砂上に紅月は二度昇る 12

 それからは会食が始まり、マルーはバルトと話すことなどできなかった。そもそも、たくさんの祝福の声に応えるのが精一杯で、食事することもままならない。やがて深夜を迎え、列席者の半分ほどはその場から去った。しかしバルトは積もる話が尽きないのか未だ人に囲まれていて、就寝の挨拶すらはばかられるほどだった。
 ——ボクだって、若と話がしたいのに。
 胸の内でふくれ面をしていたマルーは、バルトを取られてしまったようで、どうにも気にくわない。子供っぽいとは承知しながら、それでも怒りは収まりそうにないのだ。少しアルコールが入ったせいだろうか。
 ——若も若だよ。何もこんな日に、こんな時間まで飲みまくることないじゃない。王様なんだぞ。
 そうやってしばらく恨みがましい視線を送っていたのだが、バルトは会話の華咲くことに夢中のようで、いつまで経ってこちらに気づきそうもない。マルーは溜め息をついて、もう今夜は引き揚げようと諦めた。

 ややあった頃、マルーに割り当てられた客間を不意打ちのごとく尋ねる者がいた。ちょうどマルーはアグネスが出してくれた食事のおかげですっかり飢えを満たして、ベッドでゆったりくつろいでいたので、彼女は慌てて居住まいを正した。
「どうぞ!」
 予想したよりも一拍遅く現れたのは、疲弊しきったシグルドの顔だった。マルーは思わず苦笑いする。
「大丈夫、シグ? こっちに来て座りなよ。少しは休まるよ」
 言ってグラスを手に取り、水差しから水を注いでシグルドに手渡す。助かります、と呟くシグルドの吐息が、かすかにアルコール混じりなのに彼女は気がついた。彼の極端な下戸は有名な話だったが、それでも立場上、グラスを傾けねばならないこともあるし、どれだけ固持しても酒杯を勧める輩はいるものだ。
「ちょっとシグ、本当に大丈夫?」
「舐めた程度ですので、それほどでも……」
 とはいえ、顎が上がってぜいぜいと喘ぐその姿には、どう見ても調子良さそうには思えない。大儀そうに椅子に腰掛けるわ、塩味の水も一気飲みするわ(多分に慣れもあるのだろうが)、彼女ははらはらしながら二杯、三杯と注いでやる。水差しが空になりかけてからようやく、シグルドは人心地ついたらしく、額に浮いた汗を拭いながらふうっと大きく息を吐き出した。
「いや、申し訳ありません……若から言づてを預かって参りまして」
「なあに?」
「今なら見られる。……だそうです」
 聞いた途端、心臓がどくん、と跳ね上がる。マルーはだっと窓辺に駆け寄ったが、しかしここからでは月が見えない。逆方向だ。
「シグ、若の部屋に行っていい!?」
「マルー様でしたら、構いませんが」
 音高く扉を打ち開き、マルーは風のように走り出した。大広間で感じていたとげっぽい気分が一息で吹き飛ぶ、バルトの伝言。まさか気にかけていてくれたなんて。まさか忘れないでいてくれたなんて! 一段飛ばしで階段を駆け上がる大教母に衛士が目を白黒させても、彼女はそんなこと気にも留めなかった。
 少しでも心を通わせたくて。少しでも寄り添いたくて。想いが逸る。翼を生やして飛んでいきたい!
 トップスピードで飛び込んだバルトの私室は、用意していたようにカーテンが開かれたままだった。規則的に波打つ襞の、金糸を織り交ぜた縁飾りの、煌びやかな美しさは、誰にも触れられたことがないかのような端正さで王の部屋の窓を飾り立てている。貴重な絵画のために特別にあつらえた、豪奢な額縁をも思わせる深紅の緞帳は、窓からの風景の優美さを期待させるに充分だった。
 窓辺がほの赤く照らされている。高鳴る胸を押さえようとして、息が止まる。進める足が止まりそうになる。彼女は意を決して窓を開けた。そして見た。
 それは、目も覚めるほど鮮やかな朱。表面のまだら模様は紅に色を変えて、星の少ない夜空に浮かんでいる。絵のように繊細な彩りを添えるのはかすかにかかる乳色の雲。
 バルコニーに出ると微風が耳朶をくすぐり、子細な砂埃が頬に当たるのが分かった。この砂が月を赤く染めているのだと言われても、マルーにはにわかに信じがたく、妖精や神々が気まぐれに塗り替えているのだとしか思えなかった。
 遠目に見える波打つ丘は風に煽られて煙り、あるいはそそり立ち、あるいは削られ、目に見えぬほど緩慢な速度で寄せては返す。星の瞬くようにそよいでいるのは砂漠のささやかな草木たち。苛烈な熱波の責め苦にあってもなお生きることをやめぬ、たとえひと月の慈雨に恵まれなくとも固く耐え天空を仰ぎ続けるいじらしさは、やがて見目麗しい大輪となって報われるのだという。
 昼間の熱に焼けついたからからの砂の香りが、胸一杯に広がる。香りは、風紋の刻まれた砂の丘にひとり立ったときの、得も言われぬもの悲しい気分を思い起こさせた。風と草の国ニサンと違う頑なな角のある匂いは、この国が確かに異国なのだとマルーに知らしめる。それでいてこの風景は、どこかしら思慕の情すら湧き起こるのだった。
 バルトとマルーの血の起こりは、太陽に燃え月に啼くアヴェ砂漠にこそあった。自身に流れる血の一滴はアヴェより生まれ、アヴェの内において輝き、やがてアヴェへと還る……古来より続く砂大河のうちの一粒であることに気づいて、マルーはその偉大さにぞっと体を抱え、目を伏せる。
 ——そうか、若が怖いと思ったのは、あれは誤解だったんだ。
 バルトはあのときすでにきっと、砂漠の一粒であることとファティマの血の濃さに気づいていたに違いない。マルーは彼の気づきを知って、しかし気づきの正体が分からなくて怯えていたのだ。
 本当に恐ろしかったのはいにしえから守られ続けてきた王家の血潮。始祖王ロニの末裔である事実。王になろうとしてもなお堂々と揺るがぬバルトの佇まいにロニの姿を見出して、ロニから続く歴代の王たちの姿を見出して、恐れを——畏怖を抱かずにはいられなかったのだ。
 バルトは王になった。自分はそれを認めた。
 あのとき本当は、バルトに質問をするつもりもありはしなかった。王の位など真っ平御免と、土壇場で逃げ出す従兄でないのは重々承知している。あの強い光を放つ瞳を見れば、明らかだった。それが本人を目の前にしたとき、ほとんど無意識に口を利いてしまった。
 王位が重荷だったのは自分自身なのだ。きっとどこかで、ファティマの血に生まれた者の責任から降りたかったのだ。必ずやり遂げる、だから安心しろ、任せておけ……彼の声で、言葉で、そう言ってほしかったのだ。
 しかしてバルトは彼女の内なる望み通りに宣誓した。
 あの宣誓を聴いたならば、支えなくてはならない。この重圧を少しでも分かち合えるように、彼の手足とならなくてはいけない。彼の誓いに応えなくてはいけないのだ。
 戸棚の中から昨日のワインを少し拝借する。磨き抜かれたワイングラスは、素朴ながらも優美であり、月光を受けて艶やかに輝いた。わずかに口にして飲み込めば、喉を滑り落ちて胃の腑に落ち、ほろほろと燃えた。そのひわやかな熱さはまるで、魂の迸りのよう——この熱さとともに、今日のことを永遠に覚えておこう。そして同じ色のワインを口にしたとき、必ず思い出そう。己の体の中に従兄と同じ血筋を見つけたマルーは、静かに心に決める。おそらく一生涯、この決意を口外することはないだろう。バルトにすら言わない思いになる。言葉にすればきっと果ててしまうから。
 言わなくとも良いのだ。思いを叶えることこそ本懐なのだから……マルーは一人静かに目を閉じた。砂漠の一粒であることを受け入れた。