うたかた

 ロックはゆっくりと浅い眠りから抜け出した。ほんの少しうとうとしているだけだと思っていたのに、どうやら長いこと意識を手放していたらしい。起きていたはずのセリスがすやすや寝息を立てていて、思わず苦笑した。なんて可愛いんだろう?
 白くて細くてひわやかな手に、彼は触れた。この手の平が無骨な騎士剣を掴み、様々な命を夜空へ還したのは今は昔のこと。近頃は主に植物用の剪定ばさみが握られている。
 彼女のローズトピアリーの趣味はいよいよ本格的に拡大してきて、今や家のあちこちにはドライフラワーの木の鉢が置かれて、庭も冗談抜きでバラの園だ。家の戸口では摘まれた花が逆さまにぶら下がっている。古い絵本のコレクションといい、セリスは案外、分かりやすいほど女性的な趣味の持ち主だったのだ。
 出会ったころはあんなに攻撃的だったのに(ナルシェの崖に向かう坂道で、エドガーがセリスを何とかかき口説こうとするのを、ロックはきちんと耳にしていた)、帝国から抜け出した彼女は少しずつ理想の自分に近づいていったのだろう。こうして満足そうに眠っている時も、彼女の理想のかけらのひとつなのだろうか? 無警戒に、波打つシーツの上でただただ惰眠を貪るだけの、まるで無意味な日曜日すらも。
 ロックはたまらなくなってセリスを抱きしめた。ふわふわと柔らかくて、温かい感触が体に返ってくる。鼻先を埋めた髪は、優しいいい匂いがした。でも、眠るセリスには彼が邪魔だったらしい。胸の間に腕を差し込まれて、ううんとうなって押し返されて、おまけに寝返りまでころんと打たれて、背を向けたそのままの状態でセリスは落ち着いた。ロックはおかしくなって、しかし恋人を起こすまいとして笑い声を殺した。
 セリスの首の隙間に腕を差し入れ、くびれた腰に手を回す。後ろから抱きかかえるような格好だ。この体勢が一番しっくりくるんだと言って、セリスは起きている間でもロックに背を向けたがった。ロックの気持ちなんてまるでお構いなしに、というよりも、恥ずかしがってあえて避けているのかもしれなかった。もうこんな生活を始めて半年は経つのに、セリスは相変わらず、どこかうぶな性格のままだ。
 うなじにそっとキスをする。柔らかい髪の感触が頬に触れて、妙にくすぐったい。唇はいつものように肩口に流れても、その右肩で彼はいつも動きを止めてしまう。
 肩の装甲を叩き割って一撃を加えたモンスターの愉快そうな目を、ロックは絶対に忘れることができなかった。この柔肌が血を噴出させるのを見て憤怒の色を浮かばせたのは、仲間でも当のセリスでもなくて、自分だった。柄にもなく冷静でいられなくなって、そうか、俺はこいつを愛しているんだ、とのろのろと頭の片隅で感じ、すぐさまそれを否定した。セッツァーの噂を聞いてオペラ座に向かう前のことだった。

 辛くて苦しい恋愛だった。レイチェルへの想いにほころびが生じたなどと、認めるわけにいかなかった。

 まるで自分が女なのだと意識していない彼女に、目を丸くしたこともあった。ナルシェに辿り着いて最初に彼女が所望したのは、傷を癒す薬でも身を横たえるベッドでもなく、頑丈な防具の一式だった。
「そんなことに構っていられるか! 帝国はすぐにもこちらにやってくるのだぞ!」
 誰しもが満身創痍の彼女を気遣ったのに、逆に彼女は怒鳴って返すのだ。幼さの残る顔を鬼神のように怒らせて、彼女は敵に立ち向かう。歯向かう全てに情け容赦なく刃を突き立て、剣の技が通用しなければすぐさま失われた古代の神秘を見せ付ける。
 生きとし生ける者はみな彼女のようにすべからく残酷になれるのだろうか。彼はできるだけ、戦う彼女の姿を視界に入れたくなかった。

「ねえロック? 私、今、何でもできるような気持ちなのよ?」
 と、初めて彼女を抱きしめたとき、涙交じりの声で彼女はささやいた。
 鈍感にも彼は『何でも』の意味を捉え切れなかったが、その正確なところは直後に知れた。私はまがい物の魔導師だから、と恐れて唱えることのできなかった究極の魔法を、彼女は一息に放ったのだ。
 あの瞬間の堕天使が驚いた顔といったらなかった。彼は場違いながらも声を上げて笑ってしまったのだから。
 あんな些細な抱擁で、彼女はあんなにも強くなれた。今になってもどうしてか分からない。だが、自分がレイチェルのために息巻いて世界を彷徨っていたのと、どこか似ている気がした。
 大切なもののためになら、彼は命だって捨てられた。きっとそれは彼女にも同じことだったのだろう。ただ何も言わない、控えめなだけで。それが生来の彼女の性格なのだ。責めるような強がりから、微笑み沈黙を守る強がりに、形を変えただけで。

 いつのことだったか。月明かりに照らされた彼女の顔は綺麗で、いや綺麗という陳腐な形容はもはや追いつくこともままならないほど美しく、彼は理性を保つのでまさに精一杯だった。どんなに健全そうな男を装っても、どれほど彼女の気高さに惹かれても、本能に抗うことだけはできやしない。
 いっそ俺もモンク僧になっていればよかったんだ、と彼は胸のうちでさんざんに嘆いた。こんなに邪な思いを抱いている自分を知ったなら、彼女はどれほど絶望するだろう? それでも、彼は自らに抵抗できなかった。
 何もかもにけりをつけよう。全てのわだかまりに終止符を打とう。決戦前夜、あの瓦礫の塔を目指す運命の晩、エドガーが言った言葉だった。彼はその言葉を聞いた途端、彼女を失いたくない気持ちが膨れ上がったのだ。
 失いたくないというのは嘘だったかも知れない、失う前に知っておきたかっただけなのかも分からない。でもとりあえず、彼は性急に失いたくない、と伝えた。彼女はためらいがちの瞳のまま、あるがままを受け入れた。

「ねぇ、私を愛している?」
 愛していると答えるたびに本物の愛が薄れそうで、ロックはそんな言葉は言いたくなかった。でも、言わなければ彼女はごねる。だから仕方なしに答える、
「愛してるさ」
 と。
 心に秘めた大切な想いを喋ってしまうと、でまかせみたいな台詞になる。気持ちは本当なのに、嘘をついているようだ。セリスの潤んだ青い瞳を見つめつつ言うと、その思いは尚更だった。背徳感を押し殺すのには、骨が折れた。
 だから、難しいことは何も考えなくていい、ただ委ねればいい。羞恥心を捨てきれずにいたセリスに、馬鹿みたくそう言ったのだ。セリスはそれで納得したようだったが、そんなのはお楽しみのためのちょっとした口実に過ぎない。あの夜は誰かみたいに美辞麗句を紡ぐ心からの二枚舌が、初めて欲しいと思った夜だった。本当の意味では彼には、無理だったのだ。
「私は、あの人の代わりなの」
 いつかそう問いただされたのはオペラ座だったろうか。彼は即答することができなかった。代わりかもしれない、違うかもしれない——彼の中でもはかりかねるところがあった。
 帝国兵に痛めつけられ、傷つけられていた彼女を見て、同じように帝国に命を奪われたレイチェルを重ねた。それは紛れもない事実だった。「似てるんだ」とたまらず吐き出すように口にした台詞が、そんなにも彼女の心を不安にさせたなんて。彼は後悔した。そこまで自分が浅はかだなんて知らなかった。
 たとえば満天の星空に漆黒の海が溶け合っているのを見ると、一人感傷的な気持ちになる。一人になるのは嫌いではなかったが、アルブルグの一夜から、彼は夜が好きではなくなった。彼女の悲壮な瞳を思い出してしまう。あのとき何を思って、彼女は海を眺めていたのだろう。

 こんなふうに恋に落ちることを知っていたなら? レイチェルを愛していながら、彼女に恋をするのを知っていたなら?

「……ロック、ねえロック?」
「ん?」
 彼は現実に引き戻された。横を見るといつの間にか起き出したのか、寝ぼけ眼をこすりこすりシーツを引っ張り上げる娘がいる。白い淡雪の肌に滑る金色の一房が、小気味よいアクセントになって。
「何か考えごと?」
「え?」
「さっきから、ずっとそう」
「そう見えるか?」
「違うの?」
「違うよ」
 ただ苦く甘い、泡沫の記憶に、思いを馳せているだけ。ロックは恋人に口づけた。永遠の愛と忠誠と、何も心配はいらない、の印に。
 いつか朽ち果てるとき、自分がそばにいたという記憶が、セリスの中で大切な思い出になっていればいい。そうしたらきっと、不器用すぎた自分の生き様も、少しは報われるだろう。
 想像もできない遠い未来を思って、彼は笑った。