもない。都合よく怪我人が出ることもなければ、看るべき病人が常にいることでもない。実践経験を求めてとはいうものの、銀の稲穂団は案外探索しない日も多いギルドであったから、タルシスで真っ当に勉強を重ねたほうが効率としてはよかったかもしれない。
 こんなわかりきった話を不思議と見逃していたのは、それでさも当然のようにマドカが振る舞うからでもあった。医術に素人などお呼びでないから、しっかり者のマドカが言うからには違いなかろうと勝手に決めてかかっていたのだ。
 つまりひょっとして、彼女もモラトリアムが欲しかったのだろうか。ちらとも思わされなかったが、そう考えるとマドカのマイペースにも一層の親しみが増すというものだ。
 だから君がわけのわからないことで俺を咎めても、本当は許してやりたい。「くれぐれも普通の格好で来てくれ」と言われたから、お望みどおり普通の格好で来たのに、なぜ角を立てるのか。今日もきちんとフォートレスの出で立ちだ、鎧はないけど——授業を終えた女学生が群がる夕方の玄関口で、マドカはぷりぷり怒った。
「乙女心がわかってないわ」
「君と俺の考える乙女心に差異がある」
「それをわかってないって言うのよう!」
「すごい早さでバレたな」
「あなたのお洒落、楽しみにしてたのにな」
「何だと。それならそうとはっきり言えよ! 三十分待ってくれ、着替えてくるから」
「だめだめだめ、時間が惜しいってば。もういいわよ、どっちでも。その格好だって今日で見納めだもの、それでいいわ」
 夕焼けの綺麗な時間に寂しげな声で言われてしまうと何やらこちらの胸も締めつけられるようであり、ブレロは悪ふざけが続かなくなってしまった。
 マドカは冒険者をきっぱり辞めると決めたのだ。やっと決めてくれたのは、つい昨日のこと。前回といいまたしても急だったが、今度は安心できた。マドカという努力家をいつまでも阿呆ボンのモラトリアムに付き合わせるわけにはいかない。
 柱の影から様子を見守っている女学生に笑顔で手を振りつつ、ブレロは応接室まで案内を受け、二人でテーブルを挟んで向かい合わせに座った。
「そういうわけで手続きした書類がこれだ。俺にできることは万事問題なく終えたから、今日からは学生として大手を振って歩いてくれ」
 ポーチから一通の封筒をテーブルに差し出した。『医術師メディックマドカ・ユーイングはギルド銀の稲穂団から除名された』と記してある、冒険者ギルド発行の書類だ。彼女に対する最後の仕事だった。
「それと残った報酬の取り分とか会計上の説明があるが、」
「適当に振り込んでおいて。あなたのお家ならできるわよね? はいこれ、書いてあるから。どうぞ」
 と言ってマドカは折り畳んだ紙切れをテーブルに滑らせてきた。ブレロは呆れたが、書かれているものに少し目を走らせてからそれをポーチにしまった。銀行名に口座番号と思しき数列——銀行は生半可な人物に口座の開設など許さない。つまり銀行口座を持っている冒険者はかなり珍しいはずだ。マドカはきっとタルシスでも稀な、口座振込で報酬を受け取る冒険者になるのだ……最後の仕事は、まだ存在していた。
「だって、きっと冒険者ギルドに出向かなくちゃいけないでしょう? みんなに会いたくなっちゃうから、できないわ」
「――そういうことなら引き受ける。すぐやるよ」
「ありがとう、助かるわ」
「事務の話はそれですべてだ。……今までありがとう、マドカ。君には何度も救われた。俺たちはみんな全員、一人残らず、君に感謝してもしきれないよ」
「んもう。やめてちょうだい、そんな湿っぽい話。本当に寂しくなるから」
「ふむ。積もる話は省略するか」
「省略の代わりにお願いがあるんだけど、いいかしら」
 言って立ち上がったマドカはブレロの右隣に腰掛けて、不思議ねえ、と篭手をしげしげ見つめ始めた。ブレロの右腕に欠かすことがなかった城塞騎士フォートレスの篭手——戦う銀の稲穂団をまもってきた、大切な篭手だった。
「それ、見せてもらってもいい? 一度じっくり見てみたかったの」
 魂の座とも呼べるものだが、他ならぬマドカの頼みなら、まあ聞いてやってもよい。篭手のベルトに手を掛けて、差し出されたマドカの両手に託した。傾く篭手は夕映えを反射した。
「盾が壊れるくらい戦っても、これだけは壊れないのよねえ」
「聖なる篭手だ。滅多に壊れない」
「なのにいつもとっても綺麗」
「整備は欠かしてないからな」
「この緑色の石は何? 触っても構わない?」
「どうぞ、そう簡単には割れない。心ゆくまで叩いてみてくれ」
 篭手の中央に据えられた美しい石は、周囲の細工もあって特に人目を引くものだ。とても戦場の装備に見えないその石をマドカはつついてみたが、彼女が見てもきっとただの石だろう。しかし、その輝きが損なわれることは絶対にないのだ。
「フォートレスはみんなこれが腕にあるわね。どうして?」
「……それが聖なる力を持っているから」
「あなたの口から聞くと嘘っぽいわねえ」
「失礼な。ちゃんと俺の専用品なんだぞ。裏を見てみろ」
 言われて篭手をひっくり返すと、マドカはわざとらしく「あら本当」などとうそぶいてみせた。篭手の内側に刻まれているのは、この世に生を受けた時、祝福とともに両親から授かった真の名。フェルナン・ドラード。
「叙勲を受けたときの品なんだからな。俺の技はすべてその篭手があってこそだぞ? 少しは敬ってくれ」
「今さら遅いわよう、だってもう迷宮に行けないんだもの! どうしてもっと早く自慢しないのよ」
「そんな……恥ずかしーだろ、そんなんいちいち自慢しねーわ」
 さっさと篭手を取り上げると、マドカはぷっと噴き出した。伊達に一年、隣であの口調を聞いていない。……とせっかく笑わせてやったのに、マドカは大粒の涙をぼろぼろ零すのだ。けれど大丈夫、今日こそはいつかと違ってハンカチを用意してある。ポーチを探って差し出すと、マドカはハンカチで顔を覆い隠してしまった。
「私ね、ずっとあなたを褒めてあげたかったの。やっと言えてよかった。全部あなたが頑張ったんだもの」
「全部だなんて大袈裟だな。でもまあそうじゃないかと思って、軽装でもわざわざ装備したんだ。さあ褒めろ褒めろ、今のうちだぞ、明日はねえぞ」
「だからその格好は嫌だったの! いろんなこと思い出してきちゃうじゃない。本当、泣けてきちゃうわよ! 満足した!?」
「ふふん、かなり満足した! 嬉しい限りだ」
 ふんぞり返って足組みまでできる! 涙ながらに尊敬されるとは実に気分がいい!
「まったく、最後まで憎たらしいったらないわ……ねえ、このハンカチ、もらっていい?」
「そんじょそこらのよくあるハンカチだ、どうぞ」
「じゃあ引き換えに、これ﹅﹅をどうぞ。私のこと、たまに思い出して」
 と言ったマドカの行いにブレロはきょとんとした。少し遅れて『それ』が目の前に差し出されたとき、胸の中に何か熱いものが広がった。そんなことを予想していなかった――マドカがハンカチの引き換えに差し出したのは、彼女の髪をまとめていた一筋の真っ赤なリボンだった。左側だけほどけたマドカの柔らかい髪は、彼女が軽く払いのけると最初から結んでいなかったようになった。赤く染まった目元といい、涙をこらえる唇といい、まるでどこかにリボンをなくしてしまった少女のようなあどけなさだった。
 ほっそりと白い手から赤いリボンを受け取った瞬間、これは知ってるな、と懐かしい感覚に襲われた。これは昔聞いた古い騎士の英雄譚だ。婦人の身につけるものを、お守り代わりに譲り受けるような……しかしこれを見ても思い出されるのは優雅な乙女の微笑みではなく、状況に押し潰されまいときつい物言いで治療を施す、懸命なメディックとしての姿なのだった。
 涙を拭ったマドカは凛と立ち上がる。
「私のわがままに付き合ってくれてありがとう。今まで本当に楽しかったわ」
「なんのお安い御用だった。何しろ俺が一番助けられたからな? 貸し借りゼロで丁度よしだ」
 それでも涙が止まらないので、ソファから腰を上げたブレロは満を持してもう一枚のハンカチを差し出した。案の定彼女は驚いた。
「うそ、まだ出てくるの!?」
「これ以上はもう出ないぞ、あれば面白いと思っただけ」
「じゃあもう片っぽもあげるわよ」
「待て待ていらん、将来の旦那に恨まれでもしたら嫌だ。取っておけ」
「あら、案外真面目なこと言うわね」
「恨みは買っても一文にもならん」
 ぐすぐすと鼻をすするマドカが応接室から玄関へとブレロを見送ると、泣き顔のマドカに気づいた物陰の女学生たちが互いに見合わせてキャッキャザワザワ騒ぎ始めた。なんと愉快。君らは漫画か。これはワイヨールが笑うわけだ。マドカも野次馬たちに呆れつつ、大きく息をついた後に笑顔を作った。
「それじゃあ、お別れ。ごきげんようブレロ。銀の稲穂団に実りある苦難を」
「ああ、君にも実りある苦難を」
 二枚のハンカチを握るマドカがゆるゆると手を振り、ブレロは手に残った赤いリボンに口づけ、手を振り返してそこを後にした。
 まったく騎士の冥利に尽きる贈り物だ。危うく泣き出してしまいそうだった。