砂上に紅月は二度昇る 06

 アヴェ砂漠のからりとした暑さは、かえって好ましいように、マルーには思える。
 ニサンの夏は、アヴェから吹く南風が海峡の湿気を運んで、蒸してしまうことが多いからだ。その蒸し暑さはたちまち部屋の中を侵食して、僧服ではとても過ごす気にはなれないが、その点、アヴェは物陰にさえ潜り込んでしまえばひんやりと心地いい。湿度が極端に低いと、日陰はとても涼しくなるのだ。
 それでもアヴェの苛烈な太陽は、生半可の日除け程度で遮られるものではなかった。尊い大教母を覆い隠す分厚い幌でさえ、光は避けても熱にやすやすと潜り抜けられてしまう。
 一行がニサンを旅立ったのは午後三時ちょうど、海峡を船で越え大陸に足を掛けラクダの輿に乗り換えたのが午後四時少し前だった。アヴェ砂漠の強烈な熱波を避ける目的の日程だが、大体が砂漠の旅が初めての使節団は、みな揃って参ってしまった。
「……暑いね」
 手団扇で何とか暑さを凌ごうとしていたマルーも、とうとうローブも靴も脱ぎ捨てて、はしたないと思いつつもスカートを膝まで捲り上げ、ローブの裾を扇代わりにはたはたとひらめかせた。輿に同乗していた礼儀作法にうるさいシスター・アグネスすら、
「マルー様、おやめください」
 と一言たしなめるだけでそれ以上、何も言わなかった。それほどの熱射である。
 もうひと月も前にアヴェ国王即位の報せが舞い込み、その吉慶を祝うためのニサン使節団——大教母マルグレーテを筆頭としたファティマ王家縁の者達——は、その暑さの中を耐えながら一路ブレイダブリクを目指していた。一行は総勢三十名に上るが、これでも破格と言ってよい。世が世なら新王即位の祝賀に百人規模の使節団を派遣したであろうが、何しろ全てが破壊された貧窮の状況だ。
 人を揃えるだけならまだたやすい。問題は、その人間に費やす資金だ。何せ新たな王が立つその時を祝う一団であるから、文明を失った今となっては普段身に着けるような、野良着と区別もつかないような物を着るわけにはいかない。儀式を引き立てるために贅を尽くした特別の衣装が必要だ。法王府は恥を凌いで人員を最小限にまで削り、また必要経費も信者の心づけによっていくらかを浮かせた。……そんな中でマルーは幌つきの輿に乗っている自分が何だか罪深い人間のような気がしたが、それも相応の役目を負っているからこそだと言い聞かせる。
 削った、浮かせたとは言うものの、実際に目にしてみればその豪勢さは目もくらむほどだった。かつての栄華を思い起こさせる、いや今なお続いているのではないかと錯覚させるほどの宝物の数々を、一行は運搬していたのである。二指分もあるような、膝まで沈みそうな絨毯、立派でなめらかな手触りの真紅の織り布。名工の会心の作であるという紅玻璃の酒盃、金銀真珠をふんだんに用いた、目にもまばゆい精巧な獅子の柄飾りのサーベル……どれもこれも新王誕生の栄華をことさら飾り立て、その栄光子々孫々まで轟き渡るを祈念する、この世に二つとない宝物の数々。この時代にどこから出てきたのか分からない、とてつもなく高価な品々である。
 もしこれらの宝物が、当のバルトの足元に累々と並べられたならばと、マルーは考える。この宝物の多くを目にしたならば、どう思うのだろうか。何しろ名義の上では送り主であるマルーですら、これらを目にした途端にぽかんと口を開けてしまったのだから……あれほど王になるのを渋っていた彼のこと、ひょっとしたらうっかり苦笑いするかもしれない。そのあまりに似つかわしい迂闊さが目に浮かぶようで、マルーは思わずにやにやしてしまう。
「何を笑っておいでですか、マルー様」
 アグネスが横目でちらりと見ながら問いかける。首さえ動かさない鈍重さは、完全に熱波に参っているらしい。
「何でもないよ。そんなことより緊張しちゃうな。ボク、ちゃんとやれるかな?」
「していただかなくては困ります。各国の賓客の前で恥をお晒しになるようでは、バルト様に恥ずかしく思われてしまいますよ」
「それは勘弁だね。今から気持ち作っておかなきゃ」
 マルーは微笑を苦笑に変えて、綺麗に切り整えられた前髪をふっと吹き上げた。

 緊張の原因は、何もバルトの即位という一大行事ばかりではなかった。むしろマルーをこわばらせるのは、彼の最後の手紙に記されていた赤い月の話だ。
 ギアがどうの、砂漠がどうの、海がどうの——それまでのバルトは、マルーにするには荒々しい話題しか持ち出さなかった。バルトの話すことといえばユグドラシルを中心とする様々な戦の、口悪く言えば暴力沙汰の話か、さもなくば当たり障りもない船内の噂話か、冒険の先々で見知った話か――それもまた政治や駆け引きの匂いを多分に含んでいてマルーには難解で、時には不快な有様であった。
 要するに、バルトはマルーの聞きたがる話題はあまり揃えていなかった。なのに即位を控えて唐突に彼は夜空の話をし始めるものだから、慣れない事態に困惑していた。
 あの豪気な従兄が即位という重大な出来事で、心向きが変わり始めていることは分かる。一国の主となり、多くの民草を束ねる大いなる証として砂漠に君臨するのだ。かの始祖王ロニ・ファティマの末裔、乱世を救いしウォン・フェイフォンの無二の友。その彼がアヴェ王バルトロメイ・ファティマとなるのだ。彼は個人の殻を脱ぎ捨てて、砂漠の白い月アヴェ、その象徴となる。
 マルー自身も人心を一手に引き受けるニサン正教の大教母だ。その心痛、これから従兄の身に降りかかる様々な災難、理不尽、哀苦、それらのいかに重いことかを分からないわけがない。
 大教母の地位に封じられて幾年、想像するだに信じられない。ちっぽけな娘ひとりが、彼女自身も数え切れぬほど膨大な人間たちを支えているなどまさか信じられなくなる。
 それを何とか乗り越えようとして、数多捧げられる祈りひとつひとつを余さずこの胸に受け入れようとすると、心の半分が途端に影を帯び始めるのだ。何も言わず、こっそりと夜中に寝床を抜け出し、たった一人誰か心から信頼できる者の手を取り、世も知らぬ平安の地へと逃げ出したくなる。卑屈になる。毛虫ほども無知なくせに神の代理人のような顔をした罪を、白日の下にさらけ出してしまいたい。自分はあなた方と同じ、赤いだけの血潮しか持たないのだと。
 この貧窮の世界で、尊い大教母の地位をうらやむ者も多いだろう。だが一度でも登りつめてしまえば、登りつめた分だけの深い暗闇が、いつでも存在する。
 ——若。
 ——若。あなたの未来が幸せで満ち満ちていますように。あなたがこの愚昧な考えに至りませんように。
 しかしそれすらも偽りの願いであるかもしれないとひとたび疑念が差せば、もう彼女の足元を支えていた唯一の光は無残にも崩じてゆくのだった。