砂上に紅月は二度昇る 16

 城壁の向こうから吹き込む風が、未だ冷めやらぬ熱狂に包まれている。低い低い地響きのような唸りに、鳥が甲高く鳴くような音。そしてかんしゃく玉や花火の炸裂するのが、遠く風に乗ってやってきた。祝いの宴はまだまだ続くだろう。マルーは嬉しく目を閉じた。その祝賀の中心にいることが何より嬉しかった。
 寝間着のまま夜中に気軽にうろつけるところがあるのが、ファティマ城のいいところだ。もちろん、あまり長く部屋を離れていると叱られるけれど、ここは監視の目が実によく行き届いている。猫の子一匹通す隙もない。アヴェは平和だった。
 崩壊著しいニサンには、まだ彼女が自由に歩いて行ける場所は少なかった。壊れてしまう前もそこまで好きにできる身分ではなかったが、今はそれ以上に違う。日暮れにほっつき歩いて野盗に狙われても、何の文句も言えない時世だ。隠された宝物――実際にはそんなもの、ほとんど残されていないし、何とか祭具を持ち出そうとした修道女たちはみな逃げ遅れて死んでしまった――を狙って聖堂の窓を割り、錠前を破って盗みに入ろうとする輩は後を立たない。その度に僧兵や自警団が大騒ぎをし、マルーは悪い夢を見て目を覚ますのだ。
 かつてのニサンはそんなではなかった。信仰の国、安らぎの都と唄われたのは、もう遠い過去の出来事かのように思えることもある。
 しかしきっと過去にはならない。きっと前のニサンの姿を取り戻せる。そうに違いない! ……不思議と、アヴェを見ていると不可能ではないような気がしてくる。人間には自ら立ち上がろうとする力が、互いに寄り添い、力を貸し合い、心に受けた傷を乗り越えながら『帰る場所』を作ろうとする本能が、きっと必ずあるのだ。ニサンもいつかまた、人の帰る場所の一つになる――。
 夜風が届けるアヴェの民の歌声に、バルトがこれまで見せてきた不屈の精神が重なって、マルーはつと胸が突き上げられるような思いにかられた。
 バルトが時折吐いた弱音や、物憂げな遠い視線や、苛立ちで所在無かった指先や、夕焼けに焦がされた髪の先は、彼らの喜びで報われただろうか。生まれながらにして重荷を負いつづけ、これからも戦い続けるその苦闘を、彼らは認めてくれるだろうか。
 バルトは今頃どうしているだろう。疲れて眠っているだろうか。何しろもう消灯の刻限を過ぎている……マルーは腰を浮かしかけて、そしてまた水辺に座った。
 眠りを妨げたくはないのに、無性に顔が見たくなった。今日一日、きっと史上最高に男振りの良いバルトを、一番近くでじっくりと眺めて、延々一緒だったはずなのに。
 星空の下、いよいよ冷たい風に首筋を撫でられて、彼女は厚手のショールを掻き抱く。下ろした髪はかすかに風に煽られ、水面もあっけなく乱れてマルーの姿をかき消した。
 水鏡にぐらぐら揺れる自分の輪郭を見つめて、マルーは物憂げに吐息を漏らした。
 会いに行くべきか、やめるべきか。立っては座り座っては立ちを数回繰り返し、結局彼女は、諦めた。夜更けも近いし、マルー自身も明朝早くにニサンに戻らなくてはいけない。第一、夜中に訪れて、何の用だと尋ねらたとき、うまく答えられる自信がない。
 やっぱり戻ろう。そして明日に備えよう――心を決めてついに勢いよく立ち上がったときだった。
「お前、こんなところにいやがって!」
 何というタイミングだろう、バルトが現れたのだから、マルーは目を白黒させた。想い人がちょうどよく躍り出たのだから彼女の小さな胸は少なからず高鳴ったが、一方のバルトは常夜灯を背後に肩を怒らせている。薄明かりを逆光にして険しい雰囲気を放つ姿は、充分威圧的だった。
 それにしても、まさかよりによってバルトに見つかるとは! とっくに休んでいるものだとばかり思い込んでいたから、飛んでくるならアグネスやシグルドやメイソンや、その辺だと踏んでいたのだ。まさか『親玉』が来るなんて。バルトの怒りにやや萎縮しつつ突っ立っていたら、バルトは盛大に溜め息をついてみせた。
「ビビってんのは俺の方だよ。お前ってホント、その放浪癖が直るのいつなんだ?」
 いくら城ン中だからってあちこちプラプラ出歩きやがって。彼は腕組をしてマルーを見下ろす。そういえば前にも、勝手にブレイダブリクに潜入して敵方に捕まったり、安全のためといえ転がり込んだ身で、慣れぬ街をほっつき歩いて銃を突きつけられたっけ――。
「ごめん若。何だか、眠れなくて……」
 マルーは素直に謝るしかなかった。言い訳しようにも言葉がもどかしく舌の上で転がるに過ぎない。
「行きがけの衛兵が一人残らず俺に聞いてくるんだ。噴水にお前がいるけど大丈夫かって」
 城じゅうの衛兵に伝わってそれとなく警戒が進んでいたらしい。迂闊というのか何というのか、全く気づかなかった自分にマルーは驚いた。
「うん……ごめんなさい」
「ホラ、戻るぞ」
 返事も待たずにバルトは踵を返し、慣性を得た三つ編みが肩越しに翻ってひとつ跳ねるのが見えた。バルトの姿はずんずん遠ざかっていく。マルーは前のめりの早足になってその背中を追いかけた。
 バルトは真っ白い夜着の姿をしていた。城内をうろつくには珍しい格好だった。普通は寝間着に着替えてしまったら、一歩足りとも部屋を出ないか、マルーのように一枚羽織るのが行儀というもの。うっかりそのまま出てきてしまったのだろうか? ふと、ちらとも気づかず部屋を出ていくバルトを想像して、マルーはこらえきれずにくすくすと忍び笑いをした。バルトが仏頂面で振り返る。
「……何だよ」
「ううん。ねえ若、寒くないの?」
「寒ぃ。……それ、暖かそうだな」
「シスターがこしらえてくれたの。『あの日』からニサンに戻って最初の年に。信者の人がくれた羊の毛なんだ。ふわふわで気持ちいいよ」
「いいなあ」
 バルトは言いながらまた歩き出し、マルーは肩にかけたショールを撫でて、それに付いた。
「上等ってわけじゃないけど、好きなんだ。復興しようとして一番初めの年の、何にもないのに……わざわざボクにってくれたんだ。本当は売ったり交換したりしたほうが、ずっと良かったはずでしょ? それなのに……嬉しくて」
「……大事なモンだな」
「うん」
 二人は階段を上がり、天守閣に差しかかる。灯篭の火が獣脂から蜜蝋になり、脂の焦げる臭いは蜂蜜のほどける優しい香りに変わった。
 折々にいる兵士達がマルー達に敬礼し、バルトはそれに一つ一つ頷き返し、マルーは静かに微笑みかけた。道のりは短く、部屋に辿り着くまでは、あっという間だった。そら、とバルトが扉を開け、
「ったく、ちゃんと寝ろよ。砂漠でぶっ倒れたって知らねーからな?」
「うん、そうする。……あのね若」
「ん」
 バルトのぶっきらぼうな返事に、マルーは愛しく微笑んだ。王様になっても、そういうところは何にも変わらない!
「ボク、帰りたくなかったのかもしれない。ニサンに……だってニサンに帰ると辛いもの。前の見る影もなくて、ぼろぼろで、皆辛そうで」
 バルトは何も言わなかった。灯篭の薄明かりの中で、口元を引き締めながらじっとマルーを見つめ返している。おぼろな光の中でぬれぬれと輝く、マルーと同じ色の隻眼。それは決してマルーを責める視線ではなかった。ただ言葉の続きを待っていた。
「それで何だか、アヴェが羨ましくなったんだ。いいな、凄いなって……若はいいなあってさ」
「そうか?」
「うん。でもやっぱりボクの帰る場所はニサンなんだね。だって大教母のボクを必要としてくれる人がいるもの。自分を差し置いて羊毛をくれた人みたいに」
「そうだな」
 バルトが静かに肯定し、そして沈黙が落ちた。不規則に揺れる暗い光と、輪郭のぼやけた廊下と、蜜蝋のほのかに甘い香りで、ここはまさに幻想的な空気に満ちている。バルトの緩く巻く金の髪が微かに光り、マルーは目を細めた。二の句の予感にバルトが小首を傾げる。
「噴水でボクを見つけてくれたのが若で良かった」
「――へ?」
「本当は若に会いたかったんだ。多分、不安だったから」
 思いは一息にあふれて水のように流れ出る――そうだ、バルトは頼りたくなる人なのだ。きっと受け止めてくれるから。それをためらわない人だから。
「でも大丈夫だよ、もう安心して帰れる。ボクも若みたいにしっかりしなくちゃ。……じゃあね、おやすみ!」

 マルーが夜着の裾を爽やかに翻して客間に引っ込むのを見て、バルトは驚天動地の思いに駆られていた。ちょっと連れ戻すどさくさに紛れて、別れ際の隙でも見計らいつつ何かの……何か、めいたものをしようと思ったのだが、なんということだろうか……却ってマルーをニサンから引き剥がしにくくしてしまったではないか!
 ――俺の馬鹿野郎。
 彼の微かな呟きを耳にした者は、誰もいない。