テンショウギ

 それは皆でストラゴスの書斎を漁っていたときのことだ。
 三闘神に関する資料を求めて、かれこれ小一時間は埃っぽい本棚を引っ繰り返していると、ふと大きな本がセリスの目についた。セリスの胴体ほども巨大なその本は、題目が記されていたはずの背表紙がかすれて毛羽立ち、読むこともできなかったが、開いてみれば一目で内容が理解できた。星の本だ。
 関係ないとは知りつつも、世界が壊れてからは空も淀み、星空など満足に楽しむも適わなかった。それに何より、少女らしい夜空への憧れは止められぬもの。埃にまみれた髪を胸から背中に押しやって、ついついページを繰ってみると色鮮やかな星図がわっと現れ出た。
 セリスは思わず息を飲み、それからすぐにうっとりと微笑んだ。星座が動物や魔物や草花に姿を変えて、黒碧の天空で踊っているのだ。
「あっ! その本リルムも見たことあるよ!」
 隣にいたお絵描き少女が嬉しそうな声を上げてしまい、セリスはびくっと肩をすくめた。できるなら小声で言って欲しかったのだが、セリスの思惑などどこ吹く風、おまけにリルムはその星図が殊の外お気に入りらしかった。
「ずっと昔の本なんだっておじいちゃんが言ってた。面白いよね。リルム、このヤギ好きなんだ。角がねじねじしててさ。それから……」
 リルムの星座語りが止まりそうにないことを認めたセリスは、諦めて会話に乗ることにした。実際その絵は緻密かつ鮮やか、精細にして幻想的で、時代がかっているものの、二人の少女を魅惑するには充分美しかった。こっちの白百合も素敵、そっちの馬のたてがみも綺麗、などと話していると、横からひょいと首を突っ込む者がある。両脇にいっぱいの本を抱えて些か疲れ顔のロックだった。
「何の話だ?」
「星の本よ。最近、ろくに夜空も見ていないと思って、それで……」
「へえ……」
 彼もまた、世の中の不思議に惹かれずにおれないのは周知の通りだった。大きな本の右から左、上から下までたっぷり首をぐるぐる回して矯めつ眇めつ。これがあの星か、そっちがそれで……などとぶつぶつ呟いてから、彼は叫んだ。
「これ、組み立て式だろ!」
「へ? 組み立て?」
「だってほら、見ろよ。ここに裂け目が入ってるだろ、そっちにもある。これを切り取って貼り合わせてみたら、半球型になるぜ」
「あら、本当」
 よくよく見てみれば、全体がアーモンドのような形をしている。確かに立体にしてみたら、空を縮小したような具合になるだろう。
「な、これ作ってみないか?」
「ダメ!」
 ロックの気楽な提案に断固反対したのは、本がお気に入りだったリルムである。彼女は半ば頬を紅潮させて、挑むようにロックを睨み付けた。
「そんなことしたら本がもったいないじゃない! 絶対ダメッ!」
「な……何も直接切らなくたっていいだろ。複写すればいいじゃないか」
 ——あ、そっか。リルムは恥ずかしそうに口元を押さえた。余程この本を大切にしていたらしい。
「よっし! そうと決まれば紙の準備だ! リルム、でかい紙あるか?」
 その急展開をただ見守っていたセリスは、ぽかんと突っ立っていた。
 どうやら複写した紙を型にして適当な大きさのボウルに貼り付けて、天球儀を作ろうと目論んでいるらしい。ロックが計画をまくし立てるのを聞きながら、あら、とかまあ、とか心の中で呟いていると、いつの間にか手から本がかっさらわれて、リルムと二人で階下に消えていくのが見えた。足下にはロックが抱えていたはずの本の山。
 きっと本との格闘に飽きてしまったのだろう。彼らしい可愛い無邪気さに、セリスはくすくす笑いを隠しきれなかった。

 ロックはそれ以来、買い出しやらダンジョンの攻略やらの合間を縫って星図を書き写し続けた。暇を惜しんで熱心に作業しているものだから、ついついセリスも情が移って、彼の遊びに付き合ってやることにした。しかしあのときロックと一緒に走り出したはずのお転婆リルムは、星々の膨大な量もあってか、
「点々書いてるだけなんだもん……」
 と、早々に飽きてしまい、転写は二人きりの作業である。その気持ちも少しは分かるセリスが、ロックに疑問を呈してみた。
「飽きないの?」
「全然。何で?」
「だって、点を打ってばかりよ。かれこれ一時間は、ずっと」
 リルムが二十分で音を上げるのも無理はない。だが、ロックはとんでもないとばかりに首を横に振る。
「俺、こういうの慣れてるから」
 聞けば本から何かを写し取るのは初めての経験ではないらしかった。曰く地図、曰く何某の挿絵、曰くさる詩篇の膨大な節の数々を書き写してきたのだという。全ては冒険への情熱のため、と熱弁を振るうロックの顔を見て、ただの手伝いのつもりでいるセリスは彼のペースを真似るのを諦めた。その代わり、一人で取る休憩の合間、彼がどれだけたくさんの冒険を超えてきたのか思いを馳せつつ、黙々と星の位置を取り続ける背中を見つめた。
 二人は本の大きさのせいで寝そべっていることが多かったが、これに対する仲間の「邪魔」の声にもめげることはなく、それどころかいつの間にセッツァーのキャビンに居座っていたのだから、面白い。
「ここなら誰にも何も言われないだろう?」
 キャビンにいるセッツァーは概ね煙草を吹かしているか、ファルコンの設計図を開いているか、どこやらの工場と何やらの部品についてやりとりする書類を広げているかだったので、二人にとって環境は良かった。何より、懸命に何かをしている人間に対して、セッツァーは無碍な態度を取らず、じっと黙って見るに留めてくれた。おかげで二人は誰に気兼ねすることもなく、一週間かけて星の位置を写し終えた。
 満を持して紙を切り、貼り合わせると、予想はしていたが存外大きいことが分かった。セリスの顔を軽く覆える本の星図なのだから当然ではあり、立体にすると何しろ一抱えはある。
「ずいぶん大きいなあ。頑張ったなあ俺たち」
 感慨深げにうなずくロックに、セリスはやや不安げだった。微妙に凝った肩や首を解しながら、尋ねてみる。
「こんなに大きなサイズのボウル、どこにあるの?」
「ニケアの市にでも行って探せばいいさ」
「このご時世に、大きなボウルなんて売ってるかしら……」
「案ずるより産むが易しって言うだろ? ちょっと行ってくる!」
 と言うが早いが、ロックは風のようにすっ飛んでいってしまった。
 飛空艇の係留地がちょうどニケアのそばだったことも少なからずあるだろう。セリスは再び、ぽかんとした顔のまま取り残されてしまった。ロックの巻き起こした風で髪の一房が乱れたので、それを撫でつけつつ。
「あれで見つからなかったらどうするんだ、あの男は?」
 ——急がば回れとも言うだろうが。セッツァーの呆れ声につられて、セリスも溜め息混じりに頷いた。
「無人のナルシェから拝借、なんて言い出さなければいいけど……」
 果たしてロックは二人の心配をよそに粘り強くボウルを探し続け、そして見つけ出して帰ってきた。飛び出していったのは昼前。帰り着いたのはすでに夕暮れ近くだった。
 大変だったぜ、なくてなくて、探しまくってさあ、などと苦労話を語る顔は、いかにも誇らしげな風を隠しきれないでいて、セッツァーは彼が飛び出したときよりもいっそうの呆れ顔になり、セリスはその子犬のようなはしゃぎっぷりに、吹き出さざるを得ないのだった。

 ボウルは比較的簡単に穴を開けることができた。というのも時代のせいかボウルは薄っぺらく、突けば呆気なく貫通する軟弱な代物だったし、さらにセッツァー——何だか昔が懐かしくなってなあ、などと独りごちていた——が快く工具を貸してくれたことで、ボウルは二日とかからず天球儀に姿を変えた。
 二人は喜び勇んでファルコンの甲板まで走ってゆき、ボウルを掲げて寝ころんだ。端から見れば珍妙な風景だったが、完成の興奮が抑えきれない二人には些末ごと。ぴったり太陽に向かってボウルを捧げて覗き込むと……かつて見慣れた星空が、そっくりミニチュアになって浮かび上がった!
「すごい——」
 感嘆の吐息をついて、セリスは思わず微笑した。
「まるで本物みたい! ねえ見て、これが北極星ね。こっちはひしゃく星で、つつみ星に、熊の親子! あの頃に見た空とおんなじだわ!」
「でも少しだけ位置が違うなあ」
「ひとつずつ手で写したんだもの、仕方ないわ」
 埃混じりの乾いた風の匂いと音に包まれた彼らは、少し目に痛い夜空を懐かしく眺めていた。太陽の光を借りた星々は瞬くことはなく、あくまでしたたかな星座を生み出しているだけだったが、遠く過ぎ去った馴染み深い風景は、彼らを感嘆せずにはおかなかった。が、ロックはふと唸るように呟く。
「……いや、これは改良の余地があるな」
 仮初めの夜を充分楽しんでいたセリスのいい気分は、一息で吹き飛んだ。
「どうして? とっても素敵じゃない。あんなに頑張ったのに、どこを直すの?」
「だって本物の夜空は、もっと星の大きさがバラバラじゃないか。こんなに通り一遍の大きさじゃ、どれがどれだか分からないぜ?」
 そう言われればそうかもしれない。認めざるを得ずにセリスは渋々頷いた。セッツァーから借りた一ミリ穴のドリルは、星の輝く強さによらず全て同じ大きさの仕立てになってしまったし、更に長い作業の果てに、それと意識せずに星々の位置を覚えてしまったのだ。きっと本物の天上の世界を見ても、どの星がどの位置にあってどんな星座を作るのか、迷わず言えるだろう。単純な手助け要員だったつもりのセリスがそうなのだから、根を詰めていたロックは尚更に違いない。
「それからほら、これ」
 ロックの指先は手近な星の端をかりかりと引っ掻いてみせた。ボウルを伏せて開けたわずか一ミリの穴の縁は、内側から見ると微かにそり立っていたのだ。ささくれは光を反射して、それがいくつも集まるとどうにも目に眩しい。ロックはその引っかかりを、苦虫を噛み潰す顔をして眺めている。
「……あなたときたら……」
 セリスはもはや我慢しきれずに言った。
「な、何だよ」
「だって、あんなに頑張って完成させたのに! あなたときたら、見るよりも作る方がよっぽど楽しみみたいだわ……!」
 ストラゴスの書斎でもそうだった。星図が組み立て式だと知っては作ると言ってすっ飛んでいき、その星図が予想外の大きさだと分かれば、ちょうどいいボウルを探すと夕方まで戻らず、やっと完成したと思ったらこれだ! 
 彼女はとうとう、ボウルから手を離してうつ伏せに笑い転げてしまった。一度堰を切るともう、笑いが後からこみ上げてきてたまらず、次第に腹筋まで痛くなってくる。しかしロックはといえば何が何だか分からなくて、目を白黒させるばかり。ボウルを抱えたままきょとんとしばたたき、やがてかりかりと頭を掻いて、
「そうかもしれない……」
 セリスの笑い声にしょんぼりと背中が丸くなってしまう。呆れられたような気になって、ロックはセリスの寝乱れ髪を少し撫でた。
「なあ、もう手伝ってくれないのか?」
 セリスは爆笑の引き攣りに耐えながらも、即座にまさかと否定した。涙がにじむ目をこすりながら、そんなわけないじゃない、とにっこり微笑む。
「ね、そんな顔しないでロック! 私思ったの。内側を黒く塗ったら、もっと見やすくなるかもしれないわ」
「へえ、その方が光の反射がなくなっていいな」
「それからリルムに星座の絵を刻んでもらったら、きっと素敵よ」
「そりゃ立派になるに違いないな」
「でしょう? そうしたら、もっと使いやすいように台座を作るのよ。これならわざわざ自分で持ち上げなくたっていいわ。台座の中から上を眺めればすむもの」
「……なあセリス……お前……」
 にこにこ顔のセリスの口から飛び出すアイデアの数々に、ロックは自分の思いが完璧な杞憂だと即座に思い知った。彼女も彼女なりに、この工作が楽しかったのだ。と同時に、まだまだあるわよと指折り数えて考えを披露するセリスを見つめつつ、立て続けに何かせずにはいられなかった自分を省みる。おそらくセリスから見た自分は、こんな風に突っ走ったやつだったに違いない。
 が、そんなことを長々気にするたちでもないロックはすっかり安心して、セリスを抱き寄せた。
「もう戻るか」
「そうね」
 遊んでいるうちに日が傾いて、風はひんやりと冷たくなっていた。その風に乗って、なにやら温かい良い匂いもする。今日の食事当番は誰だったろうか……ふと思い巡らせたセリスは、寒さに自分の肩を抱いてぶるんと震え、温もりを求めてロックの肩口に頭を乗せる。二人きりしかいないのにそれ以上そばへ寄ることができないのは、昔から捨てきれない強い恥じらいのせいだった。
 お互い憎からず思っていることは明らかなのに、どうしても素直にいることができないのがセリスには口惜しく、だが口惜しさが却って余計に彼女の羞恥を掻き立てる。ロックがごく自然体でいるのに対して、一人勝手にどぎまぎしている。
 微かに聞こえるロックの鼓動が胸の中に暖かいものを灯して、甘やかな感情が口を突いて出た。
「ねえ、ありがとうロック、」
 それはほとんど、日頃表に出すことのできない想いの起こした反射だった。にもかかわらずはっきりとした愛の言葉にためらい、彼女の心はもがいた。
「——こんなに楽しかったの、久しぶりだわ」
「俺もだよ」
 ありきたりな感謝に潰えて胸中で苦笑いする。愛情も恋慕も、彼女にはまだあまりにも過ぎた感情で、化け物どもの洞窟に放り込まれた方がまだ気楽にいられたかもしれない。一人の戦士であることと、一人の娘であることに、彼女は未だ慣れなかった。
 打ち壊された世界の中で、ひとときの喜びを噛みしめながら、二人は船室へ降りてゆく。天球儀が完成するのは、夜空を取り戻してからになるだろう。