銀稲の苗

 遠乗りから帰って馬の体にブラシをかけていたフェルナンは、父の提案を聞いて驚いた。寄宿舎のある学校に通うだって? 考えたこともない話で手が止まってしまう。せっかく心地よいマッサージに浸っていた馬には鼻で強くつつかれたが、父の真面目な顔を見るとそれどころではない。ブラシを握ったまま、踏み台の上で父に向き直った。
「嫌か?」
「んー……よくわかんない」
 それが正直な気持ちだった。家族と離れて勉強する子供がいるのは知っているが、屋敷の外の世界をあまり見たことがなければ、勉強することがそこまで好きでもないフェルナンは、彼らのことを自分の身に置き換えて考えたことはなかったのだ。
「それって、僕と同い年の子たちがいる学校なの? 本当にみんな同じところでくらしてるの? いっぱいいる?」
「ああ。ざっと二百人はいたな」
「二百人!? すごくいっぱいだ!」
 想像の手が届いたら、踏み台から飛び降りてフェルナンははしゃいだ。両手の指を二十回使ってやっと足りるくらい子供がいるだなんて! 毎日違う子と遊んでも半年以上かかるじゃないか!
「行くっ。アル以外とも、みんなで遊んでみたい!」
「いや、待ちなさい。遊ぶ場所ではないんだぞ」
 父にちょっと呆れた顔をされたが、新しい友達ができると思うと心はすっかり踊って、フェルナンは子犬のようにはしゃぎまわった。屋敷の生活はいつも同じ顔ぶれだからどんなに違うことを試しても似たり寄ったりになってしまって、少し退屈していたのだ。大勢の友達と一緒なら遊びたい放題うんと遊べて、苦手な勉強だってきっとへっちゃらに決まっている! 茶色の瞳を輝かせてフェルナンはねだる。
「ううん、ぜったい行く! 勉強も遊ぶのもいっぱいやる!」
 新世界への期待で胸が膨らむフェルナンは、自分にできることをもっともっとたくさん知りたかった。馬に乗るのも木に登るのも、まだまだ上手くなりたい。早く大きくなって、いつも眺めるだけの山へ登って、夕暮れ前に帰れるようになりたい。そして大人になったら、あの世界樹のてっぺんに登って、タルシスの街を眺めてみたいのだ!

 あまりにもかまどの火が弱いことに業を煮やしたワイヨールは、竈の口にルーンを刻んで詠唱した。すると『指し示す左』の人差し指から白銀の火花が弾けて薪へ飛んでいき、薪は猛烈に燃え始めた。突然ホワイトソースが煮え立ち始めた上の姉はキャッと悲鳴を上げると鍋をつかんで飛びすさった。
「ちょっと急に何するのよっ! お鍋が焦げちゃうじゃない!」
「あんなトロトロの火よか、ずうっとマシだろ? おれ早く食べたい、お腹すいた!」
「バカ言わないで! あんたね、料理は火加減ってもんがあるのよ。強火でコゲコゲにされたシチューなんて誰が食べたいっていうの? ソースが台なしになるじゃない、せっかく上手にできてたのに! 元に戻しなさいよっ」
「わかったってば。ギャーツクうるさいんだから」
 唇を尖らせたワイヨールは握り拳でルーンを擦り消すと、まだほんのり赤子っぽさの残る手で石筆を持ち直し、少し考えた後に違うルーンを書き始めた。鍋を持った姉は、角っぽいいたずら書きのような謎の記号が記されていくのをただ黙って見る……一家の誰も興味を持たない古代文字の解説書を一人で読む弟の賢さを姉は知っていたが、本当に賢いとわかったのはつい最近のことだし、小さくて生意気なことには変わりがないのだった。ワイヨールの隣で一緒にしゃがみながら、横目で聞く。
「本当にうまくいくの? もっと燃えたりしないでしょうね」
「そんなわけないよ。あっついからちゃんと下がって。いくよ」
 古式ゆかしい詩をたどたどしく詠唱して小さな右手がルーンを打ち叩くと少しの風が巻き起こった。左指に指し示された薪を取り巻く空気は熱を失って凝結し、液化して水となる。じゅうじゅう音がして白い蒸気が上がると火はみるみる小さく弱まっていく……しゃがんだワイヨールはもの言いたげな目をして、姉を下からじっと見た。
「こんなでいい?」
「へえ……あんたってほんと器用ね。やるじゃない! うん、今度はちょうどいい感じよ。ありがと、ワイヨール。あんたのために多めに作ってあげるんだから、楽しみにしててよね」
 すっかり感心した姉は小魔法使いの技に笑顔を浮かべて喜び、やんちゃなワイヨールは何より嬉しい一言を聞いてにんまりした。そうでなくても印術で遊び始めてからは、不思議と腹が減る気がするのだった。

 体中を泥まみれにして泣きじゃくるマドカは、無力だった。体のあちこちが痛くてたまらない。どうして独りぼっちなのかもわからない。あんなに楽しい旅の帰り道だったのに……。
 土砂に薙ぎ倒された木々が逆さまになって、大小の根を晒している。無理矢理掘り起こされた数々の岩くれは黒く濡れ、嗅いだこともない濃厚な土の匂いでむせ返りそうだ。唯一何が起きたかだけがわかる。土砂崩れに遭ったのだ。マドカは偶然無事だった。軽い体が車から放り出され、灌木かんぼくと藪の中に落ちて助かったのだ。
 道を失った後続の馬車が立ち往生していると、崩れた斜面から傷だらけの馬が這い出てきた。被害者が浅い場所に埋まった可能性を知った人間たちは、協力してシャベルで土を掘り、馬を使って石や岩をよけ、埋まった車体を探し始めた。大人の男たちが互いに緊迫した声をかけ続けている。衣服を引き裂かれたマドカは誰かの外套に包まれ、知らない女性に抱かれて泣き通している。泥と血にまみれた顔を拭ってもらっても、まともに礼の一つも言えない。視界が目まぐるしく回転をしている間の、父と祖父の遠い悲鳴が耳にこびりついて——。
 ふと、温かい手のひらがマドカに触れた。汚れきったマドカの頬を、誰かが優しく包む。
「こんにちは、お嬢さん。痛いところはない? 頭はぶつけていないかな?」
 医術師然とした白衣に身を包んだ、穏やかな顔の中年の女性だ。幼いマドカははっとした。彼女の顔には他の大人たちの浮かべる混乱も恐怖もなく、走ったのか弾む息こそ抑えていたが、あくまでも静かなまなざしを向けてくる。出し抜けの陽光に照らされた白衣は場違いのようにも見え、けれどその不自然な純白が、自ら輝きを放つかのように美しい。
 こんなに汚れてみっともなく泣き叫ぶ自分を、まともな人間に扱ってくれる――マドカは知らない女性に抱かれながら女医の目を見つめ返して、しゃくり上げながら頷いた。
「私はへいきよ。痛いけどお水ものめるし、血もとまったの。だから……パパとおじいちゃまを助けて……!」
 いつもの調子で言おうとしたのに、父と祖父を思うと急に心が気弱になった。擦り剥き、打ちつけた全身がじりじりと痛かった。それでも泣くまいと思った口がへの字に曲がって、しかし女医はからかうことなく、砂利が絡んだマドカの頭を撫でた。
「さっき向こうで御者さんが見つかったわ。何ヶ所か骨折したけどあなたと同じで命は無事よ。だから安心してね。それでね、お父さんとおじいちゃんが見つかったら、私はできることを何でもしてみせるわ。いい? だからここで一緒に待ちましょうね」
 女医は緊張していたが、それ以上の何かの顔をすることはなかった。治療に使うのだろう、彼女の足元に置かれた大きな革の鞄が、泥と砂利と草きれで汚れている。
 人の命を救える医者であっても、今は埋もれた二人の無事を祈る以外、何もできることはないのだ——それに気づくと、大騒ぎしかしていない自分に腹が立ってきた。今朝だって一人で身支度をして朝ご飯もきちんと食べて、荷物も自分でまとめて、やっぱりマドカは利口な子だねと褒められたばかりなのに!
 歯を食いしばって、マドカは女医に頷いた。女医の隣について父と祖父が無事に見つかるのをひたすら待ち、拳を握って宙をにらみつけていた。

 母がささやく寝物語を、ギノロットはうつらうつらしながら聞いていた。母の話はいつも不思議で、ほんの少し怖いのに、聞かずにはいられない。
 ギノロットが好きなのは神さまと人間の話だった。どこの国の神さまたちもみんな好き放題にしたいことをする。勝手な理由で雷を落としたり森に火を放ったり、水源に毒を投げ込んだりして、人や動物を困らせる。かと思うとその毒から薬を作り出したり、火で闇を照らし湯を沸かしみなを温め、とんでもない悪党に雷の天罰を下したりする。
 神さまは誰も不思議だ。どんな神さまも正しいことだけしはしない。悪いこともするし、失敗までする。眠たい目をこすりながら「偉いくせに変なの」と言うと、そうねと母は笑った。
「どんな神さまも得意なこと以外はうまくやれないものなのよ。だって神さまは人間とそっくりなんだもの。ギノロットもそうでしょう?」
 ギノロットは今夜の夕飯を思い出してばつの悪い気持ちになる。スープ皿の底に残った豆を匙で上手にすくえずに指で摘み始めたら、とうとう叱られてしまったのだ。
「……俺、ちゃんとした大人になりたい。どうしたらいいの?」
「ちゃんとした大人? どんな大人?」
「えっとねえ。あんまり間違えない大人。父さん格好いいから、父さんみたくなりたい」
 毎日欠かさず天気を読み、夜明けとともに沖へ向かい、仲間の誰にも怪我をさせず、たくさんの魚で網をいっぱいにして帰ってくる父の強さとたくましさは憧れだった。寝るのが早いから夜にたくさん話せないのはさみしいけれど、それは父が正しい漁師だからだ。今もギノロットの隣で静かに眠っている。いつか父のような大人になりたい——それが幼いギノロットの夢だった。母は少し考えてから、優しく微笑む。
「難しそうだけど、そうね。ひとの間違いを馬鹿にしてはだめよ。同じ間違いを冒すかもしれないのだもの。けれど間違いを恐れてもいけないのよ、正しくいられないことは山のようにあるわ。父さんも母さんも、他のみんなも誰も……。ああ、次の新月の晩は特別な話をしましょうか。母さんの一番大切な話を聞かせてあげる」
 言ってギノロットの小さな頭を撫で、額に口づけるので、ギノロットはその温もりが嬉しくなって母の胸にしがみつく。母に甘えて、またもう一度うつらうつらする。規則的な母の呼吸が、ギノロットを眠りの淵に誘った。窓の向こうからは遠く静かに、村の崖を洗う潮騒の音が聞こえる——。

 母に雑巾の絞り方を教わって、ヨーカは珍しく微笑んでいた。母から教わることで自分が上手く真似できること自体、少なかったからだ。桶の冷たい水に雑巾を浸して、そのまま両手で力一杯絞る。水がびちゃびちゃと桶に落ちていくのを何度か見守ってから、ヨーカは窓を拭き始めた。最初は濡れ雑巾で汚れを拭い、次に乾いた雑巾で丹念に水気を拭き取る。そうすれば窓が曇らず透明なままを保っていられる。母に教わったとおり試してみると不思議と嫌な顔をされなかったので、一生懸命に拭いていたのだった。
 ヨーカは母の手伝いが上手くなかった。裁縫は縫い目を汚くして溜め息をつかれたし、台所では指を切りそうだと包丁を取り上げられた。洗濯は服の大きさに四苦八苦して汚れを落とせない。
 けれども掃除は最後に綺麗に清められていたら文句を言われない。汚れを拭き取った窓の向こうには明るく咲く花や緑の揺れる梢、白い漆喰の高い塀——見慣れたはずの庭の様子が色鮮やかに映えて見える気がする。生まれて初めて見つけた、楽しいと思える手伝いだった。
 屋敷じゅうの窓を拭き、最後に残った道場の窓を拭き終えようかというころ、失礼いたしますの大声に振り向いたヨーカは、声の主の顔に思わず笑顔を見せた。一番年齢の近そうな門下生の彼だったのだ。いつか仲よく話ができたらと期待を胸に秘めたまま、「こんにちは、お疲れさまです」と返事したら、しかし彼は血相を変えてヨーカから雑巾を引ったくった。
「僕の仕事を盗らないで! 師匠に叱られるのは僕なのに!」
 少年の悲鳴にぶたれて、ヨーカの笑顔は一瞬で凍りついた。一方的な親しみはあっさりと裏切られ、初めての仕事を否定された驚きで喉が塞がった。何よりも彼の思いが心の底から理解できてしまって、桶を抱えてすぐさま逃げ出してしまった。
 汚れた桶の水を排水溝へ捨て流し、父母に褒められたいヨーカの気持ちは今日もまた水の泡になって消えていく。いつか外で見かけた誰かみたいに、たった一度でいいから両親に喜んでもらって、頭を撫でられたかった。抱き上げてほしかった。いつも難しい顔をしている二人に笑ってもらいたかった。
 だから近い将来、ヨーカは弓を教えてくれと父母に懇願するのだった。自分の居場所を手に入れるためには、両親に認められるためには、もう、それより他に方法が思いつかなかった。冷たく、厳しく、日が差そうともくらく恐ろしい道場の踏み板に立ち、平手で打たれ、罵声を浴びせられる日々を自ら望むのだ。

 名を呼ばれてトウバイはそっと目を開いた。意識が浮き上がり体に満ちて、息を吸うと、トウバイの魂は再びトウバイの肉体を得た。光の届かぬ鍾乳洞の中で、鈴の密やかな音だけが一定の間隔で反響し続ける……トウバイの幼い手の中では蝋燭の火が、あるともないとも言えぬ風に揺らめいた。
 もう一度鈴が鳴り響くと火は飴細工のように細く伸び上がり、やがてふつりと消えた。後にはただ何も見えぬ闇と、燃え尽きた蝋の臭いが漂う。
 トウバイを取り囲む導師たちが、幽玄の音色を洞窟に鳴らした。
「優れた資質を持つ者として、巫女さまのお側に仕える資格と、新たなる名を与える」
「モモ。巫女さまの陰となる名の者よ」
「巫女さまの身となり心となって、その望みを果たせ」
「慢心せず努めよ」
「――はい」
 導師の声もモモの短い返事も、洞窟の中で残響なく、ただ一度だけ通り抜けた。漆黒の闇の中へ世界を閉じ込め、狭い音になって消えた。
 巫女のそばに仕える者は意思を持つべからず。
 ただ巫女のための透明な器であれ。
 ウロビトのさる少数派が守ってきた教えは、漠然と巫女に接する者も、血縁のように振る舞う者も求めてはいなかった。彼らが必要とするのは巫女の心を反射する、磨き抜かれた鏡のごとき者。その資質を充分に有したが故にトウバイは、今日この時を境に自らを語る心を置いた。頬も動かさず、唇も微笑まない。白く固い毛の密集する耳をそばだて、青い瞳で静かに見つめる。
 太古の教えが歪んだものだと、モモとなったトウバイには知る由もない。遠い古代に人間から与えられた命令、ウロビトに『研究成果』を扱わせる指示が長い時の果てに歪んだものだとは。
 けれどもモモには関わりのないことだ。そんなことは関係がない。モモの胸には巫女への敬愛だけがある。いもしない人間たちの下した無感情な命令も、偏屈なウロビトたちの干からびた教義も関係ない。一切が関係なかった。巫女に控えめで遠慮がちなあの微笑を向けてもらった瞬間からトウバイは、自らの運命をいかにするか決断したのだ。
 巫女の心を受け止める真の虚ろなる者として、モモはおもむろに立ち上がる。膝にさえ届く一度も切られたことのない髪が、衣擦れとともにさやりと鳴った。
 ――あの柔らかく、愛しい、自分を差し置いてもあたしたちを守り導こうとする巫女の人生を、少しでも優しい手のひらで包んであげたい。巫女が小さな手でみなへそうしてくれるように。これから巫女が歩む苦難の道を照らしてあげられるように。いずれ時が至る。あたしが求められる時が必ず来る。
 そしてあたしという者が、必要もなくなる日のために。
 モモはきびすを返す。いとけない足取りは巫女を求めて駆け出した。モモの薄い胸の中には、ただ巫女への無窮むきゅうの一念が詰め込まれている。
 ああシウアン、あなたがあたしたちを愛するように、あたしもあなたを愛している。恐れて秘めようとするありのままのあなたそのものを愛し続ける。どうか、幸せになって!