この身に流れる血は赤い

 めき、という、肉のひしゃげる音を、ボクは一生忘れないと思う。耳にこびりついて離れない、忘れることを許さない生々しい音だった。
 不審に感じて振り向いたら、たった今包帯を巻いてあげた人の右腕が、めりめりと肥大化を始めていた。今思えばウェルスへの変異現象そのものだったけれど、きっとボクは『変異』がどういうものか理解していなかったんだろう。
 大体その男の人は昼前にウェルス化の初期症状を訴えてきた人で、はるばるブレイダブリクからやってきたんだと聞いていた。トーラさんが言ってた『新型のナノマシン治療薬』を今し方飲んでもらったばかりで、その治療薬でたくさんの人が症状を緩和できたから、この人もきっとそうなるんだと信じていた。だからなおさら、それが本格的な変異だってことに結びつかなかった。
 ボクがあっけにとられて突っ立っているうちに、膨張し割ける肉の内側からまた肉が生えてを繰り返し、自分が何を見ているのかとっさに理解できなくて、多分ボクは、傍目にきょとんとした顔だったんだろう。ぼさっとしているうちに、右腕はツタの絡み合ったような信じられない見た目になっていた。
「——バカ野郎ッ!」
 若が大声で叫んで、何かが鋭く空を裂き石畳を強く打ち付けた。それが若の繰り出した鞭であることに気づくまでどれほどかかっただろうか。そんなだから、何がバカなのかも分かるはずなかったし、頭上に変異した腕がボクに狙い澄ましている間も、若、ちょっと静かにしなよ、なんて悠長に思っていた。
 そしてボクの体は横様に吹っ飛ばされていた。
 一瞬霧がかかる視界に何とか目をこらすと、さっきまで遠くにいたはずだった若が、すぐ目の前にいるじゃないか! 振り下ろされた異形の右腕を、鞭の柄でぎりぎりと支えながら。全身をバネにして何とかボクをかばっているけれど、若の両腕は今にも脱力しそうにわなわな震えている。
「……何してる、」
 まるで脅すかのような若の声が、血の巡りの悪いボクの脳みそに響く。やっと事態が尋常ならざることを理解したボクは、恐ろしさに呼吸が止まりかけた。
「グズグズすんなッ、早く行けッ!」
 目の前で天も割れよと吼えながらウェルスに変異していく人と、これから起こる戦いの予感と——足がすくんで無様に転がったまま動けないボクを、シスターと僧兵たちがさっと抱きかかえ、ものすごいスピードで景色が流れていって、気がついたらボクは大聖堂の私室にいた。息が切れている。ということは、ボクも何とか自分の足で走れたのだろうか? あまりに目まぐるしくて何が起きたのかちっとも整理がつかない。
「ねえアグネス? あの人はどうなったの?」
「急激に変異が始まってしまったようです。しばらくは危険です。様子を見なくては、」
「若は怪我をしていない? 誰かトーラさんを呼んでよ。トーラさん、もっと新しいナノマシン治療を開発してるんでしょ。今すぐ必要だよ。あの人はどこにいるの? アグネス!」
「マルー様!」
 思考が駄々漏れになるボクの口。そして、ぱし、と頬に衝撃。アグネスの両手が、ボクの頬を叩くように包んだのだった。アグネスの、普段穏やかな瞳に気丈な炎が灯っている。
「お気をしっかりお持ちなさい! 今マルー様が混乱していてどうします。このようなことは、これからざらにあるのですよ!」
 ボクは言葉に詰まって唇を噛んだ。反論できない。そうだ……大教母のボクが取り乱していてどうするんだ。
「バルト様はきっとご無事です。それはマルー様が一番よくご存じのはず」
 アグネスはボクが本当に小さい子供の頃から、教育係としてずっと面倒を見てくれた、母親みたいな人だ。ママを亡くしたボクを、時には本当の娘のように接してくれたアグネス。たまらなくなって、ボクはアグネスにしがみついた。アグネスの僧衣はかすかに石けんの匂いがして、それがボクを現実に引き戻す。
「ごめん、アグネス……」
「ですから、信じて待ちましょう——さあ、すっかり汚れてしまいましたね。お着替えなさいませ。それから冷たい飲み物でも用意しましょう」
 アグネスの言葉の中に暖かい慈愛を感じて、ボクは感謝して頷いた。

 ボクはこういうとき、一人で祈っていることしかできなかった。ウェルスとなって理性を失ったあの人のために。その人を止めようとする若のために。そしてウェルスになるかも知れない恐怖と戦う人たちのために。
 若が命を賭けて戦っている間、戦う力も何もないボクは、いつもこうして一人でいる。別に自分の無力に酔いたいわけじゃなかった。ただどうしてもボクは……若が羨ましい。どうしてボクは男に生まれなかったのか、悔しくて仕方なくなる。若と一緒に戦って、力になれればいいのに。もっと若を助けてやれる人間に……シグや爺や、フェイやビリーのように、生まれれば良かったのに。
 ボクは女だ。どんなに男ぶってみせたって、女の子にしかなれない。それにニサン正教の大教母だ。みんな大教母のマルグレーテを必要としてる。みんながボクを敬って讃えてくれる。尊い仕事なのは分かってる。だからボクはせめて充分務めを果たせるように、大教母をこなす。そうしていればいつか、大教母の役がすっかり板につくかもしれない。
 ——この祈りは卑しい祈りだ。若にとって大切な人間になりたいから祈っているのも同然だ。でも神様、あの人は小さかったボクを、同じくらい小さかったはずの体で必死に守り通してくれた。鞭打たれまいとしてボクをぎゅっと抱きしめていてくれた。悲鳴も上げず、ぐっと奥歯を噛みしめて、ただ耐えていてくれた。自ら盾になっていてくれた。そうしてボクの体は無傷だった。それをどうしてないがしろにできますか。憧れの思いを抱かずにいられますか。
 あの人、あのウェルスになってしまった人が、理性を取り戻して手を引いてくれることを、ボクはいつの間にか祈っている。若は強い。これまで何度も危ない状況を乗り越えてきた人だ。そんな人がそうそう負けるはずがないんだ。だから……
 でも、一度ウェルスの浸食に心を食われてしまったら、もうほとんど元に戻る見込みがないことも、知っていた。いくら治療ができるとはいえ、ウェルスになってしまったら、ウェルスではない人たちの血と肉が欲しくなってしまうのだ。それでどれだけの人が危険な目に遭ったことか。治療にあたるシスターたちだって、決死の覚悟で、何とか平静を装って微笑もうとしているくらいなんだから。
 今大聖堂は、ひっそり閑としていた。誰もいなかった。足音も衣擦れも、何も聞こえなかった。ときおり吹き込むすきま風が大聖堂に口笛のような音を響かせた。それだけだった。
 見上げる天使像には夕日が差して赤く照らされる。片翼の天使像、男と女を模したその姿は今、心の軋む朱に染まる。緋混じりのステンドグラスの色が床に落ちる。いつかこのステンドグラスの光を、シタン先生は神の降りる道、神に至る道と呼んだっけ。あのときはこんな悲しく輝く道ではなかったけれど。
 ウェルス化が始まってしまった人たちの治療は市街の病院や教会で行っていたけれど、いずれここも開けなくてはいけなくなるだろう。ウェルス化する人は日増しに増えて、トーラさんの治療薬もかつかつだった。
 思考をあちこち吹っ飛ぶままにしていると、背後の扉が耳障りなきしり音を立てて開くのが聞こえた。大聖堂の門扉だ。ボクは振り返った。
「——若! 若じゃないか! 無事なの? 怪我はしてないよね!?」
 逆光に浮かぶ陰が若の者だと、ボクにははっきりと判別できた。マントか何かをすっぽりと被っているけれど、あの堂々とした立ち姿と夕暮れの輝かせる波打つ金髪は、見まがうことのない若のものだ。ボクはいても立ってもいられず走り出した。が、
「……マルー、」
 その低い呟き、ボクは思わず足を止めた。止めたというより、止まった。首を絞められて呻くような苦しい声に思えて、心臓が鷲掴みにされた。
 このとき若は一体どんな顔をしてたんだろうか。若は明らかにきっぱりと顔を上げていた。でも夕焼けを背に立ちつくしている若の表情は、とてもボクからは分からない。揺らいで燃えるように光る金色の髪。その声は……何だかまるで、
「若……泣いてるの」
「あの男の服、アヴェの砂漠風の衣装だった」
「若ねえ、ちょっと——若!」
 一瞬その体が脱力してよろめいたかのように見えた。いや違う、信じられないものを見てるだけだ。確かに若の体から力が抜け、そして中途半端に開いた扉のそばでガツンと鈍い音を立てて、膝を突いた。ボクは慌てて駆け寄って若の体を支えた。とっさにその背中と頭に腕が回る。恥ずかしいとか誰か見てるかもとかなんて全然考えもしなかった。若の頭がボクの肩にもたれ掛かってくる。ちくしょう若のバカ、重たいよ!
「しっかりして若、何があったの」
「あいつ、アヴェの国の男だったのに、助けてやれなかったんだ。覚悟したつもりだったのに、ダメだった……」
 ああそれで、それでこんなに落ち込んでるのか若。若の体、すごく冷たいよ。ひんやりして触っていられない。それに、これは血の臭い。返り血だ。きっとあの人の血を浴びたんだ。鞭がどんな風に人を痛めつけるか、ボクは知ってる。肉が弾けて血が噴き出し、筋肉と骨が丸見えになるほど抉る武器だ。かつて拷問に遭ったとき、さんざん痛めつけられたはずの武器を自らのものにしたのは、その恐怖を乗り越えるためだったはずだ。でもそれが……それが、自分の国の民を殺す武器になるなんて、そんな酷いことってあるもんか! 若の荒い吐息が聞こえる。ぜえぜえと、必死に絶望に抗う呼吸の音。
「若……!」
 いろんな言葉を若にかけてあげたかった。若の心安まる、温かい言葉。若の求めている言葉。思いが解き放たれる言葉をかけてあげたいのに、大教母のときはいくらでもすらすら出てくるはずの言葉が、今はどうしても出てこない。舌が水を吸った海綿みたいに膨れあがって、ちっとも動かない。
 どうしようもなくなって、とにかくもどかしくて、どうしたら若のことを慰めてあげられるかぐちゃぐちゃの頭で考えて、気がついたらボクは若のことをぎゅっと抱き締めていた。若が微かに身じろぐのを感じた。
 ボクらはどれだけそうしていたのだろう。若に密着する腕や胸が、どんどん冷たくなってゆくのを、ボクは静かに受け止めていた。若の受けた返り血が服に染みこむ冷たさだ。この感触はきっと、戦う若をゆっくりと失意の縁へと誘い込んだろう。血を浴びれば浴びるほど助けられなくなっていく焦燥で、若の心を煽ったろう。ボクを拒もうとしない若の、心の傷がどれだけ深いか、手に余るほど分かりすぎて、ボクの腕の力はどんどん強くなっていく。若の呼吸と拍動のペースがはっきりと掴めるほどに。
 やがて若は、言った。気がついたら日はとうに暮れていて、遠目に星が輝いている。
「……もういい。すまない、マルー」
 若がゆっくりとボクの体を引き剥がす。血に染まる服を隠すために羽織っていたのだろうマントは、もはや役目を果たさなくなっていた。かろうじてまだら模様で残るところから、元々深緑色の布地だったと分かる程度のものだった。今はもう、すっかり重い漆黒だ。胸がずきりと痛む。
 開きっぱなしの扉から吹き込んできたひんやり冷たい風に顔を撫でられる。足が地に着かないようなぼうっとした感覚が、剥がれるように引いてゆく。
「柄にもなく自失しちまった。すまない」
 若はまだ感情のこもらない声でそう続けた。ボクは何とか笑おうとする。本当にかすかな微笑の顔で。
「落ち着いた?」
 ボクは聞いたが、若は答えなかった。その代わり何だかばつの悪い子供のような、決まり悪い顔で僕の目を見つめている。
「ん?」
「……何でもない」
「そう?」
「……なんかエルヴィラおばさんみたいだった、と思って」
「ママみたい? ボクが?」
「ガキの頃、祭壇に置いてあった綺麗なグラス割ってさ……」
「ママにしがみついて泣いたんだ?」
「うるせぇなあ。子供のすることだろ」
「許してもらえた?」
「デコをペちっと叩かれて終わったよ。全然痛くなかった」
「アハハ! ママは全然怒らない人だったもんね。みんなに優しかった」
「あの頃の俺、絶対エルヴィラおばさんと結婚すんだって決めてたんだよ。ガキだったなぁ、ホントに」
「そんなにママのこと、好きだったんだ」
「だって綺麗な人だったし……っと」
 若がおもむろにボクを離して、膝を払いつつ立ち上がる。あまりに突然だったからボクは若から視線を離すことができなかったけど、若の一声で理由はすぐに知れた。
「アグネス、着替えとお湯、あるか?」
 反射的に振り向くとアグネスが、ボクらの酷い格好とは対照的に、微笑みを作って立っている。絶対ボクらがくっついてるところを見て、何か勘違いしたんだ!
「いつからそこにいたのアグネス! 何ニヤニヤしてるのさ!」
「いいえ、仲睦まじくて嬉しゅうございますわ。素敵なことです」
「あのねえ! 呑気なこと言うけど、若は大変だったんだから! それにボクと若は……」
「そんなことよりお二人とも、この大聖堂にあるまじき酷い格好ですよ。さあ、こちらへ」
 若の忍び笑いが耳に入ってくる。くそう、笑うなよ若。何でいっつもそうやって笑って見てるだけなのさ。ちょっとは加勢しろよな。
 お二人ともこちらへ。アグネスがきびすを返して浴室まで案内してくれる。聖堂から脇の廊下に差し掛かるとき、若は長い足で僕を追い抜きかけてふと、ボクに囁いた。アグネスには聞こえないような小さな声で、こっそり。
「ありがとうな」
 緩く、少しだけ苦く微笑む口元、軽快な声。疲労の色は隠しきれずはっきりと残っていたけれど、それでも顔つきは大分ましになって、瞳も強い輝きを取り戻していた。——良かった、若。きっともう、心配ない。寝て起きたらいつも通りの若になっているはずだ。ボクはほっと胸をなで下ろして、頷いて応えた。
 それで何となく、分かった。ボクは非力なんかじゃなかったんだってことが。
 これからやってくるはずの怒濤の時代をどう乗り越えればいいのか、ボクが若にしてあげられることは何なのか。嘆くよりも、考えなくちゃいけなかった。だってこんなボクだって、若にありがとうと言ってもらえる。もっとそんな風に言われたい。大教母として失格かも知れない、でも若に頼られると、ボクは嬉しい。紛れもない事実だ。
 若の広い背中が歩く度に左右に揺れる。髪の毛が風になびいてふわふわと踊る。堅い筋肉質の腕にいくつか走る古傷。
 若、もう知っていると思うけれど、ボクはキミの力になりたい。この体を若のために使いたいんだよ。