砂上に紅月は二度昇る 07

 マルーのラクダの輿がブレイダブリクの砂を踏んだとき、ああ、と彼女は直感した。
 この砂の一粒ですら、若に通じている。アヴェ全土にまかれた一粒ずつが若の体そのものだ。若の取り仕切っている一切だ——と。灼熱の産む陽炎でたわみ歪む、再建途中の街々。気持ち良いほど真っ直ぐに伸びてゆく道は市街地を抜け、広場を貫き、やがて王城に至る。あの時、大通りなどまるで初めからなかったかのように、アイオーンがずたずたに街を切り裂いてしまったはずなのに、ブレイダブリクは彼女の記憶そっくりの風景をしていた。
 幌のほんの隙間から覗き見る街は、かつて見たそれとはまるで違った。当たり前だ、一度は全て失われたのだから。驚くほど同じだったのは、往来を行き交う人々の瞳だ。まさかその瞳が、三年前には絶望を宿していたとは思えない。あるいは家を建てるための木やら石やら煉瓦やらを担いで人ごみをすり抜け、あるいは露天をのためにつぎはぎの天蓋を広げ、売り文句に声を張り上げた。その正面には品定めする赤子を負ぶった若い女が、お世辞に乗せられまいと笑顔で牽制する。何かの詰まった袋を十も背負ったロバが皺深い顔の壮年の男に引かれて、かと思えば駆ける六人の子供たちがニサンの紋の記された幌を見て、きゃあきゃあと歓声を上げてはしゃぎ回る。その手には、木っ端を削った剣のおもちゃ。振り回されるたびに周囲の大人たちが怒鳴り声を上げるが、子供らは遊びに夢中のようで、ついに頑固親父の鉄拳が飛ぶ。続いて挙がる、わぁんと泣き声。
 一行の輿は先導たちの物々しさによって、ようやく道を切り開くことができた。何しろ人が多すぎる。ごった返し、溢れ返り、その雑多なことと言ったらこれ以上を見たことはない。先導たちが「退け、退くがよい、尊い大教母を乗せた輿であるぞ」と旗印を掲げて声を張り上げれば、その一言はどっと大波のように人々の耳を打って、辺りはたちまち喜びの大洪水に見舞われる。ついにおいでになった、マルグレーテ様! 聖なる大教母様! ありがたい教えの御母よ! ——祝福の声が怒涛のように押し寄せて、ついに耳を塞がずにはいられなくなるほどに。
 多くの人がこの輿の行列の進み行くのを歓迎していた。紙吹雪を、花びらを、清められた塩をまきながら。それでいて大きな人垣を一つ越えれば、通りを一つ曲がれば、奥を覗けば、あの人々の笑いさざめき助け合いながら暮らすことの、なんと生き生きとしたこと!
 陽炎に揺らぐ遠目の王城にかつての荘厳さはなかったが、一体この活気は何だろう。民衆がバルトを王に頂くことを望んでいる証左だ。新たな王が生まれる喜びに満ちた活気だ。
 きっとこの活気を、今まで若たちが育て上げてきたんだ。
 マルーが嬉しくなって微笑をこぼすと、隣のアグネスも同じように微笑んだ。彼女は外を見ていない。だが、人々のざわめきはよくよく聞こえる。きっとアグネスも同じことを思っているに違いなかった。
 ラクダの輿はそんな騒ぎもなんのその、えっちらおっちら、のんびりと城門へ達した。昔からのしきたりに従ってしかじかの手続き——身分を示す紋章の入った旗印を掲げ、朗々と名乗りを上げ、城門を守るアヴェの兵士はそれに答えて、それから、云々——を取り、一行は見守る市民の歓声を背に、衛兵に守られながらテラスの前の広場へと辿り着いた。城壁の向こうの騒ぎは、門が閉められた後でも未だ止まない。マルグレーテ様、バルトロメイ様、御二人とも万歳——もはややけくそのような叫びは轟となって、一行はたまらず耳を塞ぐほどだった。
 城の内門扉を開け放ちながら、熱砂の旅にくたびれきった彼らを笑顔で迎えるものがあった。むろん、かのローレンス卿とハーコート卿である。

「なんと凄い騒ぎだこと! 仰天いたしましたわ」
 まずは手渡されたアヴェ砂漠独特の塩辛さのあるきんと冷たい水を飲んでから、シスター・アグネスは開口一番に嘆息した。多少の歓迎ならばアグネスもすっかり慣れたもの、澄まし顔で挨拶でもするところだが、今回ばかりはすでに予想を越えていた。歓待慣れしたマルーすら驚いているのだから、側近アグネスが目を剥かないはずがない。
「私たちも驚いておりますよ、シスター。全くこんなことになるだなんて、冷や汗ものでもございました……やや、まあともあれ、道中ご無事で何より。具合を悪くされた方などおりませなんだか?」
「ええ、お陰様で。こんなにおめでたい晴れの日ですから、きっと神が特別のご加護を私たちにくだすったのでしょう。皆が皆健康そのもの、何事もなく砂漠を渡ることができました」
「ついこの間まで酷い砂嵐でしたもので、実に気を揉んでおったのです。この悪天候が続くなら、頼まれもしませなんだがお迎えにあがろうか、とも」
「あらまあ、そこまでのお気遣いを……」
 メイソンとアグネスのお喋りは、旅が終わったばかりだというのに立ったまま延々と続きそうに見え、マルーはいささかうんざりとした心持になった。それでなくてもマルーはもうずっと落ち着かない気分でいて、まるでそうだ、輿から降りた後でも、ふわふわ空を飛んでいるよう!
 それは城門が近くに見え始めた頃に沸き立った、「バルトロメイ様!」の一声に始まった。感極まった叫びは次々周りに伝播して、バルトロメイ様! はいくらも経たないうちにマルグレーテ様! と同じくらい大きな歓喜となってマルーを迎えた。バルトロメイとは、この世に二人といないアヴェの主の名前のこと……。
 当たり前のことをふと意識してしまったら、そのそわそわは何だか抑えきれないほどになってしまって、これ以上待たされでもしたら二人のお喋りを品なく遮ってしまいそうだ。マルーはただ、何とか堪えてじっと足元の床石の縞の入り具合や、深紅の絨毯がどれくらい柔らかいのかとか、どうでもいいものに注意を向けていた。本当は大教母なのだから、もっと慎ましくたおやかに微笑みながら、二人の話をじっと見守ってでもいるのが一番、望ましいのだけど。
「……マルー様、お疲れでしょう」
 後ろ手にこそこそ辺りを見回していたら、気の利くシグルドがそっとマルーのそばへやってきて、静かにそう耳打ちした。
「シグ、」
「お部屋はすでに万端整っておりますが、中庭の噴水まで、私と参りましょう。緑と木陰があって、涼しゅうございます。きっと心身が休まりますよ」
「じゃあ……アグネス、ボクはシグとあちらへ」
「あら、あら、まあ、立ち話が過ぎましたかしら。では私たちも荷物を解きにかかりましょう。いつまでもこんなところへ立ちっ放していたのでは——」
 マルーは体を動かせるのが嬉しくて、アグネスの言葉をしまいまで聞いていることができなかった。運動の歓喜を抑えながら、先ゆくシグルドの盛装の背中をせいぜいしゃなりと追いかけるので、それはもう精一杯で。

 二人がアグネスたちをすっかり引き離してしまった頃、シグルドは歩く速度を少し緩めて、水の音がしますね、と言った。確かに、耳に遠く水飛沫の弾ける音が触れる。さわさわと優しい音色は、アヴェにあってはごく希少な、だからこそ格別に心透く音だった。
 角を曲がると乾いた風に乗って水の匂いが優しく二人を包む。途端に視界が開けて、目に飛び込んできた芝生の青々と茂るまぶしさに、マルーは驚いて立ち止まった。
 以前は確か……、ぐるりを花壇で囲んでいて、真ん中に水門へ通じる噴水があっただけのはず。そこは彼女の知る中庭とは違う。この足元の緑の絨毯は、靴裏に当たる葉の感覚がずっと違った。膝に確かに感じるくらい、ぐっと固さがある。砂の海の厳しさに適応した頑丈な芝だ。さぞかし育てにくいに違いなかった。
 高潮するマルーの頬を、水交じりの冷たい風がすらりと撫でた。
「アヴェは一体どうしちゃったの? いつの間に、こんな……」
「皆があなた方を愛しているからですよ」
 何のことはないという様子で微笑むシグルドにマルーが首を傾げると、シグルドは続けて付け足した。
「砂漠にファティマの血が再び通うことは、民にとってそれは嬉しいことなのです。なくてはならないことのように」
 低く深い錆声が、ほとばしる水の弾ける音とともに、マルーの耳朶と心を打った。それは深く深く染み入り、遅れてやってきた現実のようにマルーの心を捉える。
 シグルドに促されるまで、マルーはただ噴水と芝生のまぶしさに、アヴェという国のきらきらしさに打たれてずっとそこにたたずんでいた。乾いた風に、この間まで衣装箱の奥にしまわれていた僧服の裾が、なびいていることにも何も、気づかないまま立っていた。
 アヴェは、確かに息を吹き返した――信じられない早さで回復しつつあるのを、彼女はたった一日で確信した。