砂上に紅月は二度昇る 09

「二人で話すの、久々だよね」
 マルーが笑みを浮かべながら、大きな扉を潜る。シグルドは何やらの仕事が残っているとかで、一緒に話そうとはしなかった。嘘つけ、とバルトは内心で毒づく。
 本当は何一つ仕事など残ってはいないはずだ——あいつは手際がいいから、必要なものはすべて万端整えているに違いないんだ。それを白々しく、仕事が残ってるだと? バルトにとってみれば余計な気遣いだった。マルーが残念がるのも計算に入れているみたいな態度が、一層気に障る。
「なんかね、すっかりいろいろ考え込んじゃってさ。若が全然違っちゃってたらどうしようかな、とか、そしたら何て声掛けたらいいのかなとか。いろいろ気を揉んだんだよ、これでも」
 幅広のソファに座るように促すと、マルーは素直にぽんと腰掛けた。バルトは背を向けて、戸棚から瓶を一本とグラスを二つ引っ張り出す。
「違っちゃってたらって、何だよ?」
「だってずっと会わなかったじゃない。三年もあったら、若、大人になっちゃうのかな、って。何となく。若って今いくつ?」
「……少しも待てば二十三になるよ」
「でしょ? だから」
 バルトは不満を散らすように、ソファにどっかりと座る。コルクスクリューを無言のままコルクに突き刺す。マルーが心配そうな顔でのぞき込んだ。
「明日の即位式、大丈夫なの?」
「明日に残すまで飲まねぇよ。心配すんな」
 馴れない甘ったるい香りが漂っている。何の香りなのか、バルトは追求したくもなかった——マルーの衣類に焚きしめた香だ。大方アグネスが気を回したのだろうが、どうせマルーは気づいてもいないに違いない。少し変わったいい匂いがする、くらいで。
 香が安物でないことくらい、さしものバルトにも分かる。どういう意味の香りなのかも、何となく分かる。
 このいかにも無垢な従妹を、ニサンの連中が本人も知らないうちに着々と女に仕立て上げているだけでも苛立たしいのに。シグルドが一瞬、何でもないようにこちらをちらりと見やってきたのがなお癪に障る。たとえ頼まれたって手出しするか! 今はそんな気分だった。
「んもう、不真面目なんだから……なーんて」
 マルーがいたずらそうに指で「ちょっとだけね」とやるので、何だよ、とバルトは笑う。
「お前、俺に王位をよこす役目だぜ? せっかくの王冠を頭に載せるつもりで、取り落としたりなんかするなよな」
 ニサン教がニサン正教になってから、アヴェの王位継承者に王位を与える役目を取り持つのは、その大教母というしきたりだった。アヴェの国教がニサン正教なのだから、アヴェ王国はニサン正教の庇護の元にあるのだ。
「そんなことしないよ。こう見えて、ちゃんと練習したんだから。若こそちゃんと、頭下げててよね」
 ぽん。
 何とも小気味よい音がして、ワインの瓶からコルクが抜けた。ほのかな酒精があたりに漂う。マルーが小さな手にグラスを取るので、バルトはそれに中身を注いだ。深みの強く上品な、美しい朱色が零れ落ちる。グラスにわずかに注いだところで、マルーはもういい、と言った。バルトの手から瓶を取って、もう片方のグラスにも注ぐ。マルーのグラスよりも少し多いくらいに。
「はい、じゃあ乾杯ー」
 あまり締まらない一声で、二人はグラスを打ち鳴らした。しばらくはちびちびと、何も言わずにワインをなめていた。
 特別こちらを伺う様子も見せないのに、マルーがこちらを気にかけている風に感じるのは思い違いではない。聡い従妹が何かを察して、目ではないものでバルトを見つめているのだ。——分かってる、何か話せばいいんだろ? ったって、何を? ええと、
「……今晩は、赤くないみたいだ」
 呟いてふと、『思い違いだったら良かったのにな』と、そんな気持ちが脳裏をよぎる——ん、何でだ? 内心首をひねって、グラスを傾ける。
「赤くないって、何が?」
 マルーが『素知らぬ顔で』尋ねる顔を見て……ああ、また……まただ。こいつは……
「手紙に書いたろ、見せてやるって。月のことだよ! 嵐がそんなに長続きしなかったから、砂埃も凪いじまったんだろうな。ほとんど満月なんだぜ? 見応えあると思うんだけどなー。残念だなお前!」

 ——何なんだ。何なんだよ。

 いつもどおりでいられない。どうしても何かに気が急いてしまう。落ち着いて座っていられない。思考がもつれあって却って饒舌になる。従妹が頬を膨らませるのに安心した心持ちになる。そう、それでいい、お前は……——何も気を遣わなくていいんだ!

 そんな風に思い至ったとき、バルトはついに、隠そう隠そうと雑事の向こうに追いやってきた感情に、気づかざるを得なかった。ついに分かってしまった。
 これ以上は、いつもどおりを振る舞い続けるのに精一杯で、彼はよく覚えていない。とにかくマルーが笑ったり怒ったりしているのを、心の端で保たれている冷静な自分が眺めていた。彼女の表情はくるくるとよく変わって、見ていてとても楽しく、面白く、話せば話すだけ違う顔を見せてくれた。彼女の微笑むときの、目元がふっくりと柔らかくなるのがどうもいたく気に入って、とにかく彼女が笑うように、笑うように、そんなことばかり考えていた。
 マルーに上手く話せない日は、バルトにとって初めてのことだった。饒舌すぎて、肝心なことが何も言えなかったから。