愛の言葉に

「ご先祖様のギア、もう動かないんだね」
 ガンルーム階下の自販機の前、あまり快適な心地ではないソファで、安心したような残念なような、複雑な微笑を浮かべながらマルーは言った。
「先生の説明聞いて諦めたつもりだったのに……なんだか、ね」
 さほど旨いとも思えない紙コップのコーヒーを啜って、バルトは隣で「そうだな」と返事をする。その声がマルーには、いかにも気が抜けたもののように聞こえたらしく、ますます複雑そうな顔になった。彼女は誤魔化すように、右のかかとで左のつま先を打ち始めた。バルトはもう一度コーヒーを啜る。旨くない。
 この惑星の神として君臨し続けたデウスを打ち倒してから、地上のあらゆるスレイブジェネレータは、動かなくなった。ファティマ家が長らく至宝として秘蔵してきたギア——エル・アンドヴァリも、その定めから逃れることはできなかった。
 ギアが動かなくなる日をどれだけ待ち望んだことだろう。彼の乗るような軍事用のギアが、いつか地上から滅んでしまえばいいと何度祈ったことだろう。人の命を奪うものなんか、さっさとなくなってしまえばいいと、呪った日は数知れない。
 それでも共に死線を乗り越えた戦友が『ついに動かなくなった』事実が突きつけられると、胸にぽっかりと穴が開いた気がする。あのギアには、もうエンジンに火が入らないのだ。永遠に。
 あのギアは、あまりにも思い入れが強すぎた。戦いを重ねるごとに、生身の手足そっくりに動くようになり、バルトがそれまで乗りこなしてきたギアとは比べ物にならないほど複雑に動いた。アニマの器を失って動力を無くしたときは青ざめたが、対策として持ち込まれたナノマシン技術は目を見張るほど画期的だった。
 困難を乗り越えるたびに強くなった機体。先祖が大切に守り抜き、あれほどの念願だった至宝、エル・アンドヴァリ。その太陽のごとき深紅の輝きは、とうとう失われた。
「せっかく苦労して手に入れたのに、何だか残念だよね。初めて見たときのこと、忘れられないな」
「あれにはヒヤヒヤしたぜ。二度と思い出したくねえな……」
 ごめんごめん、とマルーは苦笑いしながら頭を掻いた。彼女の足には突き抜けた弾丸の傷跡が、未だ生々しく残っている。マルー自身は勲章のように思っているようだが、バルトは目にする度に胸がちくりと痛む。
「若にとって大事だったみたいに、さ、」
 マルーがぽつりと呟く。
「ボクにとっても……大事だったんだよ、若」
「……何で」
「何でって、それはもちろん……」
 自身の親と同じように、マルーの両親もその至宝を守ろうとしたからだ、と、バルトは勝手に答えを先読みしたが、しかし少しの沈黙があって、マルーはそのまま、ソファから立ち上がる。バルトに背を向けて。
「——秘密」
「なんだそりゃあ?」
 予想外の返答にバルトが呆れると、マルーは再び押し黙ってしまう。緑のリボンが揺れる。
「まだ言える勇気、ないや……へへ、ゴメン」
 マルーの声は笑っていたが、無論バルトにはその表情が分からなかった——ただ、マルーが秘密にしておきたいことの意味が、何とはなしに察しがついてしまって、……だってそうだろ、デウス突入の別れ際にあんな話して、ここでこうして話して、その次は何だってんだ? ああ、こういう時なんて言やいいんだ? 戦って、戦って、戦って……戦うことくらいしか続けてこなかった彼には、こんなときどうすればいいのか分からない。
 ——ずっとそばにいれたらいいなあ、なんて。
 耳の奥にこだまするあのときのマルーの台詞。熱く火照る頬を誤魔化そうとして啜るコーヒーの味は、もはや旨いのか不味いのか、ろくろく区別もつかなくなっていた。

 ギアなんか動かなくなっていいんだ。今はただ……何かを語る言葉だけが、欲しい。

 ——我ながら、なんて現金な願いなんだと、つとため息が出てしまう。しかしそれが、平和の印なのだということにも気づかなかった。平和を知らない彼には、何が平和なのかも——正確に言えば、自分自身の平和が何なのかを、知らなかったから。