木枯らし

 何も抱え込まない旅は久々だった。
 例えば暗闇の底の自責の念に。例えば背筋の焼けつく任務に。例えば後ろめたい依頼に。自分を追い詰めるものが何もない旅は、真剣に思い出さなければいけない。それほど久しぶりだった。ただ必要な分の荷物を背負って、行きたい道を行きたいように歩いていればいい。かつてしていたような、探究心の赴くままの、自由な旅を。
 息を吹き返した世界が彼を呼んでいた。地図は大幅に書き換えられ、再び完成を見るまで長い年月がかかるだろうが、それすらも彼にとっては楽しみのうちに過ぎない。ようやく裳裾の端を掴まえたと思ったら、悪戯なあかんべえの表情で彼の手を跳ね除けた。世界はまだまだ油断ならない。小気味よい挑戦状を叩きつけられて、彼は挑戦の意欲をかつてないほどたぎらせていた。
 乾いた落ち葉の香ばしい匂いが、少し肌寒い風に乗ってやってくる。ざわめく葉ずれの音は耳に優しく、コバルトブルーの空を渡る雲……この丘を超えれば次の町に出るはずだ。日もじきに暮れる。この町で休息を取るつもりだった。
 酷く急な上り坂を、彼は大股で、背中にうっすらと汗をかきながら上っていく。僅かに息が上がっている。背負ったザックの中の水筒が、ちゃぽちゃぽと音を立てていた。てっぺんに着いたら、この水を一息に飲んでやろう。彼は決めた。
 北半球でも比較的南に位置するこの土地は、秋の訪れはずっと遅かったが、それで誰にも気づかれぬような駆け足で、北から赤や黄の色と共に南へ向かっている。この地方にもすでに秋はやってきたらしい。そこここに鮮やかな美しい紅葉が吹き溜まりを作っている。
 もう一度風が渡る。穏やかな風だった。首筋からそれは入り込み、背筋を冷やす。あと三歩、二歩、一歩——着いた! 景色が開けて、丘の麓にささやかな町が広がる。胸にじわりと広がる人の暮らしの感動に、彼は息を呑んだ。
 陸の中腹から果樹園らしき整然とした木が、種を変えてきっかり三列ごとに並んでおり、その向こうには刈り終えてさっぱりとした段々畑がずっと広がっている。茶色い薄焼き煉瓦の屋根から生える煙突の幾つかからは、細く白い煙がたなびいていた。ひょっとしてもう夕飯の支度をしているのだろうか、何か食欲をそそるよい香りがする。でこぼこ道を牛が荷台を引いて、後ろに乗った空の牛乳缶が悪路に揺すられて派手な音を立てていた。
 ——いい町だ。彼は一人ごちる。いかにも平和な、何の事件が起こった風もない当たり前の退屈な町。その何もない当然の平和が何にも変えがたいものなのだと、彼は身に染みて知っている。いずれその価値は忘れ去られようが、それでも平穏が続くならば構わない。
 こうして人が生活を享受するのを知ると、彼は体のそこここに刻まれた傷のことを思う。傷の幾つかはまだ白い盛り上がりの生々しさを残した、死闘を生き抜いてきた証だった。こんな手酷い傷を負うことはもう二度とないようにと、彼は傷を見るたびに願う。
 ザックの水筒をまさぐり、指先が先端を捉えたときだ。彼は眼下の小さな変化に気がついた。
 小さな子供たちが薄着のままで——大方途中で暑くなって、脱ぎ捨ててしまったのだろう——丘を駆け上がってくる。彼はそれを見るともなしに見つめ、やがて子供たちがはっきりとこちらに向かって走り寄って来ているのを自覚した。
「お兄ちゃぁん!」
 汗にまみれた髪を振り乱しながら、悪がき共が声を張り上げる。総勢五名。膝も胸も泥だらけだった。これまで散々遊んでいたらしいことは目にも明らかだ。
「こんちわ! どこから来たのー!」
 喜色を満面に湛えて、一番最初に辿り着いた男の子が元気よく挨拶した。彼は答える。
「港町のほうから。宿はあるかい?」
「あるよ! 僕んち旅籠やってんだ。案内する?」
「そいつは都合がいいや。よろしく頼むぜ」
 案内役を仰せつかりたくて、この子供は懸命に走ってきたのだろう。いい子だ、の意味を込めてその頭を撫で、持っていた荷物を預ける。子供には多少重いが、よいお使いにはなるだろう。剥き出しの腕で、旅籠の少年はそれを抱えた。
「ねえ、兄ちゃん旅の人?」
「どこに行くの?」
「何しにいくの!?」
「ひょっとして……冒険家!?」
 察しがいい。彼はついにやりと笑う。きっと同じような風体の男を、彼らはよく見てきているのだろう。確かにこの町は、道程の中継地としては都合が良かった。
「行くあてもない気ままな旅さ。どこから来ても、どこへ行っても、自由なんだ」
「理由もないのに旅をするの?」
 地形が変わっちゃったから、旅をするのは大変だって聞いたよ。五人いるうちの一人が尋ねる。田舎町では旅人の身の上話がよい退屈しのぎになるのだ。彼は経験からふとそれを思い出す。
「理由がなくちゃ、いけないか?」
「いけなくないけど……」
「しんどくないの?」
「まさか。宝石箱みたいだ」
 旅立つ喜びと、辿り着く喜び。何もかもが初めてのように思えて、目に映るありとあらゆるものが、きらきらと魅力的に光さんざめいている。変えられてしまった大地は全ての冒険家に新たな試練を与えたのだ。だから五体無事で旅に暮らす自分が、この上なく誇らしい気持ちになる。何が目的でなくとも、この世界に渡る風に身を浸している——その事実がたまらなく幸せで、それだけでもう充分過ぎた。彼はにやりと笑う。
「ずっと昔から旅暮らしだからな。ちょっと飽き飽きしてたんだ」
 子供たちは彼の凄味のある微笑に、ぱっと瞳を輝かせる。ただならぬ何かを察した少年の一人が、彼の手を握りながら訊いた。
「ねえ、兄ちゃんの名前は?」
「ロック」
 ロック・コール。別に、ただの旅人さ——彼は視線を返してもう一度町を見下ろした。噂を聞きつけた大人たちが、ぼつぼつ顔を出している。彼らは秋の夜長の退屈しのぎに、この突然の来訪者の話を片っ端から聞いてしまうつもりだ。ロックは苦笑する。
 旅の予定が数日は延びる予感がした。頭を包むバンダナの端が、僅かな木枯らしにさらわれる。