砂上に紅月は二度昇る 05

 僅か三年で政務に耐え得る、王の即位に耐え得る、王政国家の成立に耐え得る施設を成すとは、それだけで驚くに足る事実だ。失ったのは街だけではなかった。何より人には生気が足りなかった。絶望に打ちひしがれていた。
 かつて、雪原の中に叩き落とされたシェバトの残骸の中で、襲撃者の影に怯えながら惨めに隠れ住む人々の表情を見るにつけ、バルトは何度もアヴェのことは諦めた。もう二度とアヴェの再興は成らない、望んでもいけない。この人たちにそれを望むのは、とても酷なことだ……そう思った。
 それでも、アヴェは再びイグニスの砂漠へ舞い戻ってきた。彼らは故郷を忘れられなかったのだ。
 バルトが内心で落成を危ぶんでいた謁見の間すら完成してしまった。しかも陥落以前の王城のものに勝るとも劣らない、絢爛豪華なものであった。
 一体どこからこんな立派なものを捻り出してきたのかと瞠目するものまであった。飾ることは後からいくらでもできる。最低限の施設にせよと決まったはずだが、いざ蓋を開けてみればこれである。そのうえ上げられてきた請求書は僅かに額面が増えただけで、実際と比較すればまったく損をしているとしか思えない。議会を通じて問いただしたが、職人たちから返って来た答えは要約すれば、こうだ。
「ほんの気持ちです」
 気持ちどころの騒ぎじゃ、と言い募ろうとしたが、止めた。
 彼らは新しい国、立ち上がろうとする国に期待をかけているのだ。職人たちは他に王の祝福の手段を知らないのだ。それを無碍に踏みにじってはならない。彼らには報いねばならない——国の主を代行する者として、それが己に課せられた役目だと、深く心に刻んだのだ。

「——終わりましたよ、バルトロメイ様」
 両腕を開いたまま黙していたバルトは、僅かな笑いを含んだその言葉にゆっくりと目蓋を開けた。即位式の衣装のための採寸が終わったのだ。お針子たちは手に手に真紅の上等そうな生地だの、煌く金糸銀糸だのを抱えてこちらを待っていた。
「ああ、ありがとう。よろしく頼む」
 回想の世界から舞い戻ったバルトは、とっさに引き戻された現実に上手く舌が回らなかった。気がつけば彼女らは、すでに巻尺や待ち針を片付けて再びバルトにマントを着せようとしている。決して華やかな女たちとはいわなかったが、王宮に仕える人間独特の空気をすでにまとわせている。ゆったりとした動作やまっすぐに伸びた背筋をしていた。
 考え事でここまで回りを忘れるのは久々だった。慌ててマントを受け取って、身に着ける――とは言ってもそれは豪奢なものでなく、簡易のものに過ぎない。来客なき場合は盛装でなくてもいいというのは、バルト近辺の共通見解であった。元が倹しい砂漠暮らしのせいで、作りがいいと却って落ち着かないのだ。はっきりと険相を見せるメイソンですら、どこか諦めている節がある。
「お時間を頂戴いたしまして、ありがとうございました」
 お針子たちは丁寧に礼を言って微笑むと、そそと退室し、バルトが一人執務室に取り残された。
 仕事が減れば暇が増える。多忙に慣れた体は、まったくこの暇を持て余してしまっていた。何をすればよいのか分からずにうろうろとあちこちを歩き回り、必要もないのに本棚の本を並べ替え、花瓶を一回転させ、テラスの窓を開けて閉め、ようやく諦めて椅子に腰掛けた。拍子に三つ編みがぽんと胸で跳ねた。
 この髪もいつぞやに比べれば大分立派になった。綺麗に手入れをしてくれる侍女が就くようになってから、痛み放題だったものが枝毛一つなくなってしまった。
 バルトはそれまで、枝毛なるものの存在を一切関知していなかったし、そもそも知る由もなかったが、侍女たちが髪に触れるようになってからは多少、詳しくなった。これまでの生活、特に砂漠の海賊暮らしは、髪にとってはこの上なく無体なものであったらしい。
 なるほど鏡を覗いて記憶と比較してみれば、妙な方向に飛び出していることもなく、手櫛も通りやすくて気分がいい。元々酷い癖毛だと思っていたが、存外に素直な髪質になりつつある。だがこれも曰く、戻りつつあるのだとか。
 ついでに昔の写真を引きずり出してみれば、その変貌ぶりに自分でも驚かされた。宮廷暮らしの王子の自分、ユグドラシルに乗艦したての自分、鞭の扱いを覚えた頃の自分、ブリガンディアを手に入れたときの自分——時系列ごとに並べてみると苦笑してしまうほどだ。
 それらはもはや髪質の変化など瑣末なことに過ぎない。体格、顔つき、目の光や手足の運び方、子細に観察すればするほどその変化がよく分かる。最初と最後のものを取り出してみると、幼い自分の手足の細さにぞっとする。そして、やけに節くれ立った自分の手指にふとした感傷を覚えるのだ。
 ——俺は、ずいぶん大人になった。
 人は変わる。変わった当人が驚きを覚えるほどに変わる。そして変わっていく何かを自覚できないから驚く。成長していたとしても、そう信じることはにわかに難しい。思い返してみなければ、己が成長したことなど知らずに生きていくかも分からないのだ。
 バルトはふと、建築中の中庭のことを思い出して立ち上がった。あと少々で完成をみるという中庭は、バルトが最も出来上がりを楽しみにしているものの一つだった。もし落成の暁には、ユグドラシルの蛍光灯で育てていた木を庭に植え替えて、いつか王位を退いた後にその木陰でうとうと午睡を楽しみたいものだと常々考えている。
 だが、即位もしていない王が老後を考えるなどとは、自分でも奇妙で可笑しいもののように感じた。

 バルトは暇が暇なりに政務をこなして、即位式のための儀礼をシグルドに叩き込まれるなどしていた。特に式後に控えた会食のためのマナーには何度辟易したか覚えきれないが、これも王の責務と思って大人しくこなした――そう、彼には珍しく「大人しく」こなした。
 稀に私室で鞭を振り回して侍従長に叱られもしたが、そういう時は素直に引き下がってユグドラシルのハンガーで振り直した。体もたまに動かなければなまってしまうし、何しろ故国の武芸を忘れた王など、当の本人が恥ずかしくてどこにも出られたものではない。
 そのうち即位の一日にのみ着用する衣装が出来上がり、新たな王冠が出来上がり、錫杖が出来上がり、待ちに待った中庭が出来上がって、バルトは自分の木を植えた。
 木はすでに鉢の底から根がはみ出るほどに成長しており、もはや植木鉢は適さないようだった。バルトは喜び勇んでその木を庭の片隅の、日光が直接当たらない場所へ植え直し、日に一度は様子を眺めに行くのが習慣になった。
 果たしてうまくいくだろうかとひやひやしたが、元々頑強な種であるらしい。庭師がきちんと観察し、ときに出会えば水をやらせてくれた上で、近頃はどんな様子か、元々どのような土地にいて、どんな土が合っているのか……など、解説までもしてくれた。もっとも庭の分からないバルトにはあまり役に立たなかったが、危惧するよりは遥かに伸び伸びと生きていることだけは理解できた。

 そうこうしているうちに、即位のその日はやってくる。