砂上に紅月は二度昇る 11

 時を知らせる鐘塔が、アヴェの城下に広く鳴り響いた。この日の鐘は、単なる時刻を知らせるものではない。新たなる王が誕生することを知らせる、予告の鐘である。
 鐘の音は、執務室に控えていたバルトロメイ・ファティマの耳にも確かに届いていた。長椅子に深く腰掛けて待っていたバルトロメイは、伏せていた目を、正面の扉へと向けた。
「行くか」
 傍らに控える従者らのためか、あるいは己自身へのためか、王になる男は、呟いた。すでにその装束は王位を受け入れるための物に着替えられている。アヴェの王族にのみ許された緋のガウンには、金糸の太陽と銀糸の川、そのたもとには翠の葉を豊かに茂らせた木が生え、瑠璃の瞳の鳥がその陰で翼を休めていた。アヴェでも指折りのお針子達が丹念に刺繍した華やかな意匠である。
 執務室の扉は自ずから開かれたために、バルトロメイは、廊下から差し込む強い光に目を細めた。
「大変良い天気でございますな」
「ああ、そうだな爺」
「砂漠のアヴェが戴くには絶好の日和でございます」
「——ああ」
 従者シグルド、メイソン、そして最後にバルトロメイが、執務室から姿を現した。廊下はステンドグラス越しの色鮮やかな光で満ち満ちている。彼らは階段を下り、やがて大広間にたどり着いた。
 大広間は新王の誕生を待ちかまえる者達で満ちあふれていた。アヴェの首脳達、砂漠に暮らす古部族の長達、バルトロメイが戦艦を駆っていた頃のクルー。そして、神を打ち倒すために共闘した仲間達——バルトロメイは感慨のために、思わず知らず目を細めた。
 深紅の絨毯の道の先には、象牙色の僧衣を身に纏うマルグレーテが立っている。ふと視線が合い、彼女は微笑んだ。バルトロメイは進み出て、マルグレーテの前に跪き、二人の従者がそれに倣う。これが儀礼の始まる合図だった。
「本日中天の知らせによって、戴冠の儀を執り行います」
 静かにゆっくりと、そして確かな声音で、ニサン正教の大教母は告げた。
「バルトロメイ」
 呼ばれて、彼は顔を上げた。目の前にいるのはどう見ても従妹ではなく、大教母の仮面のマルグレーテだった。——いや、仮面ではない。確かに従妹のマルーなのだろう。ただ自分が、大教母である彼女をよく知らないだけなのかもしれない——バルトはそんな場違いな感想を抱いた。
「古き盟約に従って、ニサンの主マルグレーテが、アヴェ王の御位を授けます——あなたに決意あるならば、この砂を手に取りなさい」
 マルグレーテの左に控えていたシスターが、暁色の紗に包んだ砂の袋を差し出す。バルトロメイは今さら迷わなかった。それを取り、両のたなごころで捧げ持つ。周囲の空気が、新たなる王の誕生を控える一層の緊張で満たされるのが分かった。微粒の電気のようなものが、バルトの背筋にぴりりと走る。
 バルトロメイがしっかりと砂を受けたことを見たマルグレーテは、右に控えるシスター・アグネスから王冠を手に取り、取り決め通りバルトロメイの頭に被せようとして、ふと、止まった。
「バルトロメイ……」
 二度目の呼び声。台本通りではなかった。バルトはやや驚いて、彼女の瞳をまじまじと見る。
「私は、あなたのこれまでの人生がどのように彩られてきたか、とてもよく知っている……これからの人生がどのようになるかも、何となくだけれど、分かる……あなたのこの選択は誇らしい一方で、とてつもなく苦しい。一度は捨てた王位を再びとらねばならないあなたの人生は、始祖ロニ・ファティマに匹敵する苦労を背負うでしょう」
 マルーなのか、マルグレーテなのか。彼は判断しかねて口を挟むことができなかった。自分のことを『私』と呼ぶのにも違和感があった。かすかに光って揺れる、海のような色の彼女の瞳。泣きそうでいて微笑んでいるような、胸にちりちりと痛いその表情。
「それでもなお、この王冠を戴くのですね?」
 彼は思わず自嘲笑いしそうになった。そう、自分は一度王位を捨てた。この国を共和制にしようとして、失敗したのだ。それはどう考えても不可抗力だったが、彼女の問いは、王位を与える者として当然のものかもしれない。マルグレーテは、確かにマルグレーテとしての役割を果たそうとしている。
 しかし、答えは決していた。
「アイオーンとデウスに破壊し尽くされたこの世界は、生まれたての赤ん坊だ」
 唇は迷うことがなかった。一人幾度となく思い悩んだおかげかもしれない。誰にも告白したことのない思いを伝える気恥ずかしさで頬が些か紅潮するのが、自分でも分かる。
「子が自ら立ち上がり、親の手がいらなくなるまで……俺はアヴェのしもべであり続けよう」
 マルグレーテは……いやマルーは、心底ほっとしたような微笑みを見せて、静かに跪き、バルトにしか聞こえないほどの小声で囁いた。
「——分かったよ若」
 役目のための僧服に身を包んだまま、マルーは、王冠を掲げてバルトロメイの頭に乗せる。自分と同じ色の『ファティマの碧玉』がかすかに潤んだのに、バルトは、気がついた。
「これからも若のこと、手助けさせてね」
 そこでようやく、自分は試されていたのかと思い至った。王として、男として、彼女という娘の家族として、人間として、ひとときながらの試練だったのだ。バルトは、胸に溜めていた息を思わずふうっと吐き尽くし、破顔した。軽く重たいこの試練の、なんと従妹らしいことか!

 高らかに、鐘が鳴る。アヴェ王国は再び王を戴き、その砂の一粒にまで、祝福の音は鳴り響いた。