黒い谷に嵐

 凄まじい風に体を巻かれて、レリッシュは腕で顔を覆うしかなかった。束ねた髪がきつく煽られ、大切な魔除けのリボンが漆黒の空にさらわれて飛んだ。ワイヨールに呪を施してもらった緋色のリボンはたちまち小さく見えなくなってどこかへ消えた。長い髪はただ強風になぶられるままとなる。
 ――一体、ここはどこ。
 自問してもこんな場所で何をしていたのか一切思い出せないと気がついて、レリッシュは半ば混乱した。これまでに踏んだ場数は、混乱が役に立つことなどないと彼女に警告する。だが努めて分析しようとしても、夜闇が深すぎる。森に囲まれた急流としか視認できない。風のせいで耳もほとんど役に立たない。轟々と流れる水の音が背後にあり、たくさんの針葉樹が梢を軋ませている。
 ——いいや。
 視界の隅に人影を見つけてすかさず向き直った。だぶつくその黒衣は風で千切れそうになっているが、裾から伸びる白く細い手足は嵐をものともしていない。広い背中と筋張った体つき、レリッシュはそれが男性だと見当した。どこか未熟な四肢は彼が若年だと物語っている。そしてかすかにくすんだ銀髪の首筋に、なぜか見覚えがある。
 その途端、周囲にドンと衝撃が走ってがれ場の石に足をすくわれた。不安定な岩場はあちこちでがらごろ音を立て、レリッシュはたまらず手をついた。体にぶち当たる風になおバランスを崩され、それでも何とか立ち上がろうと膝に手をつく。弓も矢もどこかへ失っていたが、ここを切り抜けなくては……体に力を込めると、ふと目の前に節くれ立った手が差し出された。藁にもすがる思いでほとんど反射的にその手を取った。力強く引き上げられて何とか立ち上がり、顔を上げると、闇色の瞳と目が合ってひっと喉が引きつれた。
「……ワイヨール!?」
 手を取られながら口にした名はおびえて震えた。にじむ驚愕を抑えきれなかった。
 風に掻き乱された銀の前髪の隙間から、漆黒の目がひたとレリッシュを見つめている。色薄く目立たぬ眉と、同じ色をした睫毛がしばたたき、痩せこけた頬に彼は――ワイヨールは笑みを浮かべた。無邪気な瞳できょとんと聞く。
「どうしたの?」
 だがその悪意のない声が、レリッシュの胸にはとてつもなく不吉に響いた。目の前の彼は確かに微笑んでいるのに、受容の色が見つからない。無感情な爬虫類みたいにただ黒々と光っているだけだ。
 違う! これはわたしの知っているワイヨールじゃない! 手を振り払おうとしたが試みは呆気なく失敗した。予想外の強い力がレリッシュの手を離そうとせず、むしろすぐに絡め取られて解ける気配が完全に失われた。力が込められ明確に浮かび上がった手首の筋に、レリッシュはぞっとなった。
「大丈夫、何も怖いことはないでしょ」
 彼はおかしそうにくすくす笑う。大丈夫だって? 嘘をつかないで、とレリッシュの心は叫んだ。ワイヨールはそんな目をしない。物を見るような目でわたしを見つめたりしない!
「もう。それってきみの気のせいじゃないのかな」
 彼は薄い唇を開き、言葉を乗せて人の声で喋った。どことなく愉快そうな口ぶりで。優しげな形をしただけの目元がきゅうっと細くなり、漆黒の瞳を縁取る銀の睫毛が一層目立った。暴風の中にありながら、耳元でささやきが響く。
「きみは本当におれに気がつかなかったの? 今までずっと? おれは普段からこうなんだけどな……まあいいよ。仕方ない。いつも都合のいい私ばかり。都合のいいものしか見えないからね。みんなそうなんだ」
 彼の水の言葉が揺らぐと眼光がレリッシュを打ちのめし、つかまれた手指がもげ落ちそうなほど握り込まれ、烈風を孕んだ黒い衣がレリッシュの体を絡め取った。がれ場は崩れ落ち、あたりは雷光とともに塗り潰され、視覚も聴覚もすべて奪われそのまま何もわからなくなる――。

 強くべちんと頬を叩かれてはっと目が覚めた。すると開いた目蓋で最初に見つけたのが綺麗な灰色の瞳だったので、レリッシュは飛び上がった。
「めっちゃうなされてたぞ、お前。だいじょぶか」
 珍しく心配顔するギノロットが、ソファで眠れるレリッシュを文字どおり叩き起こしたのだった。茶色の髪が光を受けて透け、首元にサメの歯の首飾りがきらめいている……ぎゃあ! 何この距離! 好きな人の顔を間近に見たレリッシュは思わず顔を背けようとしたが、そこでぶたれた頬にまだ手がかかっているのに気がついて、三度みたび仰天した。
「んあ、悪ィ。そんな痛くしねーつもりだった」
 振り抜きもせず引っ込めもしなかった自分の手にやっと気づいたギノロットは、離した手をポケットに突っ込むと、かがんだ姿勢から立ち上がった。その背後ではマドカが上品にあくびを手で隠し、またテーブルに突っ伏して眠るワイヨールの頭があり、さらには新聞紙で紙飛行機を作りまくる、だらけたブレロの姿があった。
「コーヒー買ってきたぞ。超並んでてすっげー時間かかった。ごめん。なんか、スタンプ三倍だったっぽい」
「ギノちゃんって、あのコーヒー屋さん好きすぎよねぇ」
 よそに行けばよかったのにという抗議混じりのマドカがポットを傾けると、カップに注がれたのはたっぷりとミルクの入った優しい褐色のコーヒーだった。今日のコーヒーポット当番はギノロットで、ギノロットといえば甘さが人気のコーヒースタンドなのだった。どうりでやけに寝た気がするはずだ。
「そんなに混んでたんですか……」
「スタンプ興味ねーし知らなかった。他のギルドのやつとくっちゃべってたし」
「出て左角のコーヒー屋さんのが、近くて美味しいのに〜」
「そっちなんか苦いしやだ」
「ギノちゃんはコーヒー薄め党だものね」
「そそ、濃いやつ嫌い。甘い味と合わねーもん」
「ええ〜、それは偏見だわ。砂糖どっさりのエスプレッソなんてとっても美味しいのよ。明日の朝にでも飲んでごらんなさいな。薄味コーヒーなんかじゃ真似できないんだから」
「何それ。そんなんあんの?」
 悪夢から覚めたのと間近にギノロットの顔を見たのとで、事件が起きすぎたレリッシュの心臓はやたらばくばく鳴っていた。深呼吸を繰り返しながら気持ちを落ち着けていると、黙りこくっていたブレロが突然、紙飛行機をワイヨールの頭にぶち当てた。奇襲を受けたワイヨールが悲鳴を上げて跳ね起きるさまを、ブレロは大笑いして喜んだ。
「何よいきなり! めちゃ痛い! ブレロきみか!?」
「すやっと寝てるやつを超ビビらしてやるのって楽しそうでさあ、やっちゃったあ! あっひゃひゃマジ楽しい!」
「もっとまともな起こし方しろ、いたずら小僧かよ!」
 よほど退屈を持て余したせいか一際意地の悪い顔で指差しながら笑われて、ワイヨールはとても不満げだ。頭にぶつかって落ちたものを床から拾い上げた。
「おい、先端の固め方に悪意を感じるぞ。何だよこれ」
「大量の試作機を経て実戦投入された正式採用の本番型がそれだからな。それはそれは力強く飛ぶぞぉう」
 ブレロの指差す方に目を向けると貸し会議室の反対角に向かって、いろいろな形の紙飛行機があっちこっちに転がっている。
「一機だけレリに当たっちゃった。ゴメン」
「当たったじゃねーだろ、当てたんだろ。勝手に変なほー飛ぶわけあるかバカタレ」
 ぺけちん、と音高くブレロはひっぱたかれた。えっと気がつけば『\hspace{-.6pt}\tcy{56}』と右翼に記された飛行機が、膝の上にひっくり返っているではないか。定規を使って折り目から丁寧に切り取られた力作だ……レリッシュはなぜだか、イラッとした。本当に大量に作っている。こんなにたくさん、見たことない。
 愛嬌たっぷりに舌を出すブレロを寛容に許したレリッシュだったが、悪夢の原因をすべていたずら小僧のせいにすると心に固く決めて\hspace{-.6pt}\tcy{56}号機をブレロめがけて振り抜いた。それはそれは美しくブレロの額を打ったので、レリッシュは周囲から「エスペシャルスナイプ」の賛辞を受け取った。

意外な一面を妄想するためのお題出してみったー https://shindanmaker.com/450823
あなたは『震えた声で名前を呼ばれて、それにきょとんとしながら「何も怖いことは無いでしょう?」と笑う』ワイヨールのことを妄想してみてください。