シルヴン 2

 しとどな汗の感覚さえ失いかけていた。目の前のものさえよく見えず、四肢は痺れるように痛む。しかし高貴に生まれた血が、けして彼に膝をつけさせなかった。耳に聞こえる巨大なる呼吸と、皮膚に感じられる巨大なる生命の、覚醒の時を今かと待ち、さきわう時代の始まりを祝福する一瞬まで彼は――バルドゥールは、しっかと地を踏みしめていなければならぬのだった。
 己が息の雑音が鬱陶しかったが、それを癒やそうと何度も手を差しかけた『心』も、今は巨神の体内にある。『心』が巨神に組み込まれ、もう何日経ったのだろうか。意識の朦朧とするバルドゥールには分からなかった。
 飲食を必要としなくなったバルドゥールは、もう自分が人間ではないことを知った。唯一、日が差し込むその瞬間に、嘘のようにはっきりと意識が覚醒したのだった。砲剣の刃に溜まった夜露を見て堪えがたい飢えを覚え、指でひとすくい舐め取ったとき、得も言われぬ甘露であることに震えを覚え――人差し指の肉色に、暗い緑が脈打っているのを、知ったのだった。
 世界樹の『心』の調整は円滑には進まなかった。一事が万事に反論があり、バルドゥールと同調するものはなかった。終いには知りもせぬ父王の論を説く滑稽に、バルドゥールは嘲笑さえも浮かばなかった。『心』は愚かな娘だった。巨神の目がいっかな開かぬのも、その無知のせいであろうか。説明に飽いた皇子は、『心』の言葉を放任した。頑迷な娘であったが、心と呼べども、所詮は部品の一。
 時間が惜しい。
 ただ待たねばならないバルドゥールは歯噛みした。痩せこけ枯れきった地に生まれず、食うに困ったことのない者になど、我らの困窮が分かろうものか。荒野の向こうにそびえる瑞木を見つめて死んだ、臣民の無念を誰が晴らそうか。この国に吹き荒ぶ血風を潤える水に変えるものが、他に何あろうか。憐れむならば今すぐに、荒野に沈んだ幼きものと若きもの、老いたものと病んだもの、あらゆる聖なる魂を今すぐここへ引き戻し、毒に覆われたすべてのおもてを、お前が浄土に変えてみせるがいい!
 兄弟姉妹や臣下の顔をした不埒者どもはすべて排除した。もはや願いを叶える者は、皇帝アルフォズルが代理人、長子バルドゥールしかいない。
 何日間、何十時間、バルドゥールはそこにいたのだろう。人ならぬものとなった彼には、砲剣に溜まるかすかな水と、かつての世界樹の虚から挿す光だけがあればよかった。ただ一つだけ惜しむるは、肉の体を保持する用を成さぬだけ。
 扉一枚向こうに、複数の人間の紛れ込んできた気配がある。鍛え抜かれた砲剣騎士としてのバルドゥールは見逃さない。外部から封印を解かれた証に警鐘が音高く鳴らされたとき、タルシスの冒険者が侵入したのであろうと察しはついている。
 だが、彼らはもう何もかもが、遅い。世界樹の巨人は始動した。ついに呼吸を始めたのだから! 砲剣を駆動させようとして、力の入らぬ指先を無理に動かした。その指にべっとりと樹脂がこびりついていることも、気づかぬままに。
 躍り出る冒険者どもに最後の情けと思って彼らに世界樹の意味を、そしてすでに目的のために動き始めていることを聞かせてやり、巨人を目の前で動かしてやっても、そんなことを理解できる連中ではなかった。すぐに戦いとなり、バルドゥールは『冠』の力を用いて自ら人間の姿を捨て、縦横無尽に砲剣を振るった。決死の覚悟で戦いに臨んだ。
 それでも、多勢に無勢だった。二人の冒険者の挟撃を受け、バルドゥールは一瞬の隙を奪われた。砲剣のオーバーヒートに我が腕が焼かれて樹脂の焦げる嫌な臭いが鼻を突き、思わずよろめいた。
 こらえて放った必殺のフレイムドライブが冒険者どもを退けたかと思えど、ただ一人この爆炎を掌で弾き返した者がある。痩せぎすの術師が、衝撃を陽炎のようにくゆらせて掻き消す――バルドゥールは我が目を疑った。充分に速度も重さも載せた砲剣を、片腕で受け止めるなどありえない! しかしそれこそは、帝国とは別種の進化を遂げた印の秘術の一つであった。
「やあ、皇子バルドゥール」
 術師は左手を上げたまま底冷えする声で口を利いた。漆黒の目が煌々と光っているのを見て、バルドゥールは思わずぞっとなった。『何も聞くな!』――自分を奮い立たせようとしても、体が言うことを聞かない。まるで魂を鷲掴みにされたように呼吸が止まり、目を逸らすことができないのだ!
「おれの術が不思議かな? 同感だが、まあ失礼するよ」
 砲剣を握り締める手が不意に引っ叩かれた。「無礼者!」……が、彼の言葉が口に出ることはなかった。
 なぜなら、バルドゥールはいた場所にいなかった。もはや瞬間一転どこかは知れず、濁流の音が迫っていた。ぬるく生臭い風が周囲を取り巻いていた。何かを負うように全身がずしりと重く、ちりちりとし、ぐっしょりと濡れてしまったかのように苦しい。
 はっと見回すと背後の岩場で、例の痩せた男が腰掛け、じっ、とこちらを見下している。
「ふうん」
 男が声を発した途端気の触れたように風が巻き起こり、体を鎧わぬバルドゥールを襲った。息を呑む喉が引き攣り、皮膚の疼痛が一層強まった。咄嗟に砲剣で斬りかかろうとして、しかし右手に得物はなかった。足元でがらくたのようにばらされて転がっている。何とか膝に手をついて、屈さぬバルドゥールは男をねめつけた。
「面妖に余を弄しても何にもならぬ。今すぐ解きやれ!」
 叫ぶと男は少し驚いたような顔をしたが、それだけだった。それどころか男がゆるりと足を組んで見せたとき、身に纏った黒衣が不気味な予感を孕んで揺れた。
「哀れなものだね。心ある臣下さえも捨てて、まだ続ける気かい」
「左様な愚弄は聞くにあたわぬ。二度とは言わぬぞ!」
「あは、あくまで強気だね。すごいな」
 たとえ身一つであろうと戦うつもりのバルドゥールを、男は嗤った。この上なき愚弄を受けてバルドゥールはかっとなる。しかし間髪入れぬ言葉で、怒りは長くは保たなかった。
「けれど今や国の体を成していないんだってね、きみの国は。聞いてるよ。それで色々と察しがついた。道理で冒険者が木偶ノ文庫に、煌天破ノ都に侵入できるわけだ」
 男が目を細め、バルドゥールの胸をずきりと刺した。
 帝国は技術はあれど、それを支える第一の資源、すなわち人間を欠いている。
 ろくに作物を育めぬ瘠土の上で、乏しい緑を追って国民は散り、艦隊さえも木偶ノ文庫を完全に包囲できず、冒険者の侵入を幾度となく許した。
 知っている。
 タルシスには異種族の知恵と力が、融和する姿勢がある。タルシスに寝返った帝国騎士も出ている。南の聖堂で辺境伯を名乗る者と出会ったとき、すべては決まっていたのか。タルシスはいずれの地でも最後は手を取り合うことができたのに、余の国とそなたらの何が違う? いやさ問うまでもなく、知っている!
「そうだよ、とっくに気づいていただろう? 無駄な足掻きだったんだ。きみの決意は、きみが血で挙げてきた馘首くびは、全部、みんな、無意味だったんだぜ」
「……黙れ、下郎が!」
 おぼつかぬ足で無我夢中に振るう砲剣から炎が走って漆黒の蛇を裂いた。しかし術師はとうに一歩引いて、庇い立てした盾役が頭部に直撃を受け、血を噴いて足をもつらせ倒れる。
 肝心の術師を刃に掛け損ね、バルドゥールは舌打ちした。反動で目眩がして足元が揺れ、砲剣をよすがに膝をつくのを免れた。視界の端で、力尽きた盾に年端もゆかぬ子供が駆け寄って、何かの術を施し始める――巫女と暮らしていたウロビトとかいう、例の亜人の娘。だが無駄だ、その男は確実に殺した!
 そして術師もただでは済まさなかったようだ。肩で息をして動きが鈍い。次こそはと砲剣を振りかざすと、鋭い矢が牽制に撃ちかけられる。バルドゥールが思わず躊躇して足が止まった刹那、迫る剣士の斬撃がバルドゥールの何かを引っかけた――『冠』を。よりによって『冠』を!
 ぱきり、と薄氷を踏むような音が頭の中で響いた。直感的に分かった、巨人との接続が途絶えた音だった。だが追い縋るようにバルドゥールは声を上げた。
「顕現せよ! その力を奮え、希望のために!」
 目の前が暗くなる中で、巨大な喉持つ生命体の轟く咆哮が聞こえた。遠くなりかかったバルドゥールの耳朶にも確かに届いた絶叫は、気高い彼の口角を歪ませた。まさに拘束を解かれた雄叫びは廃墟を破壊する音とともに響き渡る。世界樹の巨人がついに起動したのだ!
 バルドゥールは嗤った。体が宙に踊るのが分かった――ああ、僕は死ぬ。だが構わない。元よりそのつもりの命――霞んだ視界に朧な巨人の姿が映り、バルドゥールは嗤う。見事なる勝利だった。何が無駄なものか。僕は、何も、無駄なんかじゃなかったんだ!

 目が開かない。ひどく痛い。したたか殴られた頭ががんがん痛む。記憶が一瞬飛んでいる。喉が詰まって何かを吐いた。血の味がした。――なるほど、これはきっと、とブレロは悟った。
「死ん……で、ない」
「しんだもんっ! ブレロのばかっ!」
 凄まじい勢いでモモの反論があった。頬を小さな両手でぎゅうとばかりに挟み込まれると、掌から熱を感じた。押し寄せる命脈で目蓋がこじ開けられ、声にならない悲鳴が上がる。突然視界が明るくなって激痛でのたうち回ると、「んもう、みっともないわねえ」とまろい声が耳朶を打つ。聞こえないはずの声につい半身が上がりかかると、にゅっと何かが視界に入る。マドカの指だ。
「何本かわかる?」
 あまりにも典型的な質問にブレロ若干戸惑って、真剣に指を数えた。
「よ、四本……」
「まあ正解よ、おめでとう。一度頭を砕かれたとは思えないわ」
「えっ……何?」
「いいえ。それにしても教科書通りだったわねえ。それはそれは立派にできていたわよぉう。あなた、誇っていいわ。人に自慢なさいな」
「待って……待って俺、どうなったの?」
「まあ、知らないほうが幸せなこともあるかしらね。そんなことより痛みはある?」
 答えを聞くよりも早く、マドカは鞄に手をかける。
「……まばたきすると左目が痛む」
「そうでしょうねえ、仕方がないわねえ。とっておきをあげるわね。ええと……」
 マドカが医療鞄を長く探るとき、必ずよくないことが起こっているのだとブレロは知っている。鞄の浅い場所でなく、深いところにしまわれた薬は、めったに出てくることがないものだ。そしておごそかに現れた無色透明の液体を注射器に取ると、左の目尻に点々と注射される。眼球に注射針が迫っているブレロはついつい目をきつく閉じてしまい、余計に痛かった。
「この先ずっと痛いよりましよ。少しは凌げると思うわ。他のどこが痛くなったって、左目だけは平気よ。……もっとも相手は、見逃しようもなく大きいけれど……」
 マドカの語尾が沈んで濁り、振り仰ぐ先にはあの巨体が這い上がってできたのだろう古代建造物の瓦礫と、枯死して砕かれた世界樹の根がある。朦々と舞う塵芥で埃の臭いがする。ひどい有り様だった。
 ブレロが今度こそ体を起こそうとすると、マドカは腕を回してくれた。立ち上がるとわずかにくらりと目眩がした。マドカは腕組みし、険しい顔になる。
「いいこと? 何度でも言うわよ。一番の目標は死なないことよ。必ず生きて帰ってらっしゃいね。私はモモを、死体の蘇生のために教えたんじゃあないんですからね」
「……オーケー。受領した」
「さあ、薬が切れる前にお行きなさい!」
 鎧の背中を派手に打たれて、ブレロは一瞬息が止まった。

 相手の大きさにいつかのような絶望を覚えていたギノロットは、ものも言えずただじっと巨人をねめつけていた。倒さねば明日も未来も何もない。しかしあれがどうすれば止まるのか、ギノロットには皆目分からない。
 だが、目の前のリーダーはあくまでも抵抗するつもりだったし、レイヴンの連中も結局、死ぬとか殺されるとか以前の手合いに、かえって腹を括ったとか何とか――ギノロットは呆れた。単純な連中だ。
 そしてレリッシュが、何も言わないで静かに弓を握りしめているのと目が合って、自分も単純なんだ、と思った。
 ここまで来て、逃げるわけにはいかない。どこへだって逃げ場もない。
 剣の柄に触れ、まだ余力が残っているのを確かめる……バルドゥールにリンクの力を解放することをためらった。そのせいで何が起きたか、ギノロットは奥歯を鳴らした。左目から鼻筋を横切る真新しい傷をつけたブレロの姿を見る。
 もう二度と同じことはしない。
 及び腰だったレイヴンは陽動を引き受け、後のすべてを託されて銀の稲穂団が、進んだ。レイヴンが存分に場を掻き乱し、巨人がそちらへ気を取られ、抜剣するギノロットがついにリンクの力を解き放とうとした瞬間、ワイヨールがささやいた。
『火を放て』
 くぐもったようなワイヨールの詠唱が風に巻き起こされてギノロットの耳に届いた。偶然かもしれないし必然かもしれない。とにかく、その詠唱はギノロットの足を止めた。ギノロットの急く魂にさえ届く詠唱だった。
『空気を殺ばらせ、火に変えろ。すべてを巻き込み、何をもくだせ。あらゆるものを虚ろに還し、乾坤を火につつめ』
 ギノロットは劫火を予感し身構えた。だがルーンは元素に火の形をとらせず、身震いのように弾んだ。……詠唱がまだ続く。ギノロットには分かった。
「ワイヨール?」
 異変に気がついたのはギノロットだけだった。レリッシュもモモも、ブレロでさえも、何にも気づいていない。いや気づいていても、気づかないふりをしているだけなのか? まるで始めから聞こえてもいないかのように。
 ルーンのために元素が膨張し、ギノロットは焦りで全身がざわめいた。おかしい。明らかに何かが。ワイヨール。お前、何をしようとしてるんだ?
『火を放て』
 同じ言葉が更に強く濁った。声の聞こえることが奇妙なほどに旋風が起き、あたり一面を巻き上げる。
『昏き空虚に放り込め。霞の虚妄を終止せよ。いかな歪とあろうとも』
 もはやそれはルーン・フサルクの音律かさえ怪しかった。だが詠唱に元素が震えている。他の何とも例えようがないほどに、全身がさらわれていく。だから直感があった。それ以上を唱えてはいけない。そこから先に行こうとしてはならない!
「よせワイヨール!」
『火が燃える。踊れ闇夜に、火を振りかざせ。吼えよ荒れ野に、牙もて熾せ』
「やめっ――」
 ギノロットの静止は元素にばらされ火になった。水が形を成してじゅっといい、瞬間的に発した蒸気が光らぬ炎を巻き起こす。そして中からのったりと鎌首をもたげたそれは、真夜中から喚び出された漆黒の闇、誰かが封印を暴いた射干玉の黒、心臓の内側へと小さく折り畳んだはずの、いと昏き影の淵である。天を喰らうかのようにおとがいを突き出し、充満した気を吸い込むと、何倍にも膨れ上がってのたくった。
 怒涛の流れの中に総てを投げ込む炎は巨人の左手に絡みついて噛みつき、あぎとを固く合わせた途端に人の頭ほどあろうかという火球がいくつもいくつも爆ぜ飛んて、禍々しき乳色の星の川となる。あたり一面を白くかっ攫われ、恐ろしくて不安で叫び出したいような真の白の最中に、ギノロットは立ち尽くした。もし叫びを上げたとしても、どんな声とて元素に還り、大蛇の鱗に変わるだろう。
 だがやめろワイヨール、その荒野にはお前しか立てない!
 喉が開き声が上がり空間を裂いた。切り裂かれた空間は巨人の左手を容赦せず八つ裂きにし、緑の瘴気が止め処なく噴き上がる。巨人は骨と肉の切断された腕を、救いを求めるように天へかざしたが、みるみるうちに老いさらばえて乾いた樹皮へ変わっていく。
 ギノロットはワイヨールの姿を探した。光を飲み込む色の衣裳がここにない風に煽られて、その筋張った手足は露わになった。闇夜を見透かそうと目を見張る、棒立ちになった彼の手首を反射的に引っ掴む。何ものをも我が物にせんとする酷薄な射干玉の瞳と目が合った。
「十一人目なんてどこにもいない!」
 すると火は凝結した。ワイヨールの驚愕とともにギノロットは弾き飛ばされ、大地に転倒した。仲間の声が飛んできて、我が身が現実に戻ってきたのを聞いた。誰かが膝をつくのを地面を通じて感じた。モモがワイヨールを支えて背中をさすっている。
 ギノロットには何が起きたのか信じられなかった。なぜ自分が地べたに叩きつけられたのか、虚空の白い川は、黒い術師はどこへ消えたのか。
 今見ている世界が現実だと印術に研ぎ澄まされた直感が告げていた。頬が地面に擦れてかすかな痛みに変わるのが、ギノロットに与えられる数少ない現し世の証だった――目の前の巨神は色のない冷めた瞳のまま、切り裂かれた左手を地に置いている。ギノロットが慌てて身を起こすと、首筋でかつんと、首飾りが鎧に当たった。
 それでギノロットはようやく、鮮やかに見ていた光景それそのものが印術であったと悟った。自分が今際の際に紛れ込んだ異物であり、術の完成をさえぎり、引き裂いたに違いなかった。
 ワイヨールのきょとんとする目がギノロットと合った。すると作ったような剽軽な困り顔で親指を立てた。まるで『いやあ、失敗しちゃったよ。ゴメンゴメン』……裾の傷んだローブが翩翻へんぽんとひるがえる中、痩せぎすの印術師は、のたうつように立ち上がる。それでギノロット直感した――放り込もうとしたのか、あの巨人を!
 もう頭にきた。
 お前というやつは話にならない。
 一体何だ。何をしにここに来た? シウアンを殺すために現れたのか? シウアンならなってくれるだろう、誰の十一人目にも。シウアンは優しい、それに柔らかい。あの子は名も知らぬ誰かさえ救えるように生まれた、だから心のかたちをしているんだろ!
 ギノロットは怒りに任せリンクの力を全身にまとわせた。走り出たギノロットは剣を振りかざす。潰れて枯れた巨人の左腕が叩き下ろされたのも剣が巧みにかわさせた。着実に迫り寄り、命をひとかけ剣に貸し与えるとそれは鞭打つ音を伴って雷撃へ転じ、巨人の残る右腕をしたたかに痙攣させる。皮膚が裂け緑の障気が噴き漏れてギノロットの肺を侵してむせ、それでも彼は高らかにときの声を響かせた。
「ワイヨール! リンク繋げ! シウアン救え!」
 叫んだ途端に矢が数多降り注ぎ、巨人の上半身に幾度も突き刺さった。レリッシュの雨もかくやとばかりの弓の腕が奮われて、リンクが衝撃を捉え稲妻を走らせ、巨人の上半身は無慈悲に焼かれ引き攣れる。半ば恐怖に煽られてギノロットは振り返り、矢を解き放った残身の真っ直ぐな体を見た。彼女の凛々しさをみた。
 身悶えする巨人を確認しながら、レリッシュは目を見張った。ギノロットがこんなにも劇的に『シウアン』を攻撃するとは思っていなかったからだ。それは常ならば一度追撃を加えるだけのはずで、だから『本物のリンク』が巨人を雁字搦めにしていくのを、空恐ろしくも確かに手応えあるものとして受け取った。彼の決意をみとめた。誰をも殺せない人が、シウアンを救いたくて剣を振るっている。また自分の命と心を削って――その勇気の尊さに、溢れ出しそうになる涙を固く飲み込んだ。あの人の決意に、今は応えなくてはいけない。
 彼女は信じた。ワイヨールがギノロットのリンクを繋げてくれるのを。自分に続いてくれるのを。ワイヨール、わたしは繋げる! シウアンを助けたいあの人のために何度だろうと射ち続ける。あの人が雄々しい鬨の声を聞かせてくれるから、何回だって矢を放とう。わたしは今だけ、自分を捨てる。機械人形のわたしでだって構わない!
 だからどうかワイヨール、ギノロットの力をあなたが繋げて。わたしだけでは、力が足りない。歯がゆさのあまり喉から炎が溢れそう。体すべてが火になりそうだ!
 ……それきり、レリッシュは静かに自分を縊って殺し、再び矢をつがえ、弓手で押した。そう、的は大きい。当ててくれと言わんばかりの格好の獲物。しかもこの上ないほどの上物だ。さあ、何度でもわたしを焔に変えさせてくれ。
 天与の長い腕がその膂力りょりょくで弓を押し、こちらもやはり長い足がその動作を的確に支えた。痛みに悶える巨人を執念深く追ってレリッシュを走らせ、次に動きが鈍るときを予期した手から矢が離れ、その眉間を撃つ。直ちに矢筒から一矢引き抜きもう一度眉間へ。もう一度、もう一度、何度でもだ!
 巨体に比べれば針のような頼りない矢だ。だが、確実に追い詰めていると手に取るようにわかる。このつまらぬ一打を、あの人がすべて激情に変えてくれる。幾度でも変われ。彼がために我がために。
 引き締まり鍛え上げられた全身と裡に秘めた冷熱が、やわらかい少女をひとつの機械兵器へ変えた。レリッシュを少女に留めようとするのは烏色の長い髪と、それを彩る濃紅の、魔を退けるリボンしかない。
 ワイヨールは己の未熟を恥じると同時に、始原の力の如何ばかりかを知って酔い痴れていた。それで自己の本質がこの世界の何処に存在するのかを、五感を超えて一片手にしていた。一度振るったただけで全身を駆け抜けた夢幻の力に少しの恐れと十全なる満足を得て、それから一つもこぼさず器に注ぐにはどうすればよいのかを考えて、すると彼の蒼古の血は第二の喉を通じて『焼き切れろ』とささやいた。声は印の形を執って元素を組み換え天雷となり、巨人の体を強かに四度打ち据え――ああ、またやりすぎてしまった。やっぱりおれはまだ未熟だ。それは四回ではない、三回なのだ。欲しがりすぎては身を滅ぼすのに。それはこの体が一切を証明している。どれだけ焚べても焚べ足りぬこの魂がすべてを語っている。
 切れぎれの元素に戻った巨人の肉体が胸に吸い込まれると、幾ばくかがワイヨールの魂に組み込まれ、魂はわずかに癒される。水となって喉の渇きを潤し、ふとした満足で吐息が唇から漏れた。
 目を閉じて開けると、そこには巨人に立ち向かう仲間たちが見える。魂の淵から濁流の音が聞こえる。今にもすべてを攫おうほどに。
 もはやこれしか巫女を救うすべを知らない。もはやそれしかおれを止めるすべを知らない。だが、巫女がその睫毛まつげの一本さえも損なわれぬよう、かつえる竜は己の尾をのみ喰むのだということを、見せてやろうではないか。おれに連なる血の力はそれを許している。
「もう一丁いきましょう。何度ノックしたらシウアンが来るかな」
 ワイヨールはなるべくいつもの微笑みを浮かべた。元素が震えておののいて、二人の戦士が身構えた。
 ブレロは相棒たちの恐ろしい変化をじっと観察しながら、自らの右腕に宿った聖なる光が世界樹の巨人を前にして一条も失われていないことに安堵していた。一体この巨人が何者なのか、ブレロはまだ理解しては――巨人の右手がギノロットを叩き潰そうとして、ブレロの盾がそれを防いだ。とてつもない衝撃で筋骨が悲鳴を上げる。ちくしょうめ――いない。大地の浄化システムであることは当然聞いている。だがシステムというものが人間の心をすり潰しながら成立するのが気に食わない。巫女は人間だ。当たり前の心を持つほんの少女だ。そんな彼女が親しんだウロビ――今度はブレロが標的になった。オーケー、それでいい! 巨人は枯れた大木さながらの左腕を鈍器めいた使い方で振り下ろし、しかしブレロの足首に結んだ踊り子の鈴がどうすればよいのかを教えてくれた。奇跡はいつも俺の味方だな? 楽しいブレロは口角を上げた――ウロビトたちと、救おうとしたイクサビトたちを使い潰しにしてでも生きようとは、どれだけ命じられてもできないのだろう。その単調な巨人の振る舞いが巫女の祈りのようで、案じられてならない。巨人に取り込まれた少女が、今どれだけ心を引き裂かれているのか。あまつさえその依代を破壊せんとする我々が、どんな怪物に見えているだろう。だがしかし、ブレロのそばの無垢な少女と目が合って、虚ろから木霊をささやいた。
「お願い、わたしを止めて」
 長らく聞いていなかった巫女の声が、ブレロの耳朶を打っ――そしてモモが捻り潰されようとして、ブレロは盾を振りかざした。聖なる籠手が雄叫びを上げてその褪せた色の手指を払い除ける。求められる限り、俺はあらゆる邪悪から俺と仲間を護り続けるのだ! 誰にも邪魔はさせぬ!
「わたしはまだ……」
 守り抜いたモモはそれだけ言って、巫女の意志はぷっつりと途絶えた。続きは何だ。まだ死にたくない? まだ生きていたい? やることがある? 行きたいところがある? 好きな男の子に告白もしてない? そうだろうとも、だがいずれにせよ。
「俺も同感だよ! モモ、シウアンに伝えてくれ!」
 ブレロはいつまでも盾と舞う。聖なる光を振るい続ける。優雅でも華麗でもないが、彼は戦からまたひとつ奇跡をもぎ取ろうと不敵に笑った。その先にあるものを俺に寄越すんだ。勿体ぶってくれるんじゃあないぜ。
 ギノロットと剣が再び稲妻を帯びて巨人に斬りつけたとき、レリッシュの無数の矢が筋肉を引き攣らせ、ワイヨールの天雷が神経を焼いて、固く結ばれていた巨人の喉が仰け反り、顎ががくんと開いた。すると正確に切り出した石のような歯が並んでいるのが露わになり、だらりと舌が垂れ、そしてその咽喉に、シウアンが四肢を縛りつけられているのがはっきりと見えた。まるで死体のように土気色したシウアンは、苦悶の表情のまま、青ざめたくちびるで何事かをささやき続けている――巨人に聞かせるための『聖なる言葉』を。
 あまりにも無残な姿に錫杖を取り落としたモモが、髪を掻き毟り、絹を割くような悲鳴を上げる。張られた方陣がぶつんと乱れて掻き消えて、地脈の力は途端に失われた。
「やめて……やめて!」
 錯乱するモモはボロボロと涙を零して哀願する。崩折れて爪で頬を引っ掻き、傷から赤く血が滲んだ。
「これ以上巫女を傷つけないでっ! あたし、こんなことしたいんじゃない、助けて――助けて、助けて!」
「助けるともさ」
 濁流の音を引きずるワイヨールが、モモのかたわらに進み出て地鳴りめいた声で応じた。その漆黒の瞳から再び始原の力を引き出す術式が虚空に刻まれ、彼の左手は邪魔くさそうにロッドを捨てた。あまりにも無遠慮な仕草に、ブレロは静止しかかったのに、喉から声が出なかった。
「モモ、ちょっと力を貸して頂戴。おれには相当、加減がわかりにくいんだ」
 空になった左手に恐る恐るモモの手が伸びると、ワイヨールの冷えびえとした指が、彼女の手を握り返した。その瞬間、モモの心はワイヨールの空虚に打たれて震えた。彼の精神が零し続けていたものがやっと見えた。世界で彼だけしか持たない、彼の魂が生まれ持った奇妙な虚無を、モモというウロビトがこの一瞬だけ塞いだ。モモの気づきと同時に濁流と地鳴りは静まり、ワイヨールは苦笑した。
「やっぱりね。おれに欠けてるのは、そういうものだな。――では、なるべく丁寧に」
 逆風がモモとワイヨールを包んだ。ワイヨールの声が元素を震わせ空に刻まれた術式を急いては鳴らす。ブレロの耳目にとても届かぬ夢幻の声で。
『火をかざせ。吐息を編み取り、火に変えろ。すべてを受けとめ、何者もあれ、あらゆるものをより立て、あめへと向かえ』
 ルーンの乗せられた声が再び元素を揺り動かす。風が巻き取られてゆき、ワイヨールの力と引き換えにして結集した一粒の水が地に吸い込まれてにじみ、それから空に広がった。モモはとにかくワイヨールの手を取り、術式が終わるのを待つしかなかった。気がついたギノロットがぴたりと動きを止めてワイヨールを睨みつけているが、詠唱はまだ終わらない。
『いざや暗き天に火をかざせ。彼我のあわいを見定めよ。現世うつよに戻り目を覚ませ』
 地脈は二人の足元から円を描いて白く走り、傷ついた楽園への導き手に弧が至り、その白の内に包まれる。力を失い弛緩した筋肉に元素が次々と吸い込まれ、ぱちん、という何かを弾くような音が聞こえたと同時に、モモは見た。巨人の喉に縫いつけられた巫女が、聖なる言葉をささやくのをやめた瞬間を。そして詠唱は次で閉じた。
『声失えども払暁に歌え、たとい荒野にあろうとも、ひとの四肢もて実りと変えよ』
 周囲に満ち満ちていた闇が振り払われて光に変わる。ワイヨールのつま先で地面が叩かれると、満身創痍の導き手は光の中にその両手を伸ばす。巨躯は瞬間に反転した。瑞々しい生命の萌芽の匂いがおこり、おどろな昏い緑の体表はみるみるうちに光の中で漂白されて、明るい色を取り戻していく。
「ワイヨル、これ、なに……」
「わからない。見たまま聞いたままだよ。綺麗だね」
 光の中で命を取り返した導き手はすべての力を逆流させて、自らのかたちを変えようとしていた。その骨と筋肉と血管は引き伸ばされて樹脈や幹となり、皮膚は樹皮となって柔らかい繊維を覆った。最後に何かを大切に包んだ両手が、そっと大地に近寄って、何かを置き、優しく握られた手のひらが遠のくと、赤子のように丸くなっている巫女の姿があった。モモは巫女をみとめた途端、弾かれたように走り出した。
 術は閉じられ、巨人は巫女を失い、体は大樹へと変換されていく。
 そうしてワイヨールは充二分に自らを奮った結果が予想通りだったことに満足し、深く息を吐いた。が、強烈な目眩に襲われた。それはまるで磁軸に飲み込まれていくような目眩で、視界は毒々しい赤紫にまみれていく。四肢が消えていくような、まるでどこか深いところへ沈没するみたいだ。誰かが叫んで呼んでいる――変だな、誰が? だってそこには誰もいはしない、だってギノロットが、「十一人目はいない」と。十一人目はいない。十一人目はいない。十人が十人、揃って拒否を示すに違いない魂の淵、そこから聞こえる声は他人のようでいても、結局最後は水に映った自分のものだ。そいつは得意なのだ、他人のふりをするのが。けれどとうとう誰もおれの声を聞き届けなかった。この歪を理解できる人間は世界中どこにもいない。
 ワイヨールが絶望とともに死を覚悟した瞬間、ついに視界は暗闇に落ちた。案外に僥倖だと思った。自分に流れ込んだ他者の声を、早々に忘れてしまいたかった。おれに、馬鹿げた興味を抱かせないでくれ。