ふたりの熱暴走

 体を揺するバイクのアイドリングは、心臓の鼓動によく似ていた。逃げ道を全力疾走して振り返った時の、踊るような動悸そっくりだ。
 きっと今この時間、王城は蜂の巣をつついたような大騒動になっているだろう。かけがえのないファティマ王家の最後の生き残りが、揃って行方知れずになったのだから――。
 バルトとマルーは砂丘の上から、遥か遠くに微かに望むブレイダブリクの影を静かに見つめていた。首都が陽炎の向こうで頼りなく揺らいでいる。見慣れていなければそれが人の街ではなく、岩くれや何かだと見間違えたことだろう。だが彼らはその遠景に幼少から親しんでいたし、彼らのサンドバイクが引いた美しい一条、そのまっすぐな線が確かな道しるべだった。この一直線を今すぐに遡れば、過酷な熱砂地獄から生還できるかもしれない。
 しかし二人は、もう二度とブレイダブリクの砂土を踏むまいと決めていたのだった。彼らの望む景色は、彼らの一生涯において最後の一瞬であると固く信じていた。
 ファティマに生まれたバルトとマルーは、己らの血の由縁を捨てる。それがために、二人は王都に立ち入る権利を永久に失うだろう。いや、仮に許されていたとしても、その行使の機会を自ら放棄するだろう。
 二人はしばらく、静かに旅装の裾――ターバンやマントや、その下に身につけた長袖やズボンやら――を、乾いた風にはためかせていたが、やがてふと、マルーが口を開いた。
「このくらいあれば逃げきれるかな」
「分かんねぇ。ま、大丈夫じゃねーの?」
 マルーはバイクにまたがるバルトの背中にしがみつきながら問いかけ、バルトもまたマルーの腕を腰に巻きつかせて答えた。その口ぶりはまるで、ケーキを何等分すれば全員が食いっぱぐれないで済むか考えるような、軽い感覚によく似ていた。
「そんなことよりこのバイク、どこで捨てるよ?」
「あ、捨てちゃうの?」
「道筋辿られちまうだろ。どこに向かうか判断つかない辺りで乗り捨てねーと捕まるぞ」
 なにせあちら側には、彼ら二人をよくよく知り尽くした重鎮たちが何人もいるのだ。シグルド、メイソン、アグネス、その他大勢の旧知の腹心たち。皆が勢揃いすればたちまち連れ戻されるに違いなかったし、彼らが知恵を合わせる時はごく近かった。特にシグルドときたら全く抜け目なく、二人が脱走を企てる隙を見つけるのには随分と苦労したのだ。この時ほどシグルドの存在を憎らしく思ったことはない。
 お陰で装備は実にお粗末極まりなく、炎天下の砂漠へ躍り出た彼らの身なりは、民草のそれとまるで変わりがなかった。鮮やかな染色も手の込んだ刺繍もない、織った布を粗末に綴った綿の外套は、遮光の役をほとんど果たしておらず、この頃とんと忘れていた貧苦の感覚をじわりじわりと思い起こさせてくれる。頭頂から肩先から二の腕から、じっくりと太陽に炙られて焼かれる感覚は恐ろしくも、懐かしい。
 この調子では、体力はあまり保ちそうになかった。
 どこかの街でましな物に替えるにしても、路銀は子供の小遣いに色がついたくらいしかない。彼らはほとんど無一文だった。所有していた数え切れぬほどの宝飾品は、王城の奥で主をなくしてさめざめと悲しく輝いているだろう。王家の財宝を盗み出すことはまかりならぬと二人が意見を同じくしたためだ。財宝は支配者なき王国に残った、貴重な権威となるはずなのだから。
「今ボクら、どこにいるの?」
「そうだな……ブレイダブリクから東に四キロとちょいだ」
「へー、よく分かるね」
「今どきの乗り物にゃオドメーターってのがついてんだよ、大教母さま」
「んじゃ『東』って? コンパスもついてるの?」
「俺がボケてなきゃ、あっちに見える四つ子の岩陰は首都の東の岩山だ。海賊ンときはよく目印に使ってた」
「さっすが、王太子殿下」
「任せろよ」
 バルトは得意げに鼻を鳴らしたが、マルーはそれがひどく演技がかっているのに気づき「頼りにしてるよ」と頷くにとどめた。時に窮地に陥ったバルトが道化めいた態度を取るのを、マルーはよく知っていた。
 この日は嵐の気があった。見渡す空は白っぽく濁り、陽光をぼんやりと滲ませていた。時折、強い風がごうと吹きつけて、二人は砂から両目を庇って目蓋を固く閉じ、風を遮ろうと手をかざした。だが砂塵は容赦なく彼らを襲って、日に焼けることの少なくなった柔い肌を細かに叩いた。
 この逃亡は責任逃れとも言えるだろう。むしろ大多数の人間にとってみれば、二人がアヴェから逃げ出すことは、五百年の長きにわたってファティマの血に仕えてきた、多くの国民達に対する裏切り行為だった。二人の逃亡には同情の余地はないのかも知れない。
「キスレブに辿り着いて、どれくらい見つからずにいられると思う?」
 突風をやり過ごしてから、マルーが口を開いた。彼らはとりあえず、キスレブに落ち延びるつもりだった。
「さてな。そりゃ俺らの運と心がけ次第さ」
 キスレブにはかつての仲間リカルドがいたが、彼の力を借りる気はなかった。リコの助力があればあるいは身を隠し続けることも不可能ではないかもしれない。それこそ囚人収容区の奥深くに住み着けば――しかしキスレブは、あまりにアヴェやニサンに近すぎるという懸念があった。キスレブでの暮らしは、おそらく長くは続くまい。持ってひと月、ふた月やそこら。あるいは必要なものを揃えたら、またすぐどこかへ行くだろう。
 ふたりの覚悟は、並々ならぬものがあった。見つかりさえしないのなら、先の戦で荒廃しきったトランエリアにだって逃げ出していいのだ。シェバトから出奔した賢者トーラやバルタザールのように、他人との関わり合いを捨て去って、森や地下砂漠の奥深くであっても構わない。
 ふたりがふたりでいられるのなら、バルトとマルーはそれでよかった――崩壊した世界を復興させるためにはふたりは若すぎ、助けの手を差し伸べる者も少なすぎた。そのくせふたりに対する期待ばかり天すら貫くほど高まり、御世の永遠なるを祈る声が轟き渡る。その裏側では国民らが、せめて身にまとう襤褸さえもなく、腕や足を棒切れのように放り出しては息も絶え絶えに横たわる上空で、鋭い目付きの猛禽が、今か今かと死期を待つ……ファティマの血の果てに取り残された二人は、折れた。
 覚悟が足りぬと言われればそれまで。愚か者の誹りも甘んじて受け入れよう。何しろそのとおり、全く正しく、ぐうの音も出ない。
 五百年前の始祖はこの枯れた砂漠に黄金郷の夢を見たかもしれない。だが始祖と自分たちとを比べれば、持たぬものが圧倒的に多かった。それは信仰、それは武力、それは自尊。ニサンの大聖堂を、スレイブジェネレータを、力の源たるエーテルを。そして何より、自由のもとに生まれた魂だという思いを。戦は、五百年前には奪わなかったものを、ことごとく奪い、捨て、叩き潰したのだ。
 バルトは、失われたものが大きすぎて自らヒトであることをやめた、古代人カレルレンのことを思い出す。彼に比べれば、自分たちはとんだ甘ちゃんだろう――バルトは溜め息をついた。彼のように知恵をつけのし上がり己を神たらんとするほど、バルトは強くない。マルーもそうだろう。ほとんど頼るもののない異国での生活に、どれほど耐えられるだろう。
「なぁ、マルー」
「うん?」
「引き返すなら今のうちだぞ」
「いやだ」
「本当にいいんだな?」
「若は戻りたいの?」
 どこかしら険を含んだ声に、バルトは振り向いた。バルトと同じ色の碧玉が、きっと彼を睨みつけていた。
「若の方こそ。女のボクを連れてどこまで逃げ切れるの? 自信あるの?」
 覚悟だけなら、マルーはバルトに負けるつもりがなかったのだ。今更、何を弱腰なことを――そう言いたげなマルーの瞳である。
 バルトとふたりで国を捨てる。決意した瞬間から、マルーは自分が娘であることだけをはっきりと認識した。これから先、幾度となくバルトに迷惑をかけることがあるのはあまりにも分かりきっている。
 それでもバルトは自分を選んでくれた。バルトは一人の男として、マルーを選んだのだ。復興の道連れとしてでなく、生涯を共にする唯一無二の伴侶として。
 だからこそマルーは、いくらでも強い口をきいた。彼女は恋人の決意に報いたかった。守られるばかりは嫌だった。
「生憎と、」
 バルトは言った。
「走り出しちまったら止まれない性分でな」
 愛しい娘の豹変ぶりを、バルトはいささか鼻白んだ思いで見つめている。女ってこんなに急に変われるもんなのかな、などと。いや――マルーは芯の強い娘だ。自分のためならきっといくらでも、何にでもなれるに違いない。命を捨ててすらバルトのためにあろうとする心が、マルーにはある。身分を捨ててもなお高貴で美しい何かが、彼女の中から薫るのを、バルトは見逃さなかった。
「黒月の森あたりまで走るか」
「シグたちをラハンに誘導するってこと?」
「あいつのこった、おさおさ騙されちゃくれないだろうが……ま、ちょっとした陽動くらいにゃなるだろうよ」
「分かった」
 本心ではどちらも、この逃避行が成功するとは思ってはいなかった。だがふたりは、もはや飛び立たずにはいられなかった。それまでの淡い恋心が嘘のように、今はすっかり熱に浮かされ、かすかに擦れるだけの肌と肌の感触に震え、日がくれ夜が明けるまで恋人の潤む目を仔細に見つめ、ただ呼吸ばかり繰り返し、互いを己の中の閉じた世界に閉じ込めたくてたまらないのだ。半ば、逃げることそのものが目的なのかもしれない。
 スロットルを開かれたバイクはけたたましく轟音を上げ、どことも知れぬさだめに向かって再びふたりを連れ出した。