砂上に紅月は二度昇る 15

「若、大丈夫ですか?」
 シグルドがそう声をかけると、バルトはようやくはっと我に返ったらしかった。驚いたように目をぱちくりさせ、シグルドの方を振り返る。
「ああ、いたのかシグ」
「入りますと言ったじゃありませんか。入ってよいと許したのも若ですよ」
「そうだっけ。悪ぃ、ぼけっとしてた」
 緩みきっていたバルトの表情筋が緊急稼働していくのを、シグルドはつぶさに観察する。ただ気を抜いていたにしては事が過ぎるように見えるのだった。緊張、ではないような感じがする。むしろ、これはそう……困惑、のような。
「若、もしやフェイ君と何か……?」
「いや。ちっと疲れてるのかもしれねぇ。寝不足だしな」
「それならよろしいのですが」
「おう、すまねぇ」
 よろしいと言いながらシグルドは、その弁が信用ならなかった。遠くを見つめる茫漠とした目が、果たして何もないはずがなかった。ただの疲労とは信じがたい。
 しかしあちらは、シグルドがそんなことを考えているとは感づかないらしい。『普段の顔の仮面を着け終えた』バルトが、平静な声で尋ねる。
「マルーはどうした?」
「シスター・アグネスにこってりと油を絞られておいででした」
 シグルドは話しながら慎重に様子を探りつづける。バルトは笑った。
「はは。ま、しゃーねーな」
「今頃お召し替えの最中でしょう。若もどうぞ、お着替えを」
「ああ」
 今ひとつ張りのない声で応じられ、シグルドは不安を拭い切れなかった。果たしてこのまま一般参賀に挑んでよいものか——思案しながら主とともに衣装室へ赴くと、そこでは召使いたちが準備万端勢揃いしていた。
「バルトロメイ陛下、お早うございます」
「ああ、待たせたな」
 鏡台の前の一脚を勧められ、バルトは使いの引いた椅子に当然とばかり腰かける。
 習慣のように編まれるバルトの三つ編みは彼ら衣裳係の手であっという間に、それなのにごく丁寧に解かれ、繊細に髪をくしけずり始めた。どうせまた同じように編まれるのだろうが、王の身なりを整えるのが彼らの仕事だった。むろんシグルドはそれが無駄とは思わない。バルトは元々、身繕いに気をかけるような性格ではなかった――というのは言い過ぎかも知れない。彼は海賊らしい装いについては飛び抜けてこだわる――から、彼らがいなくなってしまったらどうなることか知れない。
 バルトはただされるに任せ、鏡の中の自分をじっと見つめている。
「そういえばシグ、爺はどうした?」
 バルトが鏡越しに尋ねてくる。はいと頷いたところで、シグルドはふと閃いた。
「フェイ君への土産物を選んでいる最中です。間もなく終わる頃合いかと」
「そうか」
「少し様子を見て参りましょう。卿のことですから、選び兼ねているやもしれません」
 言うとバルトはくっと噴き出し、シグルドに退出を許した。いかにもありえそうなことだったからだ。
 しかし衣裳室を出たシグルドは、メイソンがいる方向とは逆方向へと歩き出した。メイソンは彼の良き細君の助言を得て、とっくに布地を選び終えているから何の心配もない。一番気がかりなのは、主の方なのだ。

 テラスに通じる廊下の一角、自分の出番なわけではないのにそわそわと落ち着かないフェイの肩を叩いてみると、彼は飛び上がって驚き、妻や娘やウヅキ一家の笑いを誘った。
「な……なんだシグルドか。びっくりした」
 シグルドにしてみれば不意を突いたつもりはなかったのだが、よほど脅かしてしまったらしい。鳩が豆鉄砲を食らった顔とはこういうものだろうか。いやすまん、と言いながら、シグルドは切り出す。
「若のことなのだが、」
 と一口めで、フェイは得心したような顔に切り替わる。――やはり。シグルドは確信した。
「向こうで話そう。あいつにとっては大事なことなんだ」
「若くんに何かあったんですか?」
 好奇心に満ちた目でヒュウガが首を突っ込むが、
「大丈夫、何でもないよ」
 フェイは曖昧にそれを遮る。さあ、とにかく。フェイに促されて人を避け、彼らは階段の踊り場までやってきた。
「まったく。先生、意外とああいう話、好きなんだよな」
「自分が何とかできるつもりでいるのは絵的に面白いがな」
「実際はややこしくしてくれるから困るんだ。こないだだって……っていうのはいいか。バルトのことだよな」
 シグルドは事のいきさつを耳に入れた。いずれぶち当たる問題だと思ってはいたが、よりによってこんな時に! フェイに会いたいというバルトの頼みを聞いたのは失敗だったか。考え込むシグルドに、フェイはおずおずと続けた。
「ごめん。俺が無理に問い詰めたようなもんなんだ。聞かないでくれって言われたのに、つい」
「——いや」
 しかしシグルドは、彼の言葉を否定する。
「多分遅かれ早かれ、こうなっていたはずだ。確かにタイミングは悪かったかもしれないが、」
 浅からぬ縁で固く結ばれたバルトとマルー。バルトが彼女をこの上なく大切に、まるで世界に一つしかないもっとも貴重な宝石のように思っているのは、知っていた。当たり前だ——幼い頃にともに死を乗り越えて、寄り添いながら生きてきた。それが深い絆でつながらずにいて、何なのだ。
「けれど何にせよ、君は君の言うべき時に苦言を呈してくれた。それは君たちが友達だからだろう? ……ありがとう、フェイ君」
「いいんだ、別に。俺があいつの力になれたら、俺だって嬉しいし」
 かつて、まだ彼と知り合ったばかりの頃、自らに起きた出来事に押し潰されそうになっていたフェイに、懇願したことがあった。バルトの友達になってほしい、若い君たちにだけ分かる何かを共にしてほしい——あまりに酷な願いと知りながら厚かましくも口にした。後から悔いることもあった。
 だが今のフェイは、晴れ晴れとした笑顔を浮かべている。いつかの沈痛で鬱屈とした、打たれた犬のようだった頃があったなどと想像もできない。
「あのさ、シグルド」
「うん?」
「共有、できてると思うぜ?」
 きみには恐れ入ったよ! シグルドは笑い、フェイはにんまりと笑った。初めて会ったときとは比べ物にならないほど晴れやかに。
 若は本当に良い友人を持った——彼はフェイに深く礼を言って、主の元へと引き返した。

 衣裳室へ戻ってみると使用人たちはすでに退室しており、代わりに大教母の正装をまとったマルーとその世話役アグネスが、バルトと談笑しているところだった。よほど空気が和んでいたらしく、それと分かるほど温和な雰囲気がふんわりと漂っている。シグルドはおや、と思った。思っていたより様子が違う。
「お帰り、シグ。爺は布選びできてた?」
 マルーに微笑みかけられ、シグルドは思わず笑い返す。
「はい、心配ありませんでした。私の取り越し苦労だったようです」
 適当に答える。メイソンは何か問われても、おそらく口裏を合わせてくれるだろう。こんなこと、一度や二度ではなかった。
 そろそろ時間が近づいていることを告げると、二人は相連れ立ち、シグルドに先んじて歩き始めた。いよいよテラスへと向かうのだ! 耳に遠く、アヴェの民衆のざわめきが聞こえる。果たしてその人数のどれほどおびただしいことだろう。バルトは気づいているのだろうか。バルトは悠然と歩き続けている。
 ——余計な思い過ごしだったのか?
 真紅に輝くマントの背中を見つめながら、シグルドは密かに首を傾げた。想像していたよりもずっと切り替えが早い。衣裳室に入った間際の雰囲気といい、とても先ほどまで呆然としていた男だとは思えない。部屋を出るのにふと視線が交わったとき、バルトは余裕の笑みすら浮かべて寄越したのだ。
「シグルド様」
 アグネスが小声でシグルドの袖を引っ張った。シグルドの隣を歩く彼女には、彼の顔が浮かないことに気づいたらしい。
「何事かおありですか、シグルド様」
 今更こぼしたところで仕方ない。シグルドは静かに首を振る。
「いや、大事ない」
 実際、すでに王者の風格を醸し出している(ような気のする)背中を見るにつけ、そんな風にも思えてくる。
 背後でシグルドが難しい顔をしているとも知らず、バルトとマルーはずいずいと歩を進め、ついに喧騒が耳をつんざくテラスまで辿り着いてしまった。緞帳一枚向こうには、アヴェのみならず遠くニサンやキスレブからまで、人々が集まっているという。新王と大教母の揃い踏みを一目見ようというわけだ。むろん緞帳のこちら側には、かつて長旅を伴にした仲間たちが顔を揃え、あるいは緊張の、あるいは期待の面持ちで二人を迎えた。
 大教母に許された淡い黄染めの装束のマルーがつと前に出る――彼女が先に現れ、ついでバルトが彼女の呼び声に応じて姿を見せる。そういう段取りだった。
「じゃ、行ってくるね」
 バルトに、シグルドにアグネスに、そして周囲で見守る仲間たちに、マルーは手を振った。さすが諸人の前に出慣れている大教母、自然な微笑で向き直る。
 衛士がめくりあげる緞帳、光満ちる大テラスに彼女は迷いなく進み、民草の歓声がわっと上がった。拍手、口笛、祝福の言葉の大洪水で、奥のシグルドですら脳を無茶苦茶に揺すぶられ……それが収まってから、大教母の温かみの深い声がスピーカーの電子的なざらつきを伴って聞こえてきた。
「……若、大丈夫ですか?」
「なんてことねーよ。二度目だろ」
「まぁ、確かにそうかもしれません」
 バルトは確かに、以前も王としてテラスに立って民衆の耳目を一身に集めたことがあった。それを勘定に入れるなら、今回は二度目だ。――どうも余計な気を回しすぎかもしれない。シグルドが頬を引っ掻いたところで、横から次々に声が飛んできた。
「緊張しすぎてとちったらダメだぜ、バルト!」
「フェイ、余計なプレッシャーかけちゃいけませんって。そんなことじゃあ上手くいくものも失敗するってものですよ」
「もう、先生ったら! バルトなら平気よ。確かに私たち、ミサイルで撃ち落とされたりしたこともあるけど……でも私たち、期待してるから。ね? バルトロメイへ・い・か!」
「前から思っていたけど、エリィさんって時々、すごく意地悪ですよね」
「辛辣っぷりじゃあなたに敵う気がしないわよ、ビリー」
「そりゃ僕だって、こいつの俺様っぷりは鼻について仕方ないもの。たまにはガツンと言ってやりたくもなりますよ。まったく、少しはシグ兄ちゃんを見習ったらいいのに」
「もう、みんな落ち着いてください! バルトさん、表にはゼファー様もいらっしゃいます。私、とってもとっても、応援してますから!」
 仲間たちが今ひとつ噛み合ってない会話で、順繰りにおかしなことを言ってくるので、バルトは笑いつつ頬を引き攣らせた。誰が思いついた悪戯か知らないが、シグルドは必死で笑いを噛み殺すしかなかった。
「揃いも揃ってお前ら、俺に恨みでもあんのかあ?」
「何言ってるんだよ、お前がガッチガチになってるかもしれないと思って、みんなして心配して……」
「うるさいっ、ワケ分かんねーこと言ってじゃねえっつの! そらみろ、マルーの話が聞けなかったじゃねえか! 終わっちまっただろ!」
「どうせ打ち合わせしてるくせに、ッチュ。わたチュの目はごまかせまチェんよお!」
「だから、マルーの話が聞こえなくても、同じ。ね、バルト」
「あのなあ! 俺が王様らしくビシッと決めて行こうってのにお前らときたら……」
「若、いいですから。まもなくですよ」
「シグ、お前まで! ——ちきしょう見てろよお前ら、目にもの見せてくれるからな。バルト様のカッコ良さにチビったって知らねぇぞ!」
 鼻息荒く右の拳を左手に勢い良く打ち付け、バルトは仲間たちを睥睨した。
 手入れの込んだ緩く巻く金髪は砂漠の微風にひるがえり、額にはめられて輝きをなすのは王者の証の銀の飾り輪。そこに唯一あしらわれた蒼穹のごときブルートパーズがきらりきらめき、バルトの一つきりの碧玉もまた、雄々しい力を帯びて緞帳の向こうを見つめた。——あれほど軽口を叩いた仲間たちが、息を飲むのが分かる。踵を返したバルトが一歩踏み出す。
 衛士が敬礼するのに一つ頷き、ついにバルトがテラスに姿を現す。途端、大爆発と錯覚させるような歓呼、欣快、慶賀、いやもっと魂に単純な『よろこび』——!
 数えきれぬほどの砂漠の砂粒が全身全霊をかけて発する咆哮は、足元を痺れるほどに揺るがした。怒涛の洪水のような巨大な声に、もはや呼吸すらままならない。肺が、喉が、音の大群に圧迫される。口腔に自分のものでない叫びがびりびりと響く。シグルドは一時、己が仕事を忘れた。そこに立っていることがやっとで、五体の感覚もままならない!
 どれくらいそうしていたのか、まったく分からない。気がつくとシグルドは、ちょうど緞帳をくぐったところで立ち尽くしていたのだった。若——若はどこに?
 主はテラスの半ば、傍に大教母を伴いながら半身でこちらを振り向き、忍び笑いをしている。しまった、出遅れた! シグルドは慌てて駆け寄った。あの大音響の中を、彼は平然と進んでいったのか。俺を見て笑ってしまうほどに?
「——よう。海賊の統領が、馬子にも衣装だな」
「リコ! お前までか」
 既にテラスで待っていたリカルドが、にやりと口角を浮かせるのに、バルトは苦笑した。
 亜人ながら総督ジークムントの一粒種、何よりバトリングキングとして名を馳せたこの男は、今やキスレブ帝国の主——いや、彼は国主であることを頑なに拒み、かの破壊の日より杳として行方の知れぬ帝王の総代として、このテラスに立っているのだった。
 かつての荒々しい武闘着ではない。キスレブ帝国軍の幹部にのみ許された、れっきとした軍服。しかし彼の左腕にはめられた二つの、不似合いに武骨な輪、そのいまひとつはかつて自身が囚人であった証、もうひとつは失意のうちに死んでいった彼の仲間を忘れぬためと聞く。砂の海でバルトが見せていた義侠心を数倍に膨れ上がらせたような、寡黙な燻銀の男。それがシグルドの持つ印象だった。
 リカルドはどこまでも義理を通す男と見え、シグルドが直々に彼の元を訪れ戴冠式への招待の意を示すと即座に、戴冠式の日に入っていたすべての予定を取り止めさせた。そして彼は一切の淀みなく、謹んで貴国の招待を申し受けると答え、彼のやり方をよく知っているらしい側近らは顔色一つ変えず、総代の命令を受け入れていた。キスレブ全盛の在りし日の雰囲気漂う、合理性を追求した執務室での、簡潔で率直なやりとりであった。
「お前たちが馬鹿騒ぎしてるのが聞こえただけだ。俺一人何もしないんじゃ、役者が揃わんだろうが?」
「さんざっぱらバカにしてくれやがって、新人歓迎会か何かかあ?」
「フン。——それで、どうだヒヨッコ、この眺めは?」
「望むところさ。だろう、女王?」
 水を向けられ、とこしえの女王ゼファーが柔和な微笑を見せる。なぜかしら胸の奥が切なくなる微笑みは、望まぬながら不死の肉体を持つ永遠の少女、彼女独特のものだった。
 国土であった飛行ブロックが墜落して以来、もはやシェバトは国家としては成り立っていない。今は僅かに残った遺産をまとめて、トランエリアの片隅に慎ましく暮らしていた。――そもそもにしてシェバトは、壊滅する前から取り返せぬほど老いすぎて、すでに立ち上がるほどの体力を持たなかった。
 それがためにゼファーは当初、バルトの戴冠に立ち会うことを丁寧に断った。今や国とも呼べぬつましい集落に過ぎぬこと、五百年前のシェバトの過ちのことを挙げて、アヴェ王の誕生に参列する資格など持たない、と。だが、他ならぬバルトの晴れの日だからとシグルドが懇願すると、彼女は最後には首を縦に振り、こうしてはるばる海を越えてやって来てくれた。
「立派になりましたね。あなたがシェバトにやってきたころ、視野が狭いと叱った日が遠い昔のよう」
「そんなこともあったな。懐かしいや。あれ、結構効いたんだぜ」
「私の方こそ、尊敬するロニの子に、ソラリスと同じじゃないかと疑われて……古傷を嫌ほどえぐられて、夜毎日毎に泣き腫らし、今に涙も枯れようかというほどでした」
 思いも寄らなかったのだろう、ゼファーの思わぬ一撃に、バルトはあんぐりと口を開けて、目を丸くする。
「女王、俺、あんただけは信じてたのに……」
「思わぬスペシャル・ゲストだ。良かったじゃねぇか」
 リカルドが言い添えて、ゼファーは品良くくつくつと笑った。
「さあ、歓迎会はおしまいです。おゆきなさい、バルトロメイ」
「おうよ」
 バルトはシグルドの方を振り返った。シグルドは何も言わず、ただ頷いた。
 いや正確には、何も言えなかったのだ。王者の領域にいる彼に、凡百のシグルドはもはや何を語る言葉も持たない。民の叫びに足がすくんで動けなくなったのが、何よりの証拠ではないか。
 バルトが向き直る。息を飲んで待つ民の方を向きながら、そういえば、と彼は言った。
「マルー、お前は?」
「え?」
「お前だけだぜ、まだ歓迎会に参加してないのは」
「えっ? ええっと」
「ほれ、さん、にー、いち」
「——ボクは若のこと信じてるから、そんなのどうでもいい!」
「了解」
 言ってニッと笑ったバルトの姿は、一拍置くと、王に変じた。どうかするとまだ青臭い、しかし精悍な砂漠焼けの青年の姿はいずこかへと掻き消えた。そこにいるのは揺るぎなき威厳の、誰をも心服させずにおかぬ覇気を放つ若き王者があった。シグルドは震えた。今度は民のせいでではなく、確かに自ずと。あれが本当に、昨日生まれたばかりの王だと?
 焼けて乾いた砂のかおりがする黄金の風が舞い上がり、王の言葉が途切れるごとにそれは巨大な波となって押し寄せ、シグルドの精神は散り散りになってさらわれる。もう彼は自分が立っているのか宙に浮いているのか、分からなくなっていた。