ミルク

 もし真夜中まで眠れなかったとしても、ユグドラにはガンルームくらいしか行くところがない。
 ユグドラはボクにとって本当に何にもなかった。ニサンのシスター達があんなに心配顔をしなかったら、もしかしてボクはここに来なかったかもしれない。それでも、シャーカーンのハゲオヤジの悪巧みが止まるはずないんだから、ボクはみんなのために、みんなが心配してくれるボクのために、ここにいる。
 ユグドラのクルーたちは好きだけど、仕事を(ましてや夜番のみんなを!)邪魔しになんか行けなかった。唯一ガンルームにだけはくつろげる場所があって、息抜きできるところはそこしかない。ガンルームに行けば、何か心と体が満たされるものがあるはずだった。
 誰もが寝静まってしんとした廊下を渡って、ぷしゅっという油圧の、ちょっと気の抜けたドアの先が、ガンルーム——先客がいる。目立つ金色の髪、四角い体。若だ。
「よぉ」
 若は振り返って、気の抜けた挨拶をした。ボクもボクで、よぉ、と返す。
「若、眠れないの?」
 右手には赤ワインが少しだけ注がれたグラス。光を放つ照明はカウンター真上の一つきりで、照らされる若の髪と、目と、ワイングラスは、何だか不思議な色をしていた。
 若が「飲むか?」とグラスを少し傾ける。ボクはいらない、と答えた。お酒はあんまり好きじゃない。
 ボクはカウンターに入り込んで、ポットにミルクを注いで火に掛ける。もちろん火力は最大。のんびり待つのもいいんだけど、とにかく早く眠りたい。明日の朝、寝不足でグッタリするのは嫌だから。
「……まぁ、眠れねーっつーかな、」
 若がぽつりと呟く。
「ちっと疲れたっつーのかな……。シグには黙ってろよ。あいつ、自分が酷ェ目に遭うからって俺が呑んでるとギャーツク喚くんだ」
「知ってる」
 ボクはクスクス笑いながら頷いた。シグの堅い命令で、ユグドラに用意してあるお酒はほんの数本。夕食の席でも、誰かが飲みだすと渋い顔をする。匂いがするだけでも嫌がる。そういうシグを間近に見てきたから、ボクもあんまり、お酒は好きじゃない。
「疲れたんならミルクがいいよ。体に優しいよ」
「ガキじゃあるまいし、いらねぇよ」
「んもう、馬鹿にして。砂糖入れたら美味しいんだから」
 ふつふつと気泡の浮いてくるポットの薄闇を眺めながら、ボクは言う。昔はよく一緒に飲んだのに、今はお酒の方がいいみたい。
 そのままボクはボンヤリとミルクが沸くのを待って、若はちびちびとワインを呑んだ。話題はないけど、悪い感じじゃなかった。
「ユグドラはどうだ?」
 若の突拍子もない質問。グラスの中身は減っていない。酷くお酒臭いわけでもない。酔っ払ってるわけじゃなさそうだけれど……詮索してみようかどうしようか悩んで、やっぱり、やめた。若の気持ちがますます落ち込んだとしても、ボクはそれを励ましてあげるだけのものを持ってなかった。
「することないね。大掃除大会でもやろうか? ユグドラ、ぴっかぴかになるよ。どこもかしこも埃っぽいんだもん、男臭いしさ」
 そうじするよ、と言っただけで、男所帯のユグドラは悲鳴を上げるに違いない。若も面白そうにニヤニヤ笑う。
「シグにも言ってみろ。喜び勇んで賛成するぜ」
「そんな気がする」
 他に大喜びしそうなのは、医務室やクルーのお世話をしてるおばちゃんくらいしかいない。二人に怒鳴られるクルーのみんなを想像すると、くすくす笑いが止まらない。
 ——いつの間にかポットから湯気が昇り始めたのに、気がついたのは若だった。
「おい、沸いてるぞ」
「あっ、」
 ガスの火を止めて、カップに注ぐ。気づくのが遅くて、飲むには熱すぎるくらい湯気が立っている。
「沸かし過ぎたな」
「そうだね」
 砂糖を一杯だけ入れる……砂糖が一匙だけ入ったミルクは、ボクの中の小さいこだわりの一つだった。あんまり入れすぎると、ミルクの味が消えてしまう。
「見れば美味そうだな」
「あげないよ、全部ボクが独り占めするんだもん」
「なんだよ、ケチ臭ぇなあ」
「へへへ、嘘だよ。砂糖、まだ、いる?」
「いらねえ」
 若がワインを飲みきって、冷めた頃にはきっとちょうどいいに違いない。若専用のマグカップを若の指図で見つけ出して、注ぐ。
「……いい色だな」
 若の珍しい、感傷的な台詞だった。ミルクの湯気に溶けて消えてしまいそうなのに、少しだけ胸に突き刺さる、小さな淡い憂いの声。
 きっとよく眠れるよ。ボクがミルクを吹きながら答えると、若はワイングラスを一息に干した。