砂上に紅月は二度昇る 04

 バルトは羊皮紙に置かれたインクが乾ききったのを確認し、それを丁寧に丸めて筒に収め、口を封蝋で閉じた。ファティマの王バルトロメイの御紋である、当の本人にとってはやたらごてごてとした封蝋——いくらなんだって、こんなのはねぇだろ! と派手好きの彼が影で叫んだ一品——は、押し付けた手を離すたびに己の血筋を強く思い起こさせる。
 まだ柔らかい封蝋の表面に息を吹き掛けてみたいのを我慢しながら、彼は緞帳の隙間から注し始めた薄赤い光に目を移した。夜の闇に差し零す、綾のごとき月光だった。
 その窓辺は、王城の再建にあたってバルトがささやかに我が侭を言い、運良く聞き入れられて据えられた代物だ。そう、以前この執務室には防犯のためからか窓などなかったのだが、切り立った崖にやっと張り出しているような執務室に、窓や露台を据えたところで、誰が侵入できるわけがない。言葉を弄して認めさせた、テラスへ通じる大きな窓だった。
 ——今夜の月も赤い。
 久方振りに対面するであろう従妹マルーは、果たしてこの月に巡り合えるだろうか。
 残された草稿に視線を落としながら、バルトは思う。砂漠の月は砂埃に吹き付けられて大概が赤く染まる。先ごろ吹き荒れた砂嵐は月を塗り上げたが、今日からは小康となるらしい。また月も嵐と同じように、真紅から紅へと緩やかに表情を変えている。
 ——ひょっとすると、見られないかもしれない。
 もしそうだとしたら彼女はひどく可哀相だと、胸に苦いものが落ちた。
「若。若、入りますよ」
 軽いノックと共に渋みのある声が、扉の向こうからバルトを呼んだ。腹心のシグルドだということは、掛けられた声の気安さからもよく分かった。
 ややあってから大きな木の扉はゆっくりと開く。部屋の扉がただの扉であるなら、それは不必要なほど大きかった。だがこの執務室の扉だけは別だ。見つめれば見つめるほど、幼い頃から抱いていた父への畏怖が蘇って来るから不思議なもので、もしかすると父の背と同じ大きさをしているのかもしれない。
 ……ひどく感傷的だった。重たい思考を断つために強く頭を振ると、粗末な木の椅子は耳障りな音を立てて軋んだ。だがシグルドはそ知らぬ顔で靴を鳴らしながら、彼の机のやって来る。
「お時間です。書くものには書いて、読むものは読みましたね?」
「書いて読んで捺しといたよ。……この頃、随分と少なくねぇか?」
 少ない、とは持ち込まれた仕事の量を指してのことである。これまでと比較すれば、気が抜けるほど少ない。
「あれこれと一度に済ませるわけにはいきませんので。周りの都合で減っているのです。一時的なことかと」
 なーるほどね……うんざり、と書いていそうな深い溜め息と共に、バルトは呟いた。
 近頃、城内の何もかもが一つの体制に向かって変貌しつつある。あまりのお祭騒ぎと現実逃避的な雰囲気が、三ヶ月前に堰を切って満ち溢れた。この頃など、完全に浮き足立っているようにしか見えない。
 王として起つこと自体は嫌でもなければ拒むでもなく、この生まれの身の上においては当然の責務であるとバルト自身は思う。だが、この空気ばかりはどうも御免被った。衣装の採寸、儀式の練習、正しい食事の作法——そういった、およそ実務とか遠くかけ離れたことどもに随分時間を取られているのには、我慢ならない。全くそれらは、アヴェ復興に向けて全力を注ごうとするバルトの意欲を殺ごうとするものに他ならない。
 できるなら忘れていたかったことを思い出してしばし眉間を押さえていたが、いつまでもうなだれたところで無駄なことだ。切り替えるように、バルトはそうだと顔を上げる。
「それから、これ。よろしく頼む」
 手に持ったままだった書簡を、シグルドに差し出す。蝋はすっかり熱を放ち切って、その艶々とした白さは今や、受け取り主以外が封を解くことを拒否していた。
「おや、言われなくてもきちんと書きましたね」
 シグルドは意外そうに眉をそびやかしながら、筒を受け取る。半年も前、マルーに手紙の一つくらい出せ、としつこく言い始めたのは他ならぬシグルドであった。以来シグルドとメイソンを筆頭とした側近は、皆々が口を揃えて小言を呟くようになり、それに堪らなくなったバルトが渋々書いた次第である。
「ガキかよ俺は。返事くらい書くよ」
「言われなければ書かなかったでしょうが」
「そりゃ始めの一通は書かなかったけどよ、」
「普通、一年も便りがなければこちらから元気かと問いかけるものです。それを三年もほったらかしにするなど」
「忙しいんだってば」
「数少ない血縁者に、しかもご婦人に、忙しいで済ますものではありません」
「く……もう分かった分かった! いいからとっととそいつを出してきてくれよ! 即位の後に即位前の手紙なんて意味ねえだろうがっ! 野暮な真似させたら承知しねぇぞ!」
 バルトの癇癪にシグルドは耐えかねたように噴き出し、書類の束と書簡を抱えて、肩を震わせながら忍び笑いと共に背を向けた。くそ、とバルトが悪態をつくと、シグルドは全く気にもならないふうに颯爽と退室を告げて、扉は閉められた。
 バルトはぐったりと疲れたように机に突っ伏した。シグルドのからかいが、未だに慣れない執務の緊張を解き解そうと、気遣ってくれてのことだとはよく分かっている。シグルドの口から冗談が飛び出すときは、いつでもそういうときだ。だから責める気は毛頭ない。仕事の終わりを告げるような軽口は、もはや習慣になっていて、バルトにはありがたかった。
 あと一ヶ月。
 あと一ヶ月すれば、自分は怒涛の流れに飲み込まれる。様々なことがあるだろう。目も回るような凄まじい一日が——。緩い月光を目の端で見つめながら、彼は一人溜め息をついた。
 感傷的な思いは月のせいなのかも分からなかった。

 ファティマの王城はかつて、アイオーンの軍勢に掃われて一階から上をすっかり失っていた。今バルトが過ごしている王城は、姿形をそっくりに建築し直されたものだ。
 ブレイダブリク、いやアヴェのみならず地上の、文化を結んでいたあらゆる何もかもは、跡形もなく焼き払われ、打ち壊された。元の姿を取り戻すのには甚だしい難儀を強いられた。
 スレイブジェネレーターがただのがらくたになってしまったのが、一番の損害だった。かつては可能であったろう、ギアでの大規模工事など、今や夢物語だ。再びかつての栄華を見るには、どれほどかかるか知れない。それほど人の文明は千々に切り裂かれてしまった。
 ブレイダブリクで最も酷くやられたのはあの賑やかな商業地区で、人死にも多かった。戦が落ち着いてようやくバルト一行がブレイダブリクに踏み入れたとき、そこは死臭の立ちこめる廃墟だった。
 ひしゃげた野晒しの体がいくつも転がり、野生の犬や鳥がその腐肉をついばんでいるのを見た。親指ほどもある蛆がびっしりと沸いているのを見た。そして白骨化しつつある死体が累々と連なっているのを見て――百戦錬磨の彼らと言えども、言葉を失うより他なかった。耐えられぬ者もあった。
 王城の補修もまた三年かかり、うち半年近くは瓦礫を取り除く作業で精一杯で、諸官の事務室がすっかり整うまでに一年半。執務室が完成したのはごく最近のことである。それまでは政府機能を得るために、辛うじて原型を留めている建物を見つけ出しては次々と徴発していたのだったが、文句を言う者はついに一人も現れなかった。皆、とうに死んでしまったのだろう。
 シャーカーン率いる傀儡政権の打倒以後、暫定政府を仕切っていたハーコート卿、要するにシグルドは、デウスより帰還して直ちにバルトをアヴェの主に押し上げた。民に分かりやすい旗印さえあれば、人心はたちまち一つにまとまる。それはニサンにソフィアの再来として現われたエリィの存在からも容易に想像できる。再起が目的ならば誰でも思い立つ手段だった。
 だからバルトはそれを承諾した。ただ、王政の擁立だけは頑として認めなかった。せめて形だけでも共和制を保っておきたいのは、アヴェ最後の王としての望みであった。暫定政府による一週間の協議が続き、バルトは混乱の最中をアヴェ共和国の首相として起った。
 しかし、それもこの三年で終わる。やはりこの混沌とした世界を、議会によって生き延びようとするのは無理だった。それは本当は誰しもが、王政を拒んだ当のバルトにも分かっていた。あるいは統治される民にとっては、苦痛を強いられた三年だったかもしれない。遅々として這うような三年間、彼らは煮え切らぬ王を恨んだだろうか。
 ご決断を、と問いただされた夜、バルトは静かな自嘲笑いでそうだな、と答えた。もっともこの時、シグルドやメイソンからはバルトの背中しか見えなかったわけで、表情など分かろうはずもない。だが二人の従者は勘の悪い、心の機微の分からない者ではない。亡き父の遺言を必死で守り抜こうとした若き王の無念さは、痛いほどよく分かった。
「もう一度、やるか! ご先祖と違って戦うために国を作ろうってんじゃないんだ、まだ気楽なもんだぜ」
 踵を返してバルトは『いつものように』口角を持ち上げる。だが瞳の色は限りない愁いを帯びているのを、幼少からの彼を知る二人が、見逃すことはなかった。そしてまた二人にとっても、尊敬する先王エドバルトの遺志を覆すことは痛みを伴う。
 微笑を浮かべるバルトに亡き先王の面影を見ながら、シグルドとメイソンははいと首肯した。もう三月も前のことである。