優しさがすれ違ってゆく

 そのぬくもりが背中に重たい。
 脱力したマルーの体は、バルトの背中にずっしりと堪えた。苦しそうな浅い吐息が耳元を掠めるたびに、バルトの胸の中に小さな絶望が貯まってゆく。
 応急処置は済んでいる。シタンのエーテルがマルーの傷を癒してくれた。出血もすでにほとんどない。足を撃ち抜かれたマルーは、もう命に別状ないはずだった。
 まさかここまでうろたえる自分がいるとは、バルトは夢にも思っていなかった。初めて戦場に出たときも、初めて人の命を奪ったときも、大したことはなかった。それが、マルーひとり、怪我したくらいで……未だに鳩尾の奥で、体の芯が震えるような感覚が止まらない。あんなにシタンが『平気だ』と重ねて言ってくれたのに、何たるザマだ。
 バルトは怖かった。同時に、遠い昔の痛みを奇妙に懐かしく思い出しもした。己が城の地下牢にマルーと共に投げ込まれ、彼女の小さい体を必死で抱き締めながら庇い続けた記憶が、足元から立ち上る霞のように蘇ってくる。空気の淀んだこの碧玉要塞は、沈鬱な思い出を引きずり出すのに充分だった。
「若、怒ってる」
 ささやかな問いかけがあった。痛みのせいかショックのせいか声にはほとんど抑揚がなく、それが尚更、バルトの背筋を凍えさせる。危険も顧みずギア・バーラーをの元へ走り出したマルーは、幼少の借りを返すつもりだとすぐに察しがついた。
 だからこれは、怒りというよりもなお暗く、それでありながらとめどなく迸る――例えるのなら、漆黒の川。
「怒ってねえよ」
 答えはとてつもなく無情に響いた。内心の恐れを悟られまいとしたのに、それはマルーに怒りの証左として捉えられてしまったかもしれない。バルトはとっさに言葉を連ねた。
「あんまり喋んな。傷に障る」
 その言葉もどこか投げっ放しになって、バルトの試みは無残にも失敗した。感情を隠す才能があまりないことは知っていたが、バルトは今日ほど自分を情けなく感じたことはなかった。
「ごめん」
 マルーの囁きは、明らかにしょげていた。かすかな力を振り絞って、彼女はバルトの背中にしがみついてくる。首筋に触れるマルーの柔らかい頬が、悲しいくらい、ぬるい。
「もう二度としない」
「……分かってる」
 マルーの声の細さはいちいち胸に突き刺さり、まるで深々と矢で射抜かれるかのような衝撃だった。足を進める一歩ごとに脱力していきそうで、マルーを負う腕に一層力がこもる。
 マルーの重たさは、まさに彼女の命の重みに等しく、そのための疲労はせめてもの贖罪だった。早くマルーを地上に返してやりたい。こんなカビ臭い要塞でなく、マルーにはふさわしい場所がある。草原を渡るニサンの優しい風と、雲の切れ間から差す胸を打つ光の柱。血と銃弾と死人の暗い瞳の世界は、華奢な体のマルーには黒すぎる。
 ――いつだかフェイに言ったっけ。こいつを戦に晒したくないと。
 喉の奥から漏れそうになる呻きを隠そうとして、バルトは唇を噛む。いくら仕方のない同行だったとはいえ、いくらとっさの判断とはいえ、マルーは確実に戦闘に巻き込まれ、命を狙われたのだ。もしも後一歩遅かったら。運が悪ければ……どうなっていたか明白だった。大事なマルーはこの時の止まった要塞で、血溜りにぐったりと横たわり、飽きて捨てられた人形のように四肢を投げ出したまま冷たくなっていくのだ。
 俺さえ迂闊でなければ、マルーはこんな目に遭わずに済んだんだ。要塞の天蓋を開くときに、ちょっとでも警戒していたら、シャーカーン共の侵入を許さなかったはずだ! 思考は次第に暗がりへと走り出し、袋小路に追い詰められていく。このままでは良くない、飲み込まれてしまう――そう思った途端、またしてもマルーが口を開いた。
「ねえ若」
「だから黙ってろってお前」
 何回言わせるんだよ。やつ当たりめいた文句を呟くと、信じられない答えが返ってきた。ぞっと血の気が引いた。
「……ボク、カッコよかったでしょ?」
「お前っ! 自分が何言ってんのか分かってるのか!」
 肩口にもたれる茶色の頭を睨みつけ、彼は反射的に叫ぶ。共にいた(ということを半分忘れかけていた)フェイとシタンが、びくりと肩をすくめた。フェイが急に大声出すな、と責める視線を投げかけてきた。
「へへ……若、怒った」
 マルーの声の、その少なからず愉快そうな音色に、バルトの心は今にも沸騰しそうになった。
「やっぱり連れてくるんじゃなかった」
 それはかつてタムズでも口にした台詞だった。なのに今は、意味がまるで違っていた。底冷えするような、這い寄るこの感情は、一体何だろう。呟く声が平板なことに気づいたが、もはやそれを取り繕う余裕がない。感情は渦を巻いたまま止まらない。押し寄せて溢れて飲み込んでいく。バルトの意志を薙ぎ倒して怒涛のごとくさらっていく。
「お前を連れてくるべきじゃなかったんだ」
「……若くん、」
 シタンの静止が耳に入った。だがそれだけだった。
「いくらお前の網膜パターンが必要だからって、無謀だったんだ。ギア入手と同時に首都奪還てのが欲の掻きすぎだった」
 立ち止まり振り向いたフェイの視線が、批難めいた色を帯びる。
「おいバルト、もうよせ」
「今考えれば、別にシグのやつが来てても良かったんだよな? だってあいつは俺の兄貴なんだから、そしたらお前は――」
「バルト、やめろっ!」
 耐えかねたフェイに肩を掴まれ、バルトはようやく口を噤んだ。フェイの焦げ茶の瞳が、沈痛な色でバルトを見つめる。
 バルトの気は全く収まっていない。ニサンに辿り着いたとき、シグルドが自分の身の上を打ち明けなかった時点で、マルーを連れ出す以外に方法がなかったのだ。隻眼のバルトにとって、一族の瞳を唯一無二の鍵にした碧玉要塞は、マルーの助けなくては攻略できなかった。フェイに言われるまでもない。
 それに本当に悪かったのは、マルーではないのだ。マルーを守りきれなかった自分自身が責められるべきなのだ。これ以上マルーを感情の捌け口にしてはいけない。静かに彼女の重たさを受け止めて、どれだけ彼女が大切な存在か、この骨身に味わわせるのが今のバルトの全てなのだ。
「ごめんね、若」
 マルーの謝罪が突き刺さる。自分の器の小ささを目の当たりにしているようで、バルトは叫び出したかった。苦しくて悲しくて辛い。マルーを悲しませる自分の無力が恥ずかしく、恐ろしく、砂漠の砂を飲み干すほうがはるかにましだった。

 消え入りたい。