くらやみ

 真実をなくしてしまった。
 失くしてしまった。
 無くしてしまった。
 亡くしてしまった。
 真実をなくしてしまった。

 彼女をそっとしておけばよかったのかもしれない。
 全てをあるべき形のままに、抗おうとせず、逆らおうとせず。
 だが今ではこの事実を人に知られても、何も思わなくなってしまった。
 本当にこの手は罪に濡れたのか? 本当は自然のことではないのか。

 もはや今は、自分には、彼女だけが鮮やかに色づいて見える。

 ——それ以外は、偽りだ。

「俺は、彼女のためにだけ生きている」
 ——これだけが俺の全てだ。
 茫漠とした漆黒の中で、彼女の姿だけは確かな輪郭で以ってそこにたたずんでいる。もう幾年も変わらない。

 恐ろしい夢を見て、ロックははっと飛び起きた。眠っていたはずなのに、ひどく息が上がっている。新鮮な空気を求めて胸郭が上下する。米神や背筋を滝のような汗が伝い、寝巻き代わりのシャツはべったり濡れていた。
 カーテンもないような安宿だ。鉄パイプのベッドは身じろぎする度に不快に軋むし、布団もかび臭くて薄っぺらだ。どこぞの下町の裏路地にあるせいで、誰か酔っ払いが派手に暴れてゴミをひっくり返している音がする。盛りのついた猫の鳴き声が耳障りだ。遠くの部屋から嬌声が漏れ聞こえる。
 最悪の目覚めだ——ロックはベッドから両足を下ろした。裸足の爪先ですら、じっとりと汗ばんでいる。
 目の前ではマッシュが疲労にぴくりとも身じろぎせず、静かに寝息を立て、背後のセッツァーは聞き取れない寝言をブツブツと漏らしている。——窓からは溢れる青白い月光。
 ふと視線を彷徨わせた先に、鏡があった。姿見としては滑稽なほど歪みきった安物の鏡だ。しかしそれに映った、月明かりに照らされた自分の顔は目もあてられないほど憔悴しきったように見える。汗にべっとりとした髪と、驚くほどこけた頬に、更に印象を貧相するまばらな無精髭。落ち窪んだ眼窩は髑髏のように禍々しく、まさかと思って手を当ててみると、それは単に鏡がたわんでいるせいだとようやく分かった。目蓋にかかる汗を拭いながら、ちっと舌打ちする。
 ——一体何の夢を見ていたのだろう。
 目覚めた途端に、夢は霧散してしまっていた。あんなに恐ろしかったのに、その欠片すら思い出せないとは、何とも妙なことだった。しかし別段、酷い悪夢ではないように思われた。むしろとても清々しい、温かい、懐かしい夢だったような気がする。ずっとこの幸せが続けばいいとすら思ったような気がする。
 ——では、なぜ。
 何に怯えたのか。いくら手繰ってみても、記憶の糸はぷつぷつ途切れ、結局は正体を探ることはできなかった。
 情けなさを増長させるかのように、野良犬が細く遠吼える。シャワーを浴びようにも夜は断水している。
 かき上げる前髪は脂汗でべたべたと不愉快で、すっかり目が冴えてしまってもう眠る気になれない。窓から身を乗り出すと、東は漆黒に飲み込まれたまま月が遥か高みで冷たい視線を打ち下ろしている。真夜中だ、総ての闇が宴の興の怒涛のさなかだ。
 今でこそ縁遠くなったものの、かつては体の奥深くまでを闇で浸したことを、きっと一生忘れはしないだろう。自分を利用して蹴落とした者、逆にロック自身が利用して搾取しきった者、ロックの本性が元来明るいからこそそれら一人一人、一つ一つを忘れてしまうことができない。人間の深いところにある巨大な欲望の渦の中の一粒であっても、彼は生得の気性を放り出すことなどとてもできなかった。
 無闇におどけて見せるのも、幼く見せるのも、かつて得るはずだった時の中で指の隙間から零してしまったそれらを、取り戻そうとするせいなのかもしれない。だが、一度闇に浸した心に再び清らかな光をもたらすのは、容易ではない。

 ——俺は病んでいる。

 それだけは、彼にもはっきりと分かる。自分がいずれ成し遂げようとしていること、今成し遂げようとしていること、そして自分の意思を支配しているもの、それぞればらばらに見てみれば何てことはないかもしれない。彼が「そうありたい」と願う快活な青年の姿に、皆々の目には映るかもしれない。
 だが全てを一つとして見てしまえば、どうなるか——こんなにも巧妙な演技は他にない。笑顔も、声も、手足の運びも、前向きな血の巡りも何もかもが嘘っぱちだ。今すぐこの胸を切って開いて、こんなにもこの心は、ほとばしる血液はどす黒いのだとばらしてしまったら、きっとこの世は滅茶苦茶になる……。

 ——何年も前に死んだ恋人の死体を、暗い湿った地下室の中で、気の狂った老爺に任せて保存させてあるんだ。彼女はいつか俺が蘇らせるからさ。

 ロックは自嘲に口角を上げた。馬鹿な話だ。第一、もし本当に彼女を再びこの大地に呼び戻したとして、こんな自分を彼女は「自分」と認識してくれるのか? こんなに腐り切った精神で、再び「あなたは誰なの」と問いかけられるのが落ちに決まっている。
 彼女が愛していたのは彼女の温かい唇に触れることのできたあの自分だ。

 ——今の俺じゃない。

 ロックは耐え難くもう一度窓から身を乗り出した。窓枠をぐっと掴んで、足を掛ける。全身が完全に夜風に晒されて、汗まみれの体を冷却した。身軽な彼は何の造作もなく、そのまま両腕で体を持ち上げ、ロックは屋根の上に裸足のままで上がった。派手に寝転がる。粗末なトタン屋根はバリバリと嫌な音を立てながらもロックの体を受け入れた。
 夜空が綺麗だ。
 月はまだ半分でしか浮いていない。そのせいで星々はひどく輝いて見える。あれが北極星、あれがひしゃく星、あれがつつみ星、向こうにあるのは熊の親子。夜空を二分するミルキーウェイ、その白亜に阻まれているのは儚い二人の恋人たち。夜空の伝説は、ロックが幼い頃に聞いた枕もとの古い古い物語。祖母にねだればいつでも話して聞かせてくれた、世界中が未知の何かを隠して笑っていた純朴だったあの頃——。

 ——戻れたらいいのに。何も知らなかった子供の頃に。

 父がいて、母がいた。祖父がいて、祖母がおり、父にくっついて世界中の不思議を小さな目で見て体で感じたあの頃に。片田舎の故郷に帰れば母と祖父と祖母が待っていて、ああロックや、今度の旅はどこへ行ってきたの? 手紙くらい出しなさいと毎度言っているじゃあないの、父さんに似て不精な子なのね、とたしなめながら彼を抱きしめてくれたのだ。
 父の真似をして、その背中を見ながらちょこまかと走り回っていた頃をはっきりと思い出す。綺麗な珍しい蝶に夢中になっては一人駆け出して行って、はっと思い出して後を振り向けば、逞しい父の笑顔がある。それに安心して、彼は再び蝶を追いかけ始めたのだ。
 何もかもが懐かしくて埃だらけで、暖かくなった心に抱きしめようとしてもすぐに郷愁に零れてしまう。ほの明るいランプの光みたいな、頼りなくてか細くて、でもほっと安心するそのぬくもり。刈って干された牧草のようなふわふわの感触と、かさかさとした肌触り。嬉しくて悲しくてよく分からない感情の怒涛に整理もつかない涙が、次から次へと溢れ出すような。
 ロックはついにうつ伏せになった。トタンはロックの体温を吸って、その吸ったままをロックのこけた頬に返した。何の優しさも慈しみもない……今の自分にお似合いだ、と彼は心の中で声を張り上げて叫んだ。

 ——帰りたい。きっともう本当は何もかも嫌なんだ。帰りたい。

 だが、過去に逃避しつづける心持こそがすでに闇に飲まれている証拠だとは、闇に魅せられた彼には気づく由もなかった。ただ星と半欠けの月だけが、汗ばんだロックの背をじっと見つめている。