手のひらを硬く繋いで

 旅立つレンマーツォの機影は、ついに青空に解けて見えなくなる。
「大丈夫だよ、きっと帰ってくるさ」
 不安げな表情を隠そうとしないプリメーラに微笑みながらかけた言葉が、本当は自分で自分に向けたものだというのを、マルーは口にしてようやく気がついた。言葉とは不思議なもので、発してみるまでその本質がどこにあるのか分からないときがある。だからプリメーラを励ますまで、自分があまりにも深く恐れているのがちっとも分からなかったのだ。
 言葉はある種の呪いだという事をマルーは知っていた。言葉は感情を伴って魂を縛るから、強い言葉は強い思いと共に、ひわやかな魂を鋼の鎖でがんじがらめに留め置こうとする。口はどんなことでも言えるから、はっきり『必ず帰ってくる』と言ったあの言葉が尚更恐ろしく感じる。だから無意識が不安を押し殺そうとして、余計に自分の首を締めてゆく。背後から暗闇の足音が迫る。
 もし帰って来なかったら——想像もつかない恐ろしい事態。でもそのときはきっと、間もなくマルーたちにも死が訪れるのだろう。どんな死なのかは分からない。穏やかかもしれない。違うかもしれない。空が割れるのだろうか、海が乾くのだろうか? それともニサンのように、アイオーン手ずから根絶やしに来るのだろうか?
 おりしも甲板に冷たい風が吹いて、不安をなお増長させる。マルーのマントを翻し、プリムのストールを舞い上げて、そのとおり、そのとおり、そのとおり……ごうごうと唸りをあげる風がそう呻いているように聞こえて、マルーは知らず眉間に皺を寄せた。風にはかすかな雪が混じり始めている。
 やがて沈黙の落ちるユグドラシルの甲板に、二人はぽつんと残っていた。いたはずの船員たちはもうどこにもいない。寒さに耐えかねたのか引き返してしまったのだろう。どれだけここに立っていたのかすでに日も陰り、体を温める物は何もなかった。ただ強風だけが二人の少女をなぶるばかり。
 ——もし、帰ってこなかったとしても……マルーは追想する。そのときは違うところで、もう一度バルトたちに会えるのだ。始めはバルトも、悔しさに涙を流しているかもしれない。しかしそこは誰にも傷つけられない、ほころばない、彷徨う果てに辿り着く真の安住の地。きっとすぐに笑って暮らせるようになる。そうしたら自分のこの曖昧な気持ちにも決着をつけよう、思っていたことを洗いざらいぶちまけてしまおう。混乱させるかもしれないけれど、でも……
「……マルー」
 握り返す小さな手が、思いのほか暖かなものだと気がついたのは、マルー自身も呆れるほど遅かった——プリム。
 小さくささやくような、子供特有の甘い声。抜けるような肌と髪に目立つ赤い目が、じっとマルーを見つめている。小さな唇が開かれる。
「帰ってくるよ」
 その微笑もうとする頬は、恐ろしさに凍りつきでもしたように震えた。そして瞳の中にはっきりと宿る怯えの色——父も兄もいない。そう、プリムは恐ろしいのだ、本当は恐ろしくて孤独で、たまらないのだ!
「プリム!」
 マルーは勢い込んでプリムの小さな体を抱き寄せた。強風に体温を奪われた冷たい体を、マルーは精一杯抱き締める。あどけない滑らかさに頬ずりしながら、気の迷いを振り切るように精一杯力強く抱き締める。
「そうだ……ボクらが信じてあげないで、他の誰が信じるんだろう? 皆はきっと帰ってくるよ。きっと無事だ——信じてる」
 信じていないということは今や、生きる希望を失うという意味に等しかった。生きるために戦おうとする仲間たちの帰還に自ら絶望をそそいでいたことに、プリムのいじらしい信念に触れるまで、マルーはまるで気づいておらず、自分の不覚に歯噛みした。彼らにはあれほど固く、必ず帰れと約束させたではないか。マルーはきつく目を閉じた。強く強く念じる。死後の世界なんて馬鹿げている、と。
 本当の望みは、再び出会って生きている喜びを分かち合うこと以外に何もない。喜びの中に、バルトへの思いをはっきりと実感したい。心臓の鼓動を確かめたなら、この熱持つ唇で話をしよう。言いたかったことを言おう。顔から火が噴きそうなほど恥ずかしいかもしれない。皆のいい笑いの的になってしまうかもしれない。バルトはきっと大慌てで自分の口を塞ぎにかかるはずだった。
 それでもよかった。伝わらない悲しみに比べたら、素直でいることのためらいなど一瞬で吹き飛ぶに決まっていた。そんな一瞬の気まずさなどどうだっていい。
 信じられなくなったそのときが、ボクらの敗北なんだ——マルーは碧玉の瞳を大きく見開いて、己の敵に立ち向かう。負けてはならない。