砂上に紅月は二度昇る 08

 砂漠の太陽はやがて中天を落ち、宵が星をまたたかせた紗をそっと降ろし始める。
 砂漠の民は夜になってからが本番、祭りはこれからだとでも言うように、あちらこちらの広場で大騒ぎを始めた。露天や演奏はもう一週間以上も前から出ていたはずだが、ニサンの大教母という役者が揃った砂漠の民は、それは嬉々として歌に踊りに酒に料理に、あらゆる表現でその日の幸いを喜んだ。杯は干された途端に酒が注がれ、いつもはご飯のお代わりをねだる子供たちが、もう沢山、とついに音を上げる。太古から脈々と受け継がれてきた楽と舞踊は夜更けまで続き、いくつもの恋と愛を生んだ。
 そんな一人ひとりのささやかな幸福のことなど、マルーはついぞ知りもしなかった。だが、そういった幸福がこの世のどこかで、今このたった一瞬にもやってきていることを、想像することはできた。ファティマ城の懐深く、ファティマの血にしか許されていない王の私室の真下の部屋からも、人々の興奮は風に乗ってやってくる。耳を澄まし、心を落ち着かせ、目を閉じていればすぐに分かる。アヴェの民のさきわいの歌声が聞こえる。砂漠の砂をも震わすように。
 バルトロメイ広場に本格的に露天が開かれ始めたのが、今からちょうど十日前。もう少し坂を下って市に辿り着けば、そこはもう三週間も前に『バルトロメイ様ご即位万歳』の横断幕が掲げられていたという。シグルドが少し誇らしげに語り、マルーも同じような誇らしげな気持ちを覚えた。
 そう、従兄のバルトロメイは誇らしい。まるで砂漠の太陽、砂漠の水、乾季の中の潤いのように、彼は干からびたままの砂漠に命を吹き込んだ。ただ即位するというたった一つの決意のみによって。
 さて、その従兄の部屋にいつ訪れるべきかどうか、マルーは先ほどからずっと機を伺っていた。月を眺めるには大分よい頃合いだが、さすがに即位式の前日とあっては忙しいに決まっている。誘われたからといって、のこのこと行くべきかどうなのか。
 本当はバルトの様子を見てから決めたかった。彼が緊張で硬くなっているなら行ってやって、その緊張をほぐしてやりたい。そうでないなら行かない方がいい。自分の存在そのものが、緊張を煽るかも知れないから……マルーはそう思っていた。
 マルーは部屋着——とは言っても、王城の奥を歩くだけならそのままでも構わないような仕立ての——で、まんじりとベッドの天蓋を見つめ、客室に引っ込んでから延々と考えていた。もちろん答えが出ないのは理解している。本当は、彼にどんな顔をして会いに行けばいいのか分からないだけなのだ。
 三年もずっと会わなかった。どれくらい変わっているだろうか? それともちっとも変わっていないかも? でも、もし見違えるほどになっていたら何て声を掛けよう。もし、びっくりするくらい大人になっていたら。金糸銀糸の刺繍で飾られた王の衣装に身を包み、静かな声で挨拶でもされたら、逆に自分自身が緊張して立ちつくしてしまいそうだ。何しろ彼女の中の彼はまだ、砂漠の暴れ頭領の、日焼けた肌も目に眩しい、あの頃の彼のままなのだから。
 そのうち妄想ばかりしている自分自身の方が恥ずかしいような気がして、マルーは頭を抱えて突っ伏した。何を考えてるんだろう、ボク。いっそ会いに行っちゃえば、それくらい簡単なことないじゃないか!
「……マルーさま? まだお目覚めですか?」
 その声が扉の向こうから聞こえたとき、マルーは渡りに船とばかりに「起きてるよ!」と弾かれるごとく身を起こした。ぐるぐる回るばかりの螺旋の思惟を断ち切ってくれるなら、もはや何者だろうが歓迎したかった。扉は開いた。シグルドだった。
「ひょっとしてお暇でしたでしょう?」
 悪戯そうな微笑みを向けながら、シグルドは首を少し傾けた。
「ボクに何か用事? とっても退屈してたから、何でも歓迎するよ」
 そうでしょう、とシグルドが頷いた。開いた扉にぴたりと背中をつけて、どうぞとばかりに右腕で室外へと促す。
「きっと若にお会いしたいかと思いましたので、お迎えにあがりました……若もちょうどよく暇です」
 相変わらずの厳しい言葉に、マルーは思わず吹き出した。そしてシグルドがどこもかしこもそのままだったので、胸に少しく安堵を抱いた。さりげない優しい気遣い、バルトへの辛口な態度。シグルドは何も変わっていない。
 マルーはシグルドに先導されて、客間からバルトの部屋へのごく短い距離を歩いた。客間の外には、すぐ右手に階段がある。その途中にステンドグラスがはまっていて、そうしてもう一度右を見れば王の部屋……記憶に寸分違わない様子を、マルーは確認した。違うと言えば新しいことだけ。階段の段数が少し減ったろうか、それとも一段ずつが高くなったろうか。すり減りのつやではなく、切り出され磨かれたきらめく石畳。指先に返るはずだった使い込まれた感触も、据え付けたばかりの大理石の手すりにはひんやりと無縁だった。上がり口に立っていた衛士がさっと敬礼して横に引く。シグルドは慇懃に頷く。
 バルトに宛がわれた王の私室は、まず大きな扉から始まっていた。この扉も新しいはずだ。物心ついたころ、エドバルト王に抱かれてこの扉を——いや、この扉とそっくりの扉を、潜り抜けたことがある。扉は重たく頑丈そうな樫でできていて、蔦と花とを配した意匠のそれが、幼心に恐ろしかったのを覚えている。曲がりくねり絡み合う蔦と、毒々しく咲き誇る豊かな花弁。あまりに鮮やかな色彩に、暖かいエドバルトの胸についついしがみついたのを、はっきりと記憶していた。
 それと寸分違わぬ扉が、シグルドの姿越しにあった。こうして見れば蔦は生き生きと伸び、花は太陽に向かってきらきらしくつぼみを綻ばせている。同じ絵のはずなのに、こうも変わって見えるのはなぜだろう。
「さ、どうぞ。きっと首を長くして待っておいでです」
 シグルドが扉から一歩退き、マルーに道を空ける。身を翻すシグルドに、めくるめく懐かしい記憶に翻弄されていたマルーは、ようやくはっと我に返った。
 自ら声を掛けなくてはならない。胸の中の重たいものを知らず吐き出すように、マルーは息を吸って、吐いて、少し目を閉じて、開けてから、扉を叩いた。こんこん、と乾いた音。
「……ねぇ若、暇なんだって?」
 シグルドは思わず吹き出すところを、必死で堪えたようだった。横目で見やると、口元を押さえている。やがてどすどすと足音が聞こえてきたので、マルーは一つ二つ後退した。その後退を量ったかのように扉ががごんと勢いよく開いた。飛び出てきたのは麻の寝間着に長い金の三つ編みを垂らした、浅黒い彼だった。
「てめぇ! 言うに事欠いて暇かだとお!? 人様を暇呼ばわりしやがって!」
「へへへ。だってシグルドが言ってたもんね」
「シグ! また余計なことを……!」
「客観的な事実ですので」
「くそ、お前ら……」
 かくしてアヴェのはちゃめちゃ王子は、マルーのほのかな期待を裏切って颯爽と現れ、三つ子の魂百までとはよく言ったものだと、マルーは胸の内で静かに感心した。