宝石箱の天井

 世界が茜色から解放された日の夜、宵闇の中、ロックとセリスは何を語るでもなく星を眺めていた。それまでは舞い上がった塵と埃に遮られ、見ようとしても見られなかった星たちと真っ白い月。ふと見上げた空にロックが「おぉっ!」と声を上げて、それからずっと、もう数刻もずっと、二人してファルコンの甲板で星を眺めている。
 セリスは手すりに背中をもたれながら、ロックはセリスの膝に頭を預けながら、ときおり夜空を滑り落ちる流れ星に目を合わせて、微笑んだ。
「──綺麗」
 熱に浮かされているときのように、セリスがぽつりと口にした。久々に見上げる夜空の美しさは、そう言わずにはおれないほどのものだった。星空に対して「宝石箱をひっくり返したような」ということがあるが、それを今日初めて実感していた。
「ああ」
「あれから一年以上も経ったのね」
「そうだな。長かった」
「そう? 私には全部、昨日のことのように思えるわ」
 囁くような会話は、そこで途切れてしまった。眼下の草むらから虫の鳴く声が聞こえる。草原を風が渡り、耳朶を打った。その風に、一斉に芽吹いた草の目たちが新鮮な香りを乗せてくれる。魔法のように一息に開き始めた草木は、枯れ果てていたはずの大地を優しい緑色に染めていた。
「全部終わってしまったのよね?」
「そうだな、俺たちのすべきことは全て」
「ねえ、私の……誕生日っていつだか、知ってる?」
 セリスが突然そう言った途端、ロックは弾かれたように半身を起こした。
「まさか今日だなんて言わないよな!?」
 ロックの台詞はあからさまな焦りの色味を帯びていた。濃い両眉が、今ばかりは『勘弁してくれ』と語っている。しかしそれを見たセリスはくすくすと笑った。
「いいえ、ロックは知っているのかなと思って……」
「あ。そう言われれば知らないや」
 よく考えず慌てふためくあたりが、いかにもロックらしい。重要なところではいつの間にかリーダーシップをとっているような人徳のある彼だが、どうしてかちょっと間の抜けたところのある、全く愛すべき人だ。
「それで、いつなんだ? 教えてくれよ」
 彼はセリスの細い肩に頭を預けた。ぽんと放り出された筋肉質の両足は、完全に警戒を解いてリラックスしている印だ。耳を澄ませば彼の呼吸音すら聞こえてしまうほどの距離。ずしりと重たいロックの頭を小さく撫でながら、セリスは答える。
「私も知らないの」
「え?」
 それじゃ祝いようがないだろ、とロックは笑う。
「そうね……だから、仮の誕生日ならあるわ」
「いつだ?」
「私に魔導の力が植えられた日」
 明らかに性質の違う沈黙が、二人の間に訪れた。ロックはセリスに甘えたままだったが、どう返事をしようか悩んでいる様子だった。セリスの側から彼の表情は見えるはずもなかったが、何を考えているかは、不思議なことに何となく分かる。
「私は魔導研究所で育ったの。元は溢れていた孤児の一人で、被検体として魔導研究所に収容されて、ルーンナイトになるように教育されたわ。ルーンナイトの被検体は全部で十六人いたけれど、いつの間にか私一人になっていた」
 ロックは黙したまま何も言わない。その代わり、彼は左手をセリスの腿の上に置いた。しばらく具合悪そうにもぞもぞ動いていたが、しばらくして落ち着きどころを見つけたらしく、そのまま置かれたっきりになった。
「全て終われば、私がルーンナイトであることも終わると思っていた。でも、違うのよね? 私の誕生日は、私がルーンナイトとして生まれた日──私が生きている限り、私はルーンナイトであることを忘れることはできない……」
 突然階下から、どっと爆笑の声が上がった。酒盛りを開いている仲間たちだ。夜のしじまを切り裂いて、驚いたのか虫たちの声はぴたりと止まってしまった。続いてグラスのぶつかり合う音が次々に聞こえ、わぁっと喚声。何か悪ふざけの冗談を繰り広げているに違いなかった。仲間たちは甲板で空を見上げたまま動こうとしない彼らに呆れて、さっさと下りていってしまっていたのである。
 おんぼろの蓄音機が、やけっぱちのように同じレコードを延々と鳴らしている。誰かが調子っぱずれの歌を歌いだせば、他の者たちがそれに合わせて足を踏み鳴らし、手を叩いて罵声を浴びせまくる。ありえないような、酷くけたたましい喧騒。
「忘れられたらいいのに……」
 セリスは何かを押し殺すように呟いた。
「私が兵器だということも、私が普通の人間とは違うということも、この生い立ちも、この人生も、行ってきた何もかもを忘れて消し去ってしまいたい……」
 ルーンナイトという言葉に、彼女は何度打ちのめされたことだろう? 常人にはありえない異様な能力を持っていたがために、彼女はいつでも孤独だった。どこに行っても、誰といても、彼女と立場を共有できる人間は一人として存在しなかった。心はすさび、いつしか代償として戦に心を傾け、常勝の二つ名を得、それはますます彼女を世から遠ざける。
 階段の向こうから聞こえる羨ましい喧騒の中にいられたことは、ただの一度としてなかった。もし普通の娘でいられたら、普通の人間でいられたら、普通の生まれでいられたら──セリスは人知れず願って止まなかった。それでも、表面化しないがゆえに、当然のように誰も彼女を救いはしない。だから救われることを信じるのも、恨めしく思うのも、いつの頃からか忘れた。罪深い私には永遠に幸福の時は訪れないのだと、自嘲の笑みで口角を歪ませることも多くなっていた。

 星は月明かりに震えている。どんなことがあっても、空の星は変わらない。はるか昔から変わらぬ美しさを保ち、それはきっと永遠が終結するまでほころびはしない。

 引き結ばれた口元が、必死で涙をこらえている。小さな肩が我慢で震えて、顔はどうしようもないくらい歪んだ。愛しい人の目線が他所に向かっているのは幸いだった。
「背負って生きていくにはもう、苦しすぎる……どうして、私は本当は何のために生まれてきたんだろう」
 両親もなく、彼女の人生に望まれたのはただ帝国の繁栄への一助と、兵器としての活躍だった。だから帝国に疑問を投げかけたとき、帝国はあっさりとセリスを捨てた。セリス程度の人造魔導師はいくらでも量産できる、セリスは使い捨ての道具、との帝国の意思表示だった。事実、セリス・シェールという人造魔導師の一被検体から得られるデータは、とっくに何もかも絞りつくされた後だった。セリスからはすでに、学術的な価値を見出すことはできないのである。
 セリスが疑問を抱き始めたときから、帝国にとって、セリスは用済みだった。セリスの存在は帝国の小さな礎の一つにしか過ぎない。セリスはすでに使い古された油、種を生まない葡萄のようなもの。
「馬鹿なこと言うなよな、」
 しかし何も言わなかったロックが、ようやく口を開いた。声は静かで、らしくないほど落ち着いていた。いつもなら驚いていたかもしれなかった、でもセリスにはそれどころではなかった。涙はこぼすまいとして見上げる夜空は、ぐにゃぐにゃに滲んでいるのだ。
「記憶喪失の恋人はもう二度と抱えきれないぜ」
 セリスははっとして彼を見た。相変わらず肩に頭を預けてのんびりとくつろいでいたけれど、置かれた左手は少しかさついて温かい。無骨で節くれ立っており、力強さを主張する手指。彼女は迷わずその手を握った。
「ごめんなさい」
 ロックもまた心に深い傷を負っていたのだとやっと思い出して、彼女は申し訳ない気持ちでしょうがなくなった。不幸せなのは自分だけだと思い込んで、取り乱して大切な人を傷つけたことに、頭の中が空っぽになってしまいそうになった。以前に見た複雑な、ありったけの感情という感情を全てかき混ぜた、ゆっくりと階下から戻ってきたときの顔を、あの双眸をはっきりと思い出す。迫り来る宵闇のような底無しの後悔に襲われた。
 あのときの、あの切なそうな目。その両目を見ただけで、ロックは夢を果たせなかったのだと確信し、そして彼の、何とも読みがたい表情を見て、何ごとがあったのだろうと心配しもした。
 ついでにそのとき、ああ、私は本当にこの人のことが好きなのだ、と改めて思った。そうでなければどうして自分は、レイチェルがついに死んでしまったという事実を知って、心を痛めるのだろう?
 喉が石を押し込まれたように痛くなる。無神経な自分が悔しくて、大切な人を痛めつけたことが怖くなって、セリスは必死になってロックを抱きしめた。そうでもしないと、ロックの心がどこか遠くに、霧のように散じて見えなくなってしまいそうで。
「でも、良かった」
「ん?」
「誕生日って辛いことばかりじゃないって分かったもの」
「はっ?」
「今日が私の誕生日だから、覚えてね。三月十日、忘れないで」
「……」
「びっくりした?」
「誰も知らないのか?」
「言ったら思い出してしまうから」
 いつかエドガーが必死で聞き出そうとしたけど、あの時は本当に大変だったのよ、とセリスは笑った。
「でも私、これからは大丈夫。きっと、」
 セリスは言ってロックに体を預けた──もうきつく抱きしめるなんてことはしなくてもよかった。肩口に鼻先を押し付けると、僅かにロックの汗の匂いがする。彼の体はいつでも静かに温かくて広くて、海の水に体を浸したみたいだ。
「エドガーには教えるんじゃないぞ。年の数だけのバラが届くぜ」
「いいじゃない、素敵だわ」
「……代わりに俺がやるから」
「それも、素敵ね」
「も、かよ……」
 ロックがセリスに頬擦りする。ロックの頬は伸びかけの髭のせいで痛かったが、セリスは文句は言わなかった。
「ろくなものやれなくて、ごめんな」
「こうしているだけで幸せよ」
 目線を移すと、涙に滲みながらきらきら瞬く星がある。月が柔らかい光を投げかけ、さわさわと草原が揺れ、ころろ、と虫が鳴いた。待ち望んでいた美しい景色を、セリスはようやく美しいと思えるようになりかけていた。月明かりは彼女の横顔を照らしている。