遠い日の古き暁光

「おいマルー、もう行くぜ」
 バルトが投げかけた声に、彼女は振り返った。その表情は明らかな哀惜の情が滲んでいる。片手には薄汚れて所々ほつれかけた雑巾が一枚。足下には鼠色になってしまった水を湛えたバケツ——部屋は彼女が幼い頃から親しんだ間取りで、今はその面影すらなくがらんどうで、生活感などかけらもなかった。たとえ目をつぶっても自在に歩き回ると思っていたけれど、今はそんな自信を持てない。
 彼らは今、古巣に永遠の別れを告げなくてはならない。
「これから沈める船だってのに、ここまで丁寧に掃除するかあ?」
 バルトは呆れて肩をすくめたが、対してマルーは不本意そうに唇を尖らせた。
「若なら司令室にお別れせずにユグドラを降りられるっていうの?」
「……いいけどよ」
 飛行戦艦ユグドラシル三世はメインエンジンを失い、艦長たるバルトの決定によって、これからアヴェの砂漠に沈められる。それまで機関室で動かしていたスレイブジェネレーターが、デウス破壊によってほとんど充分に機能しなくなったためだ。地上人類を支配していた『造られし神』デウスの損失は、その存在なくしては機能しないあらゆるシステムの停止を招いた。ユグドラシルのメインエンジンは、その一つなのだった。
「——ボク、ずっとこの部屋で若達の無事を祈ってた」
 第二の家と思って暮らしてきた船が、これから永遠に失われる。備え付けの三つのベッドに対して、はじめはひとりぼっちだった。それがいつしか、ブレイダブリクで出会ったチュチュが居着くようになり、ビリーの最愛の妹プリメーラが椅子に腰掛けて足をぶらぶらさせるようになった。ひとりぼっちでなくなった部屋でマルーは、今まで孤独に片づけていた気持ちの様々について二人に打ち明け、また彼女たちの気持ちも受け止め、互いに助け合いながらやってきた。
「そういう心配しなくて良くなるのは嬉しいんだ。でも……」
 時に笑い、泣いて、すれ違い、そしてもう一度向かい合った日々の思い出は、この部屋いっぱいに詰め込まれている、すべての椅子や机や花瓶を取り払って、友人達の声がしない今でも。それが——素朴な宝石のような輝きを封じ込めたこの場所が、熱砂の地下空洞に沈み、もはや誰にも省みられることなく、静かに時の前に膝を折り、地上から降り積もる砂粒の中へ音もなく朽ちていく——。大切な部屋の輪郭はどうしようもなくぐにゃぐにゃに歪んだ。
「寂しいんだ! 二度と帰ってこられない……!」
 絶えきれず涙が溢れて、マルーは雑巾を取り落とししゃくりあげながら顔を覆った。換気が悪くて濁った空気も、近くのギアハンガーから聞こえるやかましい整備の金属音も、そのカタパルトが開いてギアが出撃する絶望めいた発射音も、全部全部、色あせて懐かしく思い出すばかりの古びた写真みたくなってしまうのだ。動かず、聞こえず、触れてもらえない、遠く隔たったものの一つとして埋葬しなくてはならなくなる。
 かすかな戸惑いと遠慮を含んだ逞しい腕が、緩く、ふるえる彼女の背中を支えた。マルーは一瞬身じろぎしたが、普段滅多に見せぬ従兄の優しさに素直にすがった。
 バルトの片方きりの碧眼は今やマルーと同じ悲しみに彩られており、しかしいささか子供っぽい意地っ張りのせいで、泣きそうな自分の顔を見られたくないでいた。……ただそんな理由で彼女に触れるのは男らしくない気がして、一言だけ、呟く。
「この日のこと、ずっと覚えてような」
 その声が思いの外涙声であったことに、慰められたマルーも、バルト自身も、気づけなかった。

 ユグドラシルは今沈む。熱砂の内に。細かい砂の上にこぼれ落ちた涙を供にして、二度と昇らぬ太陽となる。