砂上に紅月は二度昇る 17

 ブレイダブリクの朝は規則正しくやってきて、マルーはきちんと予定通りの時刻に城を発つことになった。冷え切った砂漠に差す暁光はまだ柔らかく優しく、地上を温めるにまだ足りなかった。バルトの吐く息はかすかに白い。
 旅立つ者たちの旅着も厚手だった。しかし砂漠を進むには絶好の頃合いには違いない。とてつもなく暑くなる前に、なるだけ距離を稼ぐが賢い砂の旅というもの。そうでなければ、車を引く駱駝たちがへばってしまう。
 始まったばかりの朝焼けは、白かった城の煉瓦塀を美しい薔薇色に染め上げ、ニサンからの旅人たちの幸先を祈念しているようだった。吸い込む空気の冷たさも、眠った街の静けさも、寝起きの体には心地良い。実に、絶好の朝である。
「それじゃ、またね」
 数台並んだ輿に、シスターの最後のひとりが乗り込んだのを見て、マルーはバルトに向き直る。白くゆったりとした砂漠越え用のローブを着込んだ彼女は何だか見慣れず、バルトには別人のようにも感じられた。
「おう、息災でな」
 ありがと、とマルーは頷く。
「次来るのはいつになるかな」
「……さーな」
 一国を抱えたふたりには、自由な時間などあるはずなかった。次となったらどちらかの誕生祝いか、あるいはニサンの大聖堂が落成した時か。近年、誕生祝いなど書簡と贈り物で済ますことしかしていないから(何しろ先立つものがない)、落成式であったとしたら、数年後になるだろうか。
「知らないうちにバッチリ王様になってたらどうしようかなあ。今度こそ本当に『若』って呼べなくなっちゃうかもね」
 そうかもしれない。何ヶ月、何年後になるかは知れないが、そこにいるのは国王が板についた自分かもしれない……幼い頃に見た父の背中がかすかに浮かんだ。きっとあの父も、こうして王になったのだろう。
 王でなかった父を、バルトは知らない。バルトにとって父は始めから王であった。だが父もきっと、不安と期待をないまぜにしながら客人を見送ることがあっただろう。ここは、父だけでなく歴代の王たちが、始めに立った試練の淵だ。
 ――あの父の偉大なる背中に、俺は近づけるのだろうか。
 ――近づきたい。いや、近づいてみせる。そしてその背に並ぶのだ。
 バルトは努めて微笑んだ。せめてマルーにだけは、大きく頼れる男であるように。
「今のうちに練習しとけよな。言い間違ったら赤っ恥だぜ」
「うん……そうする」
 しかしマルーのかすかな言い淀みに、バルトは目を瞬いた。普段ならもっと言い返してきてもいいくらいなのに、やけにおとなしい。腰の辺りで組んだ手の親指を、弄ぶように動かすばかりである。
「どうした? 具合でも悪いか?」
「ううん」
 彼女はうつむき気味に首を振った。確かに顔色は悪くないが。
「昨日言ったでしょ、羨ましかったって」
「ああ」
 それに、と言いさして、マルーは口をつぐんだ。言葉の先に何を繋げたかったのかバルトには分からないまま、マルーは顔を上げて、にっこりと笑ってみせる。その目元がいささか切なげなのは、果たして気のせいだろうか。バルトは若干、腰が引けた。そういう目をする従妹を、見たことがなかった。
「何だよ」
「……離れがたいなと思っただけ! それじゃ、じゃあね!」
 後頭部をがつんと殴られた気がして、バルトの呼吸は一瞬止まった。声も聞けない。姿も見られない――しかしマルーは明るく手を振って、いよいよ輿へ乗り込んだ。マルーが幌の中へ消える。
 あの顔、もうしばらくは見られない。本当にこのまま、あいつを逃していいんだろうか。
 そりゃ、待ってれば、会える。会えないことはない。周りの連中が隙あらば会わせようとするだろう。そして俺は何だということもなくマルーに会って、これまでと変わらない雑談を楽しんで、適当に月日が流れた頃、気がついたら俺達はベッドを分けあう仲になっているんだろう。俺がグダグダ攻めあぐねているうちに、空から金貨が降ってきたみたいに、勝手にマルーの方からやってくるのだ。俺の懐に。
 それにあいつは聡いから、周囲の期待に応えるだろう。大体、俺のことを憎からず思ってる。ひょっとしてその方が、あいつにとっても幸せかもしれない。煮え切らずにボケた面を引っさげた俺が、神輿に載ってやってくるのを待っているだけでいいのだ。何しろ『俺は逃げ回っているから、俺があいつをもぎ取りに行くことなんてない。あいつはただ、我慢強く待っていたらいい』。
 ――この俺が、女の優しさに逃げるのか!
「マルー!」
 バルトは叫ぶ。一度気がついてしまったら、彼の衝動はもう止まらなかった。止まりたくもなかった。突然呼ばれたマルーが、慌てて顔を出す。余程驚いたのかほとんどまろぶように現れて、
「な、何!?」
 気色ばんだバルトの顔を見て、二度驚いた。マルーは少なからず怖気付いていたが、バルトはそんなことを勘定に入れられるほど繊細でもなかった。
「そこまで言うなら、俺は決めた。いいか、あと二年だ」
「え? 何、二年って?」
「大聖堂、あと二年で何とかしろ。近いうちに、こっちで暇持て余してる職人を、ニサンに送り込んでやる。そしたら、何とかなるだろ」
「わ……分かった、伝えておく」
「今日から二年後、きっかりだからな! 一日遅れたって待ってやらねーから、そのつもりでいろよ」
「うん、努力する」
 マルーだけでなく追従のシスターたちでさえ、奥で狐に摘まれたような顔をして、へどもどしていた。ま、そりゃそーだよな。バルトは胸のうちでごちる。
「たとえどんな事情があろうと、絶対に迎えに行ってやる。いいな、覚えとけよ」
 と言うと、壁になっていたシスターたちを押しのけ、勢い込んで首を突っ込んできたのはアグネスである。
「その言葉、偽りございませんね?」
 マルーの隣で身を乗り出すあまり落ちかかりそうになりながら、アグネスは尋ねた。珍しく強い詰問の言葉にも、バルトは動じなかった。
「二言はねぇよ! 何ならアグネスが証人になってくれりゃいいぜ」
「――承知、いたしました」
 目を真ん丸くしたマルーが、いまいち響いていないような顔で話を繋いだ。
「じゃあ……アヴェの王様が激励してくれたって言っておくね」
「おう」
 んじゃな。言い尽くして胸の透いたバルトは、片手を上げてマルーを送り出した。それが合図になって、輿に乗りそこねていたシスターたちも、そろそろと上がりこむ。
「それじゃあ、また二年後! 頑張るからね!」
 明るい声を残して、マルーは去った。バルトとその従者たちは、マルーの輿が見えなくなるまでじっと見守っていた。

 そばにいたシグルドが口を開いたのは、城門が腹に響く轟音を立ててぴったりと閉まってからである。何とも言いにくそうな調子で、そろそろと尋ねるに、
「陛下、野暮なことを申しますけれど……」
「何だ、言ってみろ」
 歯切れの悪い部下のために、バルトは促した。
「……マルー様は、お気づきになっておられないのでは?」
「さー? 俺って純情だから、あーゆー言い方しかできないの」
 堪りかねたらしいメイソンも、前のめりになって口を挟む。
「何を呑気な! 相手につもりがなかったでは、済まされませんぞ!」
「まっ、いいじゃねーか! 欲しいもんは力づくってな、昔っからの習いだろ? 男は結局コレだよ、コ・レ」
 平気な顔をして左の二の腕を叩いてみせるバルトに向かって、二人の従者はけしからんの怒声を上げたのであるが、王になった元海賊は、そんなことなどどこ吹く風であった。

「マルー様、ついにお心を決められたのですね?」
 いつになく真剣な表情をしたシスター・アグネスが、ぐっと身を乗り出してマルーに尋ねたが、返答は実に期待外れだった。
「何が?」
「……何が、って」
「大聖堂のこと? きっと何とかなるよ。だってブレイダブリクが何とかなったんだもん。ニサンにもできないはずないじゃない。却って良かったかもね、二年ってビシッと区切ってもらって。うちの偉い人達は、何を決めるにしても遅いんだもん」
「いえ、そういうわけではなくて……」
「アヴェの職人さん借りるって話? 確かに体面を気にする人もいるだろうけど、そんなこと言ってる場合じゃないし、むしろ験担ぎになっていいんじゃないかなあ。王様のお城を建ててくれた人たちだもん、信頼できるじゃない。ニサンもしっかり頑張らないとさ」
 アグネスは深々と溜め息をついた。ぺらぺらとよく喋るマルーは、何かを計算しているときに他ならなかった。頓珍漢な方向によく喋り、軌道修正する隙を与えず、明後日へ誘導し、聞き出そうとしても無駄だと悟らせるのだ。それが意識的なのか無意識的なのか、アグネスには分からないけれど……ともかく、今更その手に乗るようなアグネスではない。
「マルー様、それではバルト様に恨まれてしまいますよ……」
「え? 何でさ」
「よく思い出してご覧なさいませ。バルト様は、あなたを迎えに来られる、と仰ったのですよ」
「ん? ……ああ、そういえば。何でニサンの落成式なのに若が迎えに来るの? 職人さんの迎えに来るってこと?」
 あくまで分かろうとしないマルーの様子に、アグネスはがっくりと肩を落とした。あまりに情けなくて体が脱力してしまう。マルー様が母君を亡くして十数年、せめて代わりであろうと努力して、彼女の幸せのために努めてきたのに!
「マルー様、本当にお気づきにならないのですか? それとも、分かっていて気づかないふりをなさっているのですか?」
 アグネスのいよいよ神妙な顔つきを見て、マルーは口元を引き締めた。落ちつかなげに指先をもてあそび、スカートの座り皺ができることさえ気にしない様でぐずぐずと何度も腰かけ直した。
「……人の気も知らないで」
「何がです?」
 マルーがそっぽを向いて呟いた言葉に、アグネスは信じがたい思いで問い直した。まさかバルトを袖にするつもりなのだろうか。あんなに慕っていた人を。
「だって……ようやくだよ? ようやくニサンが昔の姿になるまで、頑張り続けようって決められたのに!」
「ニサンのこと、やはり迷っておいでだったのですか?」
 時折見せるマルーの憂い顔が、何故のものなのか察しのつかないアグネスではなかった。市街地の視察から帰る度に、彼女は顔に疲労の色を浮かべながら、それでも気丈に笑ってみせる。その笑顔は、アグネスの胸に少なからず痛かった。
「それがさ、昨日、やっと、心が決まったのに――いきなり迎えに来るとか言われても」
「でしたら尚のこと、バルト様のおっしゃるとおりになさればよいのです」
「……?」
「バルト様がいらっしゃるその時までに、虚心坦懐、ニサンをかつての風と光の都になさればよいのでしょう。先ほど仰ったではありませんか、ニサンにできないはずがないと」
「別にそれは若のためじゃ……」
「バルト様のお言葉は、ご迷惑ですか?」
 片膝を引き上げて抱え、マルーが口籠もる。惑うようにアグネスの瞳を見つめ、そしてたまりかねたように顔を伏せた。
「嬉しいんだか泣きたいんだか、よく分かんないよ」
「それは……嬉しくて、泣きたいのでしょう?」
 アグネスの言葉が耳に届いても、マルーは顔を上げなかった。目を細めながら、涙が零れそうなみっともない顔を、アグネスに見られるのが恥ずかしかったのだ。
 結局アグネスの望み通りになったような、いや自分が夢見たとおりになったような――飛び上がりたくて仕方がないのに、そうとアグネスに悟られるのが悔しい。
 バルトは二年後、どんな風にして自分の前に現れるのだろう。二年経ったら、本当の本当に『若』とは呼べなくなるほど立派に成長していることだろう。もちろん今でも充分立派に男らしいけれど……。
「ねえ、アグネス」
 伏した顔を少しだけ上げて、マルーは小さく声を出した。アグネスは優しく、その上目遣いのいじらしい青い瞳を、じっと見返す。
「はい?」
「また礼儀作法の勉強、しなおそうかな。ボク、こんなだし……あんまり自信ないから」
「まあ、大丈夫ですよ。マルー様はもう立派な淑女でいらっしゃいますわ。少なくとも、前後不覚になるほどお酒をお召しにならなければ」
「――もうっ!」
 マルーは膨れっ面になって、弾かれたように輿の乗り口に駆け寄って、幌をばっと引き開ける。砂漠の陽光に目を刺され、彼女は反射的に手をかざした。
 とどめきれぬ涙がぼろぼろとこぼれ、そのおとがいから、砂の上へ落ちていく。
 夜明けの砂漠は眩しく、乾いていた。いくつも並んだラクダのこぶのような砂丘の端が、ほのかな風に煽られて削られている。砂漠は未だ、朝の寝起きの微睡みの色彩を残していた。砂漠はまだ目覚めきっておらず、頬に当たる風がさやかにひやりと心地よい。
 ――二年経ったら。
 砂埃の向こうでぼやけかけている、アヴェの双子山の影。幼い頃から見慣れた景色。
 ――ボクはあの山の上で、また昨日みたいな大歓声を受けるんだろうか。夜の風は人々の喜びを巻いて、ボクの耳にまで届けてくれるんだろうか。
 それはまるで夢のようだった。想像のつかない二年後の風景。捕らえどころのない蜃気楼みたいに思えたが、しかしその色彩ははっきりと、美しい朝焼けで輝いていた。薄い雲を数片漂わせ、空一面に薄紫の紗をかけたかのように。
 あの人は必ずやアヴェの民の支えになるだろう。ロニ・ファティマの次に、あるいは比肩する偉大な王として、子々孫々まで語り継がれる人になる。彼自身は、そこまで望んではいないだろうけれど。――バルトは砂漠の紅月になるのだ。真昼の熱波の慰めに、闇の中で輝く月に。彼の情熱と、歩んだ人生と、そして戦場を駆った彼の機神の色になぞらえて。
 できるなら彼のそば近く、彼の物語がまさに目の前で織られてゆく、その瞬間に立ち会いたい――。

 その後、ニサンの再建は苦難を極め、二年の約束を果たすことはかなわなかった。約束よりも更に二年余計に待たされたアヴェの王は、そのために不満だったことなどないかのように、実に晴れがましい顔で花嫁の元へ参じた。
 しかし一方の大教母は、それはそれは落ち着きをなくしていた。その野菊のような可憐な美しさは相変わらず、しゃなりと王を出迎えたまではよかったが、嬉しさと恥ずかしさのあまり、落成した大聖堂のそこかしこを、王が目を回すほど隅々まで披露して回ってしまったというのだ。大教母直々のお披露目はよもや夜を徹すかと思われたが、不調法のあまり気が遠くなりかかった側近達によってどうにかこうにか食い止められ、大聖堂の明かりが落ちたのは夜半過ぎのことであった。
 ニサン民衆の万歳三唱の間を、寝不足顔の王が花嫁に迎える娘を連れ出したのは結局、翌朝のこと。無事砂漠へ輿入れすることとなった大教母は、夫となるべき人の引くラクダの背に乗せられて、ただ目を伏せてうつむくばかりであったが、それは花嫁の恥らいというばかりではなかったろう。
 そうして不屈王バルトロメイは、彼の細君のために四年と一日も待ちぼうけを食ったのだ――というのが、アヴェとニサンでまことしやかに囁かれる、婚礼秘話である。

(了)