氷細工の娘

 まだ彼女が少女だった頃の事になる。あの子は暴力というものが何か知りもしない、頑是無くいとけない子供だった。そして我が魔導研究所の所有物であり、魔導の力が注入されて数ヶ月を経たにもかかわらず何の力にも目覚めていない、廃棄処分の検討される被検体でもあった。
 セリスという名の彼女は選抜試験をくぐり抜けた逸材であり、将来を嘱望された娘だった。それが故に、魔導注入の結果如何には非常に期待が高まったのだが、注入から二週間が過ぎても何事も起こらないとなると、さすがに風向きは変わる。
 通常、魔導注入を受けた者が兆候を示し始めるのは一週間、長くて十日で、二週間というのは前例になかった。この二週間がただの『潜伏期間』か、あるいは『不適格者』か……セリスと日を同じくして注入を受けた数人は、すでに大なり小なりの魔力に目覚め始めていた。
 遠からずその幼い身に降りかかるであろう悲劇に、私は彼女を個人的に引き取ることも検討した。もし私に娘がいたなら、ちょうど彼女くらいの歳に違いない——そんな私的親近を抱いての願い出であったが、しかし、それはならぬ、と皇帝陛下は直々に仰せになった。
 ——ケフカを見ても、君は同じことが言えるかね? 私はまだ君を失おうとは思わんよ。
 陛下のお言葉はそれだけだったが、しかし私を言い伏せるには充分であった。ケフカもまた優秀であり、それに比類する魔力を授けようとした私のおごりは彼を潰した。セリスはまだそうではない。そのような兆しも見えない。が、いつあの狂える者のようになるかも知れない……私はセリスのぬれぬれと美しい碧眼に狂人の姿を重ねて、ぞっと震えた。そしてそうなってしまったらとても私の手には負えぬだろうと瞬間的に思惟したとき、私は己の醜さが恥ずかしく、彼女の瞳を見ることはできなくなった。私は私の体の方が大事だった。

 ある晩、いや、すでに空が明けに染まり始めていたから、未明と言うべき頃だろうか。太古の書物を読み耽っていた私は、さすがに限度を感じてベッドに潜り込もうとしていた。いくら何でもやり過ぎてしまったな、と反省しながら明かりを消そうとしたとき、大騒ぎして部屋の鉄扉をガンガンと叩きまくる者がある。応じてやろうと扉を開くよりも先に、乱暴なノックの主が耐えかねて叫ぶ。
「博士! シド博士! 大変です、ケフカが……ケフカが!」
 ケフカだと! こんな時に、その忌々しい名前を聞くとは!
 私は急いで夜着から研究服に着替え、鉛のように重たい体を叱咤してドアノブを掴んだが、あまりの熱さに、私は悲鳴を上げた。ノブが熱を持っている。とっさに袖でノブを覆ってひねると、ドアが開いた瞬間、今度は髪も髭も舞い踊るほどの猛烈な熱波に襲われた。尋常でない暑さだ。
「ケフカめ、また暴走を始めたな!」
「足元にお気をつけください。研究所を破壊しようとしているようです」
 若い研究員は泣きそうな顔をして忠告してきた。確か彼は三ヶ月前に入所した新人だったはずだ。どういう事だ、と聞き返そうとしたが、しかし私の答えを待たずに、研究員は走り出す。彼は明らかに恐慌状態に陥っていた。
 彼を追いかけながらあたりに気を配ってみると、なるほどどういう事か分かりかけてきた。天井を見れば、等間隔と直線であることにかけて正確無比な水銀ランプが前後左右に首を傾げているのだ。それもどうやら『震源』に近づくほどに程度が酷くなる。床も壁も、走れば走るほど明らかにたわみ、ねじれ、発熱を始めた鉄板すらある。
 そのような状態の変化が著しくなり、歪んだ床に足を取られそうになる頃、
「ウソよ!」
 突き当たりを左に曲がった先から聞こえる、顔は分からずともしかと覚えのある細く可憐な少女の悲鳴に、私は心臓を鷲掴みにされた。まさか。
「嘘じゃないさ? お前は出来損ないの役立たずだから、ニワトリみたいに絞め殺しちゃうんだよ!」
 ああ——目の前がくらくらと暗転しそうな感覚に、私は先ほどまでの気怠さも忘れて、最悪とも言える巡り合わせに神を呪った。あの哄笑、幾度となく夢に現れては私を責めさいなみ苦しめる、悪魔の笑い声! 足がすくんで動けなくなった私に反して、研究員が角の向こうに飛び出す。彼は私にはない勇気を持っていた。
「やめないか、ケフカ!」
 しかしケフカは彼の制止などお構いなしに、
「……その目は何だ、セリス?」
「シド博士は、そんなひどいことをする人じゃないわ。いつも私に笑って話しかけてくれる、いい人よ!」
 セリスや、セリスや。それ以上口を利いてはいけない。ケフカを深追いしてはならぬと、あれほど何度も言い聞かせたではないか。その男は普通ではない、心が通っているようでも、その世界は我々のいるところとは違うのだ。ちょうどこの廊下のように歪みねじくれて、共感など望むべくもないのだ!
「シドがいい人、だって?」
 憎悪に染められた声が心に突き刺さる。ケフカは私がここにいることを知っているのか。いないのか。
「ムカつくガキだ。あいつらみたいに、バラバラにしてやろうか?」
 ケフカは魔導に目覚めた朝、声をかけた研究所員や兵士達を無惨に惨殺したのだった。私はたまたま出ていた会議を中座して、今と同じように、恐ろしい思いを何とか抑えながら駆けつけたのだ。夕照の光眩しく塗り込める廊下で、ケフカは初めての魔導を暴走させつくしてへたり込んでおり、鎮静剤を打たれて拘束衣を着せられようとしているところだった。
 そのときの光景——辺り一面を緋に染めて、飛び散った臓物の異臭のただ中で、不気味な嘲笑を続ける返り血まみれの男。あの語るもおぞましい光景。
「俺たちがただの人形だと気づいてもいないのか? 俺たちは所詮あいつのペットだ! そらその男みたいに、弄ばれて死ぬんだ!」
 運悪く目をつけられた研究員が見えない腕に捕まる。彼は悲痛な命乞いの叫びを上げたが、彼の腕はお構いなしにねじり上げられ……何かが折れる不吉な硬い音が鳴った。
 もはや声すらも出なかった。彼は殺される。私も死ぬ。——だがセリス、お前だけは!
 そのときだ。変化が現れたのは。
 私が震える足を必死に動かして、セリスの小さな体めがけて飛びついた、そのとき。掻きむしるように抱きかかえた細い少女の体が、触ってもいられないほど冷たく凍え始め、腕を掴んでいた手がひたと張り付く感触に、私は本能的に彼女を突き飛ばしそうになった。
 噴き出す冷気は彼女のプラチナブロンドを宙に躍らせ、辺り一面を霜で覆い尽くし、吐く息も白く染めて、ついには空気中の塵が凍てつき、ダイヤモンドの欠片が舞う。頬が強ばる。まつげが凍る。指先から熱が奪われ、歯ががちがちと鳴り、思い切り吸った息の寒冷にむせる。
「これは一体……」
 ガキン! と金属的な音が廊下に走って私はすくみ上がった。ケフカも驚いて目を剥き、研究員の拘束が解ける。
 何の音か見回そうとしても、首と肩の筋肉が寒さで萎縮してしまい身動きも取れない。そうするうちにあたりの空気はどんどん凍えてゆく、まるで廊下が丸ごと巨大な冷凍庫に化したかのように——再び、ガキン!
「ヒビが……!?」
 ケフカの呟きに、私はハッとなった。あれだけ酷く歪み熱を持っていた床が、天井が、壁が、セリスの冷気で収縮を始めたのだ。なまじ熱膨張していたせいで、桁外れの凜烈が鉄材を破壊している!
「——あなたの魔力、」
 セリスが呟いた。
「とても大きいのね」
 まるで夢遊病者のような囁きは、極寒の中に静かに鳴り響いた。年端もいかない子供の声とは思えない、冷厳で冷徹かつ重たい、それでいて歌うような一言ずつに、私のみならずケフカまで、言葉を失っていた。そして次に聞いた言葉を、私は異国語の呪文かと耳を疑う気持ちだった。

 くだけた ほうせき。

 ゆがみ おそれ。

 くらやみ しのきざし。

 咲き初めの薔薇の唇から紡がれていく朴訥な言葉の中に、セリスではない何物かの存在を、私は確かに見つけてしまった。とうとうセリスは人間ではなくなった。『私自身が望んだ』魔導師に、彼女はなってしまったのか。
「ベラベラうるさいんだよ……!」
 ケフカが耐えかねたように口角から泡を飛ばして絶叫した。
「お前に何が分かる! お前だって、僕と同じくせにっ!!」
 ケフカの体が灼熱に燃え上がる。そのように、私には見えた……もはや現実から乖離しすぎて脳が現象の理解を阻む。だが顔を炙る熱風は確かに現実のようにしか思えない。
 相対した小さな体のセリスは、つと指先を振り上げた。彼女の繊細で陶器のような指は、轟炎を纏う狂乱の男に振るうには、あまりに頼りない武器だった。だが彼女の指は必要にして充分な凶器であることは、すぐにも思い知らされた。
 ケフカの炎のマントが、林檎の皮でも剥くかのようにするすると剥ぎ取られ、そしてセリスの指に吸い込まれてゆくのだ。
 私もケフカも、言葉を失った。炎の熱が奪われてゆく。魔導の力が無効化される——未知の光景だった。あっけにとられたケフカの表情が気色ばんだのは、生んだ炎のほとんどが失われてからだった。狂人は何事か叫ぶように口をぱくぱくと開いては閉じたが、実際に叫んでいたのか、あるいは叫ぶこともままならなかったか、私には知れない。もはやセリスがケフカの声すら略奪したとしても、私は驚くまい。
 セリスが掌を返した。翻るその様は蝶が羽を打ち振るようで、背筋がそそけ立つほど美しかった。掌に赤い球が生じ、それはやがてくるくると青い色に染まり飲み込まれて、凍てつき、弾けた——瞬間、吹き荒れる猛吹雪に体を打たれたのかと思ったが、そうではなかった。何事か起きた。心臓を引きずり出されるような不快感を得て、そして私は意識を失った。


 ……はかせ! しどはかせ!

 何物かの目覚めを促す声と体を揺すられる感覚に、今し方の経験が悪夢であることを願った。しかし私は視界の隅に現れた滅茶苦茶に歪む窓枠を見て、現実であることを知って落胆した。辺り一面がびしょ濡れに濡れているのは、溶けた氷だろうか。
「シド博士、ご無事ですか。お怪我は?」
「大丈夫そうだ。すまん」
 喉に絡む声で答えて起き上がろうとしたが、いつのまに体中をぶつけたらしくあちこちが痛む。腕をへし折られた若いのとは別の、年かさの研究員が私の背に腕を回してくれた。騒ぎを聞いて駆けつけたのだろう。
「セリスはどうした……?」
 一番の不安を尋ねると、研究員は目でそこを指し示す。彼女は力なく気を失って、突っ伏していた。長い髪が無惨にもざんばらに広がっている。
「あのとおりです。意識もないので、先に奴を……」
 濁る言葉に含まれた意味は瞬時に理解できた。ケフカが後ろ手に拘束され目と耳と口を塞がれている。おそらく当面は拘束されたままだろう。しかし……
「何が起こったのか、分かるか」
「いえ。私が来たときにはすでに皆倒れていましたので」
「私にはセリスがケフカの魔法を封じ込めたように見えた……いや、吸い取ったと言うべきか」
「魔封じの術が存在したと古代の文献に書かれていたこともあります。あるいはそれなのでしょう」
 ケフカを牽制するのに格好の魔導師となりましたな。彼が言った。私は笑って見せた。それは彼女が廃棄処分を免れたためと、帝国にとって必要不可欠の魔導師となる可能性のためと、そして科学者の誇りと意地を守りきった、浅ましくいじましい感情のために出た笑いだった。だが、何の達成感がみなぎることがない。事切れたかのような愛しい少女の姿を見れば、もう何もかもは虚しかった。
「さっそく皇帝陛下にご報告申し上げて参ります。博士はお体を労って、ゆっくりお休みください」
 研究員も会心の笑顔を見せて私にうなずいて見せたが、私の心はあっけなく暗澹たる気持ちに覆われていくのだった。大切な娘すら化け物に作り替えてしまった。私はもはや人生の正道を歩くことはできない——たとえ彼女が常勝の将と呼ばれるところになろうとて、心からそれを祝福することはできなかろう。
 私は立って、彼女に近づき、膝をつき、放り出されたままの腕にそっと触れて撫でた。悲しいほど冷たかった。血も通っていないかのように。