目覚めよと呼ぶ声が聞こえ

 フェイの断片的な記憶によれば、ロニ・ファティマはバルトが想像するよりも遥かに気さくな人物であったらしい。曰く、口調は穏やかで物腰は柔らかく、大陸中を渡り歩くキャラバンの隊長を務めていた経験から、人の心をいつの間にか捉えるのが上手い。礼儀正しいが卑屈ではなく、むしろ清々しさを感じさせるのは気質と共に容姿にも恵まれたせいかもしれない、とフェイは言う。
 バルトの思い浮かべるロニ・ファティマといえば、どことなく亡父に似ている気がした。堂々とした身のこなしの、瞳に激しい情熱を篭めた男らしく雄々しい人物が、バルトにとってのロニ・ファティマその人だ。王家の祖としての父権が始祖をそうさせるのはバルト自身もよく分かっていたが、実際を聞かされてみるといまひとつ腑に落ちない。これでもしロニの肖像の一つでも出てきたなら話は違ったろうが、生憎とそんな品があるのをついぞ聞いたことがないし、まず戦の混乱がなお尾を引く世では肖像画など書いていられる暇もないだろうと思う。
 そこをバルトは、ついにシェバトの女王ゼファーと二人きりの場を持つことができた。とはいってもそれは単なる偶然で、雪原アジトの屋上で降り積もる雪を一人切なげに眺めているところを、たまたま見つけただけに過ぎない。
 バルトは階段を音高く上がりきってから、そのほっそりと少女らしい背中を見つけたとき、心底後悔したのだった。こんなに分かりやすく登場したのでは、こっそり引き返すこともならない。そう知った人間でもなし、大体、この女王には会うなり一喝された悔しい記憶がある。何を言おうか視線を迷わせていると、
「あなたの足音はすぐに分かります、バルト」
 ゼファーから静かにそう言った。ゼファーはバルトを振り向かず、ただ真っ白に広がる雪原を向いて。どのような顔をしているのか、その声音からは容易に知ることもできない。
「堂々とした足音……自分に自信があるのですね。ファティマの血の人間は様々生まれましたが、覇気の薄い者はあまり知りません」
「そ、そいつはどうも……」
 抑揚の少ない幼さの残る声はバルトの知らぬ過去に遡って語るので、バルトは何だか妙な心地になりながらともかくも礼を口にした。こういうときにいやに木訥なのは口惜しいが、五百年の女王ゼファーの存在感の前では誰しもそうであることを、バルトはまだ知らなかった。
「メルカバー突撃作戦、このゼファーも見守っておりました。見事でしたね。あなたには自信とたゆまぬ勇気がある。必ずや志を成すことができましょう」
「……でも女王の戦艦は壊しちまった」
「よいのです。どのみち全てが終われば、エクスカリバーは使い物にならなくなります。何より人類の存亡をかける戦に戦艦ひとつ、どうして惜しむことがありましょう?」
「あ、ああ。そうだよな。ありがとう」
 話の接ぎ穂を失ったバルトは、そこに沈黙が満ちるに任せた。表は雪がそっと降り積もり、音もなく降ると思い込んでいた雪が実はごく静かな、小さな音を伴ってやってくることを、バルトはそこで初めて知った。夜の砂漠の丘が、静かに風に削り取られ、一方で高さを増していくような——雪の原はそんな静謐さに満ちていた。
 女王はどんな顔をしてこの原を眺めているのだろう?
 そしてそのまま胸の拍動が雪の音に解け合ってしまうように思われたとき、ついに女王が振り向いた。あまりに出し抜けだったので、バルトは思わず小さく飛び上がった。それを見て、女王が笑う。
「おっ……驚きたくて驚いたわけじゃねぇや。仕方ないだろ」
「そう、私が脅かしてしまいましたね。ごめんなさい、バルト」
 女王は静かにバルトに近寄り、苦笑を微笑に変えながら彼の手を取る。女王の手が動くのに合わせてバルトの視線も腰の横から女王の胸の前へ移動し、女王からすれば彼の手は無闇と無骨で大きく、粗野で野蛮で、次いで妙齢の女性に手を握られた経験のほとんどないバルトの頬に、決して寒さのせいのみならず、さっと朱が混じった。
「もうずっとずっと前に、ロニの手を見せてもらったことがあります」
「へ? ご先祖の……」
「そう。単に戯れのことでしたけれど、使われる男の手というのはこんなにも逞しいものなのかと初めて知りました」
「——盗んだり殺したりしたような手だ。薄汚れてら」
 口にしたところで後悔した。そんなことを言いたかったわけではないのに……だがこの女王の前には、どんな隠し事も許されないように思われた。思いに浮かんだそのままを、包み隠さず話すことが、どこかで心地良いのだ。そして、
「それでも私の手よりもずっと正直です。私はあなたよりもずっと多くのものを奪い取り、殺したのですから……この少女のなりで、幾千も、幾万も、幾億も……」
 何より女王が、己に潔白であろうとする。女王のその態度が人にそうさせるに違いなかった。女王は瞳を上げて、まっすぐにバルトを見つめる。従妹といくつも変わらない風貌でありながら、潤いのある翡翠色の瞳は圧倒的な愁いを帯びていた。その深い年老いた、疲れを沈ませた瞳の色。
「ロニも素直で素敵な手をしていました。あなたは本当に、ロニの正反対のようでいてよく似ている……手つきも眼差しも、ものの考え方も」
「女王、俺——」
「……ええ、もう行きなさい、バルト。ここには過去しかありません。あなたを待っているものがあります」
 女王は不意にバルトの手をやんわりと押し出した。包み込まれていたバルトの両手が突然冷気にさらされ、それは普通に感じられるよりもずっと余計に空冷たかった。女王は何事もなかったかのように笑う。その微笑みは明らかに郷愁に満ち満ちており、物分りの悪いバルトにでも、彼女が過去を懐かしんでいたことがよく分かった。
「あのさ、女王……」
「何でしょう?」
「俺さ、ガキの頃から海賊だったからものをよく知らないんだ」
「ええ」
「シグや爺にもいろいろ教わったけど、歴史ってかったるくて覚えちゃいられなくってさ」
「まあ……なんてこと」
「だからさ、いつか女王の知ってる昔のことをさ、」
「いつでもいらっしゃい。私があなたにできることはそれくらいです」
「うん……ありがとな。んじゃ、」
 バルトは凄まじい決まりの悪さを味わいながら、さっさと女王に背を向けた。女王の瞳にとても耐えられそうにはなく、何よりバルト自身が、自分ごときがロニに匹敵するほど立派な人物であるはずがないと、強く信じていたからである。
 寒風が剥き出しの両腕を切るように撫で付ける。うんざりするほど自分の器が小さいような気がして、バルトは深いため息を落とした。

 かたや——。
 先ほどよりも静かに去ってゆく靴音を聞きながら、ゼファーは笑う。上手い下手の差こそあれ、それにしても相手に優しくしようとするのはよくよく似ているからだ……ゼファーは踵を返して、理由が容易には知れない諦観の自嘲笑いを浮かべた。ロニは優しかった。そして遠く五百年過ぎたあとも、その血は優しい。
 きっとあの少年は——ああ、彼はまだ少年だ——今にきっと素晴らしい男性になるだろう。その片鱗を、ゼファーはしかと見たのだ。