忘れえぬあの日の記憶

 日の光の輝きの中で見たマルーの笑顔がいつのものだったか、バルトははっきりと覚えている。湖から吹いてくる清々しい風を胸一杯に吸い込んだときの出来事だった。うらうらと春日に萌える目にも眩しい新緑の中のマルーの微笑は、確かにバルトの心に突き刺さった。この苦しくも甘い切ない痛みが恋の感情であることは、時折鈍感と罵られるバルトであっても感づかずにはおれなかった。
 振り払おうとしたり、掻き消そうとしたり、叩き捨ててしまおうと試みても、どうしてもうまくいかない。記憶に刻印されたあの輝きは、がむしゃらに振るわれる排除の拳を力の限りに拒み、阻み、抗い続け、それどころかこちらが全く気づかぬうちに、ひたひたと侵蝕してくるのだ。洗面台で顎から滴を滴らせて見つめた鏡に、湯気上る食事が盛られた白い平皿の縁に、眠りにつこうと足を滑り込ませたシーツの冷ややかさに、ありとあらゆるどこにでも遍在して、あの日の輝きを再現してみせる。バルトが押し殺そうとする恋心を嫌も応もなく突きつける。
 今や目に見える全ての中で呼吸しているそれらについて、理性の切れ端が結論の岸辺に触れたとき、彼は観念して彼女の微笑みの愛しさを認めることにした。打ち消そうとして一人猛然と首を振る自分の姿がまるで道化のようで、これ以上の空回りがもはや馬鹿馬鹿しくなったからだ。その微笑みから逃れようとしたなら、いずれ何もかも捨てて失踪しなければ正気を保てなくなるに違いなかった。
 シスター・アグネスが二人の関係をからかう度に、マルーは噛みつく勢いで嫌がってみせた。それが単なるじゃれあいであっても、本気の抗議であっても、憤慨で頬を膨らませるマルーの横顔はあどけなく、愛しかった。盛夏の空と海の青を混ぜ合わせた鮮やかな碧眼を縁取る濃く長いまつげの一本ずつ、その先端には小さな光の妖精が戯れているようで、マルーが儚く瞬く度に胸から熱の塊がもどかしく転がり落ちてくる。零れぬ涙で頬が濡れる。心臓の疼痛に耐え難く胸を掻きむしる。
 もはや末期か——苦笑いしてバルトはがりがりと頭を掻いた。この理性が感情を御していられるのはいつまでのことだろう。油断すれば思わず顔に出てしまいそうな恋心だ、そう長いこと秘密にはしていられない。あるいは腹心たちなどとっくに気づいているかも知れない。感づいていないふりをしているだけで。
「……何ニヤニヤしてるの、若っ!」
「いや。ほんっとお前ら、仲良しだな〜と思ってよ」
「からかわれてるのっ! 面白がってないで若も何か言ってよ!」
 怒りの矛先が自分に向いてくるのがこんなにも嬉しいことに、バルト自身も信じられない思いでいた。怒りに吊り上がるマルーの柳眉は、幼い頃から考えれば驚くほど美しくすっと滑らかに伸びていた。彼女は気づいていないだけで、女性と呼ばれる美しく柔らかく温かい者たちの一角にいるのだ。
 ——お前が何を思ってたっていいよ。だからもっといろんな顔して見せてほしい。それだけ。