砂上に紅月は二度昇る 13

 酔いと疲労とくちい腹を抱えてようよう舞い戻った私室は、バルトが想像していた様子と少しだけ違っていた。なぜだか酒精に満ちていたのである。今日一日で一年分の酒を飲んだつもりでいたバルトは少なからずむっと眉をひそめた。酒の瓶でも開けっ放しにして出て行っただろうか? いや、大切な式典の前に酒を飲んだ記憶などないし、第一瓶の口を開けたままにしたとして、侍従が気づかぬはずがない。事情に心当たりがなく、ほのかな薄気味悪さがじんわりと胸に広がった。
 思うように力の入らない腕でぐらぐらと明かりを掲げる。棚から転がり落ちた酒瓶が粉微塵に割れているかもしれないと思ったからだ。だがそんなことはなく、光の反射を期待していたバルトの思いは裏切られる。
 酔っ払いすぎて少しおかしくなったのだろうか。酔客ばかりの部屋に何時間と長居していたから、ありもしない匂いを嗅いでいるつもりだったのかもしれない……そんな風に結論を持とうとしたとき、何の気なしに見回した視界の隅に、全く想像の埒外だったものを見つけた。窓にもたれて寝息を立てているマルーである。
「おい……おいマルー、お前一体、こんなところで何してんだよ」
 声をかけながら数回肩を揺さぶってみるも、ううんとか何とかの言葉にならない呻きを少し上げただけで、後は規則的な寝息を立てるばかり。とよく見れば、彼女の手元には空っぽになったワインの瓶と華奢な作りのグラスが無造作に転がっているではないか。あちゃ……バルトは思わず口の中で呟いた。まさか大教母が自分の部屋で酔い潰れているとは!
 どうしたものだろう……なんと説明し難い状況になってしまった。よりにもよってニサン正教の大教母が王の私室で、飲みすぎに飲んで寝こけているのだ。もう少ししつこく揺すってみても、今度は何の反応もない。
 シグルドを呼ぼうか。いや、あれは今マルーよりもよっぽど使えない。爺はもうとっくに夢の中だ。こんな夜更けに年寄りを叩き起こして、尊い体を運び出せとはとてもじゃないが頼めるものか。ああ、こんなことなら昨日、マルーに酒なんか飲ませなきゃ良かった! お前が気に入ったらしいその酒。それは年に十本とない貴重な代物なんだぞ!
 事態に懊悩してしばらくおろおろと辺りばかり見回しまくった末に、バルトはとうとう観念して、従妹をこのままこの部屋に逗留させる決心を固めた。シスター・アグネスが知ったら仰天するだろう。嫁入り前の妙齢の婦人を、男の部屋に寝かせるなんてとんでもない! そんなことを叫ぶアグネスの顔が目に浮かぶ。仕方がない、好きで留め置くわけではないのだ。
 それなのに及び腰ながらもしっかりと抱きかかえたマルーの、わけもないはずの体が、両腕にずっしりと重たく響くのだ。気を抜くとよろけてしまいそうで背筋がひやりと恐ろしくなる。無理がなさそうならマルーの部屋まで連れ戻そうかとも思ったが、こんなことでは階段の一歩目で転げ落ちること間違いない。常なら遠慮なしに飛び込む寝台へ、そろりそろりと近づいた。うっかり力が抜けて床に叩きつけてしまうのを恐れたのだった。
 マルーは体が中に浮いていることなどまるで気づかぬようにくうくうと眠っている。あどけなく愛らしい寝顔は、彼女がまだどこか、己の弱さの源を受け入れきれぬことを示していた。だがやはり、体の成長はいつまでも無理に留めおけぬもの。あるいは半ば受け入れつつあるのだろうか? マルーが本当は女性であるということを。
 男のようななりをして男と同じ成果を挙げたがるマルー。そのいじらしくも叶わぬ努力の数々を、誰よりもよく見てきた。
 かつてふたり幼い虜囚であった頃、自分より一回り以上小さかったマルーを庇って拷問にかけられ鞭打たれた選択が、間違いであったとはこれっぽちも思わない。ただ、しかし……そう、まさかこんな長いことずっと、彼女が罪悪感にかられ続けるとは考えてもみなかったのだ。やさしい叔父さんと叔母さんに連れられてやってきて、会えばいつも一緒に遊んだマルー。本当の兄妹みたいで嬉しくて、夢中になって遊んだのだ。しょっちゅうふたりでいたずらしては、まわりの大人たちを困らせていたっけ。——そう、あの時ふたりはまだ遊び友達だった。ただのバルトとマルーでしかなかった。互いの存在にかけられた意味など知る由もなかった。此方は王に、彼方は教主に。そんなこと、知っている必要だってなかったのだ!
 それでもマルーは王になった。己が国の定めるところによって、たった十二歳でニサンの国を預かる者になった。無論それは今のバルトのような意味の王ではなく、それよりもよほど大きな意味の王——人民への教えの主であった。
 マルーは先達の血を引く娘として、正しくニサン正教の大教母となった。それは彼女自身が最も忌み嫌う『女』の性質を明らかに備えており、本来望んでいる男らしさなどまるで持ち合わせていないもののはずだったが、しかしながらマルーはまだ大教母を続けている。正当な後継者が現れ、然るべき時に至るまで彼女はそうしつづけるはずだ。どれだけ現実と理想に引き裂かれそうになっても、彼女は彼女の役目を全うするに違いない。
 ——マルーは男の俺が羨ましかったかな。そんな風には思ってなかったかな? ふとそんなことを逡巡する。
 よく眠っているマルーの体を静かに横たえる。ささやかな衣擦れの音に目覚めはせぬかと気遣いながら羽毛の布団をかけてやると、マルーは満足そうに微笑んで、布団の端を引っ張った。バルトの口角はついつい苦笑に持ち上がる。……まったくもっていい気なものだ。このまま大人しく眠らせておくのが勿体ないくらい。
 バルトは天蓋からぶら下がる緞帳をぴったりと隙間なく閉じた。互いの領域を明確に分けておくために。
 愛しい娘の安らかな寝息は遠い世界へと隔たり、そそくさと寝間着に着替えた王はいささかげんなりとした様子で長椅子に横になった。脛が半ばぶらぶらと宙に揺れる、眠るに狭すぎる長椅子の寝床——。