悲しいブレイクスルー

 棲むところよりも酒場が好きだ。人のざわめきと喧騒をBGMに飲み食いするのは、人の間に生きてきた俺にとってごく自然で、心地のいいことだ。セピア色の照明、まろやかな口当たりの酒、一言告げるだけで現れる上手い飯。男と女の値踏みの目。酒場は人間の底辺に近くもあろうが、どうにも俺の性に合う。
「そもそもなぁ、」
「聞き飽きたよ、そのせりふは」
 ダリルはパスタを上品に食いながら――そんな蓮っ葉な口調で可愛らしくパスタにスプーンまで使いやがって! ――俺の進言を聞き終りもしないうちにぶった切る。というよりこのせりふは一度も言ったことがないから、聞き飽きるはずすらない。
「ビール半量の酒を二杯頼むってお前、何の解決にもなってないってどうして気づかないんだよ。むしろ増えてるぞ」
「黙りな! あんたのタバコ、今から私がフィルターだけに詰め直すけどいいのかい?」
「……あんまり良くねぇな」
「だったらグダグダ言わないでとっとと食っちまいな。せっかくのサラダが冷めちまうだろ」
「サラダは冷めねぇ」
「大体あんたは何なんだい、牛か馬か羊かい? 草ばっかり食べやがってさ」
「草って言うな、野菜って呼べ」
 大皿に山盛りになった俺のシーザーサラダの、一番てっぺんにあったプチトマトを、ダリルはフォークで刺して自分の口に運んだ。パスタはダリルの夕飯、サラダは俺の夕飯だ。何も俺はベジタリアンってわけじゃない。単に近頃野菜が足りなかったから、まとめ食いしてるだけのこと。
 俺たちの珍妙な会話もいつものことだが、今日はことさらダリルの機嫌がいいらしい。何しろダリルのファルコンがまた一キロメートル上空へ駆け上がったのだから。俺にしてみればまた水をあけられた格好だが、今回ばかりは話が別だ。何しろその一キロを稼ぎ出したのは、俺のお陰なのだから。
「まったく、あんたがあの工場のおっさんを賭け場で引っ掛けてくれなかったら、今日の記録はなかったわね」
「そう伊達に何十年も鋼板に穴開け続けてきたんじゃねぇんだろうさ。まぁおっさん、お前の話にゃ呆れてたがな」
「私だって伊達に鉄の塊と飛んでたわけじゃないさ。町の隅で鉄粉まみれになってるだけじゃ、分からないことだってあるよ」
 人様からすりゃ空を飛ぶなんてどこぞの帝国様がやってりゃいいことだが、俺たちは酔狂者だ。ただそれだけの単純なことに情熱を傾けるのが、さして悪いことだとは思わない。むしろこの単純な野望を達成するのに、一体どれほどの時と金と知恵を掛けているのか、その精緻さ、緻密さが分からないやつらは、みんなぼんくらだ。
「……まぁ、それはそれとして」
 ダリルは酒を流し込み、俺に強烈な一瞥をくれる。
「あんた、いつまでも私の尻を追っかけ回しているつもりじゃないんでしょう?」
「何だよ、藪から蛇に」
 ダリルの瞳がぎらりときらめくから、俺はグラスに伸ばしかけた手を思わず止めた。それくらいの凄みが奴の目にあった。せっかく突っ込み所を作ってやったのに、気づかないふりしやがって。
「いつ本気になるか、って聞いてるのさ。おっさんのことには感謝してる。でもね、これは私の手柄だ、あんたは何をするんだい」
「何って。だから俺はきっと……」
「そう。いつもきっと、きっと、だ! あんたの言うことには『必ず』って言葉がないね。なぜなら、あんたは自分のためには何一つしちゃいない!」
 一息にまくし立てられて、俺は言葉を失った。ダリルは酷い剣幕で、ついにとどめの一言を放つ。
「いいかい、あんたは私を超えられない――これは絶対だ」
 ダリルの瞳は、確実に本気だった。俺は屈して、視線を逸らす。

 俺たちの口論は別に珍しくもない。むしろよくあることだったし、喜ぶべきことだと俺は思っている。多分ダリルもそうだろう。何しろそれは、空を真剣に考えていることの証拠だから。
「ブラックジャックの概要図、」
 それに、本当は分かっている。ただ議論してただけじゃ、本物の証拠にならないってことを。クチだけ上手なやつは五万といる。俺もダリルもよくよく見てきた。命を惜しがるそいつらを、俺たちは軽蔑の目で見てきたはずだった。
「と、隔壁の物性」
 御託と論点のごまかしで、結局は何をしようともしない、ぬくぬくと生きてきただけがご自慢の、命を捨てられる夢すら見つけられなかったやつら。それこそ俺たちが忌み嫌うものの最もだった。
 ――それは、分かってる。
 それに、分かってる。
 俺がどうしたいのか。
「……これが材料物性」
 そのために、何が必要か。
「そっちが物性別電気伝導率」
 俺は一人ごちる。この狭いようで広い部屋には今、俺以外に誰もいない。床に広げた文献と研究メモは、そろそろ俺の腕の届く範囲を超えてきた。
 季節の天候と地域ごとの大気の様子、エアポケットの頻発空域、ボディ形状の生む空気抵抗、揚力を得るために必要な速度と耐久性能、今の装備で可能な最大出力、そもそもエンジンのキャパシティから予測できるポテンシャル――そういう事細かを全部、ダリルの奴は把握している。船に関するあらゆることを把握するから、あいつは船をいくらでもいじり倒す。飛空艇は世界に二台しかないが、もし壊れたらどうしようかなんてお構いなしだ。ケーブルの材質を変え、廃熱効率を上るために隔壁の改造にまで手をつけ、挙句に出力係数に不満を垂れだした。つまりエンジンを開けたがっているのだ。
 数々の改造行為は、端から見れば自殺行為に等しい。大規模なチームでやるならまだしも、ダリルや俺はただ一人きりで作業する。極めつけの計算やテストはお互い協力するが、本当の本当に最後を決めるのは一人だ。
 だから俺が無茶だと言ったところで、ダリルが押し通すなら止める手立てはない。
 あいつの狙いは明らかだった――船の限界、ファルコンがどこまで最高値を叩き出すか。どれだけ本物の風に近づくか。どれだけ本物の空になれるのか。か弱い人間が、自然の列強に名を連ねられるのか……あいつの望みはただそれだけ、ただひとつ。
 もはや地上の何ものもダリルの意識を繋ぎとめておくことは、できない。あいつの目には空しか見えない。……たとえ俺でも。酔狂者のままでなければ。
 俺は本当は分かっている。俺が何になりたいのか。なぜダリルにあんなこっぴどく言われたのかも。ダリルが聞いたら、きっと怒るんだろうが。

 カーテンも閉じないデカい窓は、月の浮かばない夜空を小さく切り取っている。星くずの光る空に、何もかもあらゆる全てを吸い尽くそうと企んでいる。俺はその企みに乗らなくてはならない。
「寝たら?」
「ほっとけ」
 ちらりと見てから、言い捨てる。一度スイッチが入ったら止められたくない。アイデアはまとまってる、金づるもある、とすれば後は俺が手をかけるだけだ。だから俺はやる。十分に機は熟した。
「せっかく取って置きの寝巻きまで出してきたのにさあ。この香水、値打ちものだって分かるだろ?」
 ナイトドレスにカーディガンを一枚引っ掛けて、ダリルは戸口に立っている。俺はと言えば文字通り寝食を忘れて、図面の用紙とにらめっこ。俺とダリルの距離はたっぷり十歩、その十歩の距離で香水が鼻につく。好みの香りだったが、お呼びじゃない。
「たぶらかしたいなら、耐久計算の検算手伝え。嫌ってくらい楽しませてやるさ」
「確かに私は、やれとは言ったけどね。飯くらいまともに食べなよ。今にぶっ倒れちまうよ。ただでさえ不健康そうな顔色しててさ」
「食わせたいならそのメモ挿しに赤入れてくれ。物性はお前のほうが得意だろ」
「いまいち会話が成り立ってないって分かってるかい?」
 俺は息を吸った。
「スイッチを入れたのはお前だぜ、ダリル」
「ったく! 完全にそっちの人になっちまったね」
 ダリルが、口調とは裏腹に嬉しそうに……カーディガンを放り捨てて、俺の机の片隅に転がったメモ挿しを拾い上げる。今まで俺が少しずつ書きとめてきた、あれやこれやの計算のメモだ。ダリルは慣れた手つきでそれらをめくっては見返し、見返してはめくる。
 隣にいるダリルからは、香水の香りはしない。カーディガンに染み込ませていたらしい。スイッチは数年上げっ放しにできそうだ。