桟橋

 病院に放り込まれたワイヨールは翌朝に目覚めたが、早々に自主退院してずっと冒険者ギルドには顔を出さなかった。
 冒険とか迷宮という言葉の聞こえる場所から逃げた。馬鹿さ加減にうんざりした。
 少なくとも冒険者ギルドを根城にする銀の稲穂団から、逃げ出すことはできた。銀の稲穂団は集まるのが常だ。だから当然強く不審は与えたであろうけれど、ワイヨールとしてはそんなことはもう、どうでもいい。
 今やすべての人間が淵に投げ込む対象だった。きっと食いつこうと思えばばらばらにして、骨の髄までむしゃぶりつける。彼らのささやかな人生を、ワイヨールが望みさえすればそこで無茶苦茶にしてしまえた。検分し、分類し、ホルマリン漬けのように保管しては鑑賞できる。取るに足らぬなら棄てればいい。とにかくそれで渇望がほんの少し満たされる。けれども棚はまだまだ空いていた、あと二、三十年は優に――。
 ワイヨールとて判っている。それがあまりにも人間を逸脱した本性だというのが。
 だが目を閉じても聞こえてくるのだ。耳を塞いでも皮膚が感じた。人間の破廉恥が、ふしだらが、みだりがわしき臭いがする。
 こんなにも大量の元素の奔流にいたことが判ると目眩がし、吐き気を覚え、アパートメントに閉じ籠もった。錠を下ろし鍵をかけ、すべてのカーテンを締め切って、目につく本棚の背表紙をことごとに引っ繰り返して見えなくすると、紙とペンを机の下に押しこんだ。遠い喧騒が煩わしく、鬱々と寝台を離れられず、骨が軋んでも眠って意識を遮断した。
 時折誰かが彼の部屋に訪い、戸を叩く音が聞こえた気がしたが、断然と知らぬふりをして毛布にくるまった。相手が誰であれ『食い物』を見たくなかったし、人間が『食い物』に見える自分を忘れたかった。
 そのまま、うつらうつら眠っていたワイヨールの、何日が経過したであろうか。
 無視を決め込んだはずが度肝を抜いたのは金属質の破裂音だった。暴力があるにしても、破裂は予期していなかった。せいぜい窓を破るくらいのものだと思っていたのに、まるで迷宮で聞くような音に跳ね起きた。つまり銀の稲穂団の誰かだと判った。中でも破壊に抵抗がない非常識が誰なのかも判っている。
 寝間着のまま玄関へ駆けつけてみると、ギノロットが敢えなく開いた戸口にいて、落ちたドアノブと鞘のままの剣とを交互に見返していたのだった。小脇に何かの箱を二つ抱えている。
 呆然としていたら、当たり前に目が合う。
「よー。ドアノブって案外固ェのな。アスカのポンメルへっこんじった。替えなきゃ」
 悪びれもしないギノロットに、ワイヨールはついカッとなった。
「何してるんだよきみは! 犯罪だぞ、判ってるのか!」
「うん、リンクで小突いたら壊れちった。ごめん。……お前ちょっと太った?」
「どうするんだよ。大家にどやされるのは私なんだぞ」
「ごめんってば」
「謝って直るもんじゃないだろ!」
「えと、金ならある。出す。ごめん」
「ブレロみたいなこと言うなっ! くそ……参ったな」
 参ったついでに拒否する気が失せた――わけがなかった。来たからといって迎える気にはまったくならない。此度の感覚の始まりに、ギノロットが関わっていれば尚のこと。
 何やら奇妙な気分でもあった。以前なら暇潰しに話の一つや二つ、聞いてやらぬでもなかったのに、今や椅子も勧めず湯も沸かさず、帰ると言うまで棒立ちを辞すつもりもない――他人の記憶や魂を食い千切って飲み込むのがそんなに気分のいいことだとは、気づきたくなかった。
 だが、ギノロットは特にどうといった風でもなく、ワイヨールの出方をうかがうように立ったままでいる。
 自分のいない間に、いくつかのことが起きたのだろう。ギノロットが何かをするには充分に時間があった。アスカとやらの突剣を初めて見た。上等な革ベルトで吊り下げられて、鞘も柄も見事に光り輝いている逸品に、ギノロットの一方ならぬ入れ込み様が判った。何よりもその鞘にひとつ引かれた、臙脂色の飾り線が印象的だった。ギノロットの臙脂色は、きっと特別な意味がある――。
 こちらのおかしな態度に気がついたのか、ギノロットは先手を打って動き出す。外れたノブを置いてドアを閉じ、カーテンを開けて、台所に目を走らせると手際よく薬缶の支度を始めるではないか。
「ちょっ、勝手に何を」
「台所ちゃんと使ってんのかよ。なんか火の気ねーぞ」
「だから! 何をしてるんだよ、きみは!」
「お茶とか飲ましてほしい」
「犯罪者に出すお茶はない」
「これ、ケーキとお茶っ葉。お茶はレリのお土産。水もらうわ」
 と、かたわらに大小の箱を置き、水瓶から二人分を差し汲んだ。
「そういうことじゃないっつってんだよ!」
「ケーキはめちゃおいしー。俺のおすすめ」
 何を言っても変わらない居直りに言葉もなくして、ワイヨールは立ち尽くした。立ち尽くしているのは始めからでも、自分のアパートで所在ない気持ちにさせられるのは初めてだった。
 いっそ叩き返してやろうかと思ったが、不法侵入に正当防衛する気が起きない。
 あれだけ妄用した印が、今さらになって怖かった。あんなに光らせ撒き散らしていたのに、今となっては自分が怖い。それなのに様々のことに察しがつく。そのケーキをどうやって買ったのか。なぜレリッシュの土産とやらが現れたのか。レリッシュとともにどの道を選んだか。そして何よりも、レリッシュをどうしたのか。
 ギノロットの決断をひとすくいして飲み込んだならばさぞかし――ワイヨールはかぶりを振った。それには、ワイヨールも自身を曝さなくてはならない。醜いいびつな本性を詳らかにする勇気は起こらなかった。
「そんでこのオーブン、どーやって火起こしてんの。マッチとかねーの」
 空っぽになった窯を覗いて、ギノロットが困った顔をする。あまりにも厚い面の皮が頭にきたので、人を馬鹿にするなと言い捨てた。清掃をおこたる怠け者と一緒にしないでほしかった。
「きちんと表に薪はあるだろ。チチンプイプイで何とかしろ」
 裸足の足で踵を返し、せめてもう少し人間らしい格好になろうとして寝室へと引き返した。

 まともな服に着替えて玄関兼居間兼台所に戻ってみると、ギノロットはうまくチチンプイプイができたらしい。赤々と燃える火が薬缶を温めようとしている……ワイヨールは後悔した。他人の印が自分のオーブンに入り込むなど気味が悪い……いや、本音を言えばその印を仔細に調べて、何を込めたものであるのか、目に見え耳に聞こえ鼻に嗅げるまで、皮膚に触れるまで思う存分解体してみたい。もうずっと何も食べていない。なんと惜しいことをしたのだろう。……
 鉄瓶が湯を沸かすまでの間、ギノロットもワイヨールも沈黙していた。ギノロットはスツールに腰かけて燃える火を眺めており、ワイヨールはソファで腕組みしながら、窓から差す光が埃を照らすのを見つめていた。
 ワイヨールは何を話す気も起きない。尋ねたい気は無論あった。あまりにも飢えた自分にうんざりして、時間ばかりがだらしなく伸び切っていく。
 二度と話すのをやめる。二度と印を刻むのをやめる。
 どちらであってもそんな自分が想像できなかった。これまで好き勝手に話し、好き勝手に刻んだ。一切をやめるとどんな人生をもたらすものか、考えたくもない。印を結べぬ自分を許せない。だがもう二度と思うさまルーン・ガルドゥルを叫べない自分がいるのは確かだった。
 身勝手な自分への報いだと、ギノロットの背後でワイヨールは肩を落とした。たまたま備わる蒼然の力を、みだりに用いて痴れた罰を受けていた。迷宮に誘われるがまま印術という秘を弄んだ代償が、己への恐怖と不信だ。
 今や私は人間ではない。魂を食べて生きている、人ならざる人なのだ。
「やっぱり帰れよ、きみ」
「や、ケーキ食うまで帰んねーわ。ホントめちゃおいしーから。あと、いっぱいある」
「はあ?」
 ギノロットの言うところによれば、なんと九切れもケーキを買ってきたというではないか。何ゆえにそれほど買ったというのだ。火を見るより明らかではないか。考えるまでもないではないか。しかも、奇数個! 最後の一つをどうするかで揉めるのが目に見えている。
「全部おいしそーだったんだもん」
「だからって全部買うやつがあるかよ。馬鹿じゃないの」
「生クリームと果物のてんこ盛りだったんだ! 食わねーと後悔すんぞ」
 言ってうきうきと開けた箱からは、ギノロットの選によるケーキが確かに九つ、間違いなく九つも覗く。ワイヨールは「最低」と呻いた。
 自分の城をいじくり回されるのは腹が立つばかりなので、皿とフォークを支度しにかかると、ギノロットが隣で「甘いモンは何があってもうまい」などと勝ち誇った顔をするので、馬鹿馬鹿しくなったワイヨールは閉口した。
 しかし馬鹿馬鹿しい末にも薬缶とは火にかかればいずれ沸くもので、口から淡く湯気が登り始め、やがてカンカン鳴るほどになり、ワイヨールは清潔な布巾で取っ手を掴み、茶葉の入ったポットに注いだ。茶葉はほぐれて、冴え冴えとした香りが広がる。同時に紅でない、黄緑色が湯に溶け広がるのを見て取った。
「面白いよな。緑だからりょくちゃって言うんだって、レリが言ってた。なんか丸い味する」
「……知ってる。彼女の故郷は産地だ。最北の。タルシスじゃ高級品だよ」
 湯がすべて注がれてポットが閉じられると、ギノロットは出し抜けに口を開いた。
「俺、海に首飾り、捨てに行こーかと思って」
 ぎくりとなった。ギノロットの首飾りが何を意味するものなのかワイヨールは知っている。信じられない言葉に耳を疑って、この日初めてギノロットの顔をしかと見た。切れ長で濃い灰色の目をしていた。ワイヨールの胸に不審がさした。
「どうして。もう『彼女』はいらないのかよ」
 答えを言いよどむギノロットを、ワイヨールは腹立ち紛れに見つめた。ギノロットの首筋に常に下げられていたサメの歯が、今はない。途中で外したというのではない。思い返せば、来たときにはすでになかったのだ。
「分からない……ただ、今はレリがいてくれる」
「彼女の代わりにか」
「……たぶん、ほとんどそう」
 ぬけぬけと答えるのにワイヨールは絶句した。あれほど嫌がっていた『代わりの女』を作ろうというのか――するとギノロットもそれを察したらしい。切れ長の目は逸らされる。
「けど……あいつは十一人目になりたいんだ。そんで俺も、ホントはそーなってほしい」
 伏し目がちに話すギノロットは、ふとポケットに手を突っ込んで何か取り出して、握った砂を垂らすように卓の上に置いた。ちらりと一瞬輝いたのは、いずれの石だったのだろう? そこにあったのか、とワイヨールはつぶやく。
 血の首飾りは、静かに光る。相変わらず手入れが行き届いていて、四つの石のどれも損なわれていなければ、革紐もなめらかに美しかった。
 血を通じてワイヨールへ押し寄せてきたものも、今やワイヨールの裡にあった。あれは一番無茶苦茶で断片的で、分別も解釈もままならない。が、傍証になるものは様々に見てきている。例えばギノロットの几帳面は、海の時代からのものだったのだ。さもなくば生き延びることができないから――まるで世界樹の迷宮を相手取るように。
「これ見てると、いろんなこと考える。けどもう、たくさんなんだ。だから海に返しに行きたい」
「どこの海に」
「生まれた海に」
「行けるものかよ、『道さえ覚えてない』くせに」
 投げつけると、ギノロットは打たれたみたいな顔をした。ワイヨールはとっくに知っている。この男は、この数年のことをまともに覚えていないのだ。あまりにも受け止めがたい苦痛の日々を覚えていられず、思い出すことも滿足でないのだ。
 しかし、
「……行かなくちゃ。レリは始末をつけた。次は俺の番なんだ」
 言って、あとは黙りこくった。
 レリッシュのことについては何も判らなかった。ギノロットが語るべきではないのもさりながら、結局は悲劇であったのだと、何とはなしに察せられた。レリッシュと父がうまくいっていないことは、ワイヨールも聞いている。だがレリッシュはやはり、自分の人生に立ち向かったのだ。
 ――始めどこか軟弱に見えたあの少女が、自らくびきを払おうとして、その道を選んだのだ。そしてそういうレリッシュの隣にいると、ギノロットは決めたのだ。
 おれの喉から手が出るほど欲しいものを、お前は二度も手に入れたというのか――突き落とされた気持ちにさせられ、今度はワイヨールが目を逸らした。
 飲むには濃くなりすぎた緑茶をカップに注いで、九つの災厄に立ち向かう。それぞれ別種のケーキであることだけは救いと言えた。まずはギノロットの一推し、生クリームとフルーツのスポンジケーキ。透明な糖蜜のかけられた賽の目の果物は、宝石のようにきらきら光っている。一口運んで、頭に浮かんだ言葉をなるべく人間らしく発した。
「……あまい」
「な? いけるよな」
「あと七つもあると思うと、うまいとは言えない」
「えー。俺とお前で四つ半が食えねーと思ってなかったし……」
 ワイヨールの空腹が印術によるものだとは、銀の稲穂団でも周知の事実である。ワイヨールは鼻を鳴らした。
「あれからも私が印術を使ってたんだとしたら、大した図太い神経だと思われてたんだな」
「ごめんって」
「日頃の行いだし、別に――今は誰にも優しくされたくない」
 とケーキに噛みついた。ギノロットの言う通り、臍を曲げていても甘いものは何とはなしに口へ運べるものだった。
「海に捨てて、それでどうするのさ。却って忘れられなくなるんじゃないの」
「そーかもしんない。でも、隣にいてくれるんだ。望んで」
 男二人が黙々と甘味に取りつく時間は続いた。チョコレートクリームのバナナタルトときたら、甘くどくって腹が立つほどだった。一口食べてどう考えても足りなかったので、ワイヨールは再び薬缶を火にかける。オーブンの火は燃え残っていた。薪を組み直して息を吹きかけてやるだけで済んだ。
「きみの甘いもの好きは、まったくどうかしてるな。私が音を上げるってよっぽどだぜ」
 ギノロットはきょとんとなって、かすかに笑った。
「甘いもん食ってると、なんか、生き返る感じがする」
「生き返る?」
「きっと……生きてる感じで満たされたい、俺。『それ』は、生きてない」
 顎で首飾りをしゃくってみせた。テーブルの上へ転がされた姿に、ワイヨールは何か哀れなものさえ感じた。死んだ、殺された、喪われた契約の形だった。
 パンプキンムースのケーキは程々の甘さで、緑茶が抽出し終わるまでは我慢できたし、レモンジャムのケーキがあったのはギノロットなりに考えた選択なのだろう。多少はさっぱりと食べられた。
 さて、満を持した最後の一つは、ピスタチオクリームのケーキである。
「高くてビビっていっこしか買えなかった……」
「……なるほど」
 首をすくめて小さくなるギノロットの姿に、ワイヨールはうっかり吹き出した。
 ギノロットの金銭感覚についてはさておき、その小作りな緑色のケーキがかなり値の張る品であろうことは、ひと目で判った。角の多いケーキは概ね高いものだと、相場が決まっている。
 ギノロットが戦々恐々ケーキを半分に分け、ワイヨールもともに頬張った。甘みで舌が鈍りかけていて、美味いのか不味いのか、まともには判らなかったが、取り敢えず緑茶の渋みが丁度よかった。
 飲みすぎで腹がたぷたぷと水っぽくなったころ、ギノロットはおもむろに「そんじゃ、帰るわ」と立ち上がった。
「……説教とかはないんだな」
「今さら俺になんか言われてーことあるわけ」
「ない」
「だろ」
「あ。二度とケーキを九つも買って来るな。ドアを壊すのもだ!」
「それは反省してる。ベルンドに修理よこせるか、頼んでみる」
 そして戸口に立ってから、ギノロットはふと思い出したように、ベルトに下がった街行き用のポーチを開いて、何かをワイヨールの目の前に差し出した。
「寮の女にもらったって、マドカから」
 一通の手紙であった。飾り気のない封筒に、ワイヨールは覚えがある。
「俺の説教。手紙の返事ちゃんと書け。心配してるって言ってた。……ブレロが雷かましに来んぞ」
「それは嫌だ」
「あと、豚の焼いたの食わしてほしい」
 じゃーな、と剣を鳴らしてギノロットが去り、ワイヨール一人きりの部屋には茶葉の香りと、薄っぺらい手紙が一通残された。壊れたドアも。
 差出人は見ずとも判っている。細く長く続いている、顔も名前も知らぬマドカの寮友を、『ネームレス』と、ワイヨールは内心でそう呼んでいる。返事を書かずに放置していたわけはない。ただぼつぼつとやり取りを続けて、今はむしろワイヨールが返事を待つ側だった。
 当然読まずにこのまま残り火にくべても構わない。手紙一枚燃やす程度、造作もない。
 だがどうしてもできなかったのは、幼いころに姉たちから叩き込まれた数多の常識のおかげかもしれない――ネームレスはワイヨールよりも、少しばかり歳嵩のようだ。年上と聞くとどこか逆らえないものを感じるのは、もはや習性だろうか。
 冷たい指ではさみを取って静かに封を切り、いつも一葉きりの便箋を引き抜いた。もっとたくさんのことが書かれていればよかったのに、と寂しくなった。